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ダン・ミセリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダン・ミセリ
Dan Miceli
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニュージャージー州ニューアーク
生年月日 (1970-09-09) 1970年9月9日(54歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1993年9月9日
NPB / 2005年4月1日
最終出場 MLB / 2006年9月29日
NPB / 2005年4月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム イタリアの旗 イタリア
WBC 2006年

ダニエル・ミセリDaniel "Dan" Miceli, 1970年9月9日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアーク出身の元プロ野球選手投手)。イタリア系アメリカ人

経歴

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来日前

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4人兄弟の末っ子として生まれる。父親はイタリア人で、母親はウルグアイ人。父の姓はもともとイタリア語式に「ミチェリ」(Miceli)と発音されたが、アメリカに移住すると英語式に「ミセリ」となった。幼少の頃はエンジニアをしていた父親の仕事の都合でメキシコブラジルウルグアイイタリアなどを転々としていた。この時の経験から英語、スペイン語ポルトガル語イタリア語の4ヶ国語を習得する。12歳ごろアメリカに戻り、同時期に野球を始める。野球を始めたのはそれまでに触れたスポーツの中で野球が一番楽しかったことと、バスケットボールアメリカンフットボールのような体が接触することが多いスポーツが苦手だからだという。

1990年ロイヤルズとドラフト外で契約。

1993年パイレーツでメジャー昇格。

1995年にクローザーとして21セーブを挙げる。

1998年には67試合に登板し10勝5敗の成績でパドレスワールドシリーズ進出に貢献した。1998年のパドレスでの活躍は2017年12月25日にパドレスの公式Twitterでも取り上げられた[1]。ワールドシリーズ本戦でも第2戦の8回裏に登板し、1回を無失点で切り抜けた。第4戦の9回表に登板し、2死を取って無失点のまま降板した。このワールドシリーズがMLBのキャリアで一番の思い出だったと語っている。

2003年シーズンの1年間に4球団登板はMLB初記録。MLB時代はがっちりとした体格と投球の際右目をつぶる癖があることから「ポパイ」というニックネームが付けられていた。また、アストロズなどで同僚だったロジャー・クレメンスと風貌や投球スタイルが似ていたこともあり、クレメンスの「ロケット」に対し「ミサイル」とも呼ばれていた。

2004年シーズンはリリーフ陣の一角として74試合に登板するが、ナ・リーグチャンピオンシップシリーズの第2戦では8回裏に登板するもアルバート・プホルススコット・ローレンに二者連続本塁打を被弾し敗戦投手となる。第6戦では12回裏に登板するも一死一塁からジム・エドモンズにサヨナラ本塁打を被弾しまたも敗戦投手となる。

巨人時代

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2004年12月10日日本プロ野球読売ジャイアンツと契約[注 1]。先に巨人入団が決定していたゲーブ・キャプラーは、2003年ロッキーズでミセリとチームメイトだったことがあり仲が良く、ミセリのことを「非常に打ちにくい」と球団に推薦していた[2]。監督の堀内恒夫もビデオを見て獲得を希望した。入団時には「メジャー6球団からオファーがあったが、新たな野球にチャレンジできるチャンスだと思った。優勝に貢献できるよう何でもするつもりだ」、「50セーブを目指したい」と目標を掲げた。

2月10日から宮崎春季キャンプに合流。投球練習を見た堀内は「ボールが高めにいかない」と制球力を評価したうえで「後ろで使うつもり。9回1イニング限定」とクローザーでの起用を明言していた。しかしセットポジションからの投球モーションが緩慢でコントロールも不安定になるという弱点が判明。他球団のスコアラーからは実戦ではボークになるという指摘もあり[3]、ミセリ本人は開幕までには修正すると語る。来日したミセリを見て巨人関係者は「写真よりも太っている」と不安を感じたという[3]

オープン戦では2試合に1試合のペースで登板し、速球は最速140km/h台前半に留まった。3月20日西武ライオンズ戦ではボークと四球が絡んで5失点、ミセリ本人は「今は準備の段階。開幕までには完全に仕上げる」とコメントした。オープン戦の成績は8試合に登板して0勝1敗防御率5.63だった。

