コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

マザーズ・オブ・インヴェンション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
1971年。左からハワード・カイラン、ジム・ポンズ、イアン・アンダーウッド、マーク・ボルマン、フランク・ザッパ、ボブ・ハリス、エインズレー・ダンバー。
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ポモナ
ジャンル ロック
活動期間 1965年5月 - 1969年10月
1970年6月 - 1971年12月
1973年2月 - 1976年3月
レーベル ヴァーヴ・レコード
ビザール・レコード
リプリーズ・レコード
ディスクリート・レコード

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション (The Mothers of Invention) は、1965年から1976年まで活動したアメリカ合衆国ロック・バンドである。作曲家ギタリストフランク・ザッパに率いられて彼の作品を演奏した[注釈 1]

概要

[編集]

活動時期

[編集]

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの活動時期は、主に以下の3つの期間である。

  • 1965年5月のザ・マザーズの誕生から1969年10月の解散宣言まで。
  • 1970年6月の再結成から1971年12月のロンドン公演まで。
  • 1973年2月の再結成から1976年3月のワールド・ツアー終了まで。

但し、ザッパは、これらの活動時期に挟まれた2つの活動休止期にも、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義の短期の活動を主導した[注釈 2]

ザッパのソロ活動との相違点

[編集]

上記の活動期間と活動休止期間を通じて、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義のオリジナル・アルバムは14作、ザッパのソロ・アルバムは4作[注釈 3]発表された。

ザッパは1976年の夏に、アルバムの名義について、以下の発言を残した[1]

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義のアルバムとフランク・ザッパ名義のアルバムを区別するものは、そのアルバムの制作に参加したバンドがコンサート・ツアーに出るザ・マザーズ・オブ・インヴェンションというユニットであるかどうかだ。

また、1973年には、同様の話題について以下の発言を残した[1]

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの音楽は、それをグループの音楽として表現できるほど十分に長い期間一緒に活動してきた人々だけが演奏できるものだ。もし自分が楽譜を書いてどこかのオーケストラに手渡しても、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの音楽は生まれてこない。自分が曲を書いてスタジオ・ミュージシャンのグループに手渡せば、おそらく楽譜に忠実で極めて正確に演奏してくれるだろう。だがグループのメンバー一人一人が持っている狂気(craziness)の総和が得られなければ、つまり、グループが十分に長く活動してツアーに出てメンバー全員の個性が混ざり合ってごく自然に奇妙な演奏ができるようになられなければ、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの音楽は生まれてこない。

このように、少数の例外[注釈 4]を除いて、ザッパはザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのライブ活動に基づいてアルバムの名義を決めていた。

バンド名について

[編集]

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションという名前が生まれるきっかけを作ったのは、デビュー・アルバム『フリーク・アウト!』(1966年)の発売元のヴァーヴ・レコードの親会社であるMGMレコードだった。MGMレコードは『フリーク・アウト!』の発売に際して、当時のバンド名だったザ・マザーズが放送禁止用語を連想させるとして、バンド名を変えることを要求した[2]

1968年、ヴァ―ヴ・レコードとの契約が切れると、彼等はザッパがマネージャーのハーブ・コーエンと共同で設立した独立レーベルビザール・レコードに移籍して、配給元になったヴァ―ヴ・レコードから4作目の『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』と編集アルバム『マザーマニア』を発表した。後者のジャケットには"The Best of The Mothers"の副題が記され、ザ・マザーズの名前が復活して、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション以外の名前が使用された最初の例になった。以後、配給元がリプリーズ・レコードになり、さらに1973年にザッパとコーエンが新たに設立したディスクリート・レコードに移籍して配給元のワーナー・ブラザーズからアルバムを発表する1975年頃までには、マザーズ、ザッパ・アンド・マザーズ、ザッパ/マザーズ[注釈 5]、フランク・ザッパ・アンド・ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション[注釈 6]など様々な名前がアルバムやコンサートの名義に用いられてきた。

本ページでは、呼称をザ・マザーズ・オブ・インヴェンションに統一して、その略語であるMOI[注釈 7]を用いる。

活動の歴史

[編集]

1965年から1969年10月まで

[編集]

