ノート:ナザレのイエス/過去ログ1
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記述内容について
[編集]このような古代の人物に関しては、立場を問わない多様な「議論」が予想されると思います。ですから可能な限り一般的に広く受け入れられている「イエス像」に従ってこの項では書くのが「ベスト」ではないでしょうか。高校の倫理の教科書に載っている程度の当たり障りのない文末表記が望ましいのではないでしょうか。
私も可能な限り批判的立場に立っていると自覚していますが、「復活は別のことを言っている」「昇天は神話」と「言い切って」しまって、「いいのかなあ」と思います。せめて「福音書によれば復活したと"される"」「福音書や教会の言い伝えによれば昇天したと"伝えられて"いる」位にとどめるのがベストではないでしょうか? 「される」や「伝えられている」ということは事実であり、「復活は"嘘"だと思われる」などという「近代的な評価」は一切加わっていませんから。
つまり、逆説的な言い方ですが「いわゆるファンダメンタル」な人も見て「納得」できるとする書き方のほうがベストと思います。聖書学者である荒井、田川、大貫各氏の見解をご存知の方は物足りないかもしれませんが(当然のことながら、聖書学者はその三氏だけではありませんが)、それこそそれらの個々の「伝えられている」を「イエスの歴史像」を文献学的に批判した「結果」というのは「史的イエス」の項の問題ではないでしょうか。したがって、「復活は別のことを言っている」「昇天は神話」「空の墓だけ史実」云々の聖書学者の見解は、「史的イエス」への移行を検討してみてはいかがでしょうか? 「史的イエス」の項こそ、個々の聖書学者の見解を異論反論ごとに整理してそういう「実像について学問上の問題となる箇所」を列挙しておく場としてふさわしいかと思います。--以上の署名のないコメントは、203.136.149.2(会話/Whois)さんが 2008年8月27日 (水) 05:23 (UTC) に投稿したものです。
- 僕も賛成です。このような、高度な学術的研究は「史的イエス」の項目で記述されるべきだと思います。僕は歴史の教科書で習う程度のイエスを記述することがまず一番に来るべきだと思っています。僕はWikipediaはいろいろな人に読まれる百科事典であってほしいと思っていますから。
- イエスの項目を参照するのは、けっして「イエスについてとことん知りたい!」というようなひとばかりではないでしょう。「キリストなんて特に関心ないけど、歴史の勉強で、調べないと・・・」というひともたくさんいると思います。もちろん「キリスト教原理主義」的な人も見るでしょうし。
- 特に熱心に極めたいとは思ってない、ふつうのひとが見れて、なおかつ熱心な信者さんも「一応、間違ってはないな」と納得できるような記述が大事だと思います。どう考えても、ふつうの人には「イエスって、キリスト教の開祖でしょ」という認識が一般的でしょう。(僕も学校でそう習いました)
- 田川さんのような「キリストは宗教を否定した!」というところまでいく、パワフルな思想もアリでしょうが、あくまで大多数の意見とはならないと思います。
- 僕にとっては、熱心なキリスト教信者さんも「まっ別にいいか」といえる程度に客観的な記述がベストだと感じます。--Ointment2 2009年5月2日 (土)
コメント 私は一キリスト教徒ですが、キリスト教の成立過程の概要を調べる必要が生じ調査する中、Wikipedia内リンクから本記事にたどり着きました。記事にいくつかの不備を感じ、編集したいと思ったのですが、ノートを見る限りかなり論戦が激しいようなので、即刻直す箇所と意図、今後直したい箇所と指摘したい論点、編集者の方々にご意見を伺いたい点について、こちらに書かせていただきます。私が熟読した範囲は1.から4.までで、5.現代の主要な研究以降の項については未照査です。その範囲において、上記コメントについて言えば、以下が解決されれば、熱心とはいえないキリスト教徒の一個人の見解ですが「まっ別にいいか」といえる程度の記事になろうかと存じます。
・生涯 誕生 の項 「ローマ帝国の方針と一致しないが、」の記述
住民登録はあくまで人頭税の確保が目的であり、ローマ皇帝が民衆に出身地に帰らせるといった経済を疲弊させる手法を命じたとは考えにくい、という話は伝聞していますが、私の手元に出典となり得るようなものがありません。この部分だけ記述を削っても問題ないと思われますが、私個人としても出典を知りたい箇所でもあります。
- 腹案 暫く探して出典が見つからなければ編集削除します。
・生涯 公生活 イエスの教え の項 「「山上の垂訓」で始まるイエスの教えは隣人愛を語っている。」の記述
隣人愛と集約できるかは甚だ疑問です。また、ナザレのイエス=史的イエスを記述する際に、彼の教えを一言で集約しなければならない必要性もありません。さらに出典としている文献の著者である田川の説とも食い違うのではないかとこのノート内で議論されているようですので、要編集と考えます。
なお、項目「イエスの教え」の存否も議論されていますが、イエスの教えとして「山上の垂訓」を「ナザレのイエス」で取り上げるにことついては、当該部分はマタイ・ルカ両者の描写の一致度が高く、高等批評においてもQ資料の存在を窺わせる論拠になっている箇所でもありますので、積極的に排斥すべきものではないと考えます。ナザレのイエスの叙述にあたって伝聞されている彼の思想について全く書かないのは均衡を欠くでしょう。思想家・宗教家を叙述するうえでその思想は中核をなすものと言ってよいと思います。ナザレのイエスの思想を示すものとしては、他の箇所を持ち出す方が却って史的イエスと信仰的イエス・キリスト像との峻別を困難にするのではないかと思います。「山上の垂訓」を題材にナザレのイエスの思想を簡潔に書き、その上で「山上の垂訓」を創作とする説があれば出典をもって記述すればよいと考えます。
(マタイでは山上、ルカでは平地での説教として記述されていますが慣用的呼称に準じたいと考えています)
・また、同項末尾の出典例示(マタイ 5:17-19)は、記事マタイによる福音書によれば、当該箇所の記述は『マタイによる福音書』の著者が最も意図したところと見做されており(Wikipedia内参照で申し訳ありません)、著者による創作である蓋然性が高いことから、ナザレのイエスの思想の出典とするには中立性を欠いていると思います。よって、差し当たり、共観福音書共通の(マタイ 22:34-40、マルコ 12:28-34、ルカ 10:25-28)に代替します。
「史的イエス」問題の発生 の項
五つの福音書の福音記者の括弧書き注釈において、「史的イエス」を扱う文中なのにキリスト教の伝統的解釈による著者名(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、トマス)を挙げるのは相応しくない。
- 注釈内容を高等批評に委ねます。
・「史的イエス」の復元 復元の根拠となる資料 の項
結局「史的イエス」の解明には福音書、なかんずく『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』の3福音書が最も重要だということになる。
の記述と、
「史的イエス」の復元 史料批判における諸問題 の項の
厳密な資料としての信頼性は低い。
との間の記述の整合がよくありません。差し当たり、「その資料としての信頼性は限定的である」とします。
・革命家イエス の項
イエスを政治的文脈でとらえようとする著作の列挙に対し、反論の扱いが小さく、また、「イエスの宗教批判がユダヤ教指導者の間で脅威となり、ローマ帝国に政治犯として訴えられ、十字架刑に処された」という筋書きが前段で書かれることの許される程度に事実である蓋然性が高いのであれば、そのままの文脈として史的イエスを見る見方が併記されてよいのではないか、という印象を受けたのですが、これについては私の主観によるところが大きいことを自認していますので、ご意見を頂ければ、と思っています。--ジャコウネズミ 2012年1月28日 (土) 10:50 (UTC) -- 追記--ジャコウネズミ 2012年1月28日 (土) 12:32 (UTC)
User:Ointment の編集のrevert
[編集]利用者:Ointment(会話 / 投稿記録)氏により、この記事は勝手に書き換えられましたが、Ointment氏の編集は、出典のある記述を大幅に勝手に削除し、かつ、根拠が示されていない(出典のない)勝手な記述を加えるというもので、これはWikipedia:荒らしに相当する行為です。一旦リヴァートしましたが、再度もとに戻されたため、しばらく様子を見ていましたが、どなたもこのような暴挙を元に修正する方がいませんので、リヴァート(及び、タルムードの追加)を行います。大量の削除や独自の見解というのは、次の差分を見れば分かります。このような大量の削除は、荒らしに他ありません。いま一度、この方あるいは別の方が、元に戻すようなことをされた場合、「荒らし」行為として、投稿ブロックを依頼します。--Stella maris 2009年4月24日 (金) 12:55 (UTC)
根拠のない、独自の見解や編集の例としては、元の文章では、「地中海世界全域にキリスト教は広がり、ナザレのイエスは、救世主イエス・キリストとして知られるようになる。」とあったものを、「地中海世界全域にイエスの教えはキリスト教として広がり、ナザレのイエスは、救世主イエス・キリストとして知られるようになる。」というものがあります(強調 par Stella maris)。キリスト教の基本教義や原始キリスト教の教えは、イエス自身の教えや思想とは違っていたというのは、今日廣く認められています。原始キリスト教・キリスト教の教えは、むしろパウロスの思想・教えがメインにあるというのが一般に認められている考えです。イエス自身のオリジナルな教えは何であったのか、「よく分からない」というのが新約聖書学の史的イエスでの結論です。また、古代ユダヤ教の文書として、死海文書を勝手に削除していることも、独自の見解による編集、「荒らし行為」になります。死海文書は、史的イエス研究において、大きな意味を持った写本であったということは、今日一般に認められていることです。--Stella maris 2009年4月24日 (金) 12:55 (UTC)
- 一つ疑問なのですが、漠然と「一般」と繰り返しておいでですが、「一般」とは誰を指しておいでですか? --Kliment A.K. 2009年4月24日 (金) 13:00 (UTC)
- あまりにも「あたりまえ」なことは出典の必要がないという原則もあります。これは「ナザレのイエス」の記事ですから、史的イエスの研究において、一般的に前提とされる文献に、『死海文書』や『ナグ・ハマディ文書』が入るということは、「あたりまえ」のことだと考えますが。Kliment A.K.氏は、「漠然」としているとお考えでしょうか? 史的イエス研究の基本資料として、『死海文書』は扱われているというのは、史的イエスについて多少とも調べたことがある人なら、自明のことだと思います。わたしは主として、荒井献氏の著作を元にしていますが、荒井氏も、『死海文書』を史的イエス研究の文献として考えていますが(著作に記しています)、これでは不十分でしょうか。--Stella maris 2009年4月24日 (金) 13:15 (UTC)
Ointmentです。こちらとしては、別に荒らしを目的として編集したわけではありません。不確かで煩雑な記述があまりに多かったので、記述を簡略化したまでのことです。典拠史料については、「イエスについてに言及しているか」という基準で、死海文書を項目から削除しました。あくまで「イエスへの言及」を考慮したので、グノーシス文書は外しませんでした。そのうえで、タルムードを追加したのです。タルムードの追加については、取り入れていただいてありがとうございます。
私は死海文書などについては、詳しいことは存じませんが、『死海文書』や『ナグ・ハマディ文書』に、「イエスについての言及」はあるのでしょうか? なければ、それは「典拠資料」ではなくて、「関連資料」とすべきではないですか? パウロ独自の思想がキリスト教に取り入れられたのは知っていますし、それをイエスの教えと区別すべきなのはわかっています。しかし、”イエス自身のオリジナルな教えは何であったのか、「よく分からない」”というのは、本当ですか? マルコ・マタイ・ルカの共観福音書から、かなりの部分、イエスの教えを再現することは可能ではないですか? イエスとエッセネ派との関連も、福音書の「最後の晩餐」の記述から明確に指摘できます。この三つの福音書より信頼できる資料は存在しないと思いますが。荒井氏は、キリスト教とはまったく異なる教義を持つグノーシス文書のトマス福音書まで、「史的イエスの復元」に用いているようですが、私個人としては、かなり偏った観点からイエス像を復元しようとしている学者だと思っています。
