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ノート:戦艦大和ノ最期

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「三島の跋文」の説明について

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「1960年代当時のニューエイジ運動などが念頭にある様である」と表現がされていますが、一般的な「ニューエイジ運動」は、もっと遅い時期に勃興しています。また、1952年に刊行された著書の跋文に「1960年代当時の」とあるのも、意味がわかりません。--Kokada_jnet 2009年9月8日 (火) 13:47 (UTC)[返信]

そもそも、「~にある様である」という表現は憶測、「胸を撃つものがある。」という表現は感想であることを示していますから、すなわち「独自研究」になってしまっています(しかも、その感想が、この作品自体に対するものではなく、寄せられた跋文に対するものです)。また、大事な「概要」セクションなのに、この作品自体の説明をあとまわしにして、その跋文のほうを先に詳しく説明してしまっている点も修正したほうが良いと思います。※ 告知テンプレを貼っておきます。--しまあじ 2009年9月8日 (火) 05:29 (UTC)[返信]

 小説なのか 

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本著を小説と言い張り執拗に小説と編集されている利用者がいるようです。貴重な証言を小説というフィクションとして紹介してよいのでしょうか? ---とおりすがりの猫会話

この作品は一種の小説ですが、私は「体験記録文学」と書いただけで、執拗に小説とは編集してはいません。あなたは「小説=すべてフィクション」という固定観点をお持ちのようですが、小説というものの持つ広範囲な意味合いをあまり理解されていないように思います。そしてこの作品は、様々な文芸評論家や作家から評価された立派な芸術的・詩的な価値を持った高い文学作品であるため、単なる「手記」ではないです。それを「手記」というふうに貶めるあなたの方が、私からすると逆にとても疑問です。--みしまるもも会話2021年6月26日 (土) 00:57 (UTC)[返信]

初版の林房雄の跋文には「これは日本の一兵士の手記である。」とあります。林房雄が「手記」というふうに貶めてるのですか?みしまるももさんの感性だけで記事を書くのはやめてください。---とおりすがりの猫会話2021年6月26日 (土) 02:28 (UTC)[返信]

本書は、日本の図書館で広く使われている図書分類法(日本十進分類法)日本図書コードの分類(Cコード)では日本文学、評論、随筆、その他となっており、これによれば少なくとも小説ではありません(93が日本文学、小説・物語、95が日本文学、評論、随筆、その他)(例、講談社「戦艦大和ノ最期」ISBN:978-4-06-196287-3 C-0195)。そもそもですが、戦記小説の定義などがあれば教えてください。調べてはみたのですがよくわかりません。おねがいします。---とおりすがりの猫会話

  • その図書分類とやらで「評論、随筆」となっているからといって、この作品が「評論、随筆」だとは、ほとんどの人が思わないと思いますよ。まあ、ほぼほぼ実体験の戦記だからそっちに便宜的にしたのかもしれませんが、作品の定義というものは、がちがちに何であるとか明確にはいえず、様々な観点があるものです。例えば林房雄が「手記」だと言ったところで、三島は「叙事詩」と呼んでいるわけで、単なる手記というよりかは自身の実体験を元にした一個の文学作品という一歩高いものであることは間違いないわけです。そして吉田満本人も生前「私はノンフィクションだと言ったことはない」と言っていたようですから(脚色部分があることは認めているようですから)、戦記文学、戦記小説というのがしっくりくるかと思います(戦争文学全集などにも収録されているので)。
  • ちなみに、記録文学(日本大百科全書)では、以下のように「戦記小説」とされていますよ。
火野葦平(あしへい)の兵隊ものの作品や、第二次世界大戦後に書かれた吉田満(みつる)(1923―1979)の『戦艦大和ノ最期』(1952)や伊藤桂一の『静かなノモンハン』(1983)、江崎誠致(まさのり)(1922―2001)の『ルソンの谷間』(1957)のような戦記小説なども、こうした「記録文学」としての戦記の流れのなかにあるだろう。
  • あと、吉田満が「小説家」と明記されているものについては、他にも講談社文芸文庫の著者略歴にも「小説家」とあるようです。これもそこでそう定義されているからといって、どうだとも言えないものですが、小説家、作家といった文学系の著作家だったというのは特に問題のないことではないでしょうか。私は三島に関連する吉田満の評論なども読んだことがありますが、とても素晴らしい文体感覚のある方だと思っているので、文学者系の作家、小説家のカテゴリーでいったい何が問題なのかと逆に不思議に思いますが。誰でも書けるような単なる手記だったら、多くの文芸評論家や作家に「名作」として賞讃されるわけはなく、淡々とした実体験の記述のようであっても、それを一個の文学作品として緻密な文体で構成しているというのは、やはり作家としての高い才能があったからできたことなんで、その作品を「戦記文学」「戦記小説」と呼ぶことは特に何の問題のないことですよ。--みしまるもも会話2021年6月26日 (土) 07:03 (UTC)[返信]


