ノート:オーラ/過去ログ1
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オーラの性格判断書かせていただきました--以上の署名のないコメントは、U3002(会話・投稿記録)さんが 2006年11月26日 (日) 18:05 (UTC) に投稿したものです(Kinno Angelによる付記)。
報告 「~とされる」といった評価の主体が不明瞭な記述があまりに多いこと(WP:AWW), WP:NOT(特にWP:NOTESSAY, WP:NOTOPINION)を満たしていないことへの疑義から、Template:百科事典的でないを貼り付けました。また、全面的に独自研究が過ぎます。--Kinno Angel 2010年12月23日 (木) 16:53 (UTC)
- 私も同様に感じました。しかたないので、こちらで文献を調べ、記述を見つけ出典つきで加筆してみました。この領域は、なにやら眉唾ものの説明が多いとは感じますが、一応出典があれば、ウィキペディアのきまりとしては許容範囲になります。ですのでタグをとりあえずはずします。ただし、まだ要出典箇所はいくつも残っているのでそこは監視し、長期に渡り出典が提示されないようなら、そこもコメントアウトしてやればよいでしょう。--220.97.25.69 2010年12月29日 (水) 16:07 (UTC)
「ヴァレリー・ハント博士によるオーラの実在の証明」節について
オカルトや疑似科学の「科学的証明」の記述にままあることですが、学術専門用語ぶったバズワードの使用が極めて多いように思えます。難しい用語で煙に巻くことが目的でないのなら、平易な用語を用いるか、一般読者が理解しづらい用語の解説をお願いします。あと学術研究であることを強調されたいなら論文を明記されるのがよろしいと思います。 --Hoistsail 2011年8月7日 (日) 10:47 (UTC)
- とりあえず、第三者による追試が行われて同様の結果が出ない限り「証明」されたことにはならないので節名を変更しました。West 2011年8月25日 (木) 11:55 (UTC)
- 表の青と青紫の列の意味が分かりません。「 1,000 - 2,000 Hz プラス 300 - 400 Hz 600 - 800 Hz 」って、結局何ヘルツなんですか?West 2011年9月4日 (日) 15:30 (UTC)
「ヴァレリー・ハント博士によるオーラの実在の証明」節について
① 項目の改訂に以下を追加しました。 ヴァレリー・ハント博士の英語の論文。
http://www.somatics.de/HuntStudy.html
http://www.rolf.com.au/downloads/ucla.pdf#search='Valerie V Hunt aura'
(しかし、引用の分量が多い、という問題が発生し、今、本文では、これが表示されない状態です)
② 項目の改訂に以下を追加しました。
本文の「低ミリボルテージ信号」の直後に、以下の注釈を追加しました。
(ボルテージ。voltage。意味は、電圧,電圧量,ボルト数 《略 v.》 研究社 新英和中辞典より)
(しかし、引用の分量が多い、という問題が発生し、今、本文では、これが表示されない状態です)
③ >第三者による追試が行われて同様の結果が出ない限り「証明」されたことにはならないので節名を変更しました。
これは仕方がないでしょう。 しかし、ここで、ある事実を書いておきます。
本来なら、オーラ否定派(主流派)の科学者たちは、すぐに検証実験を行うべきです。 しかし、私が知る限り、オーラ否定派(主流派)が否定するための検証実験を行った、という情報はゼロなのです。 なぜ、否定派は検証実験を一度も行っていないのでしょうか? 行えば、はっきりと決着はつくはずなのに。 なぜ?
この疑問を提示しておきます。
④ 引用の分量が多い、という問題が発生しました。
それならば、リチャード・ガーバー著『バイブレーショナル・メディスン』とバーバラ・アン・ブレナン著『光の手』の関連部分の文章を統合して、それらの合計量の90パーセントぐらいの分量の文章に要約すれば、問題は解決するのでしょうか?
--kattsu-x-men 2011年8月28日 (日) 20:35
- Wikipedia:引用のガイドラインをお読みください。許される引用の方法は著作権法で決まっています。その条件の1つが、独自の文が主、引用文が従であることです。引用は、あくまでも自分の言葉で書いた文章を補足するために行うものです。利用者:Law soma/自分の言葉で執筆してくださいも参考にしてください。--Trca 2011年8月30日 (火) 09:52 (UTC)
「ヴァレリー・ハント博士によるオーラの実在の証明」節について
「低ミリボルテージ信号」についての追加情報です。
「ミリボルト、millivolt」という単位があります。 意味は、電位差の単位。一ボルトの一〇〇〇分の一。記号 mV。(三省堂 大辞林より)
つまり、「人体が発している低ミリボルテージ信号」とは、「人体が通常、発しているごく微量の電圧の電気信号のこと」です。「一〇〇〇分の一ボルトの単位で計測できる電気信号」です。
「全人類が発している、ありふれた電気信号」です。
それ以外に特別な意味はありません。
--kattsu-x-men 2011年8月28日 (日) 22:22
「ヴァレリー・ハント博士による研究」節について
追加情報です。
>表の青と青紫の列の意味が分かりません。「 1,000 - 2,000 Hz プラス 300 - 400 Hz 600 - 800 Hz 」って、結局何ヘルツなんですか?
バーバラ・アン・ブレナン著『光の手』には、以下の一文があります。
>これらの周波数は、青と青紫の追加周波を除くと虹の色の逆の順序になる。
これを素直に読めば、こう解釈できます。
「オーラの青と青紫には固有の主要な周波数帯がある。また、その他にも飛び火したように存在している固有の、より狭い周波数帯もある」
「ですから、青と青紫の場合は最初に記述してある数値が、主要な周波数帯である。そのあとに「プラス……」と記述してある二番目、三番目の数値は飛び火したように存在している固有の、より狭い周波数帯である」
この文脈で、説明を追加します。
--kattsu-x-men 2011年9月5日 (月) 21:08
内容が偏っています
内容が非常に片寄っていると感じました。疑似科学を科学のように書いている個所は削除すべきでしょう。また、語源である古代ギリシャのオーラの概念についての説明が必要だと思います。--やまさきなつこ(会話) 2015年3月19日 (木) 15:31 (UTC)
- ヴァレリー・ハントの節が内容に沿わないため削除しています。生体が発する電磁波の研究で、オーラの話ではないですよね。詳細な研究内容はヴァレリー・ヴァージニア・ハントか電磁波の記事に記載ください。--やまさきなつこ(会話) 2015年3月21日 (土) 05:39 (UTC)
内容が偏っています に反論します
Q。ヴァレリー・ハントの節が内容に沿わないため削除しています。生体が発する電磁波の研究で、オーラの話ではないですよね。
A。いいえ。オーラの話です。以下の文章を読み返してください。
ハントは、「超感覚知覚能力者がオーラの放射を見、描写してきた何世紀もの間、彼らの主観的な色放出の観察を証明する、これが最初の客観的な周波・振幅・時間の電子的証拠である」と語っている
不当な言いがかりをつけられて、削除されたことは迷惑です。
記事を復活させます。
Q。詳細な研究内容はヴァレリー・ヴァージニア・ハントか電磁波の記事に記載ください。
A。科学者のハント博士はオーラについて研究成果を発表したのです。だから、これはオーラのページに書く必要があります。
Q。オーラを電磁波や波動だと考えるのは、ひとつの見解にすぎませんので、生物が発する電磁波や磁界、「バイブレーション・メディスン」などを出典とする波動 (オカルト)に関する記述は、各ページに書いた方がいいと思います。
A。必要ありません。 本文の文章の中で一つの見解であることは書いてあります。以下の文章を読み返してください。
この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。
これも事実です。
科学者のハント博士は一つの見解を発表しました。ところが他の科学者たちは、それについて見解を発表していません。
以上は事実です。その事実を紹介したのです。問題ありません。
提案があります。
あなたが、科学者のハント博士がオーラについて研究成果を発表したことを否定したいのなら、同じ実験を行えばいいのです。
あなたが自腹で資金を出して、科学者と霊能者を集めて検証実験を行うのです。
是非、実行してください。
- たとえ私が検証したとして、それを根拠に文章を書くことはできません。それがウィキペディアのルールだからです。感情的にならず、意味のある提案をしてください。あと、読みにくいのでやたら改行なさらないでください。署名もお忘れなく。--やまさきなつこ(会話) 2015年9月4日 (金) 14:04 (UTC)
Q。たとえ私が検証したとして、それを根拠に文章を書くことはできません。それがウィキペディアのルールだからです。
A。あなたが自ら実験を行う必要はありません。あなたは資金を出すスポンサーになればいいのです。
実験は他の科学者が行うのです。他の科学者が発表するのです。そしてオーラの実在が証明されたら、私がウィキペディアに、それを書きます。
Q。感情的にならず、意味のある提案をしてください。
A。いいえ。意味のある提案です。論より証拠です。検証実験を行って証拠をつかみましょう。
300万円ぐらい出せば実験室を用意して、多数の科学者と多数の霊能者を集められるのではありませんか? あなたが本気で否定したいのなら、そのぐらいの金額は出せるでしょう? 私は1円も出しません。だって「オーラ実在派」ですからね。次は「否定派」が検証実験を行う番です。
立会人には「オーラ実在派」の人たちも必要です。「否定派」だけだと、彼らに都合の悪いデータを握り潰されるかもしれないからです。
Q。あと、読みにくいのでやたら改行なさらないでください。
A。申し訳ありませんでした。読みやすさに配慮した改行にしたつもりです。どうですか?
