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ザ・モンゴルズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザ・モンゴルズ
 
ベポ(左)&ジート(右)
1970年
タッグチーム
メンバー ジート・モンゴル
ベポ・モンゴル
ボロ・モンゴル
名称
  • ザ・モンゴルズ
デビュー 1968年
解散 1976年
団体

ザ・モンゴルズThe Mongols)は、1960年代末から1970年代中盤にかけて活動したプロレスタッグチーム

モンゴリアンギミックヒールとして、ニューヨークWWWFなどアメリカ北東部やカナダを主戦場に活躍した[1][2]

メンバー

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モンゴリアンの設定はギミックであり、3者とも白色人種モンゴロイドではない。ベポとボロはモンゴルズ加入当時は新人同然だったものの、後にベポはニコライ・ボルコフ、ボロはマスクド・スーパースターに変身し、シングルプレイヤーとしても大きな成功を収めた[1]

来歴

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ジート&ベポ

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1968年、ミスター・ロウバストの名でカルガリースタンピード・レスリングに参戦していたニュートン・タットリーが、スチュ・ハートのもとでトレーニングを積んでいたクロアチア移民のヨシップ・ペルゾビッチをスカウト。辮髪に毛皮のコスチュームをまとったモンゴリアンギミックタッグチーム "ザ・モンゴルズ" を結成して、カサボスキー・ファミリーが主宰していたオンタリオ州ノースベイの団体でデビューを果たす[1]。それぞれのリングネームはタットリーの発案によりペルゾビッチの出身地クロアチアの言葉から取られ、タットリーは「おじいさん」を意味するジート、ペルゾビッチは「赤ちゃん(ベイビー)」を意味するベポと名付けられた[1]

その後モントリオール地区を経て1970年よりWWWFに登場。初期はトニー・アンジェロ、後にルー・アルバーノマネージャーに迎え、6月15日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンビクター・リベラ&トニー・マリノからWWWFインターナショナル・タッグ王座を奪取[3]。翌1971年6月18日にピッツバーグにてブルーノ・サンマルチノ&ドミニク・デヌーチに敗れて一度はタイトルを失うも、2週間後の7月2日に奪回、11月12日にターザン・タイラー&ルーク・グラハムに明け渡すまで保持した[3]。この間、王座一時陥落中の6月にはNWFに出場しており、8月までNWF世界タッグ王座にも戴冠していた[4]

彼らのWWWFでの試合は日本でも東京12チャンネルの『プロレスアワー』において放送され、その桁外れのパワー殺法で注目を集めた(後年、「70年代ロード・ウォリアーズ」などと再評価されたこともある)[2]1972年7月には日本プロレスに来日。当時は団体が末期状態だったこともあり、インターナショナル・タッグ王座アジアタッグ王座への挑戦機会はなかったものの、7月30日に福岡にてベポが坂口征二ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に挑戦している[5]

以後、ジョージアデトロイトへの転戦を経て、1973年にベポがモンゴルズを離脱。ロシア人ギミックのニコライ・ボルコフに変身し、シングルプレイヤーとしてWWWFに復帰することとなった[6]

ジート&ボロ

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ベポの後任には、ピッツバーグの興行でジートにスカウトされたビル・イーディーボロと名乗って加入[7]。ボロはベポと遜色ない大型選手であり、1973年下期よりNWFにて新生モンゴルズとしての活動を本格的に開始、ボボ・ブラジル&ドミニク・デヌーチマイティ・イゴール&ザ・ストンパータイガー・ジェット・シン&ダン・ミラーなどのチームと対戦した[8]

1974年4月には新生モンゴルズとして新日本プロレスの『第1回ワールドリーグ戦』に来日。ボロは予選リーグで脱落したものの、ジートは決勝リーグに進出している[9]。帰国後はジートの地元ノバスコシアを拠点とするマリタイム地区ESAを経て、1975年はNWFのペドロ・マルティネスが参画していたIWAを主戦場に活動。3月にIWA世界タッグ王座の初代王者チームに認定され[10]アーニー・ラッド&サンダーボルト・パターソンのソウル・パトロールやディノ・ブラボー&ジノ・ブリットのイタリアン・コネクションなどとタイトルを争った。

1976年にIWAが活動を停止すると、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦、ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンミネソタ・レッキング・クルーとも抗争を展開した[11]。同年7月には新日本プロレスに再来日して、「モンゴル代表」として『アジア・リーグ戦』に出場。このときは、ボロが予選を突破して決勝リーグに進出している[12]

帰国後はミッドアトランティックに戻ったが、ブッカーのジョージ・スコットがボロのギミックをリニューアルして、同地区を離れたスーパー・デストロイヤーに代わる覆面レスラーとしてプロデュースすることを発案[11]。ジートも地元のノバスコシアに戻ることを希望していたため、1976年9月をもってモンゴルズは解散。ボロは9月26日のワフー・マクダニエルとのルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れた翌日、覆面レスラーのマスクド・スーパースターに変身してミッドアトランティックに再登場したが[8]、その正体が前日まで試合をしていたボロ・モンゴルであることに、誰もが気づかなかったという[11]

獲得タイトル

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ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション
ナショナル・レスリング・フェデレーション
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ジート&ベポ)[4]
インターナショナル・レスリング・アソシエーション
  • IWA世界タッグ王座:2回(w / ジート&ボロ[10]

補足

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脚注

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  1. ^ a b c d Newt Tattrie’s gimmicks, from Mongol success to smelly Skunkman”. Slam Wrestling (1999年7月12日). 2011年7月12日閲覧。
  2. ^ a b 『プロレスアルバム(55) スーパー・タッグ Now! 』P29(1985年、恒文社
  3. ^ a b c WWWF International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月12日閲覧。
  4. ^ a b NWF World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月12日閲覧。
  5. ^ JWA 1972 Summer Big Series I”. Puroresu.com. 2019年4月15日閲覧。
  6. ^ Nikolai Volkoff”. Online World of Wrestling. 2011年7月12日閲覧。
  7. ^ Masked Superstar Interview Part One”. Mid-Atlantic Gateway. 2011年7月12日閲覧。
  8. ^ a b Masked Superstar Match Results”. Mid-Atlantic Gateway. 2011年7月12日閲覧。
  9. ^ NJPW 1974 The 1st World League”. Puroresu.com. 2019年4月15日閲覧。
  10. ^ a b IWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月12日閲覧。
  11. ^ a b c Masked Superstar Interview Part Two”. Mid-Atlantic Gateway. 2011年7月12日閲覧。
  12. ^ NJPW 1976 Asia League Championship Series”. Puroresu.com. 2019年4月15日閲覧。
  13. ^ NJPW 1977 The 3rd World League”. Puroresu.com. 2019年4月15日閲覧。
  14. ^ 『別冊ゴング 昭和52年5月号』グラビア「第4回ワールドリーグ戦 熱戦ハイライト」(1977年、日本スポーツ出版社
  15. ^ The UWF matches fought by Barry Darsow in 1984”. Wrestlingdata.com. 2019年5月10日閲覧。
  16. ^ IWE 1979 Big Summer Series”. Puroresu.com. 2019年4月15日閲覧。
  17. ^ 『プロレスアルバム(51) これぞプロレス ワンダーランド! 』P21(1984年、恒文社)

外部リンク

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