私はここでの判断を社会的ルールによる区分や存在する慣習のうち認知可能なもの、例えばCコードや学術論文や書籍を重んじて判断しています。したがって本書は「Cコードでは95だが、出典では93である。」との対立する情報がでて現状は混乱していると見ています。

なお、本書のCコードの95はおそらく「その他」です。全く異質な表現の文体の日本文学を「その他」以外には分類はできないでしょう。この作品が「評論、随筆」だとは、ほとんどの人が思わないというのには同意見ですが、であるのなら「その他」です。なぜその他を無視なさるのでしょう?

但しこの分類では「小説ではない日本文学の95」という事しかCコードには書かれてはいません。しかし「戦記小説」という分類が文学史にはないのも事実で、戦記文学の誤記との可能性すらあります。私が「小説」に反感を強く持つのは当初本作が、戦争肯定の文学であり「軍国精神鼓吹の小説である」と揶揄されたことです。自らの証言を小説と揶揄された気持ちはいかばかりか。みしまるももさんが本作を記事で小説にしたいのならどうぞご随意に。

どうか、戦記小説の定義などの論文や論説の文献をおねがいします。当方で調べたのですが文学史のなかには「戦記小説」はみつけられませんでした。---とおりすがりの猫会話2021年6月26日 (土) 23:13 (UTC)[返信]