史的イエスの復元を考える上で、エッセネ派も重要ですが、より関連が強いのはハシディーム(敬虔派)の方でしょう。うろ覚えですが、イエスの弟も確かハシディームだったはずです。--利用者:Ointment2 2009年4月29日 (水)
- まず、貴方は誰ですか? 「Ointomentです」とか書いていますが、署名は「Ointoment2」ではないですか。また、履歴から見ても、Ointment2 であり、この発言が目下唯一の編集です。
- この記事は、史的イエスの研究の結果から出てくる歴史学的にみたイエスの像の記事です。典拠文書として、明記するのを忘れていたものとして、『旧約聖書』やその外典、ユダヤの「智慧文学文書」などがありました。それはまた補うとして、一つ述べたいことは、あなたは、記事の主題について基本的な知識や視野を持っていないと云うことが云えます。例えば、「受難物語」は歴史的に実在が疑わしく、創作だというのが史的イエスの研究から出てきた結果です。「最後の晩餐」などは、存在しなかったというのが史的イエス研究でのおおかたの意見です。
- 『福音書』の記述は、歴史的史料としてほとんど信頼が置けません。主に二つの方向で問題があります。一つは、明らかに、過去や当時のユダヤ教の考えに合わせて福音書の記述がなされていること。例えば、『イザヤ書』の「苦しむ義人」の姿や生涯がイエスに投影されているということは史的イエスの研究では一般に認められています。またイエスの言葉だとされるものに、「智慧文学」ですでに語られていた言葉が多く見つかっています。イエスが智慧文学での言葉を引用したのか、福音書記者が挿入したのか不明ですが、少なくともオリジナル史料としては疑わしくなります。十字架上での死の直前に云った「我が神、我が神、なにゆえ、我を見捨てたまうのか」という言葉は、『詩篇』にある有名な句だということも知られています。
- もう一つの方向は、原始キリスト教会の教義や、儀礼や、教会の立場を正当化するために造話され、また挿入されたと想定される話や言葉です。その例が「最後の晩餐」で、これは原始キリスト教の「パンと葡萄酒の儀礼」を根拠付けるために書かれているというのがやはり史的イエスの研究での主流な解釈です。
- 『共観福音書』の記録を元にすれば、史的イエスの思想が復元できるなどというのはあまりに素朴で時代錯誤な考えです。そもそも、復元が不可能だと云うことが分かったことが、史的イエスの研究で更に福音書の成立過程について複数の説が生まれた一つの理由です。つまり、あなたは「まったく何も分かっておられない」。バートン・L・マックはかなりな確信を持って、『Q資料』の真正性を主張し、そのオリジナルな形まで復元し、各福音書の成立過程はすでに明らかとなっていると著書のなかで断言していますが、これはマックの意見です。無論、無視してよいことにはなりませんが、マックの考えに反対する新約聖書学者もおり、必ずしも、マックの学説がそのまま受け入れられている訳でもありません。
- 何にしても、例えば、天使とか冥府などは、新ユダヤ思想とされ、紀元前数世紀の頃からユダヤ教に現れたもので、あなたの云われる「敬虔主義」もユダヤ教内の思想動向として、智慧文学などと同様に現れたものです。これらを無視してよいとはわたしは云っていませんし考えてもいません。しかし、ここまでの記述で幾分か説明したつもりなのですが、史的イエスや歴史学的なイエス像の問題は、あなたが考えている以上に遙かに難しく、また「答え」がほとんどないのが実情です。
- あなたに知識や思考の広がりがなかったとしても、出典のある記事を勝手に大量に削り(それも主観的理由に基づき)、根拠もない記述を勝手に書き加えた行為は、Wikipedia:荒らしに相当します。検証可能性などのガイドラインをよく読んで頂きたく思います。--Stella maris 2009年4月29日 (水) 13:08 (UTC)
- なお、わたしとしては、『イエスという男』などの著者である田川健三氏の描くイエス像について加筆してくださる方を期待しています。無論、田川氏に限りませんが、でたらめな本が多数流布しているので、この二人が参考書としてあげているほどの書籍でないと参考文献としては不適切です。その場合、記事のバランスや構成は十分に考えてください。
- また、気づいていない方が多くいるかも知れませんが、現在の記事は、「イエスは何をしようとしたか・どういう思想であったか」について、「終末論を唱えた預言者」「差別に異議を唱えたラビ」「社会改革を目指した運動家」「宗教改革を唱えた知識人」「ローマからの独立を唱えた運動家」「実際に武装蜂起を計画していた人」「エリヤのような奇蹟を起こす超人」「ソクラテスのような説教や問答の達人」「律法を正しい形に導こうとしたラビ」「人間愛と心の豊かさで女性を中心に多くの人に頼られた助言者」「人間の幸福とは何かを思索し教えた思想家」等々、色々な像を記しており、どれが正解だとは書いていません。『福音書』からはこういうイエスの姿が出てくるのであり、中立性を維持するため、色々な像を並列して書いているのです。この点は重要です。また、科学である歴史学でのイエス像であるということも必須の条件です。--Stella maris 2009年4月29日 (水) 13:08 (UTC)
Stella marisさん、落ち着いて下さい。先走って誤解して頂きたくないのですが、私は死海文書の評価云々については一切申しておりません(またここで論じるつもりも一切ありません)。申しているのは「一般」という言葉の主体としての曖昧さです。Wikipedia:言葉を濁さないという原則もあります。私としましては主体をより明らかにし、ノートページにおける議論の中でも、「○○国の歴史学界で広く認められている」等といった、より主体として明らかな言葉に変更して頂きたいだけです。大した事は言っておりません。--Kliment A.K. 2009年4月29日 (水) 15:27 (UTC)
再度、Ointment2 編集のrevert
[編集]利用者:Ointment2(会話 / 投稿記録)さん、いい加減にしてください。次のリヴァートの差分を見てください。「典拠資料」というのは、歴史学的に研究される歴史的に実在したと考えられる「イエスの実像」の研究のための典拠史料です。例えば、『旧約聖書』を書き忘れたいたと上で述べていますが、何故『旧約聖書』が史的イエス研究の典拠史料となるのか理解されていますか?
簡単な例を挙げますと、例えば『イザヤ書』の存在があります。この複合書物がなかった場合、『福音書』に記されていることが、『イザヤ書』の描くある人物の像をなぞっていると云うことが分からなくなるのです。また、『イザヤ書』においてイエスは預言されていたという主張も成立しなくなります(こういう考えを「予型論」と云います)。あるいは『詩篇』のなかの有名な一編(それに限りませんが)、つまり「詩篇第22篇」ですが、この詩は冒頭が、「我が神、我が神、なにゆえ我を見捨てられるのか」という言葉で始まります。この詩があるので、イエスが十字架上で臨終の前に叫んだという「テエ・ムウ・テエ・ムウ、ヒナティ・メ・エンカテリペス(Thee mou, Thee mou, hinati me egkhatelipes?)」(『マタイ福音書』)という言葉の解釈に非常に幅が出てくるのです。このギリシア語の言葉だけでは、「神はわたしを見捨てられるのか?」という絶望しか読み取れません。それ以外の解釈をしようとしても原文が現にそうなっているというのは覆せません。しかし『詩篇22篇』を参照してこの言葉を見ると、イエスは「絶望」を叫んだのか、「神への信頼と帰依」を叫んだのか、後者の可能性が出てきます。
あるいは、イエスに何も言及がないとしても、ポンティウス・ピラトゥスという人物はどういう人物であったのか、という史料はまた重要な史料です。なぜなら、ピラトゥスはむしろ強権的で、ユダヤ人を弾圧することに何の躊躇もなかった残忍な男(あるいはローマ人らしい実際的な男)だと云うことが別の史料から出てくるのです。ピラトゥスがイエスの裁判において示した対応は、護教的な脚色つまり捏造の可能性がここから推論されるのです。当時は、ローマ帝国が支配していたため、ローマ総督がイエスの処刑に積極的であったという話は避ける必要があった。このように、あなたには興味のない、無関係と思える史料が、史的イエス研究においては大きな意味を持っているのです。考古学的史料の一つに、当時の十字架刑にかけられて死んだ男の遺骸があります。「十字架刑」とはどういうものだったのか、実証的な史料となりえるのです。
また「ナザレのイエス」はキリスト教の独占物ではないというのもあります。イスラム教の場合はともかく、他の宗教や思想や哲学に影響を与えています。グノーシス主義では「イエス・キリスト」ではないのです。キリスト教の教義や神話、また二千年にわたって築いてきた既存イメージをすべて捨てて、歴史的史料から虚心坦懐にナザレのイエスとはどういう人間であったのか、という歴史研究を行うのが史的イエスの探求で、この記事に関しては、キリスト教信徒の方は編集に加わらない方が望ましく、また生半可な既存イメージをもって、それに合わせるような編集をする人も避けて頂きたいというのがあります。
例えば、『新約聖書』特に『福音書』は何故コイネー・ギリシア語で書かれているのかというのは、非常に重要な問題なのです。その問題について略説していた部分をすべて削除したのは Ointment さんです。歴史的にイエスを研究するというとき、最大の史料である『福音書』がギリシア語で書かれており、しかも内容も描いているイエス像も異なる四つの福音書があるのです。釈迦牟尼やゾロアスターの場合は、彼らが使っていたとされる言語での教典が残っており、詩(ガーター/ガーサー)の部分は、釈迦やゾロアスターの実際に語った言葉を伝えているだろうとされています。イエスの場合、コイネーギリシア語を日常的に話していたはずがないので、『福音書』に書かれていることすべてについて、「Q資料」の問題のもう一つ前に、誰が翻訳をしたのか、その翻訳はどこまで正確なものだったのかという疑問が出てくるのです(「Q」を前提しない立場であっても、「誰が、どのように翻訳したのか」という問題は避けられません)。
わたしは別にそれほどの知識を持っている者ではなく、また中立的かというと、これは難しい問題だと思います。しかし、パンテラというローマの兵士がマリアを強姦し、こうしてできたのがイエスだなどと執拗に書き込んだ人や、キリスト教が喧伝したイエスのイメージなどから距離を置くことができない人よりは、幾らかましな編集者だとは思っています。--Stella maris 2009年4月30日 (木) 11:29 (UTC)
- なんか私の事は無視されているようですが…もう一言。
- >この記事に関しては、キリスト教信徒の方は編集に加わらない方が望ましく、
- これには反対ですね。キリスト教徒にバイアスがあるのと同様、非キリスト教徒にもバイアスがあります。信仰の無い人間の方が中立的なナザレのイエス像を構築出来るのだとしたら、ソ連やアルバニアなどでは素晴らしい研究がされていたのでしょう(仮定法)。無神論者のパンフでもなく、キリスト教徒による伝道書・啓蒙書でもない「事典」を作るのであれば、記事の目的と方向性を理解出来るかどうかだけが判断基準です。--Kliment A.K. 2009年4月30日 (木) 15:52 (UTC)
- こんにちは、Kliment A.K.様。
- わたしは貴方様を無視してはいないと思いますが。「一般に」が曖昧とのことなので、バートン・L・マックなどの名を提示し、具体的な話となるよう努力しております。
- ところで、わたしは、過去にアブデス・パンテラがマリアを強姦した、などと書いていた反宗教的な方(と思えます)のような編集も望ましくなく、また、記事の半分を削除してその理由も書かない方が、『共観福音書』を元にすれば、イエスの思想が復元できるというようなことを記されるので、反宗教の立場も、宗教に依拠しすぎる立場も、共に望ましくないとの趣旨で、「キリスト教信徒の方は……」と記しました。一般論ではなく、「この記事」の場合の中立性の確保が難しいという話でした。ところが、二つのことを記したにも拘わらず、一方の「キリスト教信徒の方」の文だけを引用されて、そこから或る意味、極論に誘導しているようにも見えます。また「記事の目的と方向性を理解出来るかどうか」……これは、実はわたしが述べていること、理想としていることなのですが、どこで、こういう誤読が生まれるのか疑問を抱きます。ご教示願いたくも思います。
- --Stella maris 2009年4月30日 (木) 22:38 (UTC)
- こんにちは、Kliment A.K.様。