Q。署名もお忘れなく。
A。申し訳ありませんでした。署名します。
--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月5日 (土) 06:46 (UTC)
削除された理由が「問題提起だから」について、反論します
私はノートのページに問題提起を書きました。 しかし、本文のページには問題提起を書いていません。
本文の文章の中で一つの見解であることは書いてあります。以下の文章を読み返してください。
この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。
これも事実です。
科学者のハント博士は一つの見解を発表しました。ところが他の科学者たちは、それについて見解を発表していません。
以上は事実です。その事実を紹介したのです。問題提起ではありません。
不当な言いがかりをつけられて、削除されたことは迷惑です。
記事を復活させます。
- コメントをする際は署名をしてください。また外部リンクを記事内に入れないでください。ヴァレリー・ハントの研究が「オーラ」という項目において、ここまで大きく扱う正当性を示す客観的な根拠を示してください。客観的根拠とは、オーラ実在説・オーラ電気説支持者以外の、第三者による科学的、もしくは文化的な視点による信頼できる言説です。ウィキペディアは百科事典であり、言いたいことを言いたいだけ言う場ではない、ということをご理解ください。なぜ、第三者による検証も行われていない信頼性の低い研究に、ここまでスペースを割く必要があるのか、論理的な説明をお願いします。「わたしが評価しているから、世間からも評価されているはず」ではダメだということをご理解ください。--やまさきなつこ(会話) 2015年9月4日 (金) 14:04 (UTC)
Q。コメントをする際は署名をしてください。
A。申し訳ありませんでした。署名します。
Q。また外部リンクを記事内に入れないでください。
A。申し訳ありませんでした。外部リンクを記事の外に出す作業を、あとで行います。
Q。ヴァレリー・ハントの研究が「オーラ」という項目において、ここまで大きく扱う正当性を示す客観的な根拠を示してください。客観的根拠とは、オーラ実在説・オーラ電気説支持者以外の、第三者による科学的、もしくは文化的な視点による信頼できる言説です。
A。ハント博士の記事の見出しにコメントがついているではありませんか。「信頼性について検証が求められています」といったコメントです。つまり、現時点では仮説の扱いになっています。この状態のまま載せ続けるべきです。
これが定説になるかどうかは「検証実験によってのみ判明する」から、この状態のまま載せ続けるべきです。詳しくは 後述します。
Q。ウィキペディアは百科事典であり、言いたいことを言いたいだけ言う場ではない、ということをご理解ください。
A。科学者のハント博士は「オーラの実在性を証明した」と主張しているのです。現在の科学のパラダイムへの挑戦状です。こんな重大な仮説は当然、百科事典の項目として扱うべきです。詳しくは 後述します。
Q。なぜ、第三者による検証も行われていない信頼性の低い研究に、ここまでスペースを割く必要があるのか、論理的な説明をお願いします。
A。あなたは「第三者による検証も行われていない信頼性の低い研究」と思われています。しかし、私は逆の見方をしています。「第三者の科学者たちは検証実験の結果を恐れて逃げ回っている」と思っています。
ハント博士が「オーラの実在性を証明した」と主張したのは1988年です。それから27年が過ぎて、今は2015年です。27年間、第三者による検証実験はゼロです。これは異常事態です。これが科学者として誠実な態度と言えるでしょうか?
こういう異常事態だからこそ、大きなスペースを割く必要がある、と思っています。いつかは勇気ある科学者たちが現れて検証実験を行ってくれるでしょう。それまでは「信頼性について検証が求められています」のコメント付きで、ハント博士の記事を載せ続けるべきです。
こういう宙ぶらりんな状態を招いたのは科学者たちの怠慢であり、彼らの責任です。科学者たちは挑戦を受けて立つべきです。科学者らしい態度を見せてほしいです。
Q。「わたしが評価しているから、世間からも評価されているはず」ではダメだということをご理解ください。
A。今までの文章を読んでもらえば私に、そんな考えがないことは明白でしょう。勇気ある科学者たちが現れて、霊能者や「オーラ実在派」の立会人たちと共に検証実験を行ってくれるのを待っているのです。
--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月5日 (土) 06:58 (UTC)
- 改行を改善いただきありがとうございます。まとまった量を投稿される場合「これは細部の編集です」にチェックを入れないでください。あなたの投稿は十分な量があり、「細部の編集」ではありません。「ハント博士が「オーラの実在性を証明した」と主張したのは1988年です。それから27年が過ぎて、今は2015年です。27年間、第三者による検証実験はゼロです。これは異常事態です。」というのはあなたの意見ですので、異常事態を証明する出典をお示しください。「第三者による検証が現在まで行われていない」というのも出典が必要です。信頼できる情報源があれば「××はハントの研究に対し、○○と述べている。」という形にすれば問題ありません。現状では、英語版でもハントの研究には触れられておらず、特筆すべきである証拠はありません。また、一つの研究だけを長々取り上げるのは、そうすべき根拠がなければ正しくはありません。ハントの研究が突出して重要であると評価されている証拠を示してください。削除された理由は「問題提起だから」ではなく「信頼できる情報源の不足した独自研究だから」で、改善が見られなかったからです。オーラを科学として扱うなら、疑似科学を科学として書かないよう注意が必要でしょう。オーラの科学的研究を偏りなく概説できれば、取り上げる正当性も示すことができるかもしれませんが、現状はそうはなっていません。また、あなたの文章から、「そんな考えがないことは明白」であるとは、申し訳ありませんが読み取れませんでした。私のような他人にも、明白にわかるように書いていただければ幸いです。--やまさきなつこ(会話) 2015年9月5日 (土) 08:05 (UTC)
Q。削除された理由は「問題提起だから」ではなく「信頼できる情報源の不足した独自研究だから」で、改善が見られなかったからです。
A。それが理由になるのなら、仕方がありません。削除されても構いません。しかし、それ以外の理由は理由になっていません。その点は抗議します。
Q。「ハント博士が「オーラの実在性を証明した」と主張したのは1988年です。それから27年が過ぎて、今は2015年です。27年間、第三者による検証実験はゼロです。これは異常事態です。」というのはあなたの意見ですので、異常事態を証明する出典をお示しください。「第三者による検証が現在まで行われていない」というのも出典が必要です。信頼できる情報源があれば「××はハントの研究に対し、○○と述べている。」という形にすれば問題ありません。
A。これは不当な言いがかりです。あなたは「悪魔の証明」を要求してきたのです。それを承知の上で、わざと要求してきたのでしょう? これは、いい年した大人ならば恥ずべき行為です。
「ないものを、ないと証明しろ」これが悪魔の証明です。これは不可能な証明です。「ないもの」とは「出典そのものがない」のです。それなのに「ない」という「出典を出せ」ですって? あなたも自分が同じことを要求されたら「悪魔の証明だから不可能だ」と反論するはずです。あなたは自分が、できないことを相手に要求したのです。自分で自分の言葉を恥ずかしいと思わないのですか?
逆に「有るものを有る」と証明するのは可能性があります。それを探し出せばいいからです。「○○年にハント博士の論文について検証実験が行われた。こういう結果になった」という事実があるなら、それを探し出せる可能性があります。
だから、これに関して検証実験の有無を探し出す義務があるのは、あなたの側です。(私は、すでに探したのに見つからなかったのです。だから、次は、あなたが探す番なのです)。
そして、あなたは、こう報告するのが議論の筋道です。「もし検証実験が行われているのなら、その事実を探し出せるだろう。しかし、探しても見つからなかった。ないものをない、と証明するのは悪魔の証明だから不可能だ。だから、調査は、これで打ち切りにする。27年間、第三者による検証実験がゼロなのは事実だろう、と結論を出す以外にない。このことは異常事態だ、という意見には説得力がある」
これを確認して、以上のように報告する義務があるのは、あなたの側です。それなのに、あなたは自分の義務を果たさなかったのです。それどころか論争相手に悪魔の証明を要求する、という不当な言いがかりをつけてきたのです。あなたは自分が、できないことを相手に要求したのです。
これについて私は謝罪を要求します。
他にも抗議したいことはありますが、細かいことなので、やめておきます。このページを読んだ人は「やまさきなつこ」という人が、どういう人物なのかを自分で判断してください。
--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月6日 (日) 05:30 (UTC)
- 検証がされたという情報も、されていないという情報もなければ、そのことについて触れるべきではありません。あなたは、なにを根拠に「ない」と書いたのですか?あなたが検証実験について聞いたことがないから、ないだろうという推測ですか?ウィキペディアには根拠のないことは書けません。それがルールで、それ以上でもそれ以下でもありません。単に、信頼できる情報源がないなら書かなければいいだけのことです。いろいろ混同されているようですが、わたしはあなたに「検証実験がされていない証明」を求めていません。「検証実験がされていないと述べている情報の提示」を求めているだけです。「悪魔の証明」を求めているわけではありません。また改行が多くなっていらっしゃいますが、一つのセンテンスで改行は特に必要ありません。--やまさきなつこ(会話) 2015年9月6日 (日) 13:10 (UTC)
悪魔の証明について
「やまさきなつこ」氏の文章を引用します。
「第三者による検証が現在まで行われていない」というのも出典が必要です。 「検証実験がされていないと述べている情報の提示」を求めているだけです。
新しい事実を教えましょう。問題になっている文章です。
「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」
実は、これは私が書いた文章ではないのです! ウィキペデイアの管理人の前任者が書いてくれた文章なのです!!
その管理人は「検証実験がされていないと述べている情報の提示」を私に求めなかったのです。それどころか管理人は親切にも「暫定的な結論」を自分で出して「ない」と決めてくれました。そして自ら例の文章を考えて、最後の一行として書き加えてくれたのです。その管理人はマニュアルのルールよりも、社会人の常識を優先してくれたのです。それは私にも伝わりました。だから、私も同意したのです。
考えれば分かることです。もし検証実験が「有る」のなら当事者が記録を残します。しかし、検証実験が「ない」場合は誰が、わざわざ、それを「ない」と記録してくれるのですか? そんな人間は存在しません。だから、出典が存在しないケースが発生するのです。そういうケースだろう、と推測できる場合は「ない」を暫定的な結論とします。これが社会人の常識です。
それなのに、あなたは「ないものをないと証明する出典を出せ」と「悪魔の証明」を求めてきたのです。あなたの主張は「ウィキペデイアのルールが出典を要求している。だから、悪魔の証明うんぬんは関係なく、出典を要求できる」というマニュアルに沿っただけの内容のようですね。
これはマニュアルのルールの話ではありません。社会人の常識と礼儀の話です。普通の社会人なら「マニュアルのルールよりも、社会人の常識と礼儀の方が優先順位が高い場合がある」と分かるはずです。あなたも自分が同じことを要求されたら「悪魔の証明だから不可能だ」と反論するはずです。あなたは自分が、できないことを相手に要求したのです。こんな礼儀知らずの人間と出会ったら、あなたは許せますか?