1965年4月、カリフォルニア州クカモンガでスタジオZを所有して様々なレコーディングを行なっていたザッパは、旧知のボーカリストのレイ・コリンズから電話を受けた。彼等は1962年にコリンズの出身地であるポモナで出会い、同年から1963年にかけて、スタジオZの前身であるパル・レコーディング・スタジオ[注釈 8]で、ザッパの単独作や二人の共作を共同でレコーディングした[注釈 9]間柄だった。1965年当時、コリンズは義理の兄弟と大工として働きながら、ポモナのザ・ブロードサイドというバーでザ・ソウル・ジャイアンツThe Soul Giants)というR&Bのカバー・バンドのボーカリストとして活動していた。彼等はギタリストを失ったばかりで[注釈 10]、メンバーはリーダー格のデイヴィ・コロナード(サクソフォーン)、ジミー・カール・ブラック(ドラムス)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター)、そしてコリンズ(ボーカル)の4名だった。コリンズが一年近く連絡を取っていなかったザッパに電話したのは、彼を後任のギタリストに勧誘する為だった[注釈 11][3]

ザッパはコリンズの勧誘に応じてザ・ソウル・ジャイアンツに加入したが、メンバーに他人の曲ではなくオリジナル曲を演奏してレコード会社と契約しようと提案した。コロナードは、そのような事をすれば自分達はクラブやバーで演奏する仕事を失ってしまう、とザッパの提案に唯一人反対して去っていった。残ったコリンズ、ブラック、エストラーダはザッパと共に彼のオリジナル曲を演奏し始めたが、クラブやバーでの仕事が長続きしなくなり、コロナードの予測が正しかったことを悟った[4]

1965年5月9日、彼等はバンド名をザ・マザーズThe Mothers)に変更した[注釈 12][5]。そしてより多くの機会を求めて、活動の拠点をポモナからハリウッドに移した[注釈 13]。10月、彼等はハーブ・コーエンとマネージメントの契約を結び[6]、コーエンの尽力でウィスキー・ア・ゴー・ゴーに定期的に出演するようになった[注釈 14]。1966年1月、MGMレコードの東部A&Rの部長でプロデュ―サーのトム・ウィルソンが仕事でロサンゼルスを訪れた時、コーエンは彼をウィスキー・ア・ゴー・ゴーに連れて行ってザ・マザーズの演奏ぶりを見せた。ウィルソンは彼等を気に入ってレコード契約と2500ドルの前渡し金を提示した。

1966年3月1日、ザッパら4名と新メンバー[注釈 15]エリオット・イングバー(ギター)からなるザ・マザーズ[注釈 16]は、MGMレコードの子会社であるヴァ―ヴ・レコードと契約を結んだ。彼等はウィルソンをプロデューサーに迎えて、数ヶ月かけて2枚組のデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』の録音と編集を終えた。発表に際してMGMレコードが、マザーズとは放送禁止用語を短くした名前ではないのかと疑ったので、彼等はバンド名をザ・マザーズ・オブ・インヴェンションThe Mothers of Invention、MOI)に変えた。『フリーク・アウト!』は同年6月にMGMレコードの子会社のヴァーヴ・レコードから発表され、それに合わせて彼等は国内ツアーに出た。

ウィルソンは『フリーク・アウト!』が編集されてアルバムの体を成した段階で、既にMGMレコードの資金から25,000ドルから30,000ドル近くを使っていた[2]。しかし、その売り上げは30,000組と比較的少ない数であったので、MGMレコードは次のアルバムの制作費を11,000ドルに削減した[7]。それにもかかわらず、MOIはアート・トリップ(パーカッション)、バンク・ガードナー〈木管楽器)、ドン・プレストン(キーボード)、イアン・アンダーウッド(キーボード、ギター、木管楽器 、ヴォーカル)などの新しいメンバーを加えて、1969年まで活動を継続し、『アブソリュートリー・フリー』(1967年)、『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』(1968年)、『アンクル・ミート』(1969年)などの作品を次々と発表していった。

MOIの最後のライブ活動は1969年8月18日に行なわれたモントリオールでのコンサートだった。同年10月、ザッパはMOIの解散を発表した[注釈 17]

再結成までの移行期

[編集]

