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デーブ・ニルソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デビッド・ニルソンから転送)
デーブ・ニルソン
Dave Nilsson
レイクカントリー・ドックハウンズ コーチ
2018年6月28日
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 クイーンズランド州ブリスベン
生年月日 (1969-12-14) 1969年12月14日(55歳)
身長
体重
191 cm
105 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 捕手外野手一塁手
プロ入り 1987年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1992年5月18日
NPB / 2000年3月31日
最終出場 MLB / 1999年10月3日
NPB / 2000年7月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
国際大会
代表チーム オーストラリアの旗 オーストラリア
五輪 2000年2004年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
オーストラリアの旗 オーストラリア
2004 野球

デーブ・ニルソン英語: Dave Nilsson, 本名:デビッド・ウェイン・ニルソンDavid Wayne Nilsson , 1969年12月14日 - )は、オーストラリア連邦クイーンズランド州ブリスベン出身の元プロ野球選手捕手外野手)、指導者。

中日ドラゴンズでの登録名はオーストラリア特有のイヌにちなんで「ディンゴ」だった。

経歴

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ミルウォーキー・ブルワーズ時代

1987年1月28日にミルウォーキー・ブルワーズと契約した。

1992年5月18日にメジャーデビューを果たした。

1999年には野茂英雄とバッテリーを組んだ。同年はオーストラリア出身の選手として初めてMLBオールスターゲームに出場した。さらにオーストラリア代表選手としてIBAFインターコンチネンタルカップに出場し、4番打者としてMVPを獲得した。10月28日にFAとなった。

2000年シドニーオリンピック出場を条件として中日ドラゴンズに入団した(この時に球団に紹介して一緒に入団したのがダン・カールソンである)。NPBの球団に入団した選手としては飛び切りの実績の持ち主であった[1]。開幕戦に5番・左翼で先発出場するも、日本の投手に対応できず極度の打撃不振で8月に退団した。捕手での出場は7月19日のヤクルト戦(神宮)の1試合のみ(7番・左翼で先発後、3回から6回まで捕手として出場)[2][注釈 1]で、本塁打も4月7日に横浜スタジアムのライトスタンド場外に記録した1本のみに終わった。二軍では45試合で打率.342、9本塁打という成績を残している[3]。9月にはシドニーオリンピックの野球オーストラリア代表に選出された。日本戦では黒木知宏から本塁打を記録した。指名打者と一塁手で出場し、13安打で打率.565を記録した。中日は1999年オフにFA宣言した工藤公康江藤智の獲得を狙っていたが、中日の現場の本命は江藤であり、工藤は中日のフロントの意思で急遽獲得に乗り出したものの、最終的に中日はどちらも読売ジャイアンツ(巨人)にさらわれた。その後、江藤に代わる大砲候補としてディンゴを獲得していたが、事前調査が性急だった可能性が指摘されている[4]

その後、ボストン・レッドソックスへの入団が決まっていたが、故障のため契約を保留した。2003年に契約を交わしたものの、実際にプレーすることはなく一旦は引退を表明した。

2004年2月9日にアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結んだ。8月にはアテネオリンピック野球オーストラリア代表に選出された。主に捕手で出場。日本戦では本塁打を打って活躍し、勝利に貢献した[5]。準決勝では、日本を無失点に抑えて勝利しメダル獲得に大きく貢献した。なお、日本代表の監督代理を務めた中畑清の後の話によると、ニルソンは日本時代の経験を生かして日本野球を研究しており、何度やっても勝てると下に見ていたという[6]。10月15日にFAとなった。

2006年3月に同年から開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のオーストラリア代表に選出された[7]

2010年から、オーストラリアン・ベースボールリーグブリスベン・バンディッツで監督を務める。同チームでは後に中日入りするドリュー・ネイラーを指導していた。バンディッツの監督としては、2016年から2018年にかけて3年連続でチームを優勝へ導いた。

2018年に行われた日本オーストラリアの強化試合にコーチとして訪日し、18年ぶりに中日時代の本拠地ナゴヤドームのベンチに入った。この試合には自身が監督を務めるブリスベン・バンディッツに所属する甥のミッチェル・ニルソンがオーストラリア代表に選出され、出場した[8]。6月13日に、豪州野球連盟により、野球オーストラリア代表の監督に就任したことが発表された[9]

2022年より、北米独立リーグのアメリカン・アソシエーションに所属するレイクカントリー・ドックハウンズ英語版のベンチコーチ兼打撃コーチに就任した[10]

2023年3月に行われたワールド・ベースボール・クラシックでは、オーストラリア代表監督としてベスト8の記録を残した[11]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1992 MIL 51 183 164 15 38 8 0 4 58 25 2 2 2 0 17 1 0 18 1 .232 .304 .354 .658
1993 100 340 296 35 76 10 2 7 111 40 3 6 4 3 37 5 0 36 10 .257 .336 .375 .711
1994 109 440 397 51 109 28 3 12 179 69 1 0 1 8 34 9 0 61 7 .275 .326 .451 .777
1995 81 294 263 41 73 12 1 12 123 53 2 0 0 5 24 4 2 41 9 .278 .337 .468 .804
1996 123 516 453 81 150 33 2 17 238 84 2 3 0 3 57 6 3 68 4 .331 .407 .525 .932
1997 156 629 554 71 154 33 0 20 247 81 2 3 1 7 65 8 2 88 7 .278 .352 .446 .798
1998 102 347 309 39 83 14 1 12 135 56 2 2 2 2 33 1 1 48 12 .269 .339 .437 .776
1999 115 404 343 56 106 19 1 21 190 62 1 2 2 4 53 6 2 64 7 .309 .400 .554 .954
2000 中日 18 63 61 5 11 2 0 1 16 8 0 0 0 0 2 0 0 16 2 .180 .206 .262 .469
MLB:8年 837 3153 2779 389 789 157 10 105 1281 470 15 18 12 32 320 40 10 424 57 .284 .356 .461 .817
NPB:1年 18 63 61 5 11 2 0 1 16 8 0 0 0 0 2 0 0 16 2 .180 .206 .262 .469

記録

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NPB
MLB

背番号

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  • 13 (1992年 - 同年途中)
  • 11 (1992年途中 - 1995年)
  • 14 (1996年 - 1997年、1999年)
  • 7 (1998年)
  • 44 (2000年)
  • 40(2010年 - )

代表歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ なお、その後NPBで外国人選手の捕手としての出場は、2020年にアリエル・マルティネスがマスクを被るまでいなかった。

出典

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関連項目

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外部リンク

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