あなたが謝罪しないのなら、私はウィキペデイアの苦情処理部門に、以下のように連絡します。「ウィキペデイアの管理人が別の管理人にクレームを出しました。この混乱状態を解決してください。これでは利用者が投稿できません」--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月7日 (月) 10:36 (UTC)
- 管理人の前任者とは何でしょう?あなたが現管理人だとおっしゃりたいのでしょうか?ウィキペディアの管理に参加されているようには見受けられませんが。ちなみに私は管理人ではありません。ウィキペディアのような大勢の人が参加するWikiを円滑に運営するにはルールが必要で、ルールというものは守られる必要があります。謝罪を要求される理屈は私には理解しかねますので、どうぞご随意にご対応ください。その「ウィキペディアの管理人の前任者」(?)という方が文章の根拠を提示しない限り、該当の文章は復活させないでください。--やまさきなつこ(会話) 2015年9月7日 (月) 12:01 (UTC)
前述したとおり、「オーラのページ」の「ハント博士の記事」は削除で構いません。これは「悪魔の証明」とは別の問題であり、すでに決着しましたから。いずれ「ハント博士のページ」を別の項目として立ち上げるでしょう。
「やまさきなつこ」氏のの文章を引用します。
ちなみに私は管理人ではありません。
A。失礼しました。私の勘違いでした。もちろん私も管理人ではありません。私が「管理人の前任者」と思った人も利用者の一人かもしれません。
ウィキペディアのような大勢の人が参加するWikiを円滑に運営するにはルールが必要で、ルールというものは守られる必要があります。
A。そのとおりです。しかし、もう一つ重要な論点があります。「ルールには適用除外のケースがある」ということです。つまり、下位のルールを適用除外にして、上位のルールを適用するケースです。
前述したとおり、以前には、「検証実験がされていないと述べている情報の提示」を私に求めない人もいたのです。その人は「検証実験の記録が見つからないのは、検証実験を行った事実はなく、出典そのものが存在しないケースだろう」と推測してくれたようです。そこで「ない」を暫定的な結論にして、私の代わりに例の文章をかいてくれたのです。これです。
「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」
その人はマニュアルのルールよりも、社会人の常識を優先してくれたのです。前述したとおり私も「マニュアルのルールよりも、社会人の常識と礼儀の方が優先順位が高い場合がある」と考えています。
「ないものをない、と証明する出典を出せ」というのは「悪魔の証明」であり、「不可能な証明」です。こんなものを要求することは社会人の常識と礼儀に反しています。この場合はマニュアルのルールの適用除外とするのが当然だと思います。
社会人の常識と礼儀は、千数百年かけて形成された上位のルールの一つです。これに比べたら、ウィキペデイアのルールなんて下位です。ゆえに下位のルールを適用除外にして、上位のルールを適用するケースがありうるのです。今回が、それでしょう。
あなたの弱点も分かってきました。私は同じ質問を2回書きました。でも、あなたは露骨に無視して逃げ回っています。この質問です。
「あなたも自分が同じことを要求されたら「悪魔の証明だから不可能だ」と反論するはずです。あなたは自分が、できないことを相手に要求したのです。こんな礼儀知らずの人間と出会ったら、あなたは許せますか? 」
なぜ、この質問をあなたは露骨に無視するのでしょうか? あなたは、この質問に「イエス」と答えざるを得ないからです。そして私に謝罪せざるを得ないからです。だから、あなたはこの質問を露骨に無視するのです。これさえ無視すれば永遠に謝罪せずに逃げ回れる、と思ったのでしょう? ところが、露骨に無視しているため逆に、あなたの弱点が丸見えになっているのです。
おかげで、あなたの逃げ回り方がモデルケースになってくれました。私にデータを提供してくれたのです。
やはり、この問題は苦情処理部門に問い合わせることにします。「悪魔の証明を要求された場合は、どうすればいいのか?」を明確にしたいからです。そうしないと他の利用者も同じケースに遭遇した時の対応策が分かりにくいし、面倒くさいでしょうから。--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月8日 (火) 12:48 (UTC)
- 私自身は出典のない文章や独自研究は書かないように気を付けており、あなたに悪魔の証明を要求したつもりもありませんので、あなたの質問に回答する必要性を感じず流してしまっていましたが、そのようにお答えすべきでしたね。ウィキペディアの運営はボランティアであり、苦情処理部門はないと思いますが、Wikipedia:井戸端などで皆さんの意見を聞かれるとよいかと思います。Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:信頼できる情報源などの基本ルールも必ずお読みください。--やまさきなつこ(会話) 2015年9月8日 (火) 13:08 (UTC)
- 否定する証拠がないならその記述は消すべきではない、というのなら、独自研究をし放題になり、ウィキペディアは無法地帯になります。ルールが必要であることはご理解いただけますか?わたしは出典のない記述を消すよう述べただけであり、これは悪魔の証明うんぬんという問題ではありません。「実験が行われた」という記述に出典が必要なように、「実験が行われていない」という記述にも出典が必要なのです。最後に一つ、ログインしないで書かれているため、あなたのユーザーネームとIPアドレスの情報がオープンになってしまっていますよ。--やまさきなつこ(会話) 2015年9月8日 (火) 13:21 (UTC)
私自身は出典のない文章や独自研究は書かないように気を付けており、あなたに悪魔の証明を要求したつもりもありませんので、あなたの質問に回答する必要性を感じず流してしまっていましたが、そのようにお答えすべきでしたね。
A。つまり、こうですね? 「質問に「イエス」と答えます」 単純に、こう書けばいいだけなのことなんですが。もちろん、これは以下の質問に対する答えのことですね。
「あなたも自分が同じことを要求されたら「悪魔の証明だから不可能だ」と反論するはずです。あなたは自分が、できないことを相手に要求したのです。こんな礼儀知らずの人間と出会ったら、あなたは許せますか? 」
3回も質問して、やっと答えが返ってきました。ああ、長かった。これで、ようやく話が噛み合ってきました。では、続けましょう。
ウィキペディアの運営はボランティアであり、苦情処理部門はないと思いますが
A。それは残念です。
Wikipedia:井戸端などで皆さんの意見を聞かれるとよいかと思います。
A。それも利用するかもしれません。しかし、その前に、あなたと論争して論点をまとめる方が手っ取り早いでしょう。
Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:信頼できる情報源などの基本ルールも必ずお読みください。
A。読んでおきましょう。
しかし、私は適用除外の話をしているのです。つまり、下位のルールに過ぎないウィキペデイアのルールをわざと破って、上位のルールである社会人の常識と礼儀を適用するべき特別なケースがある、と言っているのです。
詳しくは後述します。
否定する証拠がないならその記述は消すべきではない、というのなら、独自研究をし放題になり、ウィキペディアは無法地帯になります。ルールが必要であることはご理解いただけますか?
A。あなたは「適用除外」という言葉を絶対に使いませんね。私が連発しているのに、この言葉から露骨に逃げ回っています。何が弱点なのかが丸見えです。見つけました。「適用除外」が、あなたの第二の弱点です。
私は自衛隊法を調べたことがあります。それで適用除外の用語を知りました。自衛隊、警察、消防は、緊急事態の時は軽度の法律違反をやっても構わないのです。そう決めておかないと、いざという時、何もできないからです。「人命救助をした自衛官が、直後に軽犯罪法違反で逮捕された」なんてバカバカしいでしょう? その軽犯罪法違反は人命救助をするために、やむを得ず行うしかなかった、というケースがありうるのです。手柄を立てた公務員を一々逮捕させないための適用除外です。
法律にも上位と下位があります。特別な場合は上位の法律を守るために下位の法律を破っても構わないケースがあるのです。 法律に「上位、下位、適用除外」がある我が日本は「無法地帯」ですか? 答えは「ノー」です。どうせ、あなたは、また逃げ回るでしょうから、時間の節約のために私が代わりに「ノー」と答えました。
日本は「無法地帯」ではありません。「適用除外による利便性を優先している国」です。
言い方を変えましょう。今回の問題で言えば、特別な場合は上位のルールである社会人の常識を守るために、下位のウィキペデイアのルールを破っても構わないケースがある、ということです。つまり、上位のルールである社会人の常識は絶対に守るのです。千数百年かけて形成されてきた社会人の常識は絶対に守るのです。社会人の常識だけは絶対に守らなくてはいけないのです。
あなたは、この状態を「無法地帯」と呼ぶのですか? それは言葉遊びが、ひどすぎると思いませんか? あまりにも言葉を無理矢理に当てはめている、と思いませんか?
特別な場合に限ってウィキペデイアでのルールを適用除外しても、ウィキペデイアは「無法地帯」には、なりません。それどころか「適用除外による利便性を優先しているウィキペデイア」へと進化するのです。ステージが一段階、上がるのです。何て、すばらしいことでしょうか!
