ノート:昭和天皇/過去ログ2
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徳仁親王の結婚に反対 について
[編集]昭和天皇が徳仁親王と小和田雅子の結婚に反対していたということですが、確かな根拠はあるのでしょうか?--150.7.28.31 2007年3月30日 (金) 05:05 (UTC)
無いと思いますし、聞いた事もありませんねぇ~ --かまくらゴンザレス 2007年4月4日 (水) 02:40 (UTC)
いやいや、ありますとも。いろいろな本に載っていますし、このことが原因でいまだにしこりが残っているんですよ。--Kinnginnrimeiku 2008年9月20日 (土) 10:01 (UTC)
皇室財産について
[編集]>戦争当時、皇室は大銀行や国策会社の大株主であり、戦時経済は皇室財政の拡大に…
戦時中の株価は上がっていたんでしょうか。戦時中に銀行の株価がそう上がるとも思えませんが。
>近衛が共産主義革命を恐れた背景としては、皇室が日本最大の富豪であり資本家であった事実がある。
共産主義革命をおそれるというのは、共産主義と君主制度が両立しないことがまず挙げられると思いますが。資本家云々というのを近衛が考慮していたという出典はどこでしょうか。基本的に皇室財産は宮内大臣の管掌で、天皇個人がどうこうする性質のものではないと思いますが。--模様砂漠 2008年10月22日 (水) 17:33 (UTC)
特定のイデオロギーを持った編者による悪意を感じますね。史料として明確に示されてない以上、単なる憶測を「事実」として載せるのは見る方にも不利益ですから。--ガーリックトースト 2009年1月11日 (日) 5:49 (UTC)--以上の署名のないコメントは、202.225.131.43(会話/Whois)さんが 2009年1月10日 (土) 20:51 (UTC) に投稿したものです。
「逸話」節に「出典の明記」を添付しました
[編集]「逸話」節に「出典の明記」を添付しました。噂や都市伝説の類が紛れ込んでいる可能性があるためです。是非出典を明記して下さい。--伏儀 2008年11月3日 (月) 11:25 (UTC)
- 「ロンドンの地下鉄」(皇太子時代)について
逸話関係なのでここに投稿します。文中では「ロンドンの地下鉄」となっていますが、パリの地下鉄ではないでしょうか? 切符の現物が残っています。 http://www.all-tama.co.jp/akitama/museum/tachikawa_showa_emperor_sp.html
「右:パリ地下鉄切符 パリの地下鉄に乗られた時の記念として保管されていた切符。 パレ・ロワイヤル駅→ジョールジュ・サンク駅の4区間ご乗車された。裏には「1921.6.21」と昭和天皇の直筆の日付が。 宮内庁所蔵(展示期間:10/26まで)」
ただ、ロンドンでもあったのかもしれず、確信がもてないので詳しい方がいらっしゃたら補足修正をおねがいします。
--Gryphon 2009年4月28日 (火) 22:39 (UTC)
- 「特に近衛文麿と広田弘毅については正確だ」発言の出典
岩見隆夫「『木村外相の留任がいい』――人事発言 侍従長が口止め」新編 戦後政治 昭和天皇は…(38) 『毎日新聞』1991年12月22日付朝刊、4面、と思われます。なお、この連載記事は後に『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』という書名で単行本化されています。--219.53.54.89 2009年8月2日 (日) 10:26 (UTC)
一方で、当事者である中曽根康弘本人の回想(『天地有情 五十年の戦後政治を語る』文藝春秋、1996年、161頁)によると、この発言があったのは1984年、ロンドンサミットからの帰国直後の内奏時であり、当時はまだ『猪木正道著作集4』は刊行されていません。したがって上記記事と矛盾します。また同書によると件の発言は、「この間、猪木正道が近衛について書いた本を出したが、あれはひじょうに正確であると中曽根に伝えよ」というものであり、広田弘毅の名前を挙げたという事実も確認できません。--219.53.54.89 2009年8月2日 (日) 10:26 (UTC)
婚礼のため遷都?