4月1日広島東洋カープとの開幕戦、1点リードの9回表に初登板、グレッグ・ラロッカにバックスクリーンへの同点本塁打を、続く前田智徳には内野安打を打たれ、前田に送られた代走の福地寿樹に初球盗塁され[注 2]緒方孝市に勝ち越し本塁打を打たれ降板、3失点で敗戦投手となる[注 3]4月5日横浜ベイスターズ戦、同点の12回裏で登板し、先頭の金城龍彦に二塁打を打たれ、佐伯貴弘の敬遠後に代打ケビン・ウィットは三振するが、続く多村仁にフェンス直撃のサヨナラ安打を打たれ、敗戦投手となる[注 4]二軍再調整を促されたが、本人の同意なしに二軍に落とせないという契約を理由にミセリが拒否[注 5]、一軍に帯同し当面は中継ぎで調整することが決まる。

4月6日の横浜戦で延長11回に巨人が1点リードしてセーブ条件が整い、横浜ファンから「ミセリコール」が巻き起こった[注 6]4月7日の横浜戦で3-8と5点ビハインドの6回裏に中継ぎとして登板、先頭打者の種田仁に四球、種田に盗塁され、次打者の金城は一塁ゴロに打ち取ったが、佐伯に適時打、続く多村には2点本塁打を打たれ1回3失点、試合後には「こんなリトルリーグみたいに狭い球場でやっているからだ[4]」と発言した。4月10日中日ドラゴンズ戦で9回表、10点ビハインド(0-10)敗戦処理で登板し、2安打を打たれるが4度目の登板で初の無失点。これが日本最後の登板となる。

敗戦処理での登板にミセリは不満を顕わにし、さらには右肩痛を訴え始めた。首脳陣は再度二軍降格を打診するが、あくまで二軍落ちを拒否する姿勢を示した。このことで4月17日にミセリ本人を交え、山本功児ヘッドコーチ、阿波野秀幸投手コーチとの3人で40分話し合った末[注 7]、開幕から1ヶ月も経たない4月19日に当時球団史上最速で解雇[注 8]となった[注 9]。シーズン途中での解雇であったため、年俸は契約期間の内2~4月の3か月分(5,250万円)を支払うことで合意した[注 10]

解雇当日にミセリは東京ドームに姿を見せ、荷物をまとめたあと井原敦国際部長[注 11]と別れの握手を交わした後に妻子と共に浅草観光に出かけ浅草寺を参拝したり人力車に乗るなどし「仲見世リ(なかみせり)」の見出しで報道された[注 12]

帰国後

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アメリカ帰国後の5月19日ロッキーズマイナー契約、6月にはメジャー復帰する。2006年デビルレイズへ移籍、同年のWBCイタリア代表に選出。背番号は58。1次リーグの対ベネズエラ戦で8回に6点ビハインドの場面で7番手として登板し、1回を無失点2奪三振。チームは1次リーグで敗退しこの大会での登板はこの試合のみだった。

2006年5月4日の対ヤンキース戦の8回無死1塁の場面で5番手として登板し、ロビンソン・カノのピッチャーゴロの打球を取れずエラー、バーニー・ウイリアムズの送りバントで一死二・三塁になり、ゲーリー・シェフィールドに対して敬遠の投球を暴投[注 13]、満塁になってジョニー・デイモンに満塁本塁打を打たれ、デレク・ジーターへの投球中に肩の痛みを訴え降板して即日故障者リスト入りする。

2007年、オープン戦で6試合に登板し防御率9.53で、3月29日にデビルレイズから解雇される。

2008年1月22日レッドソックスとマイナー契約を結び、招待選手としてスプリングキャンプに参加し[5]3月1日に引退を表明した[6]

2009年4月にアメリカ独立リーグアトランティックリーグに加盟するロングアイランド・ダックスと契約、現役復帰する。背番号は32。16試合に登板し、同年5月31日に退団した[7]

プレースタイル

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巨人の海外スカウトの前情報ではストレートは最高球速153km/hをマーク、落差の大きい鋭いスライダーは球速140km/h、さらにフォークボールも使いこなす本格派投手との触れ込みであった。獲得前にプロモーション用に編集されたものではないVTRを見て獲得を希望した堀内は「投げている球はしっかりしている。懸案だった補強ができた」と語っていた。なお獲得経緯に関して「ビデオを見ただけで獲得を即決した」とのデマが流れたが、これは後に否定されている。また中日ドラゴンズの巨人担当スコアラー・前田新悟は2005年の宮崎春季キャンプを視察した際、ミセリが内角を強気で攻める投球をしていたことから「バラつきはあるが打者にとって打ちづらい」と評価していた[8]