ザッパはMOIの解散を発表した10月、ベルギーで24日から28日まで開かれたアムージ―音楽祭(Festival d'Amougies)の進行役を務めた[注釈 18]。彼はこの時、エインズレー・ダンバー・リタリエイションのエインズレー・ダンバー(ドラムス)[注釈 19]の演奏に感銘を受け、現地でダンバーとジャム・セッションを行なった。そして11月から1970年4月まで、元MOIのトリップとアンダーウッド、ドン・シュガーケイン・ハリス(ヴァイオリン、キーボード、ボーカル)、ザッパの誘いでイギリスからアメリカ西海岸に活動拠点を移したダンバーなど数人のミュージシャンを様々に組み合わせて4人ないし5人編成のバンドを結成し、フランク・ザッパ・アンド・フレンズ(Frank Zappa and Friends)、フランク・ザッパ・アンド・ホット・ラッツ(Frank Zappa and Hot Rats)、チュンガ(Chunga[注釈 20]などの名義で、カリフォルニア州で数回ライブ活動を行なった[8][9]

また、当時ロサンジェルス・フィルハーモニックの常任指揮者だったズービン・メータが「MOIとの」共演を提案したので、ザッパはコリンズ、アンダーウッド、モーターヘッド・シャーウッド(バリトン・サクソフォーン)、ビリー・ムンディ(ドラムス)らMOIの元メンバー、ダンバー、ジェフ・シモンズ(ベース・ギター、ボーカル)とMOIを一時的に再結成。彼等は5月15日にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のポーリー・パビリオンでメータが指揮するロサンゼルス・フィルハーモニックと共演した[8]ほか、ニューヨークのフィルモア・イーストやシカゴで数回コンサート活動を行なった[9][10]

1970年6月から1971年12月まで

[編集]

ザッパは1970年6月にMOIを正式に再結成した。メンバーはザッパとアンダーウッド以外は新顔で、ダンバー、シモンズ、1960年代のポップ・グループのタートルズのボーカリストだったハワード・カイランマーク・ボルマンデュオ[注釈 21]、ジャズ・フュージョン・ミュージシャンのジョージ・デューク[注釈 22](キーボード、トロンボーン、ヴォーカル)であった[注釈 23]。彼等はライヴ・アルバム『フィルモア・ライヴ '71』(1971年)、映画『200モーテルズ[注釈 24]同名サウンド・トラック(1971年)を発表し、好評をもって迎えられた。しかし1971年12月10日[注釈 25]に行なわれたMOIのロンドン公演で、ザッパが観客の一人にオーケストラ・ピットに突き落とされ重傷を負うという傷害事件が発生。彼は長期の療養生活を強いられ当分はライブ活動を断念せざるを得なくなり、MOIは解散状態に陥った[11]

ザッパの負傷療養期

[編集]

ザッパは車椅子での療養生活を送りながら、1971年8月7日にUCLAのポーリー・パビリオンで行なわれたMOIのコンサートのライブ音源を収録したアルバム『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.』を1972年3月に発表した。さらに4月にはダンバー、シモンズ、デューク、プレストンに加えて10名のミュージシャンを招聘して新作アルバムの制作を開始し、同年7月にソロ・アルバム『ワカ/ジャワカ』を発表した。

9月、ザッパはアンダーウッド、当時アンダーウッドの夫人で後に新しいMOIのメンバーになるルース[注釈 26](パーカッション)、ルースと同時にMOIのメンバーになるブルース・ファウラー(トロンボーン)、元デレク・アンド・ザ・ドミノスジム・ゴードン(ドラムス)、『ワカ/ジャワカ』の制作に参加したマイク・アルトシュル[12]ピッコロバスクラリネット)、アール・ダムラー[13]オーボエ)、トニー・デュラン(ギター)、サル・マルケス[14](トランペット)、ジョアン・マクナブ[15]バスーン)、マルコム・マクナブ(トランペット)、ケン・シュロイヤー[16](トロンボーン)など、ザッパ自身を含めて20人編成のザ・グランド・ワズー・オーケストラ(The Grand Wazoo Orchestra)を結成し、アメリカとヨーロッパでコンサートを合計7回開いた[注釈 27]

ザッパはザ・グランド・ワズー・オーケストラのコンサート・ツアーを開始する前に、次は10人編成のバンドで全く別の曲を取り上げる、という計画を既に立てていた。そしてツアーが終了すると、ザ・グランド・ワズー・オーケストラのメンバーから9名を選んで、通称ザ・プチ・ワズー(The Petit Wazoo)を結成した。彼等は10月下旬から11月中旬にかけてと12月上旬に、アメリカとカナダでコンサートを開いた[17][注釈 28]