[編集]「婚礼の儀の延期と関東大震災」の項目に「本来なら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長することはせずに遷都するのが通例であった」とあります。遷都の意味がわかっていない方の書き込みのようです。--220.147.185.46 2009年1月1日 (木) 08:28 (UTC)Sie
二・二六事件について
[編集]本庄日記からの引用部分、昭和天皇の発言を現代語に「翻訳」していますが、一人称の「朕」はおかしくありませんか?「翻訳」するのなら「私」とか「僕」とかですが、昭和天皇が執務の際にどんな一人称を使っていたのか不明なので、ここは「翻訳」せず、本庄日記の記述をそのまま記載した方が良いと思いますが、如何?--ターニャ 2009年1月6日 (火) 17:49 (UTC)
つーか、「私」に書き直しますね。--ターニャ 2009年1月6日 (火) 17:53 (UTC)
昭和天皇崩御
[編集]「昭和天皇崩御」は別記事として作成したほうがいいのではないでしょうか? --経済準学士 2009年2月24日 (火) 21:37 (UTC)
検証可能性はWikipediaの公式ルールなので、出典を示すように
[編集]Wikipedia:検証可能性はWikipediaの公式ルールです。検証可能性を満たすためには出典を明示しなければなりません。{{要出典}}タグが貼り付けられたら、出典を具体的に明示する場合以外は、その要出典タグを剥がしてはいけません。これはWikipediaのルールです。
WikipediaというのはWikipedia:検証可能性などの基本ルールを守る人だけがWikipediaに参加してよいことになっています。Wikipediaのルールを守れない人は、Wikipediaに参加してはいけません。--歴史探索人 2010年2月28日 (日) 14:54 (UTC)
どうも公式ルールが守れない奴がいるようだ。経験的に言うと、わざわざタグを剥がすような奴がいる文章が特に怪しい記述。独自の研究になっていることが多い。最初に要出典を貼り付けてから日数もたつのに一向に示せないようなので、今後は、怪しげなところはコメントアウトし非表示にする。表示させるには、絶対に出典が必要。それと、......は有名だ、などと書いていることは、それが本当であれば多数の文献に書かれているはずだから出典は簡単に示せるはず。バカみたいにタグを剥がして逃げ回ってないで、それを示せ。低能な奴らだ。Wikipediaでは出典は、気が向けば示せばいい、とかいうものではなく、それが示せないなら、そもそも最初から投稿してはいけない、というルールになっている。Wikipediaの創立者ジンボ・ウェールズは、出典が示せないような記述はどんどん積極的に削除するべきだ、と述べている。それを実行することにする。ルールを守れ。--歴史探索人 2010年3月13日 (土) 09:16 (UTC)
昭和天皇だって、もし天国からこの記事を読むことができるなら、「君たち!出典はもっと細やかに正確につけたまえ!」と絶対に怒っていると思われる。--歴史探索人 2010年3月13日 (土) 10:00 (UTC)
東北地方行幸の誤謬
[編集]行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにした。
・・・とありますが、「農閑期」の誤謬と思われます。考証をお願いします。--以上の署名のないコメントは、114.51.136.160(会話/Whois)さんが 2010年8月15日 (日) 02:09 (UTC) に投稿したものです。
- 昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧に依れば昭和22年8月です。8月は夏で稲作の農閑期です。訂正しておきます。--Namazu-tron 2010年8月15日 (日) 03:36 (UTC)
- 何を仰っているのかよく分かりません。一般的に稲作の農閑期というのは刈り取ったあと、翌年田起こしを始めるまでの11月~3月を指します。これは近畿地方の場合で東北や北海道の場合はずれると思いますが、夏が最大の山場であることには変わりありません。水田の温度は高すぎても低すぎてもだめで、温度計やセンサーとにらめっこしながら毎日水の張り具合を検討しなおします。気温が高い分害虫も発生しやすく、初夏の時点で農薬を撒いているはずですが、状況によっては追加で撒く場合もあります。あまり遅い時期に撒くと胚珠の中に農薬の成分が混入してしまうので大体夏一杯が限度だと思います。また早稲の品種なら8月の終り頃から刈り取りが始まります。いずれにせよ、東北や北海道に限らず、稲作において夏は重要です。東北や北海道では気候上冷害が発生しやすいため、とりわけ重要でしょう。--kanryu 2010年8月15日 (日) 04:27 (UTC)
- 広辞苑の第二版1969年(昭和44年)5月16日発行、1713ページには『農間・農閑(のうかん)=農事の合間・農事のひまな事。農閑期=農事のひまな時期。←→農繁期。』と書かれます。この時代の広辞苑には何月との文言はなく、単に暇な時期とされます。確かに1年を通して見れば、日本の地域にも依存しますが現代的に言えば、総じて11月~3月の期間でしょう。稲作#手順の「古くからの伝統的な方法」の「定期的な雑草取り、肥料散布等を行う」の後、「稲が実ったら刈り取る(稲刈り)」の前が8月に当たります。