来日前のスポーツ報知のインタビューによると、球種はストレート、スライダー、シンカーカッター、スプリット、カーブと豊富で、ストレートが最速で98マイル(約158キロ)。直近の2004年シーズンでも96マイル(約154キロ)をマークし、常時93マイルから95マイル(約150キロから153キロ)出せる、とのことだった。日本では最速でも140キロ台前半に留まり、変化球も特に売り文句にしていた自慢のスライダーが右打者に対する決め球として機能しなかったことは深刻で、日本で浴びた本塁打は全て右打者からのものである。[注 14]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1993 PIT 9 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 25 5.1 6 0 3 0 0 4 0 1 3 3 5.06 1.69
1994 28 0 0 0 0 2 1 2 -- .667 121 27.1 28 5 11 2 2 27 2 0 19 18 5.93 1.43
1995 58 0 0 0 0 4 4 21 -- .500 264 58.0 61 7 28 5 4 56 4 0 30 30 4.66 1.53
1996 44 9 0 0 0 2 10 1 -- .167 398 85.2 99 15 45 5 3 66 9 0 65 55 5.78 1.68
1997 DET 71 0 0 0 0 3 2 3 -- .600 357 82.2 77 13 38 4 1 79 3 0 49 46 5.01 1.39
1998 SD 67 0 0 0 0 10 5 2 -- .667 302 72.2 64 6 27 4 1 70 5 1 28 26 3.22 1.25
1999 66 0 0 0 0 4 5 2 9 .444 296 68.2 67 7 36 5 2 59 2 0 39 34 4.46 1.50
2000 FLA 45 0 0 0 0 6 4 0 11 .600 207 48.2 45 4 18 2 1 40 3 0 23 23 4.25 1.30
2001 29 0 0 0 0 0 5 0 7 .000 114 24.2 29 5 11 2 0 31 3 0 21 19 6.93 1.62
COL 22 0 0 0 0 2 0 1 0 1.00 85 20.1 18 2 5 0 0 17 1 0 8 5 2.21 1.13
'01計 51 0 0 0 0 2 5 1 7 .286 199 45.0 47 7 16 2 0 48 4 0 29 24 4.80 1.40
2002 TEX 9 0 0 0 0 0 2 0 0 .000 42 8.1 13 1 3 0 0 5 0 1 8 8 8.64 1.92
2003 COL 14 0 0 0 0 0 2 0 1 .000 95 20.2 24 7 9 1 1 18 1 0 13 13 5.66 1.60
CLE 13 0 0 0 0 1 1 0 0 .500 61 15.0 9 1 6 1 0 19 1 0 4 2 1.20 1.00
NYY 7 0 0 0 0 0 0 1 1 ---- 22 4.2 4 2 3 0 0 1 0 0 3 3 5.79 1.50
HOU 23 0 0 0 0 1 1 0 3 .500 116 30.0 22 3 7 1 1 20 2 1 7 7 2.10 0.97
'03計 57 0 0 0 0 2 4 1 5 .333 294 70.1 59 13 25 3 2 58 4 1 27 25 3.20 1.19
2004 74 0 0 0 0 6 6 2 24 .500 336 77.2 74 10 27 12 2 83 4 0 34 31 3.59 1.30
2005 巨人 4 0 0 0 0 0 2 0 0 .000 19 2.2 9 3 2 1 0 3 1 0 7 7 23.63 4.12
COL 19 0 0 0 0 1 2 0 5 .333 86 18.1 19 1 13 0 1 19 0 0 12 12 5.89 1.75
2006 TB 33 0 0 0 0 1 2 4 6 .333 142 32.0 25 4 20 3 1 18 3 0 17 14 3.94 1.41
MLB:14年 631 9 0 0 0 43 52 39 67 .453 3069 700.2 684 93 310 47 20 632 43 4 383 349 4.48 1.42
NPB:1年 4 0 0 0 0 0 2 0 0 .000 19 2.2 9 3 2 1 0 3 1 0 7 7 23.63 4.12

記録

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NPB

背番号

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  • 32(1993年 - 1997年、2001年途中 - 2002年)
  • 33(1998年 - 1999年、2006年)
  • 34(2000年 - 2001年途中、2003年途中 - 同年途中)
  • 43(2003年 - 同年途中)
  • 40(2003年途中 - 同年途中)
  • 58(2003年途中 - 2004年、2005年途中 - 同年終了、2006年WBC)
  • 35(2005年 - 同年途中)