11月には、『ワカ/ジャワカ』とほぼ同時に制作された音源を収録したアルバム『グランド・ワズー』がMOI名義で発表された。

引用文献[18]に基づいて、1970年6月から1971年12月までのMOI、1972年9月のザ・グランド・ワズー・オーケストラ、1972年10月から12月までのザ・プチ・ワズーのライブ活動のメンバーを以下に示す。

1973年2月から1976年3月まで

[編集]

1973年2月、ザッパはMOIを再々結成した。デューク、ジャン=リュック・ポンティ(ヴァイオリン)、ラルフ・ハンフリー(ドラムス)、チェスター・トンプソン(ドラムス)、ブルース・ファウラートロンボーン)、トム・ファウラーベース)、ナポレオン・マーフィ・ブロック(ヴォーカル、テナーサックス、フルート)、ルース・アンダーウッドパーカッション)などを迎えて、『オーヴァーナイト・センセーション』(1973年)、『ロキシー & エルスウェア[注釈 29](1974年)、『ワン・サイズ・フィッツ・オール[注釈 30](1975年)、『ボンゴ・フューリー[注釈 31](1975年)を発表した。

名義にMOIが含まれた新作アルバムは1975年に発表された『ボンゴ・フューリー』が最後である。ザッパは続いて1976年に発表した『ズート・アリュアーズ』以後、新作アルバムの名義を全てフランク・ザッパにした[注釈 32]。ツアーでは、1976年1月から3月まで行なわれたハワイ、日本、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパを巡るワールド・ツアー[注釈 33]を最後にMOIの名前を使わなくなり[19]、以後のツアーではバンドの正式名称をZappaにした[1]

引用文献[20]に基づいて、1973年2月から1976年3月までのMOIのライブ活動のメンバーを以下に示す。

日本公演

[編集]

1976年2月上旬、ザッパ(ギター、ボーカル)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター、ボーカル)、テリー・ボジオ(ドラムス)、ナポレオン・マーフィー・ブロック[21](テナー・サクソフォーン、ボーカル)、アンドレ・ルイス英語版[22][22](キーボード、ボーカル)の5人編成のMOIが日本公演を行なった[19]

  • 1976年2月1日 東京 浅草国際劇場 (浅草最大のロックショウ)
  • 1976年2月3日 大阪 厚生年金会館
  • 1976年2月4日 京都 京大西部講堂
  • 1976年2月5日 東京 日本青年館

5人編成は1966年以後のMOIとしては最小規模で[注釈 34]、彼等は時にはゲスト・ミュージシャンを迎えて1975年9月から1976年3月までコンサート活動を行なった。日本公演は1976年1月から3月まで行なわれたハワイ、日本、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパを巡るワールド・ツアーに組み込まれていた[19]。このワールド・ツアーは、ザッパがMOI名義で行なったライブ活動の最後のものになった[19]

2月3日の大阪厚生年金会館でのコンサートで録音された'Black Napkins'がザッパ名義のアルバム『ズート・アリュアーズ』(1976年)に、'Hands with a Hammer'と’Zoot Allures'がYou Can't Do That On Stage Anymore, Vol.3に収録された[注釈 35]

ディスコグラフィ

[編集]

オリジナル・アルバム

[編集]

編集アルバム

[編集]

フランク・ザッパ

[編集]

ザッパや彼の遺族がザッパ名義で発表した作品のうち、全編または一部がMOIによる音源からなるものを挙げる。

Beat the Boots!

[編集]
  • Beat the Boots!(1991年)
    • As an Am
    • The Ark
    • Freaks & Mother*#@%!
    • Unmitigated Audacity
    • Any Way the Wind Blows
    • 'Tis the Season to Be Jelly
    • Saarbrücken 1978
    • Piquantique
  • Beat the Boots! II(1992年)
    • Disconnected Synapses
    • Tengo Na Minchia Tanta
    • Electric Aunt Jemima
    • At the Circus
    • Swiss Cheese / Fire!
    • Our Man in Nirvana
    • Conceptual Continuity
  • Beat the Boots! III (2009年)

客演・共演

[編集]

ビデオグラフィ

[編集]

ザ・グランドマザーズ

[編集]

1980年代に、ブラック[注釈 37]、プレストン、ガードナーらがザ・グランドマザーズThe Grandmothers)を結成。The GrandmothersThe Grande Mothers Re:Inventedの名で公演や録音を行ない、MOIの楽曲の他、オリジナル曲、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの楽曲、ブルースのスタンダードなどを演奏した[43]