- 御返事をありがとうございます。
- お気付きかどうか分りませんが、Stella marisさんに基本的に大きな異議は無いのです(もしあったら本文編集で対応しています)。あくまで「念のため」色々五月蝿く申して居るのだと理解して頂ければ幸甚です。「キリスト教徒は御遠慮を」のような極論は(私が誘導したのではなく、貴方様御自身の御言葉です)「将来に禍根を残さぬよう念のため」封じておきたいのです。大体、所謂「リベラル」と言われるキリスト教徒達の中には(私よりも遥かに貴方様の方が)御存知のように、優れた研究者が沢山います。ウィキペディア執筆者もまた然りでしょう。
- 片言隻句へのいちゃもんとはどうか受け取られませんよう。貴方様もお認めのように、本項目はデリケートな記事です。デリケートな記事には気をつけた物言いが要求されます。ですから細かい所に突っ込みを入れておりますが、それはあくまでStella marisさんに大きな異議があるからではなく(繰り返します、もし大きな異議があったら本文編集を行っています)、ノートでのやり取りにつき厳密な物言いをお願いしているだけだと御理解下さい。--Kliment A.K. 2009年5月1日 (金) 02:02 (UTC)
Stella marisさん、僕は{Unsigned-IPuser|203.136.149.2}さんの意見に賛同して、この項目の大幅な変更を行ったつもりです。僕自身は、「史的イエスを科学的かつ厳密に、どこまでも追及していく」というような興味はありません。「だいたいこうだったんじゃないのかな」という程度で十分だと思っています。個人的には「イエスはユダヤ教の律法の新解釈を示したラビ」という面が大きいと思います。(もちろん政治的な面もあったかもしれませんし)前島誠さんのように「イエスはハシディームだった」とする意見も信憑性が高いと、個人的に考えていますが、編集時には入れませんでした。万人が見れる項目づくりを目指したからです。Wikipediaはあくまで客観的な(いろんな立場の人がいちおう賛同できるという意味で)百科事典であってほしいと思っています。なので、「復活・昇天は神話である」という断定的な記述は避けてほしいのです。せっかく「史的イエス」という項目がある以上、実在しなかったという可能性も含めて、詳しい学説は、そこで詳述していただけないでしょうか。(ノート返答の記述は少し挑発的すぎたなと感じています。)
では、失礼します。--Ointment2 2009年5月2日 (土)
「典拠史料」という記述および、グノーシス文書を史料とすることについて
[編集]「典拠史料」という物言いは、「イエスの実在の”典拠”」という意味にとれますが、もしそうであるなら、イエスについての記述がないものは典拠史料に含めることはできないはずです。
もし、そうではなく、「史的イエスの研究史料」という意味なら、「典拠史料」という語は正しくありません。「研究史料」または「関連史料」とすべきでしょう。
Wikipediaの記述では「今日では、グノーシス主義をキリスト教とは別個の宗教思想であると考える立場が主流である。」(「グノーシス主義」2008年12月6日 (土) 09:11)とあります。史的イエスの思想からキリスト教が形成されたのは間違いありませんが、そのキリスト教文書である新約聖書を史的イエス像の復元に用いるのは何の問題も無いはずです。しかし、イエスの思想どころか、キリスト教ですらないグノーシスの宗教文書を史的イエス像の史料とするのは問題が多すぎます。
この「ナザレのイエス」の編集はStella marisさんが音頭をとってらっしゃるようですが、田川建三や荒井献などの著作のみを重視するのは、明らかに客観性に欠けます。特に田川氏はネット上では大変に人気のようですが、かれの学説はどのくらい支持されているのですか? かれの著作はかなりバイアスがつよく、まともに史的なイエス像を復元しようとするより、自分の「こうであってほしい」イエス像をもっぱら追求しているようにしか見えません。はっきり言って、猛烈に支持しているのは日本の、しかも一部の知識人的な人々だけでしょう。--Ointment2 2009年5月6日 (水)
返答
[編集]- 典拠資料。-そうですね。「研究資料」の方がより適切に思えますので訂正しました。ありがとうございます。
- グノーシス主義の記事にそのようなことを書いたのは、わたしのはずです。別の人が消して、再度誰かが書いたのかも知れませんが。以前は、user:Maris stellaを使っていました。わたしの会話ページを見ますと、Maris stella の名前で、Stella maris は、「わたしの別アカウントです」という風に記されているはずです。別に隠していた訳ではありません。なお、グノーシス主義や、原始キリスト教や、ヘレニズム時代の宗教的・思想的シュンクレティズム状態について、予備知識がないように思えます。わたしは、貴方にそのような知識を説明する必要を感じません。ご自分で読書などして、勉強してください。
- この記事は、「歴史の記事」です。宗教の記事ではありません。歴史学においては、奇蹟などを認めることはできません。従って、出典を付けなくとも、処女受胎やイエスの復活などは、神話なのです。それとも、キリスト教徒が「捏造した話」と書くのがよいのでしょうか。キリスト教の立場で考えるイエス・キリストの像は、イエス・キリストの記事などを見るなり編集してください。この記事は、上で述べていますように、「中立性の確保」がたいへん難しいのです。また、この記事は、荒井献氏の新書本一冊を元に書いているのでもありません。今回、荒井献氏と加藤隆氏の本について、ページを表示した出典を付けましたので、何が書かれているのか分からない場合は、記事の編集は差し控えてください。出典の付いた文章を削除するのは、荒らし行為になります。
--Stella maris 2009年11月15日 (日) 19:44 (UTC)
返答へ
[編集]- グノーシス主義の記事を書いたのがあなたであろうと、どなたであろうと、そんなことは知ったこっちゃありません。歴史上のイエスを研究する上でグノーシスの資料を用いるのは不適切ではないかといいたいのです。
- 歴史学という学問分野で処女受胎やイエスの復活を歴史的事実として認めろと言っているのではありません。「信者の残した史料には、そういう記述がある」というのが、どこが歴史学に反するのですか? 僕はクリスチャンではありませんし、奇跡が歴史的事実かどうかについても興味はありません。ただし、それを神話であると断定できる根拠がないにもかかわらず独断で記事を執筆するあなたの姿勢に反対しているのです。そのように述べる論拠なしに、「復活なんてありえないから、神話に決まっている」というのは、「単にあなたの個人的意見でしょ?」で終わってしまいます。仮にそのような見解に賛同する学者が何人いても同じです。覆すための論理的根拠を持たないからです。あと強調しておきますが、僕は復活などの奇跡を「歴史的事実である」と書いたことは一度もありません。
- 荒井献氏と加藤隆氏であろうと、論理的に道筋を付けて自説を述べてもらわないと、なんら説得力の無い、強引な自説開陳になります。「あの権威ある○○先生の著書にこうある」ではお話にもなりませんよ。あなたが脚注に「使徒行伝の記述である」などといって章節を示さない事から、あなたが参照したネタ本に、「使徒行伝によれば・・・」などと書いてあるのを、あなたが鵜呑みにして、資料で裏づけを取っていないとうのが、ありありと見えます。Stella marisさんはずいぶん知識が豊富なようですが、ただ概説書の内容ばかりを無批判に受け入れて、自分の頭でものを考えないのは、知識人ではありませんよ。
私はあなたの記述に「中立性の確保」などという高尚な意図が働いているとはとうてい思えません。「あなたのイエス像」以外認めたくないのでしたら、ご自身のウェブサイトなどでエッセーとして公開してください。 --Ointment2 2010年4月29日 (木) 02:35 (UTC)
- コメント この件に対しては既に結論が出ているか、争点となった記事の適正な記述への編集が済んでいるかもしれませんが、一例を挙げれば、ナザレのイエスの実在の証左とは別問題として、ケーゼマンの言う「霊的熱狂主義」の存在の証左にグノーシス文書は史料として重要な位置を占めていると考えられます。「霊的熱狂主義」が当時存在していなければ、それに対抗した文書を起稿する目的もなくなり、ケーゼマンの見方をもって福音書やパウロ書簡を批評することはできなくなります(コリントの信徒への手紙一の文中からも霊的熱狂主義の存在を読み取ることは可能ではありますが)。批評内容が変われば導き出される史的イエスのあり方も変わり得ます。史的イエスにまつわる研究資料として、グノーシス文書は少なくともこの意味で欠かすことはできません。--ジャコウネズミ 2012年1月28日 (土) 13:00 (UTC)
「良質な記事」か
[編集]本記事は、良質な記事とは全く思えず、再選考が必要だと思っておりますが、いかがでしょう。別にキリスト教の立場からの記述のみで良いとは申しませんが、現在の記事では「史的イエス」と二本立てにする意義に乏しい上に、仮説段階の話が大量に書かれ、中立的観点にも疑問があるような状況、「良質な記事」に相応しいとは思えません。いずれ正式な再選考の手続きに入らせて頂こうと考えております。--Kinno Angel 2010年4月3日 (土) 08:50 (UTC)
賛同
[編集]再選考をぜひお願いします。 --Ointment2 2010年4月29日 (木) 02:42 (UTC)
良質な記事の再選考にかけました
[編集]遅くなりましたが、良質な記事の再選考にかけさせて頂きました事を報告申し上げます。--Kinno Angel 2010年7月18日 (日) 15:16 (UTC)
「姦通の女」の部分の除去
[編集]「イエスの教え」節において、イエスの思想を説明・例証するものとしてヨハネによる福音書7.53-8.11の姦通の女の物語が示されていましたが、これを除去しました。
この物語は、当初のヨハネによる福音書には含まれておらず、後世の加筆であると考えられているようです。バート・D・アーマン 著、松田和也 訳『捏造された聖書』(柏書房、2006年6月)の85-88項にそう書かれていますし、ウィキペディア日本語版の記事「罪の女」にもそう書かれています。また、新共同訳ではこの部分は〔〕で囲まれており、凡例によればこれは「後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とされています。
この項「ナザレのイエス」は「歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究」を解説するものですから、後代の加筆であることがほぼ確実な記述を以って例証とすることは不適切だと考え、除去いたしました。--mizusumashi(みずすまし) 2010年5月31日 (月) 13:50 (UTC)
統合報告
[編集]記事冒頭で告知の上、ノート:イエス・キリストで議論提起した結果、反対が10日間以上ありませんでしたので、新約聖書とイエスの歴史的受容と史的イエスを本記事に統合しました。--Kinno Angel 2011年2月3日 (木) 07:11 (UTC)
- 工事中ですが、今の時点でもずいぶん見通しが良くなったと思います。--イザヤ 2011年2月3日 (木) 08:24 (UTC)
- ◆三記事の競合は以前から気になっていたので、キリスト教分野執筆者の合意によって統合されてということに、たいへん喜んでいます。今後、さらに整理していくとなれば簡単なことではないでしょうが、ひとまず今の時点でおつかれさまでした、ありがとうございます、といわせてください。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月3日 (木) 14:06 (UTC)
タグ変更報告
[編集]上記統合により、出典つきの記事が統合されましたので、タグの変更の必要も生じました。現在添付しましたのは「参照方法」「言葉を濁さない」「単一の出典」タグです。二番目の問題については、「考えられている」「定説となっている」といった文言が問題になります。また最後のものについてですが、脚注内にある出典がほとんど荒井か八木によるものとなっています。参考文献節に沢山の著作が書かれているのに、こうした状況は好ましくありません。以上、タグ報告まで。--Kinno Angel 2011年2月3日 (木) 07:11 (UTC)
良質な記事の再選考にかけました
[編集]再度、良質な記事の再選考にかけさせて頂きました事を報告申し上げます。--Kinno Angel 2011年2月24日 (木) 09:25 (UTC)
「ナザレのイエス」とは日本固有の問題なのか?