  • こんにちは。あなたがたったの一日で調べたという「文学史」とやらが、いったい何を根拠にしたものかは分かりませんが、「小説」という定義に明確なものなどなく、時代によって変遷したり、その内容でも「反小説」(アンチ・ロマン)の主題の小説があったりなど複雑なもので、その自由な形式があるから「小説」の意義があるともいえるのです。「戦記小説」という言葉に関しては、一応は文学論の中で実際に使用されている言葉です([1])。そういう呼称についても特に厳密な決まりなどもないものです。
  • 図書分類コード95の中の「その他」は、あくまで「その他」なので、それが何なのかは私にはよく分かりませんが、吉田満の作品がそこにカテゴリーされているのなら、常識的にみて「その他」には「戦記文学」「戦記小説」「戦争文学」とかを含めていることは容易に想像がつくでしょう。コード93の方は、登場人物が架空の人物で全てがフィクションで構成されているかのような作品だけをそこに分類しているんじゃないですかね。そんなものは、ただそれだけの便宜的な分類にすぎません。
  • また、「戦記小説」という言葉は「戦記文学」と同様の意味合いのニュアンスで使用されているのは、私が上で挙げた一例の文脈でお分かりになるかと思いましたが、あまり納得されていないようですね。「小説」という言葉は日本では、物語的な文学作品全般に使用されることがよくあり、この「戦記小説」と言い方も、「文学」と同義の意味で使われていると思います。ちなみに、日本では作品の長さには関係なく、みな「小説」と呼ばれ、実際の出来事に基づいた作品の「実録小説」という呼称もあります。さらにはあまり文学とは呼べないものでも「小説」と付けたりすることもあって(推理小説官能小説など)、本来なら、こういう娯楽は単なるフィクションとして、海外のように小説(文芸作品)と峻別するのが本筋だと思います。
  • そして、あなたは「小説」=「フィクション」と同義と捉えて、どうしても「小説」という言葉だけに大袈裟に反応して反感を持っているように見受けられますが、吉田満が、自分の作品が「小説」だと言われたから不満を持ったというのはあなた自身の独自研究でしょう。吉田自身がいつそんなことを言ったのですか? この作品はGHQに削除されて改稿を余儀なくさせられ、軍国的と言われたりしたことはあるかと思いますが、焦点はそのことで、あなたが言っているような、「小説と言われたからー、ぷんぷん」みたいな意味ではないと思います。大岡昇平が自身の戦争文学の「野火 (小説)」を小説とジャンル分けされて怒ったということもなく、そんなケツの穴の小さい作家などいないでしょう。
  • 吉田満もこの自身の作品について「私はノンフィクションだと言ったことはない」と言っていたようですし(そもそも文学作品に何らかの脚色があるのは当然ですし)、この作品を賞讃した作家たちも一個の文学作品として評価したわけで、ただの悲惨な戦争体験記録だけにとどまらず、一個の文学作品にまで昇華されているから評価されているのです。初稿の結末の言葉である「天下ニ恥ヂザル最期ナリ」という文体などは、まさに軍記物の文体を象徴しており、一種の語りの文学であることは誰でも分かることで、いみじくも三島が初稿を「偉大な叙事詩」と言ったように、歴史的な価値のある文学作品、戦記文学です。--みしまるもも会話2021年6月27日 (日) 03:31 (UTC)[返信]

本書を「戦記小説」と分類しているサイトがあれば、Cコードで非小説としていることは無視して小説に分類しても、それでいいんじゃないですか?そして文献があっても、吉田満の記事の冒頭の定義文は、みしまるももさんが「有名になったのが第一義」と思えば、小説家とする。それでいいんじゃないですか?吉田の「私はノンフィクションだと言ったことはない」との言葉も、背景について読んでいる私には、吉田が自分の聞いた伝聞も含めた自分の証言を、客観的な証拠や他の証言を仮に正しいと判断しても、それで誰かの名誉が損なわれても、もしも事後に証言を変更すれば、証言としての価値が全くがなくなるからできない、史実の追及をする文学の「ノンフィクションだと言ったことはない」という意味にしか取れません。それも私の独自研究と退ければ良いことです。本書や吉田の文書を読まずに書くのも自由ですが、みしまるももさんがもしも本書を読んでいなければ、彼の配置がせめて何処かぐらいかだけは把握してから、この記事は書いてほしいものです。---とおりすがりの猫会話2021年6月27日 (日) 20:13 (UTC)[返信]

  • ちょっと疑問なのですが、吉田満は初稿では、ほぼ自身の実体験や内面の真実を忠実に書いていますが、GHQの検閲削除により、改稿では不本意な改変をせざるを得なくはなり、戦勝国アメリカに配慮したような(圧力に屈したような)記述に変化している部分が見受けられます。そして、時を経て元のオリジナル初稿での出版も可能であったはずなのに、なぜ当初の初稿で刊本しなかったのかが疑問です。だから何の改変のない初稿ならば、彼としてもフィクションではないと堂々と言えたのではないかなという気もします(細かな客観的事実の誤認やらはあっても)。まあ、いろんな事情で結果的にいろいろとアメリカ側に忖度して自身の真実の思いを反映した描写を改変したわけですから、その意味でも改稿版は、初稿と比べて読めば、本当の純粋な真実の記録だとは誰も思わないでしょう。--みしまるもも会話2021年6月28日 (月) 01:32 (UTC)[返信]
  • あと、冒頭の定義文は、私が思ったからとかではなくて、客観的・一般的な認識として、吉田満は作家が第一義なので、百科事典の定義ではそれが一番目にくるのは当然だというだけの話です。コトバンクや著者略歴でも、吉田満が作家あるいは小説家という固定の定義になっているでしょう。吉田満は「戦艦大和ノ最期」の作者として歴史的に残っている人物なので誰が考えてもそうなります(この種の説明、いったい何回あなたにしたでしょう、いい加減理解できませんか?)。ちなみに私は、あなたが補記した「キリスト者」という言葉を削除したことなどなく、あなたがそれを一番目に持ってきたから、「作家」を元の一番目の位置に戻す修正をしただけですよ。それを理解できず文句があるならば、前にも言ったようにウィキペディアの定義文をいじるのは遠慮してください、というだけの話です。あなたがどうしても「キリスト者」を第一義の定義にしたいというのならば、他のウィキペディアンの方にも聞いてみたらどうですか? たぶん方針無理解として否定されると思いますが。--みしまるもも会話2021年6月28日 (月) 02:02 (UTC)[返信]