ディスコグラフィ

[編集]
  • An Anthology Of Previously Unreleased Recordings By Ex-Members Of The Mothers Of Invention(1980年)[44]
  • The Official Grandmothers Fan Club Talk Album(1981年)[45]
  • Looking Up Granny's Dress(1982年)[46]
  • Dreams On Long Play(1993年)[47]
  • Who Could Imagine?(1994年)[48]
  • The Eternal Question(2002年)[49]
  • A Grandmothers Night At The Gewandhaus(2003年)[50]
  • Happy Mother's Day(2012年)[51]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 稀にメンバーが共作者としてザッパと並んで名を連ねた場合があった。
  2. ^ 1970年5月には、元メンバーを中心にザ・マザーズ・オブ・インヴェンションを一時的に再結成して、ロサンゼルス・フィルハーモニックと共演した。1972年11月には、セッション・ミュージシャンを中心にした参加者と制作したアルバム『グランド・ワズー』をザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義で発表した。
  3. ^ ランピー・グレイヴィ』(1967年)、『ホット・ラッツ』(1969年)、『チャンガの復讐』(1970年)、『ワカ/ジャワカ』(1972年)、『アポストロフィ (')』(1974年)。
  4. ^ アルバム『ワカ/ジャワカ』(1972年7月)と『グランド・ワズー』(1972年11月)は共に1972年4月から5月にかけて制作され、参加者の多くが共通していたにもかかわらず、前者はザッパ名義、後者はザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義で発表された。『グランド・ワズー』の参加者の数は『ワカ/ジャワカ』よりも増え、その多くがザッパとの活動は初めてで彼と共にツアーに出たことなどなかったにも拘らず名義がザ・マザーズ・オブ・インヴェンションになったのは、数少ない例外と言えよう。ザッパは1971年12月のロンドン公演で観客の一人から暴行を受けて重傷を負い、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションを解散して療養生活を送っていたので、彼には契約を履行するために融通を利かす必要があったのかもしれない。因みに、彼は『ワカ/ジャワカ』について「当時、契約履行の為にザッパ名義のアルバムを作る必要があった」と明言している。
  5. ^ アルバム『ロキシー&エルスウェア』(1974年)と『ボンゴ・フューリー』(1975年)。後者はザッパ/ビーフハート/マザーズ名義。
  6. ^ アルバム『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)。
  7. ^ 自伝The Real Frank Zappa Book. (Touchstone. ISBN 0-671-70572-5)ではthe M.O.I.という略語が使われている。
  8. ^ ザッパは1961年にレコーディング・エンジニアのポール・バフに出会い、バフが設立して所有していたパル・レコーディング・スタジオに出入りして、彼からレコーディングの基本を学んだ。やがてバフがハリウッドのスタジオで仕事をする時間が増えたのをきっかけに、ザッパは実質パル・レコーディング・スタジオを引き継ぎ、1964年7月にはバフの負債を肩代わりしてスタジオを買い取って、8月にスタジオZとして再出発させた。
  9. ^ 彼等は1963年にNed and Neldaの名義でシングル'Hey Nelda'、Baby Ray and The Fernsの名義でシングル'How's Your Bird?'を発表した。前者は二人の共作で、後者はザッパの単独作である。
  10. ^ ザッパは自伝に、コリンズがギタリストと喧嘩して暴力を用いて追い出したと記したが、コリンズによると、ギタリストはバンドを辞めたくて間違った演奏をするようになり、それを他のメンバーに指摘されて去っていったという。
  11. ^ コリンズがザッパに電話したのは、偶然にも彼が刑務所から出所した数日後のことであった。ザッパは1964年8月1日にスタジオZを再出発させて以来、様々なレコーディングを続けていた。しかし表通りの向こう側の教会が、スタジオZには怪しげな人々が出入りしていると警察に報告したので、警察はザッパが公序良俗に反する映画を撮影しているのではと疑った。1965年3月、ザッパは客を装った刑事がよこした「パーティ―で流したいから、行為を録音したテープを作ってくれ」という注文に応じてしまい、ガールフレンドと共同で、ベッドがきしむ音と声だけで行為を擬した30分程度のテープを制作した。そして3月26日に代金の支払いと引き換えに注文品を手渡そうとしたところ、踏み込んできた警官に連行された。彼は軽犯罪で有罪の判決を受けて「懲役6か月、10日間の執行の後に猶予、3年間の保護観察処分」の刑に服することになり、サンバーナーディーノ郡の刑務所の44℃近い室温の不衛生な房に45人の罪人と共に10日間押し込められた。この間、一度も掃除された痕跡がないシャワー室とトイレをあてがわれ、ゴキブリが入ったオートミールを朝食に支給される、という劣悪極まりない環境に置かれた。出所してスタジオZに行くと、そこは警察の捜査によってすっかり荒らされ、テープや機材などが押収されていた。
  12. ^ メンバー達が新しいバンド名をザ・マザーズに決めた日は5月の第2日曜日で「母の日」であったが、彼等は後日その偶然に気がついたという。
