第21回カンヌ国際映画祭
第21回カンヌ国際映画祭(だい21かいカンヌこくさいえいがさい)は、1968年(昭和43年)5月10日 - 24日に開催の予定であったが、19日に起きた「カンヌ国際映画祭粉砕事件」のために途中で中止され、各賞の選出は行われなかった。資料として以下に審査員とコンペティション部門選出作品を挙げる。同事件は、21日に起こった五月革命に波及した。
審査員
[編集]コンペティション部門
[編集]- 審査委員長
- アンドレ・シャンソン(フランス、作家)
- 審査員
- ロマン・ポランスキー(フランス、監督)
- テレンス・ヤング(イギリス、監督)
- ベリコ・ブライーチ(ユーゴスラヴィア、監督)
- ボリス・フォン・ボレスホルム(西ドイツ、監督)
- ルイ・マル(フランス、監督)
- モニカ・ヴィッティ(イタリア、女優)
- ポール・カデアック・ダルボー(フランス、プロデューサー)
- クロード・アヴリーヌ(フランス、作家)
- ジャン・レスキュール(フランス、作家)
- ロベルト・ロジェストヴェンスキー(ソ連、詩人)
- ヤン・ノードランダー(スウェーデン)
上映作品
[編集]コンペティション部門
[編集]アルファベット順。邦題がない場合は原題の下に英題。
特別招待作品
[編集]- 風と共に去りぬ - ヴィクター・フレミング(アメリカ)
- 白い恋人たち - クロード・ルルーシュ、フランソワ・レシャンバック(フランス)
- 世にも怪奇な物語 - フェデリコ・フェリーニ、ルイ・マル、ロジェ・ヴァディム(フランス・イタリア)
カンヌ国際映画祭粉砕事件
[編集]映像外部リンク | |
---|---|
Cannes Mai 1968 フランス国立視聴覚研究所(INA)が公開する「カンヌ国際映画祭粉砕事件」の記録映像。 Cinéma cinémas - 1989年6月4日 - 10分25秒 |
本映画祭開催9日目の5月19日、会場の宮殿にジャン=リュック・ゴダールが現れ、コンペティション部門に出品されていたカルロス・サウラの作品上映を中止させようとした[1](サウラ自身も呼応した[2])。ヌーベル・バーグ運動の中心的人物だったゴダールとフランソワ・トリュフォーはフランスで行われていた学生と労働者のストライキ運動に連帯し、警察の弾圧、政府、映画業界のあり方への抗議表明としてカンヌ映画祭中止を呼びかけ[1]、クロード・ルルーシュ、クロード・ベリ、ジャン=ピエール・レオ、ジャン=ガブリエル・アルビコッコらと会場に乗り込んだ。審査員のモニカ・ヴィッティ、テレンス・ヤング、ロマン・ポランスキー、ルイ・マルもこれを支持して審査を放棄し、上映と審査の中止を求めた[1]。コンペティションに出品していたためその場にいたチェコスロヴァキアの映画監督ミロシュ・フォルマンも出品を取りやめることを表明した。
結果、同日付で映画祭事務局は中止を決め、ファーブル・ル・ブレがその旨のアナウンスをした。フランスの映画人たちのこの行動は、映画祭を粉砕した。5月21日には、首都パリで、労働者と学生によるゼネストが起き、いわゆる「五月革命」へと発展していった。
この事件をきっかけとして、カンヌ映画祭と並行して「監督週間(Director’s Fortnight=監督の2週間の意)」が行われるようになった[1]。映画界における官僚主義に反対する映画製作者らによって監督協会(SRF)が設立され、もっと自由な映画選出として「監督週間」を始め、「カンヌに出品したくても選ばれなかったのなら、監督週間に来てください。ホテルの部屋を予約し、あなたの作品を上映します。審査員も賞もない。あるのは映画ファンだけです」と呼び掛けて、監督たちを招待した[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 史上初めて会期途中で映画祭が中止、カンヌを震撼させた「1968年」AFP, 2008年5月13日
- ^ “[660ギャンブル依存の問題を描いたマリー・モンジュ長編第一作目『Joueurs』(2017) | IndieTokyo]”. IndieTokyo (2018年7月10日). 2024年9月8日閲覧。 “映画祭9日目の18日にはついに実力行使に出ることになり、ゴダールがカルロス・サウラ『ペパーミント・フラッペ』の上映前に現れると、それに呼応したサウラ監督自身らとともにスクリーンのカーテンを引っ張り上映を阻止したのであった。”