わたしは出典のない記述を消すよう述べただけであり、これは悪魔の証明うんぬんという問題ではありません。「実験が行われた」という記述に出典が必要なように、「実験が行われていない」という記述にも出典が必要なのです。
A。これについても「適用除外」が当てはまるケースでしょう。つまり、社会人の常識を優先するのです。それと第二の判断基準があります。読者にとって利益があるか損失があるかを考えて、利益がある方を優先して、そちらを採用するケースです。その結果、ウィキペデイアのルールを破っても「適用除外」にして構わないケースでしょう。
前述しましたが、例の文章は私が書いたのではありません。誰かがウィキペデイアのルールよりも社会人の常識を優先して書いてくれたのです。これです。
「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」。
この文章が書かれたのは2011年です。今年は2015年です。この4年間、この文章は誰かに損失を与えたでしょうか? 苦情が来たでしょうか? 答えは「ノー」です。誰にも損失を与えていません。苦情もなしです。
それなのに4年後、あなたが現れて「ウィキペデイアのルールに違反している」と指摘してきました。4年間、誰にも損失を与えていない文章ですよ。これからも誰にも損失を与えないことは明白な文章です。
どこが、どう問題なのですか? 「問題だ」と言い出したのは、この4年間で、あなた1人です! この4年間に、どれだけの人数が、この文章を読んだでしょうか? 仮に1日5人とすると5×4×365=7300人です。7300人の中の、たった1人が「問題だ」と言っているだけです。残りの7299人は苦情など言ってきませんでした。
それどころか、例の文章は読者に、ある利益を与えたのです。「暫定的な結論」です。「その時点で判明している情報」です。だから、社会人の常識を当てはめて考えれば、この文章は「立派な情報提供」です。ウィキペデイアのルールなんて社会全体では下位のルールだから、この場合は適用除外にしていい、と判断するケースです。
ここから詳しく詳しく説明しましょう。「暫定的な結論」とは何か? 「真実ではないかもしれないが、真実に近いと推測できる結論」です。 ウィキペデイアのルールに違反したとしても「暫定的な結論」を書くことの、何が悪いのでしょうか? 誰が損失を受けるでしょうか? 答えは「何も悪くない。誰も損失を受けない」です。
「検証実験の記録が見つからないのは、検証実験を行った事実はなく、出典そのものが存在しないケースだろう」と推測できるケースがあります。この場合は「ない」を暫定的な結論にします。誰かが、そう判断して、例の文章を書いてくれたのです。これです。>「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」
こういう文章を書くことを「可」とするのは社会人の常識です。
「ないものをない、と証明する出典を出せ」というのは「悪魔の証明」であり、「不可能な証明」です。こんなものを要求することは社会人の常識と礼儀に反しています。この場合はマニュアルのルールの適用除外とするのが当然だと思います。
(このポイントは、おもしろいです。ウィキペデイアのルールは出典に、こだわり過ぎています。そのために社会の常識と対立する項目が存在したわけです。だから、ウィキペデイアのルールをバカ正直に運用すると、「悪魔の証明」を要求するケースも発生するわけです)
では、ウィキペデイアにおいても「出典がない場合」には「検証実験は行われていない。」と暫定的な結論を書いてはいけないのか? これを社会人の常識を優先して考えてください。
暫定的な結論であっても、それを書いた方が読者にとっては「その時点で判明している情報」が手に入るのです。読者にとっては「利益」です。
暫定的な結論すらも書いてはいけない場合は、読者にとっては不満が残る記事になります。こんな不満です。「この記事は検証実験について何も書いてないぞ。検証実験を行った、とは書いてない。でも、行っていない、とも書いてない。どっちだ? なぜ、中途半端なところで記事の文章が終わっているんだ?」
暫定的な結論すらも書いてはいけない場合は、読者にとっては「その時点で判明している情報」すら手に入らないのです。読者にとっては「損失」です。
こんな不満と損失を与えるような記事は不親切です。ウィキペデイアには「読者に不満と損失を与えることを優先するべきだ」というルールでもあるのですか? そんなルールは、ないはずです。そんなルールは、ないのだから当然「読者に満足と利益を与えることを優先するべき」です。こちらはルール化されていなくても社会人の常識だから、優先順位が高いのです。
だから、「読者に満足と利益を与えることを優先するため」に暫定的な結論でいいから「検証実験は行われていない。」と書くべきです。それは「真実ではないかもしれないが、真実に近いと推測できる結論」だからです。「その時点で判明している情報」です。読者にとっては「利益」です。
読者に利益を与える方を選択するべきか? 損失を与える方を選択するべきか? 答えは「利益を与える方」です。その結果、ルール違反になったとしても、ウィキペデイアのルールなんて社会全体では下位のルールだから、適用除外すればいいのです。
事実、この4年間、例の文章は適用除外されて、ページに存在していました。読者に「利益」を与えてきました。「真実ではないかもしれないが、真実に近いと推測できる結論」です。「その時点で判明している情報」です。
改めて、あなたに質問します。これの、どこが悪いのですか? この4年間、7300人(暫定の人数)に「真実ではないかもしれないが、真実に近いと推測できる結論」を与えてきた文章です。「その時点で判明している情報」を与えてきた文章です。
面倒だから、私が代わりに答えます。「ウィキペデイアのルールを適用除外しても何も悪い結果には、ならなかった。それどころか読者に利益を与えてきた。すばらしいことだ。ウィキペデイアは「適用除外による利便性を優先しているウィキペデイア」へと進化するのです。ステージが一段階、上がるのです。何て、すばらしいことでしょうか!」
あなたはウィキペデイアのルールを鋼鉄の盾だとでも思っているようですね。私から見ればボール紙の盾です。ウィキペデイアも社会の一員に過ぎません。社会全体では下位のルールに過ぎません。ウィキペデイアのルールを適用除外して、わざとルールを破って、上位のルールである社会人の常識を適用するべき特別なケースがあるのです。今回が、それでしょう。
最後に一つ、ログインしないで書かれているため、あなたのユーザーネームとIPアドレスの情報がオープンになってしまっていますよ。--
A.構いません。私は大統領候補ではないから、対立候補もいません。私のユーザーネームにFBIが注目することもありません。IPアドレスだってネットの掲示板に利用者が全員、露出しまくってますよ。メールアドレスじゃないから、実害はありません。
やっと話が噛み合ってきました。ここまでが本当に長かったです。でも、私は、こういう分析をして、ステージを一段階、上げて進化させるのが好きなのです。
もう一度あなたの第二の弱点を書きます。「適用除外」。
(追加)
今「集団的自衛権」が騒がしいですね。確かに「日本国憲法九条」には違反するかもしれません。ところが、より上位のルールである「日本国憲法の前文」には違反しない、という主張もあるのです。さらに地球人類の最上位のルールである「国連憲章」には違反しない、という主張もあるのです。
「日本国憲法九条」に適用除外がありうるのか? どれが正しいのか? 悩ましい問題です。
「日本国憲法九条」の適用除外と、今回の例の文章の適用除外とを比較してください。あっちは大問題です。私も結論が出せません。
しかし、こっちは小さな小さな小さな問題です。7300人(暫定の人数)の中の、たった1人が「問題だ」と言っているだけです。残りの7299人は苦情など言ってきませんでした。--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月10日 (木) 02:20 (UTC)
- Wikipedia:検証可能性はウィキペディアの基本方針であり。「適用除外」は原則としてありません。多くの専門家が重要であるとみなしているにも関わらず検証されていない研究があれば、通常は研究史をまとめた総説や書籍においてそのように書かれているはずですから、そのような情報源を参照してください。一方で、当事者以外が注目していないために検証もされていなければ研究史でも言及されない程度の研究なのであれば、百科事典において詳細に言及する必要はないでしょう。--Trca(会話) 2015年9月10日 (木) 03:07 (UTC)
- コメント 議論がかみ合っていないと思います。Kattsu-x-menさんは「事実を証明する証拠」と「情報の典拠」を混同しているように見えます。
- 「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」
- この文はこの編集で書き加えられています。そしてその摘要には「ウィキペディアは問題提起を行う場所ではありません」とあります。ということは、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかにある「ウィキペディアは演説台、戦場、評論の場、あるいはプロパガンダや広告活動の手段ではありません」に違反する箇所(Wikipediaの編集者が記事上で問題提起や主張を行っているような文章)が見受けられたため、「第三者による検証実験は行われていない」ということだけを(それが事実かどうかはさておき)淡々と述べる形に取りあえず直しておいただけ、と見るのが自然でしょう。暫定的に結論を出してくれたとか、社会常識云々といった他意があったとまで深読みする必要はないと思います。
- では「第三者による検証実験は行われていない」のは事実か否か。これを立証するのははっきり言って無理でしょう。以後に行われた発表済みの膨大な科学実験をすべて調べ上げたとしても、そもそも未発表の研究は知りえません。まさに「悪魔の証明」ですね。
- しかし、やまさきなつこさんが必要だと言っているのは事実の証明ではなく出典(情報源)の提示です。提示すべきは「第三者による検証実験は行われていない」ことを証明する文献ではなく、「第三者による検証実験は行われていない(ようだ)」という見解を誰かが述べている文献です。
- Wikipedia:検証可能性を読めばわかるように、Wikipediaでは事実か否かではなく検証可能か否かが問われます。
- 「検証可能である」とは、かんたんに言うと「出典が提示されている」ということです。もし仮に「第三者による検証実験は行われていない」という記述に対して脚注で出典が付けられているとすると、読んだ人は、そこに提示された文献を参照して、実際にその文献にそういうことが書かれているかチェックすることができます。あるいは、定評のある学者が書いた論文を出典に挙げているから信用してもよさそうだとか、出典を見ると専門家でないライターが執筆したような通俗書を典拠にしているからこのまま信用するわけにはいかないな、とか利用者が自分で真偽を判断する材料となるのが出典です。Wikipediaでいう「検証可能」とはそういうことです。「第三者による検証実験は行われていない」のは事実である、と断定するのではなく、『……』という本の何頁には「第三者による検証実験は行われていない」と書かれている、誰々は著書で「第三者による検証実験は行われていない」と述べている、ということを中立的な立場で淡々と記述するのが、Wikipediaの記事のあるべき姿だと思います。--Doomreaper(会話) 2015年9月11日 (金) 12:33 (UTC)
やまさきなつこ氏に反論を書きます。
「やまさきなつこ」氏の文章を引用します。
Wikipedia:検証可能性はウィキペディアの基本方針であり。「適用除外」は原則としてありません。
A。あなたは今回、初めて「適用除外」の言葉を使いました。これで、やっと本当の議論を始めることができます。
では、なぜ、ウィキペデイアのルールに「上位、下位、適用除外」がないのでしょうか? 時間を節約するために、私が答えます。 ウィキペデイアのルールが未熟だからです。時代遅れだからです。歴史の浅い新しいルールだから、「適用除外」のような古くから存在する概念すらも存在しないままになっていたのです。
詳しくは後述します。
一方で、当事者以外が注目していないために検証もされていなければ研究史でも言及されない程度の研究なのであれば、百科事典において詳細に言及する必要はないでしょう。
A.今、問題にしているのは記事全体ではありません。たった一行の文章だけです。これです。 >「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」
あなたは論点をすり替えたのです。記事全体の論点なら、暫定的な決着がついたのです。後日、再論争するかもしれません。しかし、今回は議題が異なります。あなたは、記事全体の論点に決着がついていないかのような文章を、わざと書いたのですか? 混乱させることを狙って?