  13. ^ この頃、ザッパはスタジオZの賃貸の支払いを滞らせたので家主から締め出されてしまい、スタジオZでの彼の活動は終わった。
  14. ^ 定期的に出演していたジョニー・リバースがツアーで不在になったのがきっかけだった。
  15. ^ ザッパ、コリンズ、エストラーダ、ブラックは、ハリウッドに移った後、5人目のメンバーとしてアリス・スチュアート(ギター)、ヘンリー・ヴェスタイン(ギター)、スティーブ・マン(ギター)、ジム・ガルシオ(ギター)といった面々が次々に入れ替わる中、活動を続けてきた。ヴェスタインは後にキャンド・ヒートのオリジナル・メンバーになった。ガルシオはシカゴのプロデューサーとして名を馳せたジェイムス・ウイリアム・ガルシオである。
  16. ^ コリンズは貧しさに耐えられずに年の初めに脱退したが、イングバーの加入と相前後して再加入した。
  17. ^ ベーシストのエストラーダは、ローウェル・ジョージとともに、リトル・フィートを結成した。ジョージは、1968年後半から1969年前半にかけての数ヶ月間、MOIに在籍したが、ドラッグに溺れていたためザッパから解雇された。
  18. ^ ピンク・フロイドザ・ナイスイエスソフト・マシーンキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドなどが出演。ザッパとピンク・フロイドがジャム・セッションを行なう映像が残っている。
  19. ^ ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ
  20. ^ ホット・ラッツやチュンガといった単語は、この時期に発表されたザッパのソロ・アルバム『ホット・ラッツ』(1969年)、『チュンガの復讐』(1970年)の題に由来していると考えられる。
  21. ^ ボルマンがPhlorescent Leech、カイランがEddieという通名を持っており、フロレセント・リーチ&エディ、略してフロ&エディとして知られる。
  22. ^ ザッパが1970年に発表したソロ・アルバム『チャンガの復讐』で初めてザッパと共演し、1970年代中期のMOIの中核を担うメンバーとなった。
  23. ^ 後にメンバー・チェンジで、元MOIのプレストン、ジム・ポンズ(ベース・ギター)、ボブ・ハリス(キーボード、ヴォーカル)が加入した。
  24. ^ オリジナル・メンバーのジミー・カール・ブラック、フォーク歌手のセオドア・ビケルリンゴ・スターキース・ムーンなどが出演した。
  25. ^ この一つ前のコンサートは、一週間前の12月4日にスイスのモントルー・カジノで開かれ、アンコールの時に観客の一人が打ち上げた花火によって火災が発生。犠牲者は出なかったが、MOIは機材を失ってしまった。カジノで新作アルバムを制作する為に現地に滞在していたディープ・パープルは、この火災に遭遇して、代表曲になったスモーク・オン・ザ・ウォーターを制作した。
  26. ^ 結婚前にルース・コマノフの名で『アンクル・ミート』(1969年)に参加してマリンバやビブラハープを演奏した。また『200モーテルズ』(1971年)にもゲストで参加した。
  27. ^ 1972年9月24日のボストン公演のライブ音源が、ザッパの遺族によって2007年にザッパ名義のCD『ワズー』として発表された。
  28. ^ ツアーからのライブ音源が、ザッパの遺族によってImaginary Diseases(2006年)、Little Dots(2016年)に収録されて発表された。いずれのCDの名義もザッパであった。
  29. ^ ジャケットには"ZAPPA/MOTHERS"と記された。
  30. ^ フランク・ザッパ・アンド・ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの名義。
  31. ^ 1975年4月と5月に行なわれたMOIとキャプテン・ビーフハートとの共同名義による国内ツアーのライブ音源を中心にしたアルバムで、ザッパ/ビーフハート/マザーズの名義で発表された。
  32. ^ 後年、ザッパや彼の遺族がMOIの音源を収録して発表したCDには、『プレイグラウンド・サイコティクス』(1992年)や『アヘッド・オブ・ゼア・タイム』(1993年)のようにMOIの名前が名義に含まれたものと、『ヘルシンキテープス'74 / オン・ステージ Vol.2』(1988年)のようにフランク・ザッパ名義のものとがある。
  33. ^ ザッパ、テリー・ボジオ(ドラムス)、ナポレオン・マーフィー・ブロック(テナー・サクソフォーン、ボーカル)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター、ボーカル)、アンドレ・ルイス(キーボード、ボーカル)の5人編成。
  34. ^ 前述のように、ザッパは1969年8月にMOIを解散した後、同年11月から1970年4月までの間、Frank Zappa & Hot RatsFrank Zappa & Friendsなどの名義で元MOIのミュージシャンらと数回ステージに立っており、その中には5人編成や4人編成で演奏した場合があった。
  35. ^ ’Zoot Allures’のギター・ソロは1982年5月30日のコンサートで録音されたものである。
  36. ^ 1971年6月6日にニューヨーク・フィルモア・イーストにて開催されたMOIのコンサートのアンコールにレノン夫妻がゲスト出演した時の音源をレノン側が独自に編集したものが、2枚組アルバムのD面に収録された。ウォルター・ワードの「ウェル」以外の収録曲の曲名と作者名は全てレノン側の決定による。ザッパ作の'King Kong'の演奏は、ザッパの許諾なしでレノン/オノ作「ジャムラグ」とされてしまい、ザッパに印税は支払われなかった。
  37. ^ 2008年、病没。