水田から水を抜き、稲穂が更に成長し実り頭を垂れるまでです。昭和22年と言えば、異常気象やゲリラ豪雨などまだ無く、殆どの台風が9月に入ってからの時代です。年に依っては冷害や虫が付くなど仮にあったとしてもそれらに対する対策や農薬など無く、手に負えない事で、傍観し、心中穏やかでないにしても、手間としてはひまな時期です。東北地方行幸は寒くなりつつある秋や雨や降雪の冬を避け、この時代で言う、比較的に農閑の時期としての8月であることは、農繁の時期を避けたとの事になると考えます。お盆の盆踊りなど夏の行事も仏事に基づき行うが、「日付」を敢えて月遅れとして旧盆の8月としています。8月は旧盆行事や夏祭りの東北三大祭り、花笠まつりなど盛大、数日間行われる事を見れば、農繁とする時期で無いことも判ります。いずれにしても、昭和22年に行幸を行うと案を立て、農閑の8月は結果として妥当な時期であったとと言えます。温度計など一般農民は使わず、センサーなど無い時代です。本文は時代考証的にも合った記述でしょう。--Namazu-tron 2010年8月15日 (日) 05:33 (UTC)加筆--Namazu-tron 2010年8月15日 (日) 05:52 (UTC)- 筆を重ねておられますが、そもそも「東北の運命は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」という昭和天皇の発言と、農閑期であろうという指摘は矛盾しています。当時は機械化がほとんど進んでいなかったわけですから「定期的な雑草取り、肥料散布等」と一言で済ませている作業は全て手作業です。よく考えてみましょう--kanryu 2010年8月15日 (日) 06:11 (UTC)
- 年間に予定される祭りや迎える側での最も優先度の高い行幸の1-2日の為に、田植えや稲刈りに比べ、農作業の日程を1-2日は前後させる事が出来る時期でもあります。「農繁期でない」や「農閑期」の表現は独自研究としての言及かも知れませんが、天皇の思いを果たした時期であることには変わりません。必要なら、適切な文言に修正して下さい。また、「働くありのままの姿を是非この目に見て」も計画的に行えました。偶然出くわしてこの目で見るなど、現代の天皇の旅程でも有りません。--Namazu-tron 2010年8月15日 (日) 06:38 (UTC)
- 筆を重ねておられますが、そもそも「東北の運命は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」という昭和天皇の発言と、農閑期であろうという指摘は矛盾しています。当時は機械化がほとんど進んでいなかったわけですから「定期的な雑草取り、肥料散布等」と一言で済ませている作業は全て手作業です。よく考えてみましょう--kanryu 2010年8月15日 (日) 06:11 (UTC)
- 広辞苑の第二版1969年(昭和44年)5月16日発行、1713ページには『農間・農閑(のうかん)=農事の合間・農事のひまな事。農閑期=農事のひまな時期。←→農繁期。』と書かれます。この時代の広辞苑には何月との文言はなく、単に暇な時期とされます。確かに1年を通して見れば、日本の地域にも依存しますが現代的に言えば、総じて11月~3月の期間でしょう。稲作#手順の「古くからの伝統的な方法」の「定期的な雑草取り、肥料散布等を行う」の後、「稲が実ったら刈り取る(稲刈り)」の前が8月に当たります。
- 何を仰っているのかよく分かりません。一般的に稲作の農閑期というのは刈り取ったあと、翌年田起こしを始めるまでの11月~3月を指します。これは近畿地方の場合で東北や北海道の場合はずれると思いますが、夏が最大の山場であることには変わりありません。水田の温度は高すぎても低すぎてもだめで、温度計やセンサーとにらめっこしながら毎日水の張り具合を検討しなおします。気温が高い分害虫も発生しやすく、初夏の時点で農薬を撒いているはずですが、状況によっては追加で撒く場合もあります。あまり遅い時期に撒くと胚珠の中に農薬の成分が混入してしまうので大体夏一杯が限度だと思います。また早稲の品種なら8月の終り頃から刈り取りが始まります。いずれにせよ、東北や北海道に限らず、稲作において夏は重要です。東北や北海道では気候上冷害が発生しやすいため、とりわけ重要でしょう。--kanryu 2010年8月15日 (日) 04:27 (UTC)
「農繁期」「農閑期」という表現自体を編集除去しました(差分)。近臣の反対を押し切って夏にしたということが一番重要でしょう。どのような理由で近臣が反対したのかなども含めて、出典を基に加筆すればいいと思います。--iwaim 2010年8月15日 (日) 06:47 (UTC)
西暦と元号表記の例外
[編集]Wikipediaでは通常、年の表記を元号ではなく西暦で表示することになっていますが、 こと昭和天皇に関しては元号をベースに考えなければ当時の世情が想像できないことも多く、例外的に元号表記を主とする形のほうがページ内容にふさわしいのではないでしょうか。--kanryu 2011年5月9日 (月) 04:45 (UTC)
- 現状の西暦との併記にてその目的は充分に達成できていると考えます。--iwaim 2011年5月9日 (月) 20:34 (UTC)西暦を昭和に直すには1925を引けばよいので 欄外に書いたらいかが--河童工房(会話) 2019年2月9日 (土) 11:30 (UTC)
昭和天皇とゴルフ