今の論点は「ウィキペデイアのルールを盾に悪魔の証明を要求するのは正当か?」と「暫定的な結論は正当か?」と「適用除外」です。
これです。 >「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」 この文章を書くべきか否か、です。今の論点は、この一行の文章なのです。
「ウィキペディアの編集方針」を読みました。すると、今回のようなケースについては何も書かれていないことが分かりました。「ウィキペデイアの編集方針を盾に悪魔の証明を要求するのは正当か?」と「暫定的な結論は正当か?」と「適用除外」です。
「検証実験は行われていない」といった「暫定的な結論」に対して、「記録がない、という出典を求める」のは社会人の常識と礼儀に反しています。「ないことを、ないと証明する出典」なんて、「出典そのものが存在しないケース」が圧倒的に多いはずだから、「悪魔の証明」です。その場合は逆に「出典が見つからないこと」を理由に「暫定的な結論」で「ない」とするのが社会人の常識です。
ところが、ウィキペデイアの編集方針は、「出典を求める」に、こだわりすぎてしまい、現実の複雑さを想定していなかったのです。「悪魔の証明に突き当たった場合の対応について」は何も書いてないのです。ルールの不備です。
社会人の常識では「悪魔の証明に突き当たった場合は暫定的な結論を出す」ことは「可」です。ところが、ウィキペデイアの編集方針には、そのケースについて何も書いてないのです。現実の複雑さに対応できないままです。これもルールの不備です。
ウィキペデイアの編集方針には「適用除外」という言葉すらも書いていないのです。現実の複雑さに対応できないままです。全体的に粗製濫造であり、未熟であり、時代遅れです。
予想通りでした! ウィキペデイアの編集方針に不備があったのです。「悪魔の証明に突き当たった場合の対応について」は何も書いてなかったのです!
「悪魔の証明」は大変、特殊なケースです。当然、他のケースとは異なる特別の対応が必要になるから、それを書くべきです。でも、書いてないのです。
ウィキペデイアの編集方針にとって、例の一行の文章は「悪魔の証明が生んだ想定外のケース」だったのです。「想定外」である以上、今回のケースはウィキペデイアの編集方針では判断できないケースです。
では、どうすればいいのか? ウィキペデイアの編集方針よりも上位のルールで判断するしかないのです。「社会人の常識」です。
社会人の常識で考えるなら、例の文章は「不可抗力による暫定的な結論」です。「不可抗力による暫定的な結論」は読者に「損失」を与えません。逆に「利益」を与えるのです。「その時点で判明している情報」を与えるからです。
社会人の常識で考えるなら、「悪魔の証明に突き当たった場合は暫定的な結論を出す」ことは「可」です。しかも、「悪魔の証明に突き当たった場合の不可抗力による暫定的な結論」は「立派な情報提供」です。「その時点で判明している情報」を与えるからです。だから、禁止する理由が、ないのです。
当然、こういう「想定外のケース」では、下位のルールであるウィキペデイアの編集方針を適用除外して、上位のルールである社会人の常識に従い、「不可抗力による暫定的な結論」を「可」とするのが正当です。
>「この研究に対し、第三者による検証実験は行われていない。」 この一行の文章は社会人の常識では正当です。だから、それより下位のルールに過ぎないウィキペデイアの編集方針でも正当です。
ウィキペデイアも社会の一員に過ぎません。社会全体では下位のルールに過ぎません。特別な場合に限って、ウィキペデイアのルールを適用除外して、わざとルールを破って、上位のルールである社会人の常識を適用するべきです。今回が、それでしょう。
特別な場合に限って、ウィキペデイアの編集方針を破る結果になっても問題ありません。この場合は「代わりに千数百年かけて形成されてきた社会人の常識は絶対に守る方針」になります。だから、問題ありません。
あなたの第三の弱点も見つけました。「社会人の常識は上位のルールである。ウィキペデイアは下位のルールに過ぎない」 私は、この言葉を何回使ったでしょうか? ところが、あなたは、この言葉を絶対に使いません。露骨に逃げ回っています。あなたの弱点が丸見えです。
「社会人の常識は上位のルールである。ウィキペデイアは下位のルールに過ぎない」 この論点が、あなたの第三の弱点です。
ウィキペデイアの編集方針も弱点だらけです。「悪魔の証明に突き当たった場合の対応について」、「自ら適用除外を受ける場合について」の規定がないのです。こういう未熟なルールは、上位のルールである社会人の常識から適用除外が発生しやすいのです。自衛策がない未熟なルールだから、上位のルールに従うしかないケースです。--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月12日 (土) 01:51 (UTC)
Doomreaper氏に反論を書きます。
「第三者による検証実験は行われていない」ということだけを(それが事実かどうかはさておき)淡々と述べる形に取りあえず直しておいただけ、と見るのが自然でしょう。暫定的に結論を出してくれたとか、社会常識云々といった他意があったとまで深読みする必要はないと思います。
A。深読みしたわけではありません。
「第三者による検証実験は行われていない」ということだけを(それが事実かどうかはさておき)淡々と述べる形に取りあえず直しておいただけ
これこそ「悪魔の証明に突き当たった場合は暫定的な結論を出す」ことに該当します。です。「とりあえず、こう書くしかない」という「不可抗力」です。文章を書いた人の意図とは別に、この文章を書くことは社会人の常識として「可」であろう、と思います。
私の主張は、すでに前回の文章で書いたとおりです。いい機会だから、以下に、まとめます。
- ウィキペデイアの編集方針」には不備がある。「悪魔の証明に突き当たった場合の対応について」の規定がない。
- 社会人の常識では「悪魔の証明に突き当たった場合は暫定的な結論を出す」ことは「可」である。
- 社会人の常識は上位のルールである。ウィキペデイアは下位のルールに過ぎない。
- 社会人の常識に従って、ウィキペデイアの編集方針を適用除外して、「悪魔の証明に突き当たった場合は暫定的な結論を書く」ことは「可」である。
- 「悪魔の証明に突き当たった場合の暫定的な結論」を書かないことは、読者に「損失」を与える。「その時点で判明している情報」すらも、読者は手に入れることができないからである。
例「この記事は検証実験を行ったとも、行っていないとも、書いてないぞ。なぜ、こんなに不親切なんだ?」
- 「悪魔の証明に突き当たった場合の暫定的な結論」は読者に「利益」を与える。「その時点で判明している情報」を与えるからである。
- 社会人の常識に従って、読者に「利益」を与える方を選ぶべきである。なぜなら、社会人の常識は上位のルールだからである。ウィキペデイアは下位のルールに過ぎない。ウィキペデイアの編集方針は自衛策がない未熟なルールだから、上位のルールに従うしかないケースである。
やっと論争が噛み合ってきましたね。では、また。--Kattsu-x-men(会話) 2015年9月12日 (土) 01:58 (UTC)
やまさきなつこ氏に反論を書きます。
まず 2015年10月11日 (日) 00:57 (UTC) の文章を論点ごとに分かりやすく分割して、一部分をこちらにコピーします。というのは、あなたが論点を混在させて、混乱させるような文章を書いているからです。
まずバレリー・ハントに関する加筆ですが、すでにTrcaさんが「Wikipedia:検証可能性はウィキペディアの基本方針であり。「適用除外」は原則としてありません。
非常にわかりやすくご説明いただいていたので必要ないかと思っていましたが、もう一度申し上げます。ウィキペディアにおいて、基本方針の適用除外はありません。
回答。 これは 2015年9月12日 (土) 01:51 (UTC) 2015年9月12日 (土) 01:58 (UTC) で回答済みです。私の文章の一部をコピーします。
では、なぜ、ウィキペデイアのルールに「上位、下位、適用除外」がないのでしょうか? 時間を節約するために、私が答えます。 ウィキペデイアのルールが未熟だからです。時代遅れだからです。歴史の浅い新しいルールだから、「適用除外」のような古くから存在する概念すらも存在しないままになっていたのです。 予想通りでした! ウィキペデイアの編集方針に不備があったのです。「悪魔の証明に突き当たった場合の対応について」は何も書いてなかったのです! 「悪魔の証明」は大変、特殊なケースです。当然、他のケースとは異なる特別の対応が必要になるから、それを書くべきです。でも、書いてないのです。 ウィキペデイアの編集方針にとって、例の一行の文章は「悪魔の証明が生んだ想定外のケース」だったのです。「想定外」である以上、今回のケースはウィキペデイアの編集方針では判断できないケースです。
*「悪魔の証明に突き当たった場合の暫定的な結論」を書かないことは、読者に「損失」を与える。「その時点で判明している情報」すらも、読者は手に入れることができないからである。
例「この記事は検証実験を行ったとも、行っていないとも、書いてないぞ。なぜ、こんなに不親切なんだ?」
*「悪魔の証明に突き当たった場合の暫定的な結論」は読者に「利益」を与える。「その時点で判明している情報」を与えるからである。
まとめましょう。『「悪魔の証明」のような特殊なケースでは、ウィキペデイアの編集方針にバカ正直に従うと、読者に「損失」を与える』
あなたはテレビの法律相談番組を観たことはないのですか? 私は観ています。プロの弁護士は、法律で規定されていないケースの場合は「損失/利益」を基準に判断します。
また、あなたの弱点が分かりました。以下の文章です。 『「悪魔の証明」のような特殊なケースでは、ウィキペデイアの編集方針にバカ正直に従うと、読者に「損失」を与える』
あなたは、この文章をコピーすることもしません。露骨に逃げ回っているから、あなたの弱点が丸見えです。こういう弱点を抱えたままで、あなたは自分が正当性のある意見を主張できている、と思いますか?--Kattsu-x-men(会話) 2015年10月13日 (火) 14:15 (UTC)
- 一部に関して不自然な反論がありましたので、第3者でありますがコメントさせていただきます。--Katota1114(会話)
1.前任の管理者が書いた文章
実は、これは私が書いた文章ではないのです! ウィキペデイアの管理人の前任者が書いてくれた文章なのです!!
