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バタビア沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バタヴィア沖海戦から転送)
第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 南方作戦 > バタビア沖海戦
バタビア沖海戦
戦争太平洋戦争
年月日1942年2月28日 - 3月1日
場所インドネシア・バンタム湾沖
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オーストラリアの旗 オーストラリア
オランダの旗 オランダ
指導者・指揮官
大日本帝国の旗 原顕三郎
大日本帝国の旗 栗田健男
オーストラリアの旗 ヘクター・ウォーラー英語版  
アメリカ合衆国の旗 アルバート・ルックス英語版  
戦力
重巡洋艦2
軽巡洋艦1
駆逐艦13
(輸送船団約50隻)
重巡洋艦1
軽巡洋艦1
駆逐艦1
損害
駆逐艦3小破
掃海艇1、輸送船1沈没、輸送船2、病院船1大破)
重巡洋艦1
軽巡洋艦1
駆逐艦1沈没
警備艇複数隻沈没[1]
南方作戦

バタビア沖海戦(バタビアおきかいせん)は[2]太平洋戦争中の1942年昭和17年)2月28日深夜[3]から3月1日未明にかけて[4]日本軍連合軍との間で行われた海戦のこと[5][6]日本海軍艦隊とABDA連合艦隊の夜間砲雷撃戦[7]

連合軍側の呼称はスンダ海峡海戦[8](Battle of the Sunda Strait)。

概要

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1942年(昭和17年)2月下旬、連合軍の東南アジア防衛線は完全に崩壊し、日本軍は連合軍の重要拠点ジャワ島攻略作戦を発動した[9][10]。オランダ海軍カレル・ドールマン少将は連合軍残存艦艇を率いて日本軍輸送船団撃滅を企図したが日本海軍護衛艦隊に撃退され、ドールマン少将は戦死した(スラバヤ沖海戦[11][12]

連合軍艦隊に加わっていたアメリカ海軍重巡洋艦1隻、オーストラリア海軍軽巡洋艦1隻、オランダ駆逐艦1隻は戦場から退却後、ジャワ島とボルネオ島間のスンダ海峡を通過して南方への脱出を試みる[13]。 しかし3月1日未明、ジャワ島西方にて上陸作戦中の日本軍輸送船団と水雷戦隊と遭遇[14]、迎撃されて2隻とも撃沈された[15][16]。蘭駆逐艦も撃沈された(座礁放棄)[17]。日本海軍は誤射で輸送船数隻を失ったが[18][19]、ジャワ島攻略作戦への影響は最小限だった[13]

海戦の背景

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連合軍の行動

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1942年(昭和17年)2月27-28日のスラバヤ沖海戦(昼戦、夜戦)でドールマン少将ひきいる連合軍艦隊は[20][21]、ドールマン少将の戦死と軽巡デ・ロイテルジャワと駆逐艦数隻の喪失により、統制を失った[22]。 残存艦隊のうち、アメリカ海軍重巡洋艦ヒューストン[23]オーストラリア海軍軽巡洋艦パースはスラバヤ沖海戦で戦死したドールマン少将の最期の命令により先任のパース艦長ヘクター・ウォーラー大佐の指揮下でジャワ島バタビア(現ジャカルタ)に撤退し、2月28日朝、バタビアに到着した[24]。しかし、バタビアは最早連合軍にとって安全な場所ではなく、戦力の再編成を行うためにABDA司令部よりスンダ海峡経由でジャワ島南岸のチラチャップへ移動する命令が下された。

2月28日夕刻、寄港から僅か半日でヒューストンとパースの2隻が出港した[25]オランダ海軍駆逐艦エヴェルトセン(戦史叢書ではエバステン、またはエヴェルツェンと表記)が護衛するはずであったが出撃準備が間に合わず、後から続くこととされた。しかし、遅れて出港したエヴェルトセンは先行部隊が交戦しているのを目撃し、圧倒的な日本艦隊との接触を避けて海峡を通過しようとした[26]。その後、先行部隊が壊滅した約1時間半後に日本軍駆逐艦(白雲、叢雲)に捕捉されて大破し、サブク島の海岸に擱坐して失われた(詳細後述)[26][27]