[編集]記事には田川、弓削、八木、荒井の考えが数多く記されています。
本記事の英語版を検索しても、"yuge"などはヒットしません。また、八木誠一にはwikipedia英語版の記事はありません。荒井については"Maris stella"さんが記事を書いていますが、どうやら"Maris stella"さんは日本の人のようです。
ですから、彼らの業績は世界に認められているようなものだとは思えません。
もっと世界的に認められている考えや人物を記載すべきだと考えます。
八木、荒井らの説が重要でないのなら、ふさわしい量に削減することは正当な行為です。ところが 「出典の付いた文章を削除するのは、荒らし行為になります。--Stella maris 2009年11月15日 (日) 19:44 (UTC)」 と、やたらに出典をつけて、削除できないようにしているように見えます。もし、そうなら、これは逆荒らし行為と言えます。
--Ralph12c41 --以上の署名のないコメントは、180.16.76.58(会話/Whois)さんが 2011年3月24日 (木) 15:15 (UTC) に投稿したものです(Kinno Angelによる付記)。
- 大体問題意識を等しくしますが、私には「ナザレのイエス」にまで手を出すだけの知識もリソースもありません。現時点では問題意識があるという意思表明にとどめます。--Kinno Angel 2011年9月7日 (水) 11:11 (UTC)
- コメント 専門家だけが記事を書いているのではなく、日本語を母語とする一般人も記事を書いている以上、例示や出典が日本語で書かれたものにある程度偏るのは当然ですが、ナザレのイエス=史的イエスの研究が国内外問わず行われていることには間違いありません。「出典の付いた文章を削除するのは、荒らし行為になります」という断定が全ての場合について正当とは思いませんが、例示・出典のバランス調整を一編集者に求めるのは荷が大きすぎますし場合によっては不可能です。踏み込んで言えば「例示・出典のバランス調整を一編集者個人で完遂しない以上、その編集者は、他の編集者による出典の付いた文章の切り詰めや削除を咎めるべきでない」ということでもあります。もしも海外文献が追加されなかったとしても、日本人研究者の研究に関する記事が「ナザレのイエス」記事全体に対して過大であれば、それは添削・推敲すべき記事となります。以下、今後の展望としては、記事と出典での記述を確かめ、検証可能性を担保したうえで、他国語版Wikipediaの「史的イエス」の記事が参考にならないか調べるのも一手かと思います。私としては、個人的な必要性もあるので、差し当たり英語版を読解してみるつもりです。--ジャコウネズミ 2012年1月28日 (土) 13:31 (UTC)
コメント依頼に提出しました2011年9月7日以降の議論
[編集]- 第三者から節目が判り易いよう、節を整理させて頂きました。--Kinno Angel 2011年9月11日 (日) 13:32 (UTC)
編集報告
[編集]報告 この編集につき説明申し上げます。
- まず利用者:佐藤邦雄さんは「キリスト教的観点に偏りがちな部分を修正、」と仰っておいでですが、その中立性を目指そうという動機は大変結構なものでございます。
- しかし「中立的観点を達成する」のと「間違いを書く」のとは違います。
- イエスは、ユダヤ教の宗教的指導者であるラビであり、モーセと同様に、神が啓示を伝えるために遣わした預言者である。とは、誰の見解なのでしょうか? 本当にそのような見解を述べた学者が居るのでしょうか? 私には、中立的観点の達成どころか、むしろイスラームにおける見解を引き写したように思えます(イスラームにおけるイーサー参照)。「福音書にはこう書かれている」という元の文脈に改めました。
- 「大酒飲みであり、食事のマナーを心得ず、忌避されていた徴税人と親しく交わる」などということは福音書のどこの節に書かれているでしょうか? 福音書がむしろ好意的に書いている文脈と意味を無視して「品行的に問題があったことが福音書の記述で示されている。 」というのは、独自研究でしかありません。誰か学者がそう言っているというのであれば、出典をお示しになり、「○○という学者はこう言っている」とお書き下さい。
- 「モーセの洗礼では牡牛の血が使われていた」に至っては、奇説の類です。何の本を読まれたか存じませんが、信頼に足る文献を御使用下さい。
- 兎に角「中立的観点」だけでなく、「独自研究を避ける」「信頼に足る文献」といった、ウィキペディアの方針文書をよく熟読下さい。荒井、田川、八木といった学者達も、ここまでの珍説は唱えていません。
--Kinno Angel 2011年9月7日 (水) 11:11 (UTC)
- あなたが指摘された本文における注解ならびに参考文献を追加しました。またノートでご指摘の件につきましては、前記の作業で疲れはてましたので1両日もしくは二日ほどお待ちください。それとあなたが直された以下の部分
- イエスはユダヤを救う者として民衆から待望されていた、キリスト(メシア)だということである(もちろんこれはイエスが実際にそのような者であったことが証明されたことを意味するのではなく、あくまで福音書における記述である)
- に「要出典」のタグを付けました。というのは第一に、福音書でイエスは自身を「預言者」と主張しているということ(マルコ6-4)。第二として、中立的観点を重視するには「キリスト教的観点」を可能な限り排除する必要があると思ったためです。つまりは当時のユダヤ人やユダヤ教において、「メシア待望論」といったものがあったことを示す文献があるのかどうかということです。--佐藤邦雄 2011年9月7日 (水) 23:28 (UTC)
- あなたが指摘された本文における注解ならびに参考文献を追加しました。またノートでご指摘の件につきましては、前記の作業で疲れはてましたので1両日もしくは二日ほどお待ちください。それとあなたが直された以下の部分
編集報告および佐藤邦雄さんへの根本的な疑問
[編集]報告 この編集につき。
- 記述箇所の注をつけました。
- 史的イエスについての推測は、誰がそのように推測しているのかを明瞭にしました。
さて…すみません、一連の佐藤さんの編集について根本的な疑問が幾つかあります。
- 本来、この記事を編集する人であれば、使徒書簡は兎も角、福音書位は一回は通読しているのが当たり前だと思うのですが(田川建三氏などはギリシア語原文で隈なく熟読しているでしょう)、読んだ人であれば当たり前に知られていることにも出典が求められたことに、正直大きな疑問を感じました。いや通読しなくとも、聖書検索システムなどで「メシア」と検索をかければ、いくらでもヒットするのです。少なくとも「福音書に『イエスはメシアである』と記されている」のは事実です。佐藤邦雄さんに、この分野について執筆する資格・前提知識の基本があられるのか、正直疑問を感じざるを得ません。
- どうしても佐藤邦雄さんは「イエスは預言者であった」ということになさりたいようですが、それは独自研究でしかありません。
- 佐藤さんは最初の編集で、ナザレのイエスの実在に疑問がもたれている旨書き込まれました。
- ※ これ自体には私も異論はありません。そもそもナザレのイエスについての歴史学における史料批判に耐え得る史料が少な過ぎる(というよりほぼ皆無)のは周知の事実です。
- ところが佐藤さんは田川などの出典を挙げて「ナザレのイエスはこういう人物であった」「ナザレのイエスの言動の背景にあったのはこういうものであった」と、断言口調で書いておいでです。そもそも田川による推測にすぎないものについて断言するということ自体、事典に相応しくありません。「田川の推測によれば」が必須の文言です。
- 実在が疑われている人物(そう佐藤さんは書いておいでです)について、なぜ佐藤さんは断言口調で書かれるのですか?
- たとえば「佐藤太郎という人物は実在に疑問がもたれている」と書かれる一方で「佐藤太郎という人物はこういう人物であった」と断言されていたら、矛盾でしょう。
- 御自身の書かれた内容における上記矛盾につき御説明をお願いします。
--Kinno Angel 2011年9月8日 (木) 03:44 (UTC)
- 私はKinno Angeさんとは違い、ウィキペディアの編集に関わる時間を多く取ろうという気はありません。だから私の利用者ページで「予定としては少なくても1週間に1度はウィキペディアに来るつもりでいますが、場合によっては一箇月以上のブランクが発生するかもしれません」と書いています。
- そのため矢継ぎ早に質問や指摘をされても、Kinno Angeさんのご都合に合わせての対応はできません。あなたが「ナザレのイエス」以外のページで、私が編集した部分についても色々と指摘されてることは分かっていますが、それら全てに早急的にお応えすることは無理です。私はウィキペディアに議論するために来てるわけではなく、また議論しようとする熱意も持ち合わせていないからです。ですから私からの返答がどうしても必要と言われるのでしたら、気長に待っていただくしかありません。
- というわけで、今回はあなたの一番最初の指摘についてでなく、新しい指摘についてののみ書かせていただきます。あなたは今回、次のように言われています。
-
- 読んだ人であれば当たり前に知られていることにも出典が求められたことに、正直大きな疑問を感じました。
- ウィキペディアに閲覧しにくる人の知識程度は、キリスト教に限ってみても、専門的な知識を持っている人からキリスト教という名前だけは知っている人まで様々でしょう。ですからあなたの言われる「当たり前に知られている」にしても、「どの程度の知識を有している人なのか」によって実情は異なってくるのではないですか。
- あなたは「聖書検索」について述べられていますが、「メシア」だけでなく「預言者」もヒットします。そのため「メシア」と「預言者」が同じ意味であるならともかく、そうでなければ「メシア」だけを記述するのは片手落ちばかりか「中立性」を損なうことになります。勿論、そういう意味では、「預言者」に置き換えた私も同じことをしていたわけですけど。
- 「ナザレのイエス」ページの冒頭には
- この項目では、歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究について説明しています。
- キリスト教の観点からのイエスについては「イエス・キリスト」をご覧ください。
- この項目では、歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究について説明しています。
- と書かれています。にも関わらず、このページに「キリスト教観点からのイエス」について記述されている箇所があります。そのため本来ならば、キリスト教観点の記述についてはバッサリと削除すべきですが、削除したとしても元に戻そうとする人までなくすことはできないでしょう。そして今話題にしている「イエスがメシアか預言者か」についても、キリスト教観点からすれば、預言者よりメシアの方が都合よいというだけのことでないですか。
- 田川の著作物(私が持っているのは『イエスという男』だけですが)については、キリスト教徒から目の敵にされていることは知っています。そして取るに足らないものとして「貶め」ようとする発言を目にしたこともありますが、その点についてはあなたも同様のようです。検証可能性の『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』という項目に以下の文面があるのはご存知でしょう。
-
- この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。
- つまりはあなたが言われた「そもそも田川による推測にすぎないものについて断言するということ自体、事典に相応しくありません。」は的外れだとは思われませんか。
- あなたは以下のことも述べられています。
- 実在が疑われている人物(そう佐藤さんは書いておいでです)について、なぜ佐藤さんは断言口調で書かれるのですか?
- 実在は不確かでも、「実在していると仮定」して話を展開したことはありませんか。幽霊のことでも宇宙人のことでも何についてで同じですが、キリスト教徒の人たちと対話しようとした時に、「イエスは存在していたと仮定」しなければ話を始められません。つまりはそれと同じようなことです。
- これより先は、話のついでということになりますが、あなたの投稿歴をみると「イエスの兄弟」に「出典明記」のテンプレートを貼られていますが、あなたはイエスの兄弟についてどんな見解を持っておられるのでしょうか。福音書にはイエスの兄弟を示唆する記述がありますが、私が持っている注解つきの聖書では「当時の習慣では親類の者を兄弟と呼んでいた」などとされています。しかし田川の著作では「そんな習慣はなかった」との記述があったと思います。どちらが事実であるかは私には分かりませんけど、こういった場合どんな記述が中立性を保ったものになるかのお考えを聞かせてください。--佐藤邦雄 2011年9月9日 (金) 10:18 (UTC)
- 簡単にお答えします。「基本的な知識をつけてから事典編集に参加して下さい」これにつきます。
- >そのため本来ならば、キリスト教観点の記述についてはバッサリと削除すべきですが、削除したとしても元に戻そうとする人までなくすことはできないでしょう。そして今話題にしている「イエスがメシアか預言者か」についても、キリスト教観点からすれば、預言者よりメシアの方が都合よいというだけのことでないですか。
- 「福音書にかくかくしかじか書かれている」のは「事実」であって「観点」ではありません。貴方が挙げられた「預言者云々」というのは、「民衆の一方的誤解」「一部についての説明」という場面のみであって、片言隻句の我田引水でしかありません。文脈を無視しないでください。これは国語力の問題です。
- >あなたはイエスの兄弟についてどんな見解を持っておられるのでしょうか。
- 何を勘違いなさっておいでか存じませんが、私の見解など事典執筆に必要ありませんので、申し述べる必要はありません。ただ「正教会ではかくかくしかじか信じられている」「カトリック教会ではかくかくしかじか信じられている」「プロテスタント(福音派とリベラル併記)ではかくかくしかじか信じられている」「非キリスト教徒の聖書学者はかくかくしかじか推測している」と書くのが事典に要求されるものです。
- >「実在していると仮定」して話を展開したことはありませんか。幽霊のことでも宇宙人のことでも何についてで同じですが、キリスト教徒の人たちと対話しようとした時に、「イエスは存在していたと仮定」しなければ話を始められません。
- もちろんその通りですが、私が言っているのは「実在をなぜ仮定したのですか」ではなく「実在が疑われるほど史料が不足している人物について『断言口調で書いたのは何故ですか』」です。
- それから貴方は根本的な知識の欠落があることに自覚なさっていないようです。
- >田川の著作物(私が持っているのは『イエスという男』だけですが)については、キリスト教徒から目の敵にされていることは知っています。そして取るに足らないものとして「貶め」ようとする発言を目にしたこともありますが、
- 一冊読んだ程度でここまで書かれるのはやめた方がよろしいかと存じます。
- >新約聖書学者である田川建三氏をお招きしてお話を伺いました。(21日)ことの発端はバッハの「ヨハネ受難曲」を演奏するに当たって聖書に関してのお話をお聞きしたい気持ちからでした。会場となった「ルーテル大阪教会」には出演者約90名ほどが集まって、ちょっと熱っぽい雰囲気。先生の話は広範囲にわたり、長年の研究成果を基にした内実に満ちたものでした。
- …ルーテル教会に招かれて大歓迎されているんですが? 教会主催のイベントかどうかは微妙ですが、こういうものに会場を貸している教会が主流教派の中にあるんですが?