脚注

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注釈

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  1. ^ 本人は2004年シーズンを最後に引退を決意しており、巨人サイドの強い要請で現役続行を決意し来日したとされるが、FA申請をしての巨人入団であり、巨人解雇直後にメジャーに復帰していることから、本当に引退を決意していたかは不明である。
  2. ^ 解説者であった江川卓からも「クイックがあまり上手くないので、塁に出たときに走られてしまう」と言われた。
  3. ^ 試合後、ミセリは「投げて打たれた。それも野球だ。審判の判定にも慣れているさ」と述べる。審判の判定とは、ラロッカの打球がバックスクリーンのフェンス上部に当たってほぼ垂直に跳ね返り外野フィールド内に落ちたものを、審判に本塁打と判定された事である。巨人側は「あの打球はフェンスのラバー最上部に当たったのであり、柵は越えていない」と抗議したが覆らなかった。
  4. ^ この試合後のコメントは「野球というスポーツの一部。投げて、打たれた。それだけだ」と前回登板時とほぼ同様のものだった。
  5. ^ 一見すると不条理なものに思えるが、マイナー契約における待遇の格差が著しいメジャーリーグでは選手側の労働権利として比較的ポピュラーな条項である。ただしその反面、シーズン途中のトレードや解雇も容赦なく行われる。首脳陣に条項のことが知らされたのはこのときになってようやくであった。この頃ミセリはマスコミの取材に対し「どんな成績に終わっても、今季限りで引退する。本当は昨年限りのつもりだったのに、巨人から思わぬオファーがあったから来日した。メジャーでやり残したことは何もないし、日本でダメなら、さっさと帰国するだけ」と、すでに現役に見切りをつけているようなコメントを残している。
  6. ^ このときはミセリは起用されず、前の回から投げていた久保裕也がそのまま続投した。
  7. ^ その内容について山本は「肩の調子について聞いた」とし、阿波野は「嘘を言いたくないから言えない。代理人にも関わること。重要な話し合いです」と答えている。一方で記者から質問を受けたミセリは「日本の美しさや家族構成のこと、それに仏教について話した」とコメントしている。
  8. ^ 2024年に加入したルーグネッド・オドーアが開幕一軍メンバーから漏れ、ファーム調整を告げられたが、本人はこれを拒否し、退団・帰国を希望。球団もこれを認めたことで、開幕3日前の3月26日に退団が発表され4月4日付で自由契約となり球団史上最速での退団となったが、解雇という点に絞ればミセリが未だ最速である。
  9. ^ 解雇の理由について球団社長の桃井恒和は会見で「いつ投げられるようになるか分からない投手を一軍に置いておくわけにはいかない。一軍に帯同させる形で再生できるのかという疑問もあった。チームが勝つ態勢を整えるために早い決断が必要だった」と発表している。この一連のミセリ騒動を皮切りに、2005年シーズンにおける巨人の投手陣は、エースの上原浩治の故障やリリーフ陣の深刻な駒不足など、以前から懸念されていた不安材料が次々と表面化し、壊滅状態に陥った。野手陣も主力の故障に加え、タフィ・ローズの『ジャイアンツ大嫌い』騒動や清原和博のハイタッチ拒否などチーム状態が悪化した影響もあり、最終的に1997年以来8年ぶりのBクラスという屈辱を味わう。桃井球団社長はミセリ解雇の会見の際に「フロントとして責任を感じている。失敗の原因を探っていかなくてはならない」と語った。オーナーの滝鼻卓雄は「普通の会社で言えば採用ミス」というコメントを残している。
  10. ^ 来日前年の年俸は60万ドルだったが、巨人がオファーした金額は3倍近い170万ドルであった。
  11. ^ その後、読売新聞東京本社編集局運動部長
  12. ^ 報道陣のインタビューに対しては「喉が痛いから話すことはない。もう行かなくてはならない」と応じ、足早に球場を後にしていた。観光中、ファンにサインをねだられた際、「これが最後だ」と言って殴り書きしたサインは「M」の1文字であった。インタビューに対しては「俺はミセリじゃない。質問は受け付けない」と返り討ちにした。ただ雷門をバックにした家族との3ショット写真を要求されると笑顔で応じた。浅草観光後も一週間ほど日本に滞在したという。この一件には反発も多く、当時のチームメイトのブライアン・シコースキータフィ・ローズも苦言を呈したほどであった。特にシコースキーは「他人の悪口を言っているのを聞いたことがない」と言われているほど良い人柄であったため、ミセリの態度は相当悪かったと言える。また、漫画家のやくみつるも、「日本観光のオプションツアーとして、読売ジャイアンツ体験入団があった」と皮肉った。
  13. ^ ホルヘ・ポサダらのアピールにもかかわらずボークは取られず敬遠四球とみなされた。
  14. ^ 開幕戦の広島戦でグレッグ・ラロッカ緒方孝市に、4月5日の横浜戦で多村仁志に被弾。

出典

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関連項目

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外部リンク

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