日本軍の行動

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一方、日本軍は2月18日に今村均陸軍中将率いる第16軍が西部ジャワ島攻略(蘭印作戦[9]のため輸送船56隻に分乗し、カムラン湾を出撃していた[28][29]。 これを護衛するのは第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将[28]指揮の第三護衛隊(軽巡2隻〈名取、由良〉[30]、駆逐艦15、水雷艇2、掃海艇5、その他3、計27隻〈進軍中、転出・編入による増減あり〉)であった[31]。 これに加えて西方支援隊として第七戦隊(司令官栗田健男少将)の最上型重巡洋艦4隻(第1小隊〈熊野鈴谷〉、第2小隊〈三隈最上〉)、第19駆逐隊(浦波、磯波、敷波)が間接支援を行っていた[28][32]。 またジャワ島南方に南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官、旗艦愛宕)直率の南方部隊本隊と、機動部隊指揮官南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官、旗艦赤城)の南雲機動部隊が進出し、蘭印作戦全体を支援した[28][21]

2月20日、バリ島攻略中の日本軍輸送船団は連合軍艦隊に襲撃された[33]。連合軍艦隊は撃退されたが[34]、いまだ複数隻の巡洋艦と駆逐艦を有していた(バリ島沖海戦[35][36]。 2月22日1500頃、北緯1度24分・東経107度55分地点で「ジャワ南方に有力艦隊あり」との情報により、第16軍輸送船団は反転北上した[37]。当時、馬來部隊(指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊司令長官)の重巡鳥海や駆逐艦綾波、空母龍驤などはベトナム南部サンジャックにあって27日にシンガポール入港式を挙行しようと準備中で[38][39]、「これは何たる事だ」と述べる陸軍関係者もいたという[37]。第16軍の中では「スマトラ島に上陸し、舟艇機動(大発動艇)で西部ジャワに上陸すべき」との意見もあった[37][32]。陸海軍の各部隊指揮官協議の末、ジャワ上陸は2月28日開始と決定された[34][10]。 2月23日、第16軍輸送船団は再び反転し、南下を再開した[35][32]

2月27日0530、バタビア北方約140浬で第16船団主力より東海林支隊(輸送船7隻)が分離した[40]。 同日、重巡熊野水上偵察機が「連合軍艦隊が輸送船団に接近中」と報告したが、連合軍艦隊との決戦をのぞむ第三護衛隊指揮官(原顕三郎第五水雷戦隊司令官、軽巡名取座乗)と、敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将(熊野座乗)は一日近く電文の応酬をくりひろげた[41][42]。 度重なる船団の反転により、第16軍司令部では「本日(27日)、馬來部隊(第一南遣艦隊)がシンガポール入港式[43]を行っているのは理解に苦しむ」という空気が流れた[41]。 第三護衛部隊と第七戦隊のやりとりを受け、みかねた連合艦隊司令部は『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令した[42]。第七戦隊(栗田司令官)の行動について小島秀雄(海軍少将)は『あとで第七戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。先任参謀いわく、軍令部に、第七戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。大事にしてくださいと言われて、後におるやつがあるものか』と批評している[44]。 当時、第16軍輸送船団は今村中将と第二師団の輸送船49隻・護衛部隊(軽巡〈名取〉、第22駆逐隊第1小隊〈文月、皐月〉、第5駆逐隊〈春風、旗風、朝風、松風〉、第11駆逐隊〈初雪、白雪、吹雪〉、第12駆逐隊〈白雲、叢雲〉)、東海林支隊(歩兵第230連隊長東海林俊成大佐。輸送船7隻〈八重丸、豊福丸、甲谷陀丸、ぐらすごう丸、諏訪丸、打出丸、山月丸〉[45]、軽巡〈由良〉、第6駆逐隊第1小隊〈暁、響〉、第22駆逐隊第2小隊〈長月、水無月〉)[46]、馬來部隊協力部隊(第七戦隊〈熊野、鈴谷、三隈、最上〉、第19駆逐隊〈浦波、磯波、敷波〉)、アナンバス在泊の特設水上機母艦2隻(神川丸、山陽丸)、サンジャックを出港予定の空母龍驤と駆逐艦汐風[47](2隻とも27日0850の南方部隊命令、同日1150の馬來部隊発令による)[48]という状況だった[41]。一連の連合艦隊の注意(27日1430)、南方軍電令(1600)、蘭印部隊命令(1800)により、龍驤と汐風はバタビア攻略部隊に編入されてジャワ方面に出撃、さらに栗田少将がバタビア攻略部隊を指揮することになった[41]