- …あのですね、田川、八木などを評価している所謂リベラル系の教会は大勢あります。そして所謂保守的とされる教会の信者や学者や聖職者にも、田川のギリシア語についての知見には、頭を下げるか、そこまで行かずとも一目置いているというのは、ほぼ常識の範疇です。
- 繰り返しますが、一冊読んだ程度でここまで書くのはお止め下さい。無知を晒すだけであり、しかも事典にとって百害あって一利無しです。
- 「キリスト教徒にとって都合が悪いから反発しているんだろう」と貴方は大いに勘違いなさっておいでですが、私はそこまで護教家でも何でもありません(ゴテゴテの護教家だったら各教派の見解を列挙などしませんし、そもそもウィキペディアというややこしい中立性が求められる媒体に手を出してもいません)。--Kinno Angel 2011年9月10日 (土) 14:34 (UTC)
- 補足ですが、記事「イエスの兄弟」については出典要求のみしかしていません。もし観点バランスに問題があると考えていたら「観点」タグもつけますが、観点バランスには実はそれほど疑問を感じませんでした。出来るだけ良い事典にしていくにあたって、出典は不可欠です。--Kinno Angel 2011年9月10日 (土) 14:38 (UTC)
- 佐藤さんは私の悪意を疑っておいでのようでもありますので、出典の形式について問題がある記事にTemplate:参照方法を貼り付けた代表的なキリスト教関連記事を挙げておきます。
- --Kinno Angel 2011年9月10日 (土) 14:42 (UTC)
キリスト教観点およびKinno Angelさんへの根本的な疑問
[編集]私は前回、「ナザレのイエス」ページの冒頭に掲げられている部分を提示しました。
- この項目では、歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究について説明しています。
- キリスト教の観点からのイエスについては「イエス・キリスト」をご覧ください。
しかしKinno Angelさんの今回のご発言をみると、考慮どころか、これまでのご自身の姿勢について省みられた様子は見て取れません。
あなたは次のように言われています。
- 「福音書にかくかくしかじか書かれている」のは「事実」であって「観点」ではありません。
しかし福音書は「キリスト教の経典」として作成されたものであり、『キリスト教観点』からの「表現及び記述内容」に仕立て上げられたものです。ただ編纂された時期が大昔のために、今日のキリスト教からすれば、「必ずしも相応しい内容」とは言えない部分もあるというだけです。今や当たり前である「三位一体」にしたって、会議で採択された概念でしかありませんから。ですから、福音書での記述をもとにして述べる場合には、「キリスト教観点」を取り除いたものにしなければなりません。
例えばマルコ7・31-37の「口の聞けない人、耳の聞こえない人をいやされる」というものを取り上げれば、キリスト教観点からすれば「奇跡のひとつ」になりますけど、キリスト教観点を取り除けば「イエスは医者であった」「イエスは医療行為をした」と言うことになります。しかもこの部分では薬草を用いたとの記述ではなく、「言葉を発して」の治療なので、「イエスは呪術医療師であった」とか「イエスはシャーマンであった」が妥当でしょう。
またあなたは、次のようにも言われています。
- 貴方が挙げられた「預言者云々」というのは、「民衆の一方的誤解」「一部についての説明」という場面のみであって、片言隻句の我田引水でしかありません。文脈を無視しないでください。これは国語力の問題です。
あなたの言い分は「独自研究」に相当することでしょう。それぞれの福音書の記述者が異なり、記述内容も福音書によって異なってるのが実情であるにも関わらず、あなたにとって「都合良いように解釈する」なんてのは、国語力以前の話です。つまりは『キリスト教観点』からすれば、あなたが主張しているようになるというだけでしょ。マタイ6・3-4には
- このように人々はイエスを理解しようとしなかった。それでイエスは、「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族の間、またその家においてだけである」と仰せになった。
と記述されてますから、文脈を見れば、イエスは自身のことを預言者と述べていることは明らかじゃないですか。
ウィキペディアへの執筆内容という点では、あなたなりの「イエスの兄弟への見解」は意味ないことですが、執筆に当たっての姿勢とは無関係ではないでしょう。「キリスト教観点」を重視した編集にしようと思っておられるのか、それとも「キリスト教観点」は取り除き、かつ中立性を目指した記述を心がけられるかどうかとは少なからずの関わりがあります。ですから私はイエスの兄弟についての「聖書での注解」ならびに「田川の著作」を引き合いに出し、あなたならではの中立性を保った記述方法もお聞きしたわけですが、これについてすらお答えいただけないのはどうしてでしょうか。
- >「実在が疑われるほど史料が不足している人物について『断言口調で書いたのは何故ですか』」
仮定であると断り(「実在は不透明である」としつつ)記述する内容は、わざわざその都度あいまいな描写にしなくても不都合はないでしょう。「何々であるなら、どうであるはずだ」としているだけのことで、作中人物についての評価と同じようなものです。
『一冊読んだ程度でここまで書かれるのはやめた方がよろしいかと存じます』ということですが、著作を何冊読んだかが何の関係があるのですか。田川について語っているのではなく、資料として用いたのが田川の著作物であったというだけのことです。
- >出典の形式について問題がある記事にTemplate:参照方法を貼り付けた代表的なキリスト教関連記事を挙げておきます。
キリスト教教派には詳しくないので、見てみてもどこが問題なのかさっぱり分かりません。ただ分かることと言えば、偶然かもしれませんが「カトリック系統」だけだ、ということぐらいです。--佐藤邦雄 2011年9月11日 (日) 09:29 (UTC)
- 敢えて細かく返答します。突っ込みどころ満載な上に、基本的知識があまりにも無いことを御自覚下さい。
- >あなたは次のように言われています。
- >*「福音書にかくかくしかじか書かれている」のは「事実」であって「観点」ではありません。
- >しかし福音書は「キリスト教の経典」として作成されたものであり、『キリスト教観点』からの「表現及び記述内容」に仕立て上げられたものです。ただ編纂された時期が大昔のために、今日のキリスト教からすれば、「必ずしも相応しい内容」とは言えない部分もあるというだけです。今や当たり前である「三位一体」にしたって、会議で採択された概念でしかありませんから。ですから、福音書での記述をもとにして述べる場合には、「キリスト教観点」を取り除いたものにしなければなりません。
- >例えばマルコ7・31-37の「口の聞けない人、耳の聞こえない人をいやされる」というものを取り上げれば、キリスト教観点からすれば「奇跡のひとつ」になりますけど、キリスト教観点を取り除けば「イエスは医者であった」「イエスは医療行為をした」と言うことになります。しかもこの部分では薬草を用いたとの記述ではなく、「言葉を発して」の治療なので、「イエスは呪術医療師であった」とか「イエスはシャーマンであった」が妥当でしょう。
- 話は単純です。貴方は「福音書にはイエスは預言者であると書かれている」「福音書に書かれているイエスの言動はシャーマンである」と断言なさっていますが、そのような記述はありません。何度も言いますが文脈から有り得ません。通読したことはあるのですか?
- 言い得るのは「学者某(もしくは○○学派)は、イエスは預言者であったと考えている」「学者某(もしくは○○学派)は、イエスの言動はシャーマンのものであると考えている」です(これは言い得ますし事典にも書き得ます)。
- …そもそも近現代の聖書学というのは「福音書に書かれているのは「宣教のキリスト(ケリュグマのキリスト)」であって「実際のキリスト」ではない、という問題意識が殆ど共有されています。だから「福音書に書かれている」ことそのものが「キリスト教的観点」なのだというのが前提なのです(弾圧下でも福音書を写本する物好きな非キリスト教徒などローマ帝国に居ないことは容易に想像つきますよね…?)。ですから「福音書記者はキリストはメシアであると主張している」のは、非キリスト教徒からも否定されない極当たり前の読解です。
- >またあなたは、次のようにも言われています。
- >*貴方が挙げられた「預言者云々」というのは、「民衆の一方的誤解」「一部についての説明」という場面のみであって、片言隻句の我田引水でしかありません。文脈を無視しないでください。これは国語力の問題です。
- >あなたの言い分は「独自研究」に相当することでしょう。それぞれの福音書の記述者が異なり、記述内容も福音書によって異なってるのが実情であるにも関わらず、あなたにとって「都合良いように解釈する」なんてのは、国語力以前の話です。つまりは『キリスト教観点』からすれば、あなたが主張しているようになるというだけでしょ。マタイ6・3-4には
- >*このように人々はイエスを理解しようとしなかった。それでイエスは、「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族の間、またその家においてだけである」と仰せになった。
- >と記述されてますから、文脈を見れば、イエスは自身のことを預言者と述べていることは明らかじゃないですか。
- …あの、すみません。キリスト三職務、読みました? 誰もイエスに「預言職もあった」ことは否定していないんですが。で、貴方は「預言者」と書かれているところだけを引っ張って「イエスは預言者である」とだけ断言した訳です。
- >ウィキペディアへの執筆内容という点では、あなたなりの「イエスの兄弟への見解」は意味ないことですが、執筆に当たっての姿勢とは無関係ではないでしょう。
- 断言しますが無関係です。
- >「キリスト教観点」を重視した編集にしようと思っておられるのか、それとも「キリスト教観点」は取り除き、かつ中立性を目指した記述を心がけられるかどうかとは少なからずの関わりがあります。
- そもそも貴方は「キリスト教の視点を取り除く」ことが「ナザレのイエス」の記事を構成するのに必須と考えておいでですが、「中立的観点を維持する」というのと、「何でもかんでもキリスト教と共通する読解結果を排除する」のは違います。
- >ですから私はイエスの兄弟についての「聖書での注解」ならびに「田川の著作」を引き合いに出し、あなたならではの中立性を保った記述方法もお聞きしたわけですが、これについてすらお答えいただけないのはどうしてでしょうか。
- すみませんが既に答えました。「イエスの兄弟」については私は中立性は一切問題にしていません。大体諸見解が、キリスト教各教派の視点とキリスト教外からの視点が両方書かれ、バランス良く書かれていると思います。問題は出典だけです(だから要出典タグしかつけていないとも申しました)。
- >仮定であると断り(「実在は不透明である」としつつ)記述する内容は、わざわざその都度あいまいな描写にしなくても不都合はないでしょう。「何々であるなら、どうであるはずだ」としているだけのことで、作中人物についての評価と同じようなものです。
- 記事の一貫性がありません。「推測しか出来ない」のであれば「断言」は相応しくありません。
- >『一冊読んだ程度でここまで書かれるのはやめた方がよろしいかと存じます』ということですが、著作を何冊読んだかが何の関係があるのですか。田川について語っているのではなく、資料として用いたのが田川の著作物であったというだけのことです。
- 関係あります。貴方には前提知識が無さ過ぎます。
- >*>出典の形式について問題がある記事にTemplate:参照方法を貼り付けた代表的なキリスト教関連記事を挙げておきます。
- >キリスト教教派には詳しくないので、見てみてもどこが問題なのかさっぱり分かりません。ただ分かることと言えば、偶然かもしれませんが「カトリック系統」だけだ、ということぐらいです。--佐藤邦雄 2011年9月11日 (日) 09:29 (UTC)
- テンプレートのリンク先くらいは、読んで下さい。何を問題にしているかは判る筈です。…そもそも「正教」を「カトリック系統」とは何事ですか?