ですから何でしょうか。ウィキペディアの管理者(管理人ではありません。)は、ウィキペディアの記事を守るための権限(削除・ブロックなど)が与えられただけで、発言権や責任が強くなるという訳では決してありません。ですから、管理者が書いた記事も、一般の利用者が書いた記事も、IP利用者が書いた記事も同等の価値があります。管理者が書いた記事だから正しいということは絶対にありません。管理者だってミスをします。
2.ルールの適用除外
ルールには適用除外のケースがある
方針についてのお話ですね。Wikipedia:方針では方針について以下のように説明しています。(一部抜粋)
方針(policy) 多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきものと考えられている基準です。 ガイドライン (guideline) 多くの利用者に支持されている、最善の方法(ベストプラクティス)を集めたものです。編集者はガイドラインに従うように推奨されますが、それについては常識に基づいて判断し、個別の事情に応じて例外を適用してもかまいません。
ガイドラインでは適用除外について明記されています。一方、方針では一切そのような記載はありません。ですから、方針には適用除外はないのです。もし、方針にも適用除外をつけるべきとお考えでしたらこのページで議論されるのではなく、Wikipedia:方針の議論ページで方針の変更を提案してください。
読者にとっての利益を考えるというものもありましたが、その視点は正しいものではありません。Wikipedia:五本の柱には以下のようにあり、もっとも視点を置くべきところが明確になっています。
ウィキペディアは百科事典です。すべての項目は、独自の研究を認めない方針に従う必要があり、正確となるよう努力しなければなりません。
正確に書く努力をしなければいけないのです。ミスはあります。それを防止したり、確認するために出典を求めているのです。出典を出していただけないことは、後の編集者への大きな損害となります。出典がないため、それが本当の記述か検証できないからです。
また、ウィキペディアというコミュニティで執筆する以上、ウィキペディアのルール(とりわけ方針)には従うのが普通です。「郷に入っては郷に従え」。これこそ社会人の常識ではないのでしょうか。もしウィキペディアのルールは守れないが書きたいことはある、それなら他のサイトでやってはいかがでしょうか。この世界中を結ぶインターネットにはウィキペディアより優れたサイトもあります。ここでのルールに従えないなら静かに立ち去り、他のサイトで執筆してください。
3.悪魔の証明を許せるか
「あなたも自分が同じことを要求されたら「悪魔の証明だから不可能だ」と反論するはずです。あなたは自分が、できないことを相手に要求したのです。こんな礼儀知らずの人間と出会ったら、あなたは許せますか? 」
できないことを要求したのではありません。「証明をしていただくか、証明が不可能なら記述を除去してください」という要求です。「はい」か「いいえ」か証明できないなら、その記述は無くせばいいのです。それでは「はい」とも「いいえ」とも言ったことにはならず「わからない」という状態で済まされるのです。
4.暫定的な結論=その時点で判明している情報か
それどころか、例の文章は読者に、ある利益を与えたのです。「暫定的な結論」です。「その時点で判明している情報」です。
暫定的な結論である可能性は否定しませんが、「その時点で判明している情報」では決してありません。あくまで暫定なのです。先ほどから申し上げている通り、「はい」か「いいえ」かわからないことは判明したとはいえないと思います。そのようなことはウィキペディアに記載すべきではありません。
以上4点、お読みいただき、何かご不満な点がありましたらご返答ください。最大限答えられるように努力します。ただし、できるだけわかりやすいような記述を心がけていただきますようお願いします。具体的に申しますと、もう少しマークアップをご活用ください。
返答にあたり当ページの過去版より一部を引用しております。--Katota1114(会話) 2015年10月14日 (水) 13:42 (UTC)
残念ながら、私は仕事もプライベートも忙しくなってきました。論争は一度、休止にします。3年後ぐらいに戻ってくるでしょう。
本当は続けたいのです。何しろ日本国憲法九条が国連憲章によって「事実上、適用除外される」という大事件が起きましたからね。国連憲章が集団的自衛権を認めているから、国連加盟国の日本も、日本国憲法九条の適用除外に踏み切るしかなくなったわけです。このテーマとも比較して、論じたかったです。
「宿題。ウィキペデイアの項目に、すでに適用除外が存在する件について」の節も、読んでください。
--Kattsu-x-men(会話) 2015年10月17日 (土) 01:23 (UTC)
「オーラと科学的アプローチ」節を改題し、「オーラ・非主流派科学のアプローチ」節としました。その他。
「オーラと科学的アプローチ」節を改題し、「オーラ・非主流派科学のアプローチ」節としました。「オーラの科学史」節を改題し、「オーラ・非主流派科学の歴史」節としました。
これにより「ヴァレリー・ハント博士による研究」節の記事を復活させました。改題し、「ヴァレリー・ハント博士による非主流派科学のオーラ研究」節としました。
やまさきなつこ氏に反論を書きます。
第一の論点です。
オーラは、現時点では「主流派科学」から実在が認められていません。ですから、オーラに関する言説は、すべて「非主流派科学」の扱いであり、「怪しい言説」です。そこで現状に合わせて節を改題し、「オーラ・非主流派科学のアプローチ」、「オーラ・非主流派科学の歴史」、「ヴァレリー・ハント博士による非主流派科学のオーラ研究」としました。
オーラに関する記事は「非主流派」と再定義し、「怪しい言説」であると再定義するわけです。
第二の論点です。
ウィキペデイアの編集方針には「非主流派科学」に関して何の規定もありません。よって、これは、より上位のルールである社会人の常識を適用するケースです。
ウィキペデイアも社会の一員に過ぎません。社会全体では下位のルールに過ぎません。特別な場合に限って、ウィキペデイアのルールを適用除外して、わざとルールを破って、上位のルールである社会人の常識を適用するべきです。今回が、それです。
特別な場合に限って、ウィキペデイアの編集方針を破る結果になっても問題ありません。この場合は「代わりに千数百年かけて形成されてきた社会人の常識は絶対に守る方針」になります。だから、問題ありません。
「非主流派科学」を「非主流派科学」と定義した上で記事にすることは、社会人の常識では「可」です。これにより無用な誤解を避けられます。社会に対して何の問題も起こしません。何しろ「怪しい言説である」と自ら名乗っているわけですから。
あとはウィキペデイアの編集方針に従い、出典を明らかにすれば、「非主流派科学」の記事を書くことは「可」です。「不可」とする理由は、ありません。
第三の論点です。
現在のオーラのページには、ハント博士以外の非主流派科学の記事が多数、存在し続けています。それらと「ハント博士の記事」との相違点は、ありません。ですから、「ハント博士の記事」だけを特別に除外する理由がありません。
「ハント博士の記事」を除外するのなら、その他の非主流派科学の記事も、すべて除外するべきです。しかし、あなたは、それを行いません。その他の非主流派科学の記事は残しておきたいようです。
あなたの行動には一貫性も合理性もありません。
第四の論点です。
以下は「Wikipedia:独立記事作成の目安」の前文のコピーです。
またある対象に特筆性が見つかった場合は、多くの場合ウィキペディアに記述できますが、ことごとく新規に独立記事を作成するだけが最良とは限りません。場合によっては既に記述されている、より包括的な項目内の情報として新たな節を設ける等、記事の強化に役立てる方が良い場合もあります。
このウィキペデイアの編集方針によれば「オーラの項目内の情報として、新たな節としてハント博士の記事を設けること」は「推奨」されています。しかし、わざわざハント博士について独立記事を別個に作成する必要は、あまり「推奨」されていません。
ですから、「オーラの項目内の情報として、新たな節としてハント博士の記事」を堂々と復活させます。問題は、ありません。ウィキペデイアの編集方針に従った結果だからです。
第五の論点です。
ウィキペデイアの編集方針には「非主流派科学」に関して何の規定もありません。ですから、「非主流派科学」について、どれだけ大量の文章を書いて、どれだけ詳細に説明しても「可」です。
「非主流派科学」を「非主流派科学」と定義した上で記事にするのですから、より上位のルールである社会人の常識でも「可」です。ハント博士の記事の分量が、どれだけ多くなっても「可」です。問題は、ありません。
むしろ、これこそがウィキペデイアの存在意義です。普通の百科事典には書いていない知識までも網羅されて書いてある点です。これがなかったら「普通の百科事典の方が、ましだ」ということになります。
第六の論点です。
あなたは記事全体の分量のバランスを批判したようですね? つまり、ハント博士の記事の分量が多すぎる状態を批判したようですね?
それならハント博士以外の非主流派科学者を数人、選んで、その一人一人の節も、もっと加筆して増やしましょうか? 「○○博士による非主流派科学のオーラ研究」という節を五、六節、増やしましょうか? そうすれば記事全体の分量が増えるから、バランスが取れます。当然その場合、ハント博士の記事の分量は現状のままです。これで、いいですね?