戦記小説

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戦記小説という合成語の単語から、戦記という部分だけリンクをすれば、小説という虚構の物語という部分が浮いてしまいます(例戦記-小説)。合成語の語幹部を分けてリンクするなど、通常はあり得ないことです。例えば船も艇も船舶ですが、飛行船も飛行艇も船舶ではありません(例 飛行自動)。お示しいただいた文献は大変参考になりました。しかし、論文の中での例示は、完全なフィクションや手記を元にした一部フィクションの心理描写のある著作などのようです。「反実仮想の戦記小説」は表題だけしか見えませんが、これは「紺碧の艦隊」などの架空戦記のことを言っているのかもしれません。この問題はキリスト者と自認する吉田の嘘についての、一般の日本人とはことなる宗教的な背景(キリスト教は契約の宗教なので嘘が宗教的に断罪される行為)のある事柄であり、ここで分類されている小説の定義をよく調べたいと思います。---とおりすがりの猫会話2021年6月27日 (日) 22:37 (UTC)[返信]

  • 「戦記小説」は「戦記文学」と同様の意味なので、それほど「小説」という言葉にこだわる必要もないのでは? そもそも、あなたのいう「小説という虚構の物語」という認識自体も単純すぎます。小説だから虚構という図式はおかしく、文学では、ほぼ実体験や真実を書いている小説は結構ありますから、小説だから虚構だということには全くなりません。しかしながら、あなたがいちいち「小説」という言葉に過敏になっていらっしゃるようですから、後で少し調整しておきましょう。--みしまるもも会話2021年6月28日 (月) 00:19 (UTC)[返信]

 著作権の問題 

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みしまるもも氏が記事内で、三島由紀夫が寄稿した本書初版の跋文(ばつぶん)を全文掲載しています。本書の跋文の説明記事の分量に対して著しくサイズが大きいことから問題です。なお「戦艦大和ノ最期」の初版は1952年(昭和27年)ですが、その三島の分の記述は1946年12月の可能性もあります。なお、TPP11協定(201812月30日発効)により、著作権法改正が同日から施行されることとなり,原則として昭和45年に亡くなった(条約では1968年死亡以降)三島由紀夫の著作物の保護期間は50年から70年に延長されています。---とおりすがりの猫会話2021年7月10日 (土) 04:46 (UTC)[返信]

三島の跋文は、1946年に書いたものではありません。1952年の刊行に際して寄せた文章です。そして、きちんした引用符内で、三島が書いたものとして明らかにしてあり、出典も明記しているため、何ら著作権違反にはなりえません。--みしまるもも会話2021年7月10日 (土) 05:02 (UTC)[返信]