2月28日0120、第五水雷戦隊司令官は「由良ハ固有隊ニ復帰セヨ、各隊ハ予定ノ如ク行動スベシ」を電令、一号方面部隊(名取)はパンタム湾とメラク湾へ、二号方面部隊(由良)はパトロール方面にむかった[49][50]。同日1200、日本軍偵察機は第七戦隊第1小隊(熊野〈艦長田中菊松大佐〉、鈴谷〈艦長木村昌福大佐〉)の南方48海里に巡洋艦1と駆逐艦1(重巡ヒューストンと軽巡パース)を発見した[50]。1417、日本軍偵察機は「バタビアの20度10カイリにグラスゴー型一、軽巡一停止す」と通報したので、栗田司令官は1450に反転北上、1700に「バタビア港外に重巡一、軽巡一碇泊、港内に軽巡一アリ」と電報した[50]。結局、栗田司令官指揮下の4隻(熊野、鈴谷、浦波、磯波)は戦闘に参加しなかった[51]

日本艦隊(第16軍輸送船団)[52]は2月28日2020日にジャワ島予定攻略地点に到着、船団はメラク方面甲地区(那須支隊、第2歩兵団長那須弓雄陸軍少将。香洋丸、北明丸、神州丸《巴組汽船、龍城丸と同名》[53]、ころんびや丸、あとらす丸、降南丸、あきつ丸)[54]、メラク方面乙地区(福島支隊、歩兵第4聯隊長福島久作陸軍大佐。あきつ丸、桃山丸、ぱしふぃっく丸、喜山丸、麗洋丸、津山丸、しどにい丸)[55]、バンタム湾(今村中将、第16軍主力)に向けて分散した[40][50]。 3月1日午前0時を期してあきつ丸以下の船団がメラク湾に、神州丸以下の船団がバンダム湾に、パトロール方面に二号方面部隊(由良ほか)が、それぞれ入泊して上陸作戦を開始した[50][56]。海戦当日の月齢は13、月明はあったが薄靄が垂れこめていたという[57]。パンタム湾到着時、日本側は監視砲艦2隻を発見して砲撃、擱座させた[40]。春風と吹雪によりオランダ監視艇レイゲル(592トン)撃沈、初雪と吹雪により特設掃海艇1隻(198トン)擱座、海戦後に白雪が監視艇シリウス(936トン)擱座鹵獲であったという[1]

参加艦艇

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日本軍側

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第三護衛隊(指揮官:第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将)[56]

バンタム湾方面
メラク湾方面
パトロール方面[46](夜戦には参加せず)[30]

西方支援隊

  • 第7戦隊第2小隊(指揮官:三隈艦長)
  • 第19駆逐隊小隊[59]