第七の論点です。
ウィキペデイアの編集方針は記事に特筆性があるかどうか、を問題にしています。では、ハント博士の記事に特筆性はあるのか? 私は「ある」と主張します。
ハント博士は博士号を持つ科学者であり、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の名誉教授です。これほどアカデミックな権威を背負った科学者が、「オーラの実在を証明した」という論文を発表したのです。科学の歴史において、もっとも特異な実例です。これが第一の特筆性です。
ハント博士の研究は、主流派から無視され続けてきました。しかし、この点こそが、もっとも重要であり、第二の特筆性なのです。何しろ第三者による検証実験が一度も行われていないのです。ただの一度もです。なぜですか?
答えは「主流派が検証実験から露骨に逃げ回っているから」です。やがて時間が経過すると主流派は逃げ回っていたことも忘れたのでしょう。やがて忘れたことも忘れたのでしょう。まるで認知症患者を演じているうちに、本当の認知症患者になってしまったようです。
私に言わせれば、主流派には誠意や誠実さがありません。まったく信頼できない人たちです。
現時点では、ハント博士を批判する理由がありません。批判されるべきは主流派の怠慢です。検証実験すら行わない怠慢さこそが強く強く批判されるべきです。つまり、あなたの怠慢のことです。この異常な事態には特筆性があります。
「STAP細胞」は数え切れないほど検証実験が行われました。本来なら、そうあるべきです。「STAP細胞」の検証実験の回数の多さと「ハント博士のオーラ研究」の検証実験の回数がゼロであることを比較すれば、どれだけ異常な事態が起きているか分かるはずです。この異常な事態には特筆性があります。
第八の論点です。
あなたは本気でハント博士の研究成果を否定したいのですか? ならば、あなたが自腹を切って資金を出して、検証実験を行えばいいのです。それで決着がつきます。どんな結果になるにせよ、私との論争は終わります。
検証実験には「オーラ肯定派の立会人」が必要です。否定派が実験データを捏造するのを防止するためです。
さあ、論争の再開です! 私は八点の論点を出しました。一つ一つに反論を書いてください。露骨に逃げ回ったら、第×点が、あなたの弱点だと、すぐ分かります。
追加。
私が、あなたに要求した謝罪は、どうなったのですか?
謝罪する気があるのなら、「悪魔の証明」節に書いてください。謝罪する気がないのなら、それでも構いません。私が正当な理由で謝罪を要求したのに、あなたは露骨に逃げ回ったことになります。その事実が、このページに記録されます。--Kattsu-x-men(会話) 2015年10月7日 (水) 13:06 (UTC)
ページの保護について
やまさきなつこ氏に反論を書きます。 ページ保護依頼を出したようですね。論争が起きているから、第三者の介入も必要でしょう。むしろ望むところです。 しかし、あなたの書いた保護依頼の文章は、事実無根で、あなたが勝手に捏造した主張になっています。
ウィキペディアのルールより自分の常識のほうが上という主張のもと、
これは事実無根の主張です。私は「社会人の常識」という言葉を使いました。また「法律やルールには上位、下位、適用除外がある」と書きました。それらの論点を、あなたの独断で「なかったこと」に変えています。
独自研究の執筆が繰り返し行われているため。
事実無根です。私はヴァレリー・ハント博士の研究成果を記事にしたのです。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の名誉教授です。独自研究ではありません。
独自の理屈でノートで謝罪を要求したり、
事実無根です。あなたはウィキペデイアの編集方針を盾にして、私に「悪魔の証明」を要求したのです。「ないものをないと証明しろ。不可能なことを証明しろ」と要求したのです。あなた自身も、それを要求されたら、「悪魔の証明だから不可能だ」と反論するはずです。
しかも、ノートのページで私が、それを指摘したら、あなたは不承不承ですが「イエス」と答えました。あなたも「自分に非がある」と認めたのです。ですから、あなたが謝罪するのは当然です。
それなのに、あなたは「自分に非がある、と認めた過去の事実」を、なかったことにしたのです。事実でないことを書くのは、やめてください。
当時の私と、あなたの論争をコピーします。
(以下、コピー --Kattsu-x-men(会話) 2015年9月10日 (木) 02:20 (UTC) これの最初の文章)
>私自身は出典のない文章や独自研究は書かないように気を付けており、あなたに悪魔の証明を要求したつもりもありませんので、あなたの質問に回答する必要性を感じず流してしまっていましたが、そのようにお答えすべきでしたね。
A。つまり、こうですね? 「質問に「イエス」と答えます」 単純に、こう書けばいいだけなのことなんですが。もちろん、これは以下の質問に対する答えのことですね。
> 「あなたも自分が同じことを要求されたら「悪魔の証明だから不可能だ」と反論するはずです。あなたは自分が、できないことを相手に要求したのです。こんな礼儀知らずの人間と出会ったら、あなたは許せますか? 」
3回も質問して、やっと答えが返ってきました。ああ、長かった。これで、ようやく話が噛み合ってきました。では、続けましょう。
(コピー、終わり)
ルールを説明してくれた方の説得も無視しており、
事実無根です。私は無視していません。私は反論を書いたのです。それなのに、あなたたちは反論もせず、「はい」も「いいえ」も書かずに無視し続けました。今も私は無視され続けています。
「悪魔の証明」節で、私の最後の署名の日付を見てください。2015年9月12日です。私が何日、無視され続けたか数えてください。
「Wikipedia:論争の解決」の前文をコピーします。
編集合戦が起きた場合は、すぐに中断してください。 編集合戦を見かけた場合、当事者にそれ以上の編集をやめるよう呼びかけ、ノートで議論するようにさせてください。
以上のコピーのとおり、ウィキペデイアの編集方針もノートでの議論を呼びかけています。だから、私と議論する以外に解決方法はないのです。保護依頼も保護も、有限の時間稼ぎであって解決方法ではないのです。ウィキペデイアの編集方針にも、そう書いてあります。
ページ保護を執行する方々へ、お願いします。どちらが議論を無視し続けているのかを社会人の常識で判断してください。そして、やまさきなつこ氏に「無視しないでノートのページで議論を続ける」ように説得してください。
やまさきなつこ氏は保護依頼を出した件も、ここのノートのページに私への通告すら書いてくれませんでした。無視されているのは私です。一言、断るのが社会人の礼儀でしょう。もう少しで見逃すところでした。
もし、やまさきなつこ氏が保護依頼を出しておきながら、依然として本人は議論に応じない状態が続いたら、どちらに非があるかは明白です。やまさきなつこ氏は時間稼ぎだけをして、結論を出さないまま逃げ続けるつもりでしょう。
たぶんページ保護のルールを悪用するつもりでしょう。自分に都合のいい記事を一時保護させたまま、議論はしないまま逃げ続けるつもりでしょう。先に保護依頼を出して、あとは逃げ続けるとしたら、誠意も誠実さもありません。
もし、そうなった場合は、ページ保護を執行する方々は、やまさきなつこ氏からの保護依頼を受け付けないよう、お願いします。
やまさきなつこ氏は私と議論してください。保護依頼も保護も、有限の時間稼ぎであって解決方法ではないのです。
--Kattsu-x-men(会話) 2015年10月10日 (土) 12:28 (UTC)
- まずバレリー・ハントに関する加筆ですが、すでにTrcaさんが「Wikipedia:検証可能性はウィキペディアの基本方針であり。「適用除外」は原則としてありません。多くの専門家が重要であるとみなしているにも関わらず検証されていない研究があれば、通常は研究史をまとめた総説や書籍においてそのように書かれているはずですから、そのような情報源を参照してください。」と説明があり、何度も同じ説明をする必要はないと考えました。しかしKattsu-x-menさんがこの基本ルールをご理解されていないようですので、繰り返しになってもご説明申し上げるべきでしたね。非常にわかりやすくご説明いただいていたので必要ないかと思っていましたが、もう一度申し上げます。ウィキペディアにおいて、基本方針の適用除外はありません。また出典の付け方もテンプレートを用いるなどルールに従ってください。ページ保護についてはこちらでお知らせすべきで、その点は謝罪いたします。このページは他人の非を糾弾し謝罪を要求する場ではなく、あくまで「オーラ」の記事の改善について議論する場です。これ以上謝る謝らないという話をされたいのでしたら、このノートページではなく、私の会話ページにでもいらしてください。そのほうがほかの方に迷惑にならないでしょう。あまりに書き込まれる量が多いので、論点を把握することすら難しくなってしまっています。--やまさきなつこ(会話) 2015年10月11日 (日) 00:57 (UTC)
やまさきなつこ氏に反論を書きます。
まず 2015年10月11日 (日) 00:57 (UTC) の文章を論点ごとに分かりやすく分割します。というのは、あなたが論点を混在させて、混乱させるような文章を書いているからです。
まずバレリー・ハントに関する加筆ですが、すでにTrcaさんが「Wikipedia:検証可能性はウィキペディアの基本方針であり。「適用除外」は原則としてありません。
回答。これは「悪魔の証明について」節の論点なので、そちらに回答を書きます。
多くの専門家が重要であるとみなしているにも関わらず検証されていない研究があれば、通常は研究史をまとめた総説や書籍においてそのように書かれているはずですから、そのような情報源を参照してください。」と説明があり、何度も同じ説明をする必要はないと考えました。しかしKattsu-x-menさんがこの基本ルールをご理解されていないようですので、繰り返しになってもご説明申し上げるべきでしたね。
回答。これは2015年10月7日 (水) 13:06 (UTC)の節、『「オーラと科学的アプローチ」節を改題し、「オーラ・非主流派科学のアプローチ」節としました。その他。』の節に八点の論点を書きました。
特に第七の論点、「特筆性」です。これが回答です。