[編集]昭和天皇とゴルフという本がでましたので、少々書いてみました。小生はゴルフは詳しくないので、どなたか追加して書いてくださいませんか。私は天皇がゴルフにのめり込んでいるとは知りませんでした。皇居の生物相でゴルフ場のことは書かれていましたが、吹上御苑は4ホールから9ホールになって時点で、ほとんどがゴルフ場です。--Ichiro Kikuchi(会話) 2012年12月4日 (火) 00:59 (UTC)
行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行幸の際のエピソードについて
[編集]「フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。」とあるが、根拠は?出典がほしい。「怒る」は一種主観なので、なぜ昭和天皇が怒ったと断じたのか根拠が必要。
というのは、この鉄剣(に限らない)はフラッシュ点灯禁止であるから。天皇行幸の際だけ特別扱いして報道陣のフラッシュを許可したとは思えない。
少なくとも昭和天皇は文化財の写真撮影について知っているのではないか。そもそも館内にはフラッシュ撮影禁止の表示が多数配置されている。
従って昭和天皇はフラッシュによって自分がよく見えなかったことでマスコミ陣を叱責したのではなく、文化財の撮影をわかっていないこと、博物館への無理解についてマスコミ陣を叱責したのではないか?
--115.177.128.59 2015年5月11日 (月) 19:15 (UTC)
沖縄への行幸について。
[編集]昭和天皇#行幸には「日本領としての歴史が浅い北海道、沖縄両地への行啓は大掛かりに実施され、記録に残っている。沖縄行幸では人力車に乗って住民の前に姿を見せた。」とありますが、これ本当なのでしょうか。「沖縄行幸」は後段で「沖縄巡幸を行えないことを悔やんでいた」とあるので行啓の誤字ではないかと推測されますが、皇太子裕仁親王の欧州訪問によると「沖縄での滞在時間はほんの半日足らずであったが、裕仁親王(昭和天皇)にとってこの時が最初で最後の沖縄訪問となった」とされています。大規模な外遊の一環ではありますが、この訪問自体はとても大掛かりではないと思います。もちろん欧州訪問の記事の記述が誤っていて、戦前に行啓/行幸していた可能性もありますが…。―霧木諒二(会話) 2017年8月12日 (土) 05:01 (UTC)
いわゆる人間宣言について
[編集]1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書「新日本建設ニ関スル詔書」
(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定
と著述しているが真に言わんとすることも付加すべき。
当詔書内には「人間」「宣言」という文言は一切ないのであり一番言いたいのは
明治天皇のご誓文を引用した
「戦争に負けて民主化されたのではない、
昔から話し合いで物事を決めてきたのである」という部分。
天皇と国民は、「単ナル神話ト伝説」ではなく
「終始相互ノ信頼ト敬愛」によって結ばれている。
これを受けて以下の文
天皇を「現御神」とし、日本国民を「他ノ民族ニ優越セル民族」
であると考えるのは「架空ナル観念」に続くのであるから
神格否定ではなく 国民と天皇は昔から対等であった ということではないか。
資料167 新日本建設に関する詔書(昭和21年1月1日の詔書)原文より引用
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇條ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。
曰く、
一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要
一、舊来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
ここまで。
そこをちゃんと踏まえ著述すべき--河童工房(会話) 2019年2月9日 (土) 10:18 (UTC)
コメント 昭和天皇はいわゆる人間宣言について後年に「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います」(1977年8月23日の記者会見、高橋紘 編『昭和天皇発言録―大正9年~昭和64年の真実』P241、小学館、1989年7月発行から引用)と発言しているものの「神格否定ではなく、国民と天皇は昔から対等であった」とは述べていませんね。もし、「神格否定ではなく、国民と天皇は昔から対等であった」とはっきり述べている「信頼できる情報源」による出典が明記できるのであれば、記事に記述することを検討してもよいのではないでしょうか。逆に「信頼できる情報源」による出典が明記できないならば、それは「信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの」ですから「独自研究」になり、記事に記述することはできないことになります。--Pinkpastel(会話) 2019年2月9日 (土) 11:43 (UTC)
- 河童工房さんの3版の編集をリバートしました。外部リンクを付加する際にはWP:ELを呼んだうえで理解してからお願いします。またPinkpastelさんがご指摘の通り、河童工房さんの解釈に基づく編集をなさらないでください。--海獺(会話) 2019年2月9日 (土) 12:20 (UTC)
冒頭写真に相応しいのは 束帯姿?軍服?