出典

[編集]
  1. ^ a b c Ulrich (2018), p. ix.
  2. ^ a b Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 78.
  3. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 65.
  4. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 65–66.
  5. ^ Miles (2004), p. 90.
  6. ^ Miles (2004), p. 96.
  7. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 82.
  8. ^ a b Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 109.
  9. ^ a b Ulrich (2018), p. xxx.
  10. ^ Miles (2004), pp. 197–199.
  11. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 113–115.
  12. ^ Discogs”. 2023年3月11日閲覧。
  13. ^ Discogs”. 2023年3月11日閲覧。
  14. ^ Discogs”. 2023年3月11日閲覧。
  15. ^ Discogs”. 2023年3月11日閲覧。
  16. ^ Discogs”. 2023年3月11日閲覧。
  17. ^ Ulrich (2018), p. xxxiii.
  18. ^ Ulrich (2018), pp. xxxi–xxxiii.
  19. ^ a b c d Ulrich (2018), pp. xxxv–xxxvi.
  20. ^ Ulrich (2018), pp. xxxiii–xxxvi.
  21. ^ Ulrich (2018), p. 525.
  22. ^ a b Ulrich (2018), p. 177.
  23. ^ zappa.com”. 2023年4月8日閲覧。
  24. ^ zappa.com”. 2023年4月8日閲覧。
  25. ^ zappa.com”. 2023年4月8日閲覧。
  26. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  27. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  28. ^ zappa.com”. 2009年9月23日閲覧。
  29. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  30. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  31. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  32. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  33. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  34. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  35. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  36. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  37. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  38. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  39. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  40. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  41. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  42. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  43. ^ Discogs”. 2023年3月11日閲覧。
  44. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。
  45. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。
  46. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。
  47. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。
  48. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。
  49. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。
  50. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。
  51. ^ Discogs”. 2022年12月28日閲覧。

引用文献

[編集]
  • Miles, Barry (2004). Zappa. New York: Grove Press. ISBN 0-8021-4215-X 
  • Ulrich, Charles (2018). The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa. Vancouver: New Star. ISBN 978-1-55420-146-4 
  • Zappa, Frank; Occhiogrosso, Peter (1990). The Real Frank Zappa Book. New York: Touchstone. ISBN 0-671-70572-5 

参考文献

[編集]
  • 日本語版:ザッパ, フランク; オチオグロッソ, ピーター (2004). フランク・ザッパ自伝. 河出書房新社. ISBN 4-309-26719-X 

外部リンク

[編集]