上陸船団

連合軍側

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ABDA連合部隊

戦闘経過

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第一次合戦

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先行した2隻の連合軍巡洋艦隊(パース、ヒューストン)は[60]、途中のジャワ島バンタム湾(バビ島)付近に差し掛かったとき、前方に日本軍の神州丸以下の輸送船団を発見した[25]。付近に護衛艦艇を発見できなかったことから、両艦はこれを攻撃すべくバビ島の東側をまわってパース-ヒューストンの単縦陣で突撃を開始した[61]。 しかし、既に両艦は3月1日0009(0時9分、以下時間は数字表記のみ)、バビ島西方で哨戒を行っていた駆逐艦吹雪(第11駆逐隊)に発見されていた[62][63][61]。吹雪は2隻の後方8,000mを追尾、敵艦の行動を逐一護衛司令部に報告していた[62]。一方、セントニコラス岬沖合いで哨戒中だった原司令官座乗の軽巡名取、第11駆逐隊(初雪、白雪)も0018、東方2万mに敵艦を発見する[63]。更に0029、パンジャン島沖合いを哨戒中の駆逐艦春風(第5駆逐隊)も距離8,000mで敵艦を発見、通報する[63]。しかしこの時点においても連合軍の2艦は未だに日本軍の護衛部隊を発見しておらず、突撃を続けていた[62]

原司令官は一刻の猶予も無いと判断、第三護衛隊全艦に対して集結命令を出すと、北方沖合を哨戒中だった西部支援隊(第七戦隊第2小隊〈三隈、最上〉、第19駆逐隊〈敷波〉)に対しても集合するよう命じた[64]。続いて名取と第11駆逐隊に「魚雷戦用意」を下令、また第5駆逐隊(春風、旗風、朝風)に集結を命じた[64][65]。原司令官は迎撃準備を整える一方、敵が味方重巡の出現により形勢不利と考えて遁走することも警戒していた[64]。従って戦闘は軽巡名取と駆逐隊で敵艦を広い海面に誘い出し、味方船団からも引き離した上で一挙に戦力を集中して撃滅する、という方針を立てた[64]

しかし、そうこうしているうちにパースとヒューストンは日本軍輸送船団に接近、0037まずパースが照明弾を発射した。これに続いてヒューストンが輸送船に対して主砲で砲撃を始めたが、遠距離砲戦のため命中弾はなかった。一方、連合軍はようやく後方に艦がいることに気づいた[51]。パースが発光信号で誰何を行った直後の0044、後方を追尾していた駆逐艦吹雪が距離2,500mでヒューストンに対して魚雷9本を発射し、更に12.7センチ主砲を16発発射した(吹雪は魚雷命中と誤認)[64]。これに対して2隻(パース、ヒューストン)は面舵で急旋回を行い魚雷を回避しつつ、照射砲撃で反撃したが、吹雪は煙幕を展張して避退した[64]。また船団に対する2隻(パース、ヒューストン)の砲撃開始と『敵機吊光投弾ヲ投下ス』を見た春風(第5駆逐隊司令駆逐艦)が連合軍2隻(パース、ヒューストン)と船団の間に割って入り、0037から0057にかけて煙幕を展張した[61]。この煙幕は当時まだレーダーを装備していなかった連合軍艦船に対して極めて有効に働き[65]、これによって連合軍の両艦は船団砲撃が出来なくなった。

原司令官も敵艦の味方船団への砲撃開始を確認した直後の0045、これを救援すべく麾下の第5駆逐隊と第11駆逐隊に対して「駆逐隊突撃せよ」と下令した[64]。しかし船団傍にいた第5駆逐隊の旗風は敵艦との距離が3,500mまで近接しており、0052照射砲撃を開始したが12センチ砲4門では巡洋艦2隻の相手にはならず、反撃を受けて避退、一旦集結地点へ向かい北上した[61]。第5駆逐隊は0102、セントニコラス沖北方約10kmの海上で合流すると単縦陣となり、突撃を開始した[64]

第二次合戦

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原司令官の突撃命令にともない、各駆逐隊は各々敵艦に向けて突撃を仕掛けた[66][61]。0110、まず第11駆逐隊(初雪、白雪)が距離3,500mまで接近すると魚雷を各艦9本、計18本を発射すると煙幕を展開して北方に避退した[66]。第5駆逐隊は0110に右舷同航の態勢で魚雷を発射しようとしたが、春風は被弾して舵故障(春風艦長古要桂次少佐は、魚雷発射失敗のため回頭と回想)[65]、旗風は至近弾の水柱で発射できず、0113朝風のみ距離3,700mで魚雷6本を発射した[66]。旗艦名取は0113に照射砲撃を開始、1分後に右同航戦で魚雷4本を発射すると「発射終了セルモノハ名取ニ合同セヨ」と下令、煙幕を展開しながら北方へ避退した[66]。同時刻、それぞれ戦場に到着した各艦(三隈、最上、敷波、白雲、叢雲)は敵艦との距離をつめつつ、襲撃の機会をうかがった[66]敷設艦白鷹は南下すると0056から戦闘に加入し、0114に命中弾を記録した[66][61]