[編集]昭和天皇の人物写真が時々即位礼の頃と、昭和10年頃の軍服を着用した写真と差し替えする編集合戦のような状態が、起きていますが、どちらの写真が相応しいでしょうか?--128.53.43.65 2019年4月22日 (月) 13:41 (UTC)
軍服は軍国主義的色彩が強く、相応しくないと思います。天皇の本来の正装は黄櫨染御袍です。明治以降の服制が歴史的に異例なのであって、それ以前の天皇は朝服や束帯、さらに言えば出家すれば法衣を着ていました。軍服はすでに廃止されていますが、黄櫨染御袍は平成の今も使われています。 なので私は即位礼の写真が相応しいと思います。 RSSFSO(会話) 2019年4月22日 (月) 14:29 (UTC)
本文に束帯姿が香淳皇后の女房装束姿と並んで掲載されています。重複を避けるためにも冒頭の画像は軍服姿にすべきではないでしょうか。明治天皇、大正天皇は軍服姿ですし、必ず黄櫨染御袍でなければいけないという決まりもありません。明仁の記事冒頭も元々は洋服姿でした。外国の君主らの画像を見ても戴冠式の画像はまれで、ほとんどが通常服の画像です。 Shuricastle(会話) 2019年4月23日 (火) 11:37 (UTC)
昭和天皇の場合、即位礼も軍服姿もどうしても若い頃の画像に限定されてしまいます。上のように戦後に撮影された背広姿の画像もあるのですから、そちらの方がふさわしいと考えます。--Juqipedia(会話) 2019年4月29日 (月) 00:04 (UTC)
この写真はどうでしょうか。
RSSFSO(会話) 2019年4月29日 (月) 08:13 (UTC)
画像ありがとうございます。RSSFSOさんが添付されました写真を、記事冒頭のテンプレート部分に載せることに賛成です。今上天皇も同じように勲章を着けた写真があるので、そちらを「明仁」の記事冒頭に掲載し、もとの黄櫨染御袍の画像を、本文中の大嘗祭の御祭服と並んで掲載してはいかがでしょうか? Shuricastle(会話) 2019年4月29日 (月) 09:00 (UTC)
こちらです。まもなく陛下は譲位されるため、皇位の象徴とも言える御装束よりもふさわしいのではないでしょうか。 Shuricastle(会話) 2019年4月29日 (月) 09:02 (UTC)
燕尾服姿の昭和天皇の画像を冒頭に置くという提案から一週間が経過し、これについての反対意見もないようなので、合意がなされたと見なし、当該編集を行います。--Shuricastle(会話) 2019年5月6日 (月) 04:05 (UTC)
編集の完了を報告します。議論に参加された皆様、ありがとうございました。 Shuricastle(会話) 2019年5月6日 (月) 09:24 (UTC)
昭和天皇の写真が昭和10年頃の軍服写真に置き換えられています。せっかく1956年頃の写真で合意されているのに残念です。--2001:CE8:147:A79E:9111:31C:3849:709B 2022年6月4日 (土) 02:41 (UTC)
写真が軍服またはスーツ姿の写真との編集合戦になっています。保護の上、もう一度議論しましょう。--2001:CE8:147:A79E:75EF:9E59:95AF:2D7D 2022年6月25日 (土) 01:10 (UTC)
こちらは戦後に撮影された正装姿の写真で良いと思いますが、どうでしょう。--エーリッヒ・レヴェンスキー・フォン・マンシュタイン(会話) 2022年12月30日 (金) 03:38 (UTC)
- 一週間程経ちましたが、特に異論等ないようなので上記の写真で編集を行います。また、ご意見等ありましたらノート等でお願いします。--エーリッヒ・レヴェンスキー・フォン・マンシュタイン(会話) 2023年1月6日 (金) 16:09 (UTC)
在位期間の日本について
[編集]「第二次世界大戦前に即位し、日本が復興するまで60年余りに亘って在位し」とありますが、復興というと「もはや戦後ではない」と言われた昭和31年ごろまでを思い浮かべますし、在位期間の前半でしかありません。適当な表現が思い浮かばなかったので「まで」を含まないように書き換えましたが、在位期間の日本を表すいい表現があったら置き換えてもらいたいです。 2017年3月14日(会話) 2020年8月16日 (日) 07:24 (UTC)