お答えありがとうございます。TPP11国での死後70年以内なので、新法により発表時期と関係なく70年の間原則として保護されています。 問題は、本書の跋文の説明記事の分量に対して著しくサイズが大きいことです。>きちんした引用符内で、三島が書いたものとして明らかにしてあり、出典も明記していること<は良いにしても、なぜ全文を掲載するのか?の事の必要性の説明が全くありません。何の目的で数行の初版跋文の記事の中で、三島の跋文を全文掲載するのでしょう?明確にその必要性の説明してください。---とおりすがりの猫会話2021年7月10日 (土) 06:15 (UTC)[返信]


  • あと少し疑問なのですが、とおりすがりの猫さんが林房雄の言葉として引用していただいたものの中に「絶対なる神(イエス・キリスト)……」([2])とありますが、この括弧内の(イエス・キリスト)は誰の注釈なのですか? 林房雄自身が補足した言葉でない場合、それこそあなた自身が勝手に入れ込んだ「改竄行為」となり、著作権違反となりますよ。--みしまるもも会話2021年7月10日 (土) 05:16 (UTC)[返信]

カッコ内は普通の人が見れば「絶対神」の常識的な言葉の解説であることから、違法ではありません。通常日本語の「絶対神」は一神教(キリスト教)の三位一体の神です。林房雄は敬虔なクリスチャンの大学教授ですから、この解釈で誤りはないと思います。三島と林の対談の中でも林は「天皇は現人神だが」「キリスト教やユダヤ教のゴッドではない」と言っています。そして「絶対神としての天皇の神格化」も否定しています。日本の神々に絶対神などというものがあるなら、複数の神社で、日本人が誰も願い事なんかしません。勝手な解釈だというなら、削除しても問題はありません。----とおりすがりの猫会話2021年7月10日 (土) 06:15 (UTC)誤記削除---とおりすがりの猫会話[返信]

林房雄は敬虔なクリスチャンの大学教授ですから、この解釈で誤りはないと思います。という文言をあわてて撤回なさったようですが、それだけあなたの主張は多分に勘違いや思い込みの独自研究があるということです。それから、作家の発言を引用する時は、都合のいいところだけ抜粋・抽出しないようにしてください(一字一句正確にしてください)。三島との対談で林房雄は、「天皇は現人神で神それ自体ではないのです。ユダヤ教とキリスト教のエホバやゴッドではありません」「現人神ということばが示すとおり、神と人間の境の存在です。しかしなぜそのような存在をつくったかというと、その背後に神がいるからです。天皇は神にして人間だ。」と述べています。要するに林は、天皇という存在は、キリスト教などのゴッドとは違うということを言っているだけの話ですが、それだからといって、それを短絡的に吉田満の作品評につなげて、勝手な判断で(イエス・キリスト)と入れ込むことはやはり明らかな「改竄」「独自研究」ですよ。それが理解できずに、キリスト教としての立場から、改竄編集するような態度が今後も続くようであれば、あなたに対する何らかの対処を考えます。--みしまるもも会話2021年7月11日 (日) 00:36 (UTC)[返信]
  • あのですね、「引用」というのは一字一句、原文通りにそのまま引用しないと、著作権侵害となるんですよ。それが解りませんか? 余計な文言を入れ込んだり、部分の抜粋を恣意的につなげ合わせたりすると改竄行為となりますよ。
  • あと、そこの「絶対なる神……」という言葉も、原文は「絶対に神に……」というふうになっているようですから([3] 直に私の目で原文を読んで後日きちんと確認しますが)、もし、原文が「絶対に神に」となっていれば、そもそもがあなた自身の「改変」「改竄」です。
  • そして、あなたが書いたように「絶対なる神」と原文もなっていたと仮定しても、それがイエス・キリストかどうかの解釈は、その前後の文章にそういう文言があれば可能かもしれませんが、上記であなたが語っているような推測的な判断は独自研究となります。それを入れる場合は、その林房雄の言葉が(イエス・キリスト)を指していると論じている研究者の出典が必要となり、そういう注釈にしないとだめなんです。だから、そこに勝手にあなた自身が(イエス・キリスト)と補足することは「違法」であり、ウィキペディアの編集上も違反になります。--みしまるもも会話) 2021年7月10日 (土) 08:03 (UTC) 補記--みしまるもも会話2021年7月10日 (土) 08:10 (UTC)[返信]