名取と第11駆逐隊は北方へ離脱しつつ魚雷の次発装填を急ぎ、第12駆逐隊(白雲、叢雲)は急速に東進、また第一撃で射点を逸して魚雷を発射できなかった旗風と春風は再度の襲撃運動に入っていた[61]

第三次合戦

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0116、重巡三隈は水上偵察機1機を射出した[66]。三隈艦長崎山釈夫大佐の報告によれば全機発進を命じたものの、2号機と3号機が接触事故を起こし、1号機しか発進できなかったという[67]。0119、第七戦隊(三隈、最上、敷波)が戦闘に参加する[68]。まず、距離11,200mから七戦隊(三隈、最上)はそれぞれ6本(計12本)の魚雷を発射するが、そのまま直進するとバビ島にぶつかるため、左に反転した[68][69]。 0122、距離11,000mで照射砲撃を開始、連合軍艦隊2番艦(ヒューストン)に砲撃を集中した[68]。ヒューストンは次々と命中弾を受け次第に速力が低下し始めた[68]。しかしここで三隈の主接断器に故障が生じ探照灯等の電気系統が麻痺、主砲射撃が出来なくなった[68]。三隈に続行する最上のみ砲撃を続け、0127に魚雷6本を発射する[68]。三隈の電気系統故障は0130に復旧、「我今ヨリ敵ノ止メヲ刺ス」と全軍に電報したのち、2番艦(ヒューストン)に9,000mから照射砲撃を開始した[68][69]。第5駆逐隊は敵艦からの砲撃に悩まされつつ、戦闘を続けた。春風は0126に魚雷6本をパースに向け発射、2分後に命中とおぼしき水柱を確認した[68][69]。ただし古要(春風艦長)は、発射した魚雷は日本軍輸送船団の方に疾走したと回想している[70]。旗風は0128に距離3,800mから魚雷6本を発射、朝風と共に西方に避退した[68]。 第12駆逐隊は敵艦に接近、叢雲は0130-0132に魚雷9本を発射、つづいて照射砲撃を実施した[68][71]。名取は0130に距離8,000mで照射砲撃を開始、さらに第11駆逐隊、第12駆逐隊、第5駆逐隊を呼び寄せて0200までに単縦陣を形成すると、南進してヒューストンを目指した[69]。日本側では敷波が至近弾によりスクリューに軽微な損傷を受けた[68][72]

第四次合戦

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0130以降の第七戦隊や各駆逐艦の砲撃雷撃により、連合軍巡洋艦2隻(パース、ヒューストン)は沈没寸前となっていた[73][74]。0142、被雷したパースは急速に沈没していった[75][76]。682名(士官45名、水兵631名とも)の乗組員のうち、ウォーラー艦長を含む353名が戦死(士官23名、兵329名とも)、100名(105名とも)が捕虜生活中に死亡、229人が帰国した[77][78]