- …あまりにあまりなので、ハッキリ申し上げます。ここまで酷い知識量でこういう分野に手を出すと、碌なことになりません。心からの忠告です。--Kinno Angel 2011年9月11日 (日) 13:03 (UTC)
お返事がありませんね。キリスト教観点から脱却できないKinno Angeさんでは、これ以上話し合ってもあなたに実りあるものにはならないでしょう。ということもありますけど、お話はこれで打ち切りとさせていただきます。
前にも言いましたように、私が「議論に熱意を持てない」のには変わりなく、嫌気がどんどん加速してきたこともあり、話し合いのために時間を割くことが億劫になってきたのが正直な気持ちです。--佐藤邦雄 2011年9月14日 (水) 09:19 (UTC)
- 情報 上記2011年(平成23年)9月14日付の佐藤邦雄さんの投稿は、直前のKinno Angelさんによる投稿および体裁整理編集(差分/39162063/39165319)を理由なく除去していたため(差分/39199301)、数時間後に差し戻されました(差分/39202497)。履歴を参照し、打消し線を附して復元します(この復元は内容の当否には無関係です)。下掲《#発言改竄への対処》節を参照。--Yumoriy(会話) 2024年12月9日 (月) 06:44 (UTC)
対談していても仕方ないのでコメント依頼を提出しました(コメント依頼以降の書き込み)
[編集]佐藤邦雄さんからの質問に対する回答は一つ上の節にしてあります。--Kinno Angel 2011年9月11日 (日) 13:29 (UTC) / コメント依頼を提出しました。コメント依頼に書いた現状の簡潔(に過ぎますが)なまとめは以下の通りです。
- 当該記事からはキリスト教的観点が含まれるものは排除ないし削除するべきだとする佐藤邦雄と、一切排除と中立的観点の達成や正確性の達成はイコールではないとするKinnoAngel(プラス、KinnoAngelは佐藤邦雄の基本的知識の欠如を問題にしていますが、佐藤邦雄はこれを認めていません)…左記二者の対談状態になってしまっていますので、コメントをお願いします。(敬称略) --Kinno Angel 2011年9月11日 (日) 13:29 (UTC)
第三者から節目が判り易いよう、節を整理させて頂きました。--Kinno Angel 2011年9月11日 (日) 13:32 (UTC)
***
コメント依頼を見ました。
最近はキリスト教関係の編集は遠慮するようにしていますが、以前関連記事で田川建三関係の著作を引用した(そして何人かの編集者から嫌がられた)こともあり、コメントしておきます。佐藤邦雄さんのお気持ちも分からなくはないのですが、そういうことを忖度しても始まらないので、以下は記事の内容について具体的に指摘しておきます。
- 「イエスは何をしたのか」への要出典タグ添付について
- イエスはユダヤを救う者として民衆から待望されていた、キリスト(メシア)だということである(もちろんこれはイエスが実際にそのような者であったことが証明されたことを意味するのではなく、あくまで福音書における記述である)
- 佐藤さんが上記の部分に要出典タグをつけ、これにKinoAngelさんが福音書を出典として争われている件ですが、これはkinnoAngelさんに分があります。福音書の該当箇所はナザレのイエスをメシアと信じた人たちがいたという、そのものずばりの史料ですし、現在の記事では「福音書に共通して記されているのは」と限定した書き方になっています。佐藤さんのいう「中立」云々は強弁に聞こえました。福音書を出典とすれば、要出典タグは不要でしょう。
- 「イエスの教え」の節について
- 佐藤さんが書いた記述で
- 「イエスならではの境遇がある。貧しいためにろくな教育を受けられず、人々から虐げられ、旅先においては寝る場所も無いといった貧しい生活」
- については、新田一郎『歴史新書 キリスト教とローマ皇帝』を出典としておられますが、ref中の引用文
- 「少年期は貧困の只中で過ごしたことであろう。彼が好んでもちいる譬え話には、貧しい生活のことがビビッドに描写されている」
- を参照して、「貧しいためにろくな教育を受けられず」と書くのは無理だと思います。厳密すぎると言われるかもしれませんが、新田さんからの引用文には、ナザレのイエスが受けた教育のことについては何も書かれていません。福音書の記述に従えば、ナザレのイエスは少なくとも旧約聖書を自由に引用出来て、シナゴークで説教を依頼され、「ラビ」と呼ばれており、これらがまったくの捏造だとする論がある訳でもありません。ただし、そうした知恵と知識をナザレのイエスがどこで学んだのかを示す史料が無い以上、彼の受けた教育については何も書けないでしょうし、逆に「ろくな教育を受けられず」と断言することもできないでしょう。そうであれば、書かない方が良いです。
- 「人々から虐げられ」についても同様です。引用でみる限り新田一郎はそこまで書いていませんし、「人々」というのも曲者です。イエスは村中の人々から迫害されて育ったんでしょうか? 「貧しい」というキーワードを核にして、紋切型の修辞で文章を膨らませているように思えます。
- 「貧乏礼讃」も表現としてどうでしょうか。佐藤さんは、ここで田川建三を典拠にしておられますので、正確には「貧しさに開き直った逆説」ぐらいではないかと思います。「貧しい者が幸いであるはずがないのだ」と、田川建三がはっきり書いていますしね(『イエスという男』増補改訂版p.68)。
- ナザレのイエスが「貧困の只中で過ごしたことであろう」と新田一郎さんが推論したことを受けて、佐藤さんは「ろくな教育も受けられず」「人々から虐げられ」と表現を広げたのだと私は想像していますが(それとも新田一郎が、別の個所でそう書いているのでしょうか?)、新田一郎のこの推論自体が少し微妙です。田川建三もそこまでは書いていません。田川が書くのは、貧乏や社会不正が身の回りにいくらでもあった環境でイエスは生き、貧乏や虐げられた人々の立場から発言していたというところまでです。自身が貧困の当事者であることと、貧困の傍らで生きていたことは異なります。もう一度、『イエスという男』を参照すれば、職人(大工)として生活していたイエスは近隣の街を行き来しながら、裕福な家から貧しい家まで様々な階層の家庭に出入りしていて、社会の実態を見聞きしていたんだろうという推測をされています。これは私見ですが、本当に貧しい、食うや食わずの生活をしている人は旧約聖書をそらんじる余裕も、他所の町に説教に出かけるような余裕も無かったと思いますけどね。当時のガリラヤ全体が「貧困の真っただ中」だったのだと強弁することもできなくはないですが、こういう論点が多くて争点を生じ易い記事では推論だとか敷衍した表現は使うべきではないと考えます。
- この部分にはKinnoAngelさんが「田川建三によれば」と付け加えられましたが、上記のように佐藤さんの文章は田川建三の説とやや異なっているように思われますので、止めた方がよいのではないかと考えます。
- なお、これは佐藤さんの編集ではありませんが「山上の垂訓で始まるイエスの教えは、隣人愛を語っている」という本文記事の文章は、イエスの説教録を山上の垂訓から始めているマタイ福音書著者に影響された記述です。(マルコではそうなっていませんというか、山上の垂訓自体がありません。) さらに言えば「隣人愛」はユダヤ教のヒレル派が強調した概念であり、ナザレのイエスはそれを逆説的に語ったのだという話は田川建三『イエスという男』でもお馴染みのお話でしょうし、同じく田川の『マタイ福音書によせて 宗教とは何か <下>』をお読みになれば、マタイ福音書の著者がイエスの毒と逆説を骨抜きにしたというお話も読むことはできるでしょう。中立を重んじてキリスト教の観点を取り除くというのであれば、こういうところから手を付けるべきなのではないでしょうか? 大急ぎで付け加えておくと、「取り除く」よりは、様々な観点からバランスよく記述すれば、なお良いです。
- 「イエスの死」について
- 佐藤さんの加筆の意図は理解できますが、既存の記述と加筆部分が微妙に重なっていて分かりにくくなっています。たとえば、
- かれは政治犯として、おもにサドカイ派の人間によって、ローマ帝国に訴えられ
- という既存記述に対して、
- しかし、<中略>ローマ帝国の法律に反した可能性が高いという説がある。
- と加筆するのは、一読して分かりにくい。政治犯としてローマ帝国に訴えられたと書いてあるのであれば、ローマ帝国の法を犯したと告発されたのであろうと普通の読み手は意識するでしょうが、そこに「しかし」という逆接続詞を使って「ローマ帝国の法律」を犯した可能性を云々するのは、変に思えます。
- この箇所は従来から問題なしとは言えない個所でした。ユダヤ教の大祭司がイエスを逮捕して、裁判にかけた後にローマ総督に引き渡して再び裁判が行われ、ローマ風の処刑が行われたという福音書の簡潔な記述から、確からしい事を書くのは結構やっかいなのです。これを問題なく書くには当時のローマ帝国支配とユダヤ自治の内実とローマ法やユダヤの宗教法の正確な資料と知識を要します。佐藤さんがやったような、「とりあえず自分の知っている知識を書き足す」方法では、かえって文章がおかしくなる可能性が高く、実際にもそうなりました。
- 「イエスの実在性にかかわる議論について」の節について
- 中立的観点からはイエスの実在性は不透明なままになっている
- という佐藤さんの加筆は疑問です。イエスの実在自体は確かに疑われた時期があって、幸徳秋水などは欧米のそういう論ばかりを集めて『基督抹殺論』という本を書きました。しかし、岩波文庫版の解説にもある通り現在それらはほぼ否定されています。確かにイエスがどんな人間で、何をやったのかについては不透明なところは多く残されていますが、実在したこと自体はおおよそ受け入れられています。今もなお、イエスの実在自体を疑っている歴史研究者がいるのであれば、それらを教えてください。
- KinnoAngelさんの姿勢について
- これは、やはり書いておきます。記事の編集履歴をみながら、佐藤さんの「牛の血の洗礼」の記述を見て私も驚愕したことは確かですし、その他の記述からこの分野についての理解が薄い人であることも想像はできました。その点でKinnoAngelさんの苛立ちは、よく分かるつもりです。ただ、佐藤さんは履歴の上では新規参加者だということは考慮するべきなのかなとは思いました。「誰が書いても良い」ことを看板に掲げるWikipediaでは、参加者が「とりあえず自分の知っている知識を書き足す」という行為を排除できません。出来るのは、それまでに積み上げられてきた記事の品質を落とすような加筆を根気よく削って、納得しない加筆者に説明していくことだけです。KinnoAngelさんは今まで、そうした作業を実に根気よくやってこられて、そこは私も敬意を抱いていましたし、多くのwikipedianも賛同するところでしょう。ただ、今回はいつもより早く短気に走ったような印象を抱きました。「モノを知らん奴は出しゃばるな」という態度がかなり露骨に出ていたと思います。
--おーた 2011年9月15日 (木) 14:31 (UTC)
- コメント拝見しました。おーたさん、ややこしいノートへの参加をありがとうございます。特に、田川建三関連の著作については私は丸きり暗いものですから、実際の著作を引いてのご指摘は大変助かります。重ねて感謝申し上げます。
- さて、全体への個別の返答は後日させて頂きますが、一点のみ申し上げます。
- >「モノを知らん奴は出しゃばるな」という態度がかなり露骨に出ていた
- についてですが、不快に思われたのであればお詫び申し上げます。
- しかし「イエスは預言者である」といった論を平然と書くというのは、程度問題として如何なものなのでしょうか? 数学・化学で「あまりにも基本的な酷い間違い」に対して「甘い対応が必要」とは言われません。文系も同様に考えるのが適当です。
- たとえば、化学の記事で「ナトリウムは金属である」という文章に「要出典」を貼ったり、「塩はナトリウムと塩素から成っている」といった文章を書いてしまうほどの基礎知識の無い編集者(日常用語レベルだったら「塩は~」について指摘するのは無粋なレベルの間違いですが、塩(えん)が塩(食塩)に限らないことを知らずに「事典」を書いてはマズイのです)は、「初心者だから」と許されるのでしょうか?
- 今回問題になっています佐藤邦雄さんによる編集の基本的な誤りは、「初心者だから」ということで甘い対応が必要であるレベルを大きく下回っています。むしろ私は、事典の品質を上げていくことを考えるのであれば、あまりにも酷過ぎるレベルのものに対しては、直言・苦言を呈すべきだと考えております。--Kinno Angel 2011年9月17日 (土) 14:45 (UTC)
- Wikipedia.jaが日本語を解する人間一般に開かれている以上、日本語話者の平均的理解レベルで書きたがる人が跡を絶たないのは仕方ないんじゃないでしょうか。KinnoAngelさんみたいな人にとっては消耗戦を強いられる事態なので、そこは深く同情致します。しかし、KinnoAngelさんの今回の対応はWikipedia:新規参加者を苛めないでくださいにある「無知を非難した高圧的なコメント」に該当していたと私は思います。--おーた 2011年9月19日 (月) 02:02 (UTC)
- そこは見解の違いですが、たとえば私が挙げた化学関連記事での例えで、既存編集者が「無知を自覚してくれ」と書いていたら、私は非難する気には全くなりません(むしろ擁護するでしょう)。理系記事だったら理解されやすいレベルが文系だと理解されないというのは解せません。--Kinno Angel 2011年9月19日 (月) 08:20 (UTC)
- 言葉が過ぎたかな、と反省し始めておること、ただ今申し上げます。…が、これは自分で言うのも何ですが、私の言動に問題があったとすれば、WP:BITE違反ではなくWP:CIVIL違反かと。WP:BITEに挙げられている諸例は「書式」「ウィキペディアにおける各種方針・方法」について「不慣れな新規参加者に優しくすべき」ということを意図しているものであることは明白です。「無知を指摘してはならない」ということになれば「事典」が崩壊します(これは本気で言っておきます)。ただ、「それにしたって言わなくても良い言い方をしている、もっと柔らかく丸い言い方があるだろう!」という、WP:CIVILに係るお叱りがあるのだとすれば、御尤もだとも思います。至りませんでしたこと、お詫びします。--Kinno Angel 2011年9月19日 (月) 14:45 (UTC)
KinnoAngelさんの「無知を指摘してはならない」ということになれば「事典」が崩壊しますについては、私も異論はございません。ただ、私も含めて多くの人は己の無知を面識もない人から指摘されれば多少なりとも不愉快ですから、そこで生じる軋轢を避ける意味もあってWP:CIVILがあり、特に「先住編集者の常識のレベル」が分かっていない新規加入者に対してはWP:BITEがあるのだと私は理解しています。この点は、KinnoAngelさんも同意頂けるものと思います。(もっとも、私は偉そうな事が書けるような経歴の者ではありません。)