ここでの争点は、 >「引用」というのは一字一句、原文通りにそのまま引用しないと、著作権侵害となるんですよ。それが解りませんか?の判断の理由です。

わたしは全文引用の違法性を問題にしているのです。部分的な引用の話はしていません。みしまるももさんは、全文掲載でも短文だからよい。という意見のようでうが、そのような判断や慣行についての存在を残念ながらわたしは知りません。三島の完成された短い評論を、短いから、自分には要約できないからと、全文掲載できるなら、その根拠条文なり判例なりを示してください。というお願いです。「公正な慣行に合致してる」のなら、そのような引用を複数示してください。無論誰かのブログなどではなく、条約発効後の書籍なり、あるいはそれを許容するとする学術論文なり判例なりでです。

もしもお示しになれないようでしたら、削除の依頼をださざるを得ません。繰り返しておきますが、当方のオーダーは「短文の評論等の文章を全文掲載している、平成30年12月30日施行 「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)」の発効後の著作権法改正後に発行されている書籍です。この議論を終結させるための小前提となる証拠としてみしまるももさんが示せる書籍です。---とおりすがりの猫会話

  • コメント とおりすがりの猫さん、こんにちは。お久しぶりです、お元気ですか? 
  • 私の見解としては、この文学作品「戦艦大和ノ最期」に対する三島の高評価の文章は、独特の言葉遣いや独自の観念が表現されているものなので、それを下手に要約し「改変」「改竄」になるよりは、比較的短い跋文でもあり、そのまま引用した方が正確で無難だと思いこの方法を採用しました。「戦艦大和ノ最期」の作品記事の解説においては、この作品の「評価」を説明するのは必要なもので、三島の文はその有名な代表文の一つでもあります。引用に際しては論者の名前やその論の名称をはっきりと明記しておりますから、特に訴えられるような類いのものではないかと思います。変に引用符を付けずに、ほとんど似たような文章になる方が逆に著作権侵害に当たりますし、自分の言葉で要約といっても、この場合はその独特の表現を私の言葉で言い換えたりすると、それこそ「改竄」「改変」とかになる場合もあるので難しいのです。ちなみに、引用の実例としては、富岡幸一郎の『新大東亜戦争肯定論』(飛鳥新社、2006年)124頁、『天皇論 江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋、2020年)30頁でも、三島のこの跋文をそのまま引用してます。
  • 引用の件で著作権侵害かどうかが問題になった記事で過去に三木淳などがあり、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/三木淳 20201011で問題提起されたようですが(ノート:三木淳/過去ログ1#著作権侵害による削除依頼提出の事前相談)、結果的には特に問題はないということになったようです。ちなみに、この件で著作権侵害だと主張なさっていた方(ProfessorPineさん)が、言い換えて編集したものは正確性を損ない逆におかしくなってましたね(ありがちなことですが)。--みしまるもも会話) 2022年5月22日 (日) 01:50 (UTC) 補足--みしまるもも会話2022年5月22日 (日) 02:55 (UTC)[返信]

引用の確認

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以下の引用箇所について確認していただけると幸いです。

  • 林房雄の引用文、一箇所だけ「テルモピレー」ではなく「テルモビレー」になっています。異本(講談社文芸文庫Wide版、p.213)では「テルモピレー」です。
  • 三島由紀夫の引用文、「この死を前に、戦死者たちは」の箇所ですが、異本(講談社文芸文庫Wide版、p.214)では「この死を前に、戦士たちは」となっています。

よろしくお願いします。--ねこざめ会話2021年7月20日 (火) 13:33 (UTC)[返信]

返信 早速の対処、ありがとうございます。--ねこざめ会話2021年7月21日 (水) 15:59 (UTC)[返信]