残ったヒューストンは15ktで走っていたが、機関室への命中弾で機関科兵員が全滅[75]、次々と命中する敵弾により既に主砲は沈黙し、僅かに数門の高角砲が火を吐くだけになっていた。日本軍はこの艦に対し手を緩めず攻撃を続け、ヒューストン艦内は大混乱に陥った[25]。この時点で既に被雷4本以上、被弾50発以上の損害を受け浮いているのが不思議な状態であった。0156、ヒューストンの主砲が沈黙したことを確認した第七戦隊第2小隊(三隈、最上)は砲撃を中止、続行していた敷波を分離してヒューストンに止めをさすことにした[73]。三隈水雷長が「敷波は魚雷を発射していないようだから撃たせてはどうか」と進言した為である[67]。敷波は、0159にヒューストンへ向け九〇式魚雷を1本発射した[73][69]。ヒューストンは沈没寸前まで機銃で反撃していたので、敷波は更に砲撃を加えた[74]。ヒューストンでは既に艦長A・H・ルックス大佐が戦死しており副長が指揮を代行していたが、敷波の魚雷命中を受けて総員退去命令が下された(総員退去命令後、艦橋への直撃弾で艦長戦死とも)[77][76]。そして0206、ヒューストンは転覆し、艦尾から沈んでいった。ヒューストンの乗組員は1008名中、368名が日本軍に救助されたが[74]、そのうち76名は収容所内で死亡、266名が戦後帰国した[77]。日本艦隊は救助した捕虜からパースとヒューストンの艦名を知った[73][72]

同士討ち

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海戦自体は約2時間の戦闘で連合軍巡洋艦2隻撃沈、日本軍の損害軽微(白雪、春風、敷波小破)と日本海軍の一方的な勝利に終わったが[79][80]、0135パンジャン島南方で日本軍輸送船団を直衛していた第二号掃海艇が突然右舷缶室に魚雷1本の直撃を受け、艦体切断したのち転覆した[81]。戦死傷者約40名[82]。 0138に陸軍輸送船の佐倉丸日本郵船、9,246トン)の左舷4番船倉に魚雷1本が命中、さらに0200頃に左舷機関室に魚雷1本が命中して佐倉丸は沈没した。0140に陸軍病院船の蓬莱丸(大阪商船、9,192トン)の左舷機関室に魚雷1本が命中し、横転着底した。また、陸軍輸送船の龍野丸(日本郵船、7,296トン)が魚雷を回避中に座礁するという損害が出た。第16軍司令官今村均中将座乗の陸軍特種船揚陸艦龍城丸(神洲丸)にも魚雷が命中して、同艦は大破着底した[83][84]。今村中将は海上へ投げ出され、漂流後0430に救助された[81][85]。第16軍司令部首脳に被害はなかった[79]。また揚陸作戦・攻略作戦全体に大きな影響はなかったものの[86]、第16軍司令部は龍城丸沈没と無線機・暗号書喪失による不便に堪えねばならなかった[83][87]。 今村中将は「極く強い電光をかがやかして湾内をかけめぐる2隻の高速魚雷艇」に撃沈されたと回想している(後述参照)[88]。日本側は連合軍側の魚雷艇とした[89]。戦史叢書3巻『蘭印作戦』でも「連合軍の高速魚雷艇が突っ込んできた。その突入してきた時機は、ちょうど三隈、最上以下が砲撃戦、雷撃戦を展開していた最中で、彼我の魚雷が交錯していた。」[83]、「(上陸部隊が海上を見ると)高速魚雷艇が照射しながら、わが輸送船を砲撃していた。龍城丸が魚雷を受けて傾斜しているのが見えた。」[87]と記述している。

日本海軍では海戦直後から原因調査したが、連合軍艦艇から魚雷が発射された形跡も無く、また他に敵影も見られなかった。そして輸送船の被雷時刻、射線方向、爆発の威力から第七戦隊(最上)が0127に発射した魚雷(第二次発射)が敵艦に命中せず、そのまま射線延長線上の輸送船団に到達した可能性が高いことが判明した[81]。一部文献では、吹雪が発射した魚雷が龍城丸等を撃沈したとする[90][91]。当時の初雪砲術長は「第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)の魚雷と思えて仕方がない」と回想している[92]

結局、日本陸軍の上陸点付近で九三式魚雷の尾部が引き上げられる事態に至り、第三護衛隊司令部は原因は味方の誤射と判断した[81][70]。今村中将に対して、護衛隊司令部一同が謝罪することになった[84]。謝罪をうけた今村司令官はこれを快く受け入れると、この事件に関しては敵魚雷艇の損害とすることを提案、海軍の顔を立てた[81][88]。護衛隊司令官の原少将はこの後、この海戦の戦訓所見として「輸送船団至近ノ海面ニ於ケル戦闘ニシテ、シカモ多数ノ夜戦隊挟撃ノ態勢ニ於ケル魚雷戦ニ於イテハ、射線方向ニ対シテ特ニ深甚ノ注意ヲ要ス」と戦闘詳報に明記している[93]。『太平洋の試練』では「比較的狭い海域でこれほど多数の魚雷を発射すれば、背後の輸送船団に命中するのは当然だ」と評している[76]