もちろん、KinnoAngelさんが仰るような「程度の問題」というものはあります。化学関係の文章で塩と食塩をごちゃごちゃにして書いては拙いことも確かでしょう。ただし、KinnoAngelさんが要求するキリスト教の基礎知識というものが、日本語話者の世界でどの程度常識化しているかというと、はなはだ心許無いのが現実ではないでしょうか。たとえば、最近の出版で『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)という本があります。それなりに高名な橋爪大三郎と大澤真幸が質問&回答という形式で、キリスト教を解説するというものですが、KinnoAngelさんが読んだら、おそらく卒倒するんじゃないだろうかというぐらいに、基礎知識がいい加減です。キリスト教では祈る姿を人に見せないとか、宗教改革の後カトリックは練獄の教義を取り消しただとか、プロテスタントの洗礼を受けていればカトリックの教会で聖餐にあずかれるだとか、、(amazonの読者レビューで、問題点はあれこれ具体的に指摘されています。) 著者のお二人は社会学者ですし、一種の西洋文化批評みたいな物だと善意に解釈できなくもなく、その範囲では面白くも読めますが、それにしても頭が痛くなるような記述が一杯です。でも、こういう本が有名な学者の名前で大手のメジャーな出版社から出て、「知的刺激を受けました」「役に立ちます」なんてレビューがついてしまうというのが現状なんです。(さすがに、Amazonでは辛辣な読者レビューもついてますけれど。)
化学の入門書で、塩と食塩がごっちゃにして書かれる可能性はほとんどないでしょう。そんなことを書く人に原稿の依頼は行かないだろうし、編集者のチェックもかかるでしょうから。でも、腰帯に「最強の入門書!」と銘打った大手出版社の新書には、キリスト教への勘違いが満載されてそのまま売られているのですから、それを鵜呑みにして何か書きたがる初心者は跡を絶たないでしょう。新規加入者に対してはWP:BITEがある以上、「この記事の現在の編集水準では、そういう聞きかじりの怪しげな知識で書き込んでもらう訳にはいけないのです」ということを、やんわりと教えてあげるしか無いんじゃないでしょうか。--おーた 2011年9月20日 (火) 15:55 (UTC)
- コメント 橋爪大三郎…orz 日本の学者って(偏見かもしれませんけど)蛸壺を誇って蛸壺での精緻さ(それ自体は素晴らしい)は自分にも他人にも要求するのに、どうしてこういう場面になると途端に権威を利用して杜撰な記述をばら撒く人間が多いんでしょうね…? 宗教云々以前に、他者の専門領域を馬鹿にするにも程があります。色々示唆に富む回答ありがとうございます。…現時点で全部賛同とまではいきませんが、ちょっと色々考えます。--Kinno Angel 2011年9月21日 (水) 09:15 (UTC)
- コメント ツイッター書評にまとめられた諸記述を見ますと…これだけで卒倒ものではありますね…ただ、これはWP:BITE違反の問題とはやはり思いません。WP:CIVIL違反の問題だとは思うようになってはいますが…やはり一流(とされる)学者が大間違いをやらかしているからと言って、事典でそれが許されるものでもありませんから(この点はおーたさんも同意頂けるでしょう)。「やんわりと教えてあげる」と仰いますが、大間違いに対しては「大間違いです」とハッキリ言うべきだと思っています。そうでないと、こうしたツイッターやアマゾンにおけるような厳しい評が、JAWPにも向けられることになるでしょう。--Kinno Angel 2011年9月21日 (水) 12:06 (UTC)
佐藤さんが加筆した部分について
[編集]佐藤邦夫さんは、ブロック解除に向けて動いておられないようなので、佐藤さんの加筆した部分について問題があったと思われる部分を除去しました。具体的には田川建三を引用して「イエスの教え」を解説した部分です。以前、コメントさせて頂いたように、この記述には問題があります。もっというなら、この「イエスの教え」の節自体が問題含みなのですが、、、、山上の垂訓のどこまでがイエスの実際の言葉に遡れるのかは議論が分かれていますし、少なくともマタイ福音書の引用よりはルカ福音書の方が真性の言葉に近いだろうという推論がある以上、マタイ福音書をメインに引用するのは問題があります。更に言うなら「イエスは隣人愛を語った」という言説も、田川建三は明確に否定しています。ということで、私はこの節自体を消去するべきだと考えているくらいなのですが、今回はとりあえず、佐藤さんの記述に絞って消去しておきました。また、他の箇所でイエスの実在自体を否定的に記述している部分について、岩波文庫『基督抹殺論』(幸徳秋水著)の解題に、適当な要約解説がありましたので、それを出典として修正しておきました。問題あれば、指摘ください。--おーた 2011年10月10日 (月) 11:04 (UTC)
- 当方からは異存ありません、編集お疲れ様です。--Kinno Angel 2011年10月11日 (火) 23:23 (UTC)
発言改竄への対処
[編集]佐藤邦雄さんによるこの編集(私の発言が無かったかのように他者に誤解させる悪質なもの)を取り消しました。--Kinno Angel 2011年9月14日 (水) 13:33 (UTC)
- キャッシュに残っていた古い版を見ていて、更新されていることに気づいていなかった可能性もあります。とはいえ、取り消された佐藤氏の発言は第三者から見ても、まともに対話をするような態度ではありません。--114.145.136.235 2011年9月14日 (水) 14:18 (UTC)
- 返答が遅れましてすみません。114.145.136.235さんの仰る通りだと思います。--Kinno Angel 2011年9月19日 (月) 14:45 (UTC)
良質な記事再選考
[編集]Wikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考/ナザレのイエス 20120109の三度目の提出を御報告申し上げます。これまで良質な記事であることに対する積極的擁護は無かったのですが(現状では出る筈も無いのですが)、票数が足りずに、そのまま現状維持になってきた経緯があります。該当ページにご意見投票をお願いします。--Kinno Angel 2012年1月9日 (月) 03:48 (UTC)
- 少なくとも「現時点で」良質な記事と言えるかどうかだけでも、御意見を頂けませんでしょうか。これだけ問題含みの記事が「良質な記事」に選ばれてしまっているのは、jawp全体にとって良くない事だと思いますけど…。「これだけ問題含みであっても良質な記事です」と表示されてしまっている現状に対して「少なくとも現状違うだろ」ということが、それほど面倒臭い判断を必要としますでしょうか? 私はそうは思いませんので、投票をお願いしたいわけです。--Kinno Angel 2012年1月30日 (月) 15:03 (UTC)
- Kinno Angelさん、初めまして。申し訳ありませんが「良質な記事再選考」についての意見は申し上げないことにいたします。これは本件のみならず私は「ノート:キム・テヒ」や「ノート:朝鮮進駐軍」でも同様の姿勢でのぞみました。ご容赦いただければさいわいです。--Yamanosora 2012年1月31日 (火) 11:28 (UTC)
記事「ナザレのイエス」は何によってどう規定されるか
[編集]表記命題について、ノートを見る限り、議論(あるいは単に編集者個人が書きたい事柄)が錯綜していると見受けます。過不足はあるかと存じますが、中庸かつ妥当と思われるところを要点を列挙いたします。ご意見は忌憚なくおっしゃって下さい。
・記事ナザレのイエスは、「イエス・キリスト」すなわち信仰的イエス像ではなく、「史的イエス」に関する人物記事である。
- ・生涯については、人物の存在・非存在を含めて100%確証が得られている事実は一切ない、という認識に立脚しつつ、蓋然性が高いと広く認められている事象を中心に据えて各論併記の上で記述する。
- ・伝承については、「史的イエス」が宗教に与えた影響という観点からの記述を、現在を含む歴史的視点からの、史的イエスに属人的に附随する評価の一端として記事に加えるものとし、その域を越さないものとする。
- また、「史的イエス」としては支持する研究成果のない処女懐胎や復活の伝承についても、「史的イエス」が宗教に与えた影響という観点から、これをイエスの歴史的人物評価として記述することを妨げない。
- ・「新約聖書」やその他の伝承と「史的イエス」との相違点を、高等批評の端緒より現在に至る史料研究の成果により解説し、読者に判断材料を提示する。結論の断定はしない。
- ・ナザレのイエスの生涯について、冒頭で要点を叙述し、史料研究の成果を叙述したのち、復元されたイエス像として冒頭に比して詳しく、その蓋然性に対する言及を交えつつ述べる、という現段階の記事の記述の体裁については、これを是とする。
- ・研究成果の紹介は、「史的イエス」の理解のための記述であり、「史的イエス」に関する研究を網羅・詳説することは記事の目的ではない。これは、項目現代の主要な研究についても当てはまる。
- ・史料研究によらない伝承に対する異説、つまり、本文批評によるものや、考証対象年代以降の個人や集団による史料研究以外の発明や空想に基づく言説は記載しない。
- ・項目諸宗教におけるイエスは、本記事の主題ではない。よって、検証可能性を満たした記述を、できる限り簡潔に記述する。
--ジャコウネズミ 2012年1月28日 (土) 15:15 (UTC)
- 初めまして、Yamanosora と申します。ジャコウネズミさんの各節にわたるコメントについてまとめてここに書きます。「ローマ帝国の方針と一致しないが、」(同[1])の個所はわたしも除去するつもりでいます(下書き)。隣人愛([2])についてはとりあえず、田川からの引用を注釈に加え「要検証」とするつもりでいます(同上下書き)。田川からの引用は不要かも知れません。イエスの教えについて私も「要編集と考えます」([3])。以下「記述内容について」のジャコウネズミさんのご意見については現在の私には判断しかねる点が多いのですが、ご指摘全般にわたってジャコウネズミさんの積極的な加筆修正を期待したいと思います。本節「記事「ナザレのイエス」は何によってどう規定されるか」についても同様私には判断しかねる点が多いのですが、ジャコウネズミさんのご判断を尊重したいと思います。なお、私の下書きはさらに修正してとりあえず数日後にでも本文に反映させるつもりでおります。お気づきの点はご編集による改善または本ノートへのご指摘をお願いいたします。--Yamanosora 2012年1月30日 (月) 01:43 (UTC)
- Yamanosora様、ご意見ありがとうございます。また、下書きも早速拝読させていただきました、記事の位置づけの整理(重要性の低いものの注釈化など)だけでもかなり記事としてよくなるなど、より熟練したウィキペディアンとしての作業に感心し、私自身大変勉強させていただきました。私の方も(メモ)を書きつつ作業していますので、時間が許せばどうぞご高覧下さい。--ジャコウネズミ 2012年1月30日 (月) 14:05 (UTC)
- おーたと申します。まずはこの記事への編集参入について歓迎申し上げますが、、、この分野は立場の異なる人々によって様々な異議申し立てが行われてきた、問題含みの記事であることは御認識ください。従って、資料を広く閲覧しておかないと、足下をすくわれる可能性が大変に高いことも御認識ください。たとえば、私の手元にはアメリカ圏のリベラル系に属する研究書と思われる”The Five Gospels --What Did Jesusu Really Say?” Harpere Collins, 1997 というのがありますが、山上の垂訓の一番有名な箇所であるマタイ5:3-5:12の10句ですら、イエスの言葉に辿れる可能性が高いのは三句(3,4,6)、その可能性が無い訳ではないものが三句(10,11,12)に過ぎません。このような研究書があり、片や福音派の方々のように福音書の記述は全て歴史的真実だと主張する人々が居る中で、Yamanosoraさんはいったいどのような編集をなさるおつもりなのでしょうか? --おーた 2012年1月30日 (月) 14:48 (UTC)
- おーたさん、こんばんは。「問題含みの記事」とのご指摘いただきご配慮に感謝いたします。「資料を広く閲覧」については申しわけないのですが、おーたさんにご満足いただけるほどは出来ないと思います。私の出来る範囲で編集にかかわりますが「足下をすくわれる可能性が大変に高い」とのご指摘を心にとめます。次に「いったいどのような編集をなさるおつもりなのでしょうか?」についてですが、「どういう書き方が模範的かと言えば、『こういう意見がある。また一方ではこういう意見もある』とすることになります。『これは絶対の真実である』と断定している見方があっても、反対意見があれば、それも公平に扱わないといけません。もちろん、その分野において優勢な意見があれば、それが優勢であることを併せて書くのが望ましいでしょう。」(Wikipedia:ガイドブック 編集方針#中立的な観点)ということになります。たとえば「山上の垂訓」についてはジャコウネズミさんが問題提起([4])なさっていらっしゃるので私も協力するつもりですが特定の主義主張にもとづく編集をするつもりはありません。ところで、おーたさんのご指摘の本を参考文献として注釈を追加してみました(下書き 注釈 8.)。いかがでしょうか。私は該当ページを確認していないので、よろしければおーたさんご自身でご投稿なさいませんか。履歴の継承は要約欄でしましたので([5])私が投稿することも可能ですが。いずれにしましてもお気づきの点をさらにご指摘よろしくお願いいたします。--Yamanosora 2012年1月31日 (火) 11:28 (UTC)
- 『こういう意見がある。また一方ではこういう意見もある』という書き方を心がけていただければとは思いますが、具体的にはどのような出典を考えておられるのでしょうか? 失礼な書き方ですが、私はジャコウネズミさんのページで、イザヤ・ペンダソンの著作を云々しているのを見て問題が多いなと感じました。言うまでもなく、イザヤ・ペンダソン名による著作は山本七平によるものであるというのが現在の通説ですし、ベストセラー作家ではあっても、その説の信憑性が新約聖書学者のそれを上回るとも思えません。現在の記事には触れられてはいませんが、歴史的存在である「ナザレのイエス」に迫ろうという動きは19世紀のシュトラウスやルナンあたりから本格化します。田川建三であるだとか、ドイツ聖書学の紹介者である荒井献の文献(あるいは荒井経由のブルトマン)を切り貼りして済む話ではないのです。--おーた 2012年1月31日 (火) 13:18 (UTC)