非常にわかりやすくご説明いただいていたので必要ないかと思っていましたが、もう一度申し上げます。ウィキペディアにおいて、基本方針の適用除外はありません。
回答。これは「悪魔の証明について」節の論点なので、そちらに回答を書きます。
また出典の付け方もテンプレートを用いるなどルールに従ってください。
回答。調べて対応しておきます。
ページ保護についてはこちらでお知らせすべきで、その点は謝罪いたします。
回答。謝罪を受け入れます。
このページは他人の非を糾弾し謝罪を要求する場ではなく、あくまで「オーラ」の記事の改善について議論する場です。これ以上謝る謝らないという話をされたいのでしたら、このノートページではなく、私の会話ページにでもいらしてください。そのほうがほかの方に迷惑にならないでしょう。
回答。私は、以下の文章を書きました。
謝罪する気があるのなら、「悪魔の証明」節に書いてください。謝罪する気がないのなら、それでも構いません。私が正当な理由で謝罪を要求したのに、あなたは露骨に逃げ回ったことになります。その事実が、このページに記録されます。 2015年10月7日 (水) 13:06 (UTC)
あなたが「悪魔の証明を要求してきた件」で、あなたには謝罪する気がない、と分かりました。それでも構いません。すでに、そう書いたとおりです。
以下、個人攻撃と解釈される発言をコメントアウト
--Kattsu-x-men(会話) 2015年10月13日 (火) 14:10 (UTC)
- 「ヴァレリー・ハント博士による非主流派科学のオーラ研究」の記事を復活させることには同意できません。当事者による文献でない、第三者による客観的な評価が出典についていません。復活させるのなら、客観的な出典を付け、そのうえで過剰な分量にならないよう、オーラ研究における重要度の軽重に従い内容量を修正してください。以前の内容での復活は、まったくの不適当です。また、勝手に「オーラ・非主流派科学のアプローチ」と節の趣旨を変更されていますが、ここでいう科学とは、科学の手法によるということで、科学において主流か非主流かは論点ではありません。あなたの節の改名は不適当であり、ヴァレリー・ハントの記事を復活させることが目的の恣意的なものです。またここは、勝った人間の言うことが通るという場ではありません。勝ち負けなどという無意味な基準は捨ててください。ここは、記事の改善を目的とするノートページで、勝ち負けを競う場ではありません。記事の内容がよくなればそれでいいのです。お望みなら「負けた」と言って差し上げてもいいですが、それが何になるというのでしょう?わたしはあなたに勝つか負けるかといった些末なことに興味はありません。また謝罪についてですが、「悪魔の証明を要求をした」ということで謝罪しろとおっしゃっているのでしょうか?他の方が、その理解が間違っていると十分にわかりやすく説明してくれているのですが、ご理解いただけていなかったのでしょうか?それともほかの何かですか?どちらにせよ、謝る謝らないという記事の改善にかかわらないことを続ける場合は、場を移してください。現時点では、謝罪の必要性は感じていません。また、人の本音を根拠なく推測することもおやめください。失礼です。あなたが望む加筆に必要な信頼できる情報源を示されない限り、議論は進展しないものとお心得ください。それまで必要がなければノートで返事は致しません。資料が見つかることをお祈り申し上げます。--やまさきなつこ(会話) 2015年10月13日 (火) 14:54 (UTC)
- 個人攻撃となる発言をコメントアウトで対処しました。冷静に議論を進めていただきますようお願いします。--Katota1114(会話) 2015年10月14日 (水) 11:23 (UTC)
私の発言が個人攻撃と判断されたとのことです。それでしたら、やまさきなつこ氏に謝罪します。申し訳ありませんでした。
残念ながら、私は仕事もプライベートも忙しくなってきました。論争は一度、休止にします。3年後ぐらいに戻ってくるでしょう。
新しい節を二つ、作ったので読んでください。
--Kattsu-x-men(会話) 2015年10月17日 (土) 01:30 (UTC)
「宿題。ウィキペデイアの項目に、すでに適用除外が存在する件について」
「Wikipedia:独立記事作成の目安」によれば、「(独立記事の)特筆性は客観的な証明を必要とする」、とあります。しかし、そうなると「現時点でオーラの実在は客観的に証明されていない」という現実は、どうなるのでしょう? ウィキペデイアの編集方針にとって最大の矛盾に突き当たっているわけです!
「現時点でオーラの実在は客観的に証明されていない」 これだと「特筆性の客観的な証明」は、あるのか、ないのか? どっちですか?
現在「オーラの独立記事」は存在し続けています。しかし、「オーラの独立記事そのものを削除しろ」なんて誰も主張しないのです。これは大矛盾です。
常識的に考えると、「オーラの独立記事」とは「人々が、オーラを、どうイメージしてきたか。どう考察してきたか」を書くだけの記事です。現時点では、そういう「怪しい言説」しか書きようがないのです。
つまり、「オーラの独立記事」とは「内容の、すべてが怪しい言説だけを書いた記事」になるしかありません。こういう特殊な性質の記事なのに、例外的な存在として、ウィキペデイアの編集方針も黙認せざるを得なかったのでしょう。
ここに「事実上の適用除外」が発生しています!!
人間の行動や言動なんて、この程度です。「適用除外」を次から次へと発生させてしまうから、止めようがないのです。
しかも、誰も気づいていなかった大失態です。これこそが今回の論争を複雑化させた原因です。
質問します。あなたたちの目の前にある「オーラの項目」は何ですか? これは適用除外の醜悪な実例です。このダブル・スタンダード(二重基準)の現実を、どう釈明するのですか?
一方、「オーラを研究する非主流派科学者たちは実在するか?」と質問したら、「実在する」という答えになります。「非主流派科学者による、オーラ研究の論文は実在するか?」と質問したら、やはり「実在する」という答えになります。
これは「オーラ実在/非実在のテーマ」とは別個のテーマです。「実在する非主流派科学者が書いた、実在するオーラ研究の論文のテーマ」です。だから、出典によって実在を客観的に証明できる文献です。
その上で「非主流派科学者たちが、オーラを、どうイメージしてきたか。どう考察してきたか。どう研究してきたか」という記事を書くことになります。ただし現時点では、これらも「怪しい言説」です。つまり、「怪しい言説の大きな項目の中に、怪しい言説の小さい節」として書くことになります。
過去、ウィキペデイアの編集方針は「オーラの独立記事」という「怪しい言説の大きい項目」を黙認せざるを得なかったのです。「怪しい言説の小さい節」も黙認するのが当然でしょう。
2011年、私は、ここに「怪しい言説の小さい節」を追加したのです。なのに今になって、それを禁止するですって? 過去の「怪しい言説の大きい項目への黙認」と今回の「小さい節への禁止」とは矛盾しているし、合理的ではないし、恣意的です。
「怪しい言説の大きい項目への適用除外を認めること」と「小さい節への適用除外を認めないこと」とを、どうやって両立させているのですか?
私としては「怪しい言説の大きい項目への適用除外を認めている」のなら、「小さい節への適用除外も認めるべきだ」と主張します。ダブル・スタンダード(二重基準)は、やめていただきたい。元々、オーラの項目は「すべてが怪しい言説」です。だから、非主流派科学という「怪しい言説」も全面的に認めていただきたい。
「オーラ」のような「怪しい言説」を記事にするのなら「清濁併せ呑む」という広い度量が必要です。「毒を食らわば皿まで」の覚悟が必要です。「非主流派科学」の節を大幅に増やすことを受け入れるべきです。
もしくは逆方向へ転進して、ウィキペデイアの編集方針に大きな改訂を行ってほしいです。たとえば以下のとおりです。
「現時点でオーラの実在は客観的に証明されていない」「だから、特筆性の客観的な証明は、ない」「だから、オーラの項目や、それに類似する項目は削除する。それらは一切、存在を認めない」
それだったら私も完全に撤退できます。しかし、現在のように「怪しい言説の大きい項目への適用除外を認めること」と「小さい節への適用除外を認めないこと」とを混在させるのは納得できません。
繰り返し、質問します。あなたたちの目の前にある「オーラの項目」は何ですか? これは適用除外の醜悪な実例です。このダブル・スタンダード(二重基準)の現実を、どう釈明するのですか?
残念ながら、私は仕事もプライベートも忙しくなってきました。論争は一度、休止にします。3年後ぐらいに戻ってくるでしょう。次回、議論を始める時の宿題を残していきます。
3年後も「オーラの項目」が存在していたら、私は、それをどう判断するべきですか?
--Kattsu-x-men(会話) 2015年10月17日 (土) 01:47 (UTC)
- ウィキペディアは科学事典ではなく、百科事典です。天動説や天使、オーラや水からの伝言のような哲学や神学、疑似科学や否定された学説であっても、人文系の重要な概念、社会において影響があったもしくは重要であったものはむろん掲載されます。あらゆる科目が含まれる「百科」ですので。問題なのは、疑似科学を科学に偽装して掲載することで、疑似科学を疑似科学として掲載することは禁止されていません。ですので、何も判断される必要はありません。矛盾も問題もありませんので。オーラの記事の現状も、科学であると誤認させるような内容にはなっていません。すでに清濁併せ持つといっていいものでしょう。
- 3年後に戻ってこられるとのことですが、ご自分が望むように議論を進めるたいのでしたら、ウィキペディアの方針を変更されてから、もう一度問題提起してください。基本方針の変更を提案し、議論し、合意までこぎつけ、発布し、運用し、そのうえでもう一度提案しください。すべての方針は、そうやって参加者が形成してきたもので、あなたもお客様ではなく参加者なのです。有言不実行では、3年たっても同じことの繰り返しにしかならないでしょう。本当に現状に問題を感じ、そうあるべきという理想があるなら、放言するのではなく、有言実行、初志貫徹されることを望みます。科学的アプローチの加筆が必要だと思うのなら、人にやれというのではなく自分でするべきなのです。。理想はルールを守り、自らの手で実現してください。--やまさきなつこ(会話) 2015年10月17日 (土) 14:11 (UTC)