- おーた様。私がメモにおいてイザヤ・ベンダサンの説の考証を試みたのは、説を採用してさらに掘り下げるためではなく、いかにして著作に対する信頼性の問題に踏み込まずに編集削除するか、という目的であったことをご理解ください。Yamanosora 様。下書きにおいて作業を進める中、本記事を推敲し、履歴継承をややこしくした点については、私自身どうするのがベストか分からなかったためであり、その点はお詫び申し上げます。私は一旦ここで推敲を中断し、Yamanosora 様による本記事の編集を待ちたいと思います。現段階でこれ以上編集すべき記事内容も私は持ち合わせてはいません。なお、「ローマ帝国の方針」については、ネット上において「エジプトでAD104年のローマ帝国による住民登録命令書が発見されており、出身地に帰郷して登録することが書かれている」という「方針との一致」を示すような記事も見つけましたが、有効な出典にはたどり着いていないのが現状です。--ジャコウネズミ 2012年2月1日 (水) 08:03 (UTC)
- ジャコウネズミさん、ご配慮ありがとうございます。--Yamanosora 2012年2月1日 (水) 12:39 (UTC)
- おーたさん、お世話になります。まず出典について、私は今までに次のような参考文献を追加しました。荒井 1994, 荒井 1998, 粟田、古在 1979, 大貫 1998a, 大貫 1998b, 大貫 1999, 大貫 2002, 岡田 2005, 川島 1991, コンツェルマン 1985, 佐藤 1995, 関根 2002, 関谷 1998, 真山 1991, 三好 1991, Funk 1997. 今後も必要な文献を「Wikipedia:信頼できる情報源」にのっとって追加するつもりです。また「シュトラウスやルナンあたりから」については、ウィキペディア韓国語版の「ko:역사적 예수#연구의 역사 (歴史的イエス#研究史)」のごく一部分を翻訳して加筆してみました([6])。いかがでしょうか。--Yamanosora 2012年2月1日 (水) 12:39 (UTC) / --Yamanosora 2012年2月1日 (水) 21:19 (UTC)(リンクを修正)。
- おーた様。私がメモにおいてイザヤ・ベンダサンの説の考証を試みたのは、説を採用してさらに掘り下げるためではなく、いかにして著作に対する信頼性の問題に踏み込まずに編集削除するか、という目的であったことをご理解ください。Yamanosora 様。下書きにおいて作業を進める中、本記事を推敲し、履歴継承をややこしくした点については、私自身どうするのがベストか分からなかったためであり、その点はお詫び申し上げます。私は一旦ここで推敲を中断し、Yamanosora 様による本記事の編集を待ちたいと思います。現段階でこれ以上編集すべき記事内容も私は持ち合わせてはいません。なお、「ローマ帝国の方針」については、ネット上において「エジプトでAD104年のローマ帝国による住民登録命令書が発見されており、出身地に帰郷して登録することが書かれている」という「方針との一致」を示すような記事も見つけましたが、有効な出典にはたどり着いていないのが現状です。--ジャコウネズミ 2012年2月1日 (水) 08:03 (UTC)
- 『こういう意見がある。また一方ではこういう意見もある』という書き方を心がけていただければとは思いますが、具体的にはどのような出典を考えておられるのでしょうか? 失礼な書き方ですが、私はジャコウネズミさんのページで、イザヤ・ペンダソンの著作を云々しているのを見て問題が多いなと感じました。言うまでもなく、イザヤ・ペンダソン名による著作は山本七平によるものであるというのが現在の通説ですし、ベストセラー作家ではあっても、その説の信憑性が新約聖書学者のそれを上回るとも思えません。現在の記事には触れられてはいませんが、歴史的存在である「ナザレのイエス」に迫ろうという動きは19世紀のシュトラウスやルナンあたりから本格化します。田川建三であるだとか、ドイツ聖書学の紹介者である荒井献の文献(あるいは荒井経由のブルトマン)を切り貼りして済む話ではないのです。--おーた 2012年1月31日 (火) 13:18 (UTC)
- おーたさん、こんばんは。「問題含みの記事」とのご指摘いただきご配慮に感謝いたします。「資料を広く閲覧」については申しわけないのですが、おーたさんにご満足いただけるほどは出来ないと思います。私の出来る範囲で編集にかかわりますが「足下をすくわれる可能性が大変に高い」とのご指摘を心にとめます。次に「いったいどのような編集をなさるおつもりなのでしょうか?」についてですが、「どういう書き方が模範的かと言えば、『こういう意見がある。また一方ではこういう意見もある』とすることになります。『これは絶対の真実である』と断定している見方があっても、反対意見があれば、それも公平に扱わないといけません。もちろん、その分野において優勢な意見があれば、それが優勢であることを併せて書くのが望ましいでしょう。」(Wikipedia:ガイドブック 編集方針#中立的な観点)ということになります。たとえば「山上の垂訓」についてはジャコウネズミさんが問題提起([4])なさっていらっしゃるので私も協力するつもりですが特定の主義主張にもとづく編集をするつもりはありません。ところで、おーたさんのご指摘の本を参考文献として注釈を追加してみました(下書き 注釈 8.)。いかがでしょうか。私は該当ページを確認していないので、よろしければおーたさんご自身でご投稿なさいませんか。履歴の継承は要約欄でしましたので([5])私が投稿することも可能ですが。いずれにしましてもお気づきの点をさらにご指摘よろしくお願いいたします。--Yamanosora 2012年1月31日 (火) 11:28 (UTC)
- おーたと申します。まずはこの記事への編集参入について歓迎申し上げますが、、、この分野は立場の異なる人々によって様々な異議申し立てが行われてきた、問題含みの記事であることは御認識ください。従って、資料を広く閲覧しておかないと、足下をすくわれる可能性が大変に高いことも御認識ください。たとえば、私の手元にはアメリカ圏のリベラル系に属する研究書と思われる”The Five Gospels --What Did Jesusu Really Say?” Harpere Collins, 1997 というのがありますが、山上の垂訓の一番有名な箇所であるマタイ5:3-5:12の10句ですら、イエスの言葉に辿れる可能性が高いのは三句(3,4,6)、その可能性が無い訳ではないものが三句(10,11,12)に過ぎません。このような研究書があり、片や福音派の方々のように福音書の記述は全て歴史的真実だと主張する人々が居る中で、Yamanosoraさんはいったいどのような編集をなさるおつもりなのでしょうか? --おーた 2012年1月30日 (月) 14:48 (UTC)
- Yamanosora様、ご意見ありがとうございます。また、下書きも早速拝読させていただきました、記事の位置づけの整理(重要性の低いものの注釈化など)だけでもかなり記事としてよくなるなど、より熟練したウィキペディアンとしての作業に感心し、私自身大変勉強させていただきました。私の方も(メモ)を書きつつ作業していますので、時間が許せばどうぞご高覧下さい。--ジャコウネズミ 2012年1月30日 (月) 14:05 (UTC)
- 初めまして、Yamanosora と申します。ジャコウネズミさんの各節にわたるコメントについてまとめてここに書きます。「ローマ帝国の方針と一致しないが、」(同[1])の個所はわたしも除去するつもりでいます(下書き)。隣人愛([2])についてはとりあえず、田川からの引用を注釈に加え「要検証」とするつもりでいます(同上下書き)。田川からの引用は不要かも知れません。イエスの教えについて私も「要編集と考えます」([3])。以下「記述内容について」のジャコウネズミさんのご意見については現在の私には判断しかねる点が多いのですが、ご指摘全般にわたってジャコウネズミさんの積極的な加筆修正を期待したいと思います。本節「記事「ナザレのイエス」は何によってどう規定されるか」についても同様私には判断しかねる点が多いのですが、ジャコウネズミさんのご判断を尊重したいと思います。なお、私の下書きはさらに修正してとりあえず数日後にでも本文に反映させるつもりでおります。お気づきの点はご編集による改善または本ノートへのご指摘をお願いいたします。--Yamanosora 2012年1月30日 (月) 01:43 (UTC)
作業、ご苦労様です。現在の記事に付けられた出典をざっと見たところ、荒井献が圧倒的に多いですし、弟子筋の大貫隆さんの書籍も参考図書に多く入っていていますよね。要するに、現在の記事は大筋において荒井献の見解なのであり、荒井が参照している20世紀ドイツのプロテスタント神学の見解なんです。ブルトマンについての記述が圧倒的に多いのも、その影響だろうし、19世紀のルナンだとかシュトラウスについての記述が余りにも簡単なのも、荒井献の興味が20世紀(当時の最先端)の聖書神学へ集中していて、古い流行にご興味が無いことも反映しているのでしょう。
2009年頃にRalph12c41を名乗るIPユーザーさんが書き込んだ「八木も荒井も世界的に知られた学者ではないから削除しろ」という見解に、私は与するものではありませんし、日本語圏キリスト教文献の中での荒井献の影響力を軽んじるものではないのですが、現状の記事の状態は「編集者がたまたま知っている文献を持ち寄って、器用に繋げているだけ」のように見えます。そして、日本語圏では荒井献系統の文献が多いのでそれに引っぱられて荒井系の構成になっているものの、記事全体に「行き当たりばったり感」が漂っているように見えます。正直言って、このままだと少し以前に佐藤邦雄さんが行った編集みたいに、「記事全体の主旨を無視して、自分の知っていることを書きこむ人」だとか「記事の文脈を無視して片言節句を書きこみたがる人」は跡を絶たないのではないですか? 「寄せ集め主義」から脱却して記事の主旨をはっきりさせておかないと、記事が再びごちゃごちゃと荒らされていくだけと思いますが、その点はいかがお考えでしょうか。
現在の記事構成についても書いておくと、
- 荒井献に頼り過ぎると20世紀のドイツ・プロテスタント神学研究史に偏った記事になる。実際、現在はブルトマン関係の記述が突出し過ぎている。
- そもそも荒井の説は、ドイツの学説の紹介と整理によるものであり、本来であれば、荒井の元ネタを参照して記事を書くべきである。(手頃な学説紹介者として、荒井を引くという方法論は否定しませんし、全て元ネタに遡るのは大変な作業となりますが、、、)
- ルナンやシュトラウスの著作は19世紀のものであるが、「人間としてのイエス」という視点を強く打ちだした(そしてそれがスキャンダルになった)という近代史的、社会思想史的意義、そして現在一般に流布されているヒューマニズム的解釈に基づくイエス像の基盤を作ったという2点を、分量的にもしっかりと書かなくては「ナザレのイエス」の全体を解説したことにはならない。
・荒井は田川健三から激しく批判されており、そうした意見への配慮も必要である などが問題でしょうか。荒井献の著作を使うなら、使うでよいのですが、記事の全体の構成の中で、「この部分とこの部分は、基本的に荒井を典拠とする」といった基本方針を、このノート上で確認する作業はしておいた方がよろしくありませんか? もちろん、記事全体の構成についても方針を確認しておくことが肝要かと思います。
また、この種の記事は、福音書を批判的に見ることへの反発などから、細かい異説を差し挟もうとする編集者は跡をたちません。この記事では必然的に「福音書では***とされていたが、実際には***だったろうと推測されている」ような記述が多く現れますが、いちいち「しかし、その推測の誤りが最近は指摘されている」「しかし、、、、という説もある」「断言できない」などと書き込まれては、たまったものではないからです。(ファンダメンタリズムの文献には、彼らの言う「リベラル」な聖書解釈を否定する根拠ならいくらでも書いてありますから。) 異説に対しては両論併記が原則ですし、福音派の方々の見解に対しては一定の配慮は必要でしょうが、異説への書き込み方については一定のルール化が必要になるのではないかと考えます。--おーた 2012年2月2日 (木) 13:51 (UTC)
- たいへん有益なコメントありがとうございます。本節「記事「ナザレのイエス」は何によってどう規定されるか」で個々の部分ではなく記事全体に関してジャコウネズミさんがまず問題提起されたわけですが、わたしにはその問題提起に対して充分こたえることができませんでした(上記「私には判断しかねる点が多いのですが」[7])。今回さらにおーたさんのご提案:「基本方針を、このノート上で確認」、「記事全体の構成についても方針を確認」、「異説への書き込み方については一定のルール化」を受けて、問題の所在が私にもはっきりしました。ご提案について確認やルール化することに賛成です。ジャコウネズミさんはいかがでしょうか。なお、「記事全体の構成」について皆さまの議論の一助になるでしょうか、少し百科事典類の目次を調べてみました([8])。ウィキペディアの外国語版の目次については、英語版などは私があやしい訳をする必要もないので、韓国語版を訳してみました。ウィキペディア内の参照は典拠にならないので蛇足かも知れません。(この節へのリンクがうまくジャンプしないので見出しを少し変更しました)。--Yamanosora 2012年2月3日 (金) 11:37 (UTC) / --Yamanosora 2012年2月3日 (金) 15:02 (UTC)(リンク先を更新)。
- 「ジャコウネズミさんはいかがでしょうか」と問われたので私見を申し上げます。1)本記事を「史的イエスの人物記事」として位置づけること、2)十全霊感の聖書観に基づくイエス像は、史的イエス像以前から存在し、現在でも支持する立場のある「史的イエスとは相容れない」イエス像であるとして、本記事では両論併記の原則の対象としないこと(十全霊感の立場から異論があることが自明な場合は、自明であることを理由に記述の縮小や編集削除をして構わない、という意味)、3)前記「十全霊感の聖書観に基づくイエス像」の記述は項目「イエス・キリスト」に積極的に委ねること、以上3点について、確認を取るのがよかろうというのが、わたしの見解です。逆に、今の状態で「荒井を典拠とする部分を決める」というのは、編集の混乱を事前に避けるためには一役買いそうな案ですが、記事内容の向上のためには十全霊感以外からの批判を広く受け入れる姿勢を保った方が良いと思います。また本記事のローカルルールとして「異説への書き込み方についての一定のルール」を定めることついては、記事の文脈や重要性の比重を無視した異説の書き込みは、自ずとノートでの議論・結論に対しても無視してなされるであろうという予見から、わたしとしては積極的ではありません。--ジャコウネズミ(会話) 2012年3月8日 (木) 10:50 (UTC)