なお1942年(昭和17年)12月8日附で山本五十六連合艦隊司令長官は、本海戦に参加した護衛部隊と3隻(三隈、最上、敷波)に対し「各隊協力善戦奮闘シ遂ニ敵ヲ殲滅シテ克ク護衛ノ任ヲ全フセルハ功績顕著ナリト認ム」として感状をおくった[94]。だが、三隈はすでにミッドウェー海戦で沈没し、三隈艦長の崎山釈夫大佐も戦死していた[95]

海戦終了後

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3月1日0325-0330、第12駆逐隊(白雲、叢雲)はソワートウェー島西方約5浬でオランダの駆逐艦エベェルツェン(エヴェルトセン)を発見、砲撃を行った[5][96]。第12駆逐隊はエベェルツェンに命中弾を与えたが(翌朝の日本側調査では12.7cm砲弾約10発命中)[97]、前方に機雷原があるとの事前情報を得ており、0418に追撃を中止した[98]。エベルツェンは煙幕を展開して逃走後に、セグク島で擱座した[5]。乗組員は陸上に脱出した[99]。午前中、叢雲は座礁したエベェルツェンを発見、臨検隊を送って調査を行うことにした[26]。臨検隊が叢雲に戻ったのち、エヴェルツェンで爆発が発生した[99]。3月2日にも爆発が起こり、沈没した[99]

第12駆逐隊がエベルツェンを撃破した頃、第11駆逐隊(初雪、吹雪)はバビ島南方を航行中の5000トン級給油船を砲撃して撃沈した[5]。第七戦隊司令官栗田健男少将が率いる第七戦隊第1小隊(熊野鈴谷)と第19駆逐隊(浦波磯波)はバタビア沖海戦の後、3月4日0100に南緯4度48分 東経107度34分 / 南緯4.800度 東経107.567度 / -4.800; 107.567地点で七戦隊第2小隊(三隈、最上)、第四航空戦隊(龍驤)と合流、5日1900にシンガポールへ帰投した[100]

同じ3月1日昼過ぎには、イギリスの重巡エクセターと駆逐艦2隻(ポープエンカウンター)も撃沈されており、ABDA連合艦隊の主力は失われた[22]。スラバヤ沖海戦に参加した艦艇のうち脱出に成功したのは、バリ海峡の突破に成功したアメリカ海軍の駆逐艦4隻のみだった[22]。その他、多くの小艦艇がオーストラリアやセイロン島を目指し脱出を試みたが、ジャワ島南方海面には南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官直率の南方部隊本隊(愛宕、高雄、嵐、野分)と第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の南雲機動部隊が行動しており、脱出艦艇の捕捉攻撃をおこなっていた[101][102]。アメリカの駆逐艦エドソールや給油艦ペコスのように、撃沈される艦もあった[76]。アメリカ海軍の軽巡2隻は大破して本国に回航され、生き残った。またイギリスの軽巡2隻とオーストラリアの軽巡1隻を中核とした部隊があったが、戦闘に参加しないまま早期にスンダ海峡を突破して脱出した。 3月1日以降日本軍は大本営発表を行い[14]、スラバヤ沖海戦・バタビヤ沖海戦の戦果を発表した(実際の戦果、損失とは異なる)[103]

第16軍は3月1月、ジャワ島各所に上陸し、9日にはオランダ軍が降伏した[13][104][105]。ジャワ島の要地バンドンも陥落し、残存連合軍も順次降伏、日本軍は蘭印を掌握した[101][106]。本海戦に参加した各隊・各艦は3月4日以降、次作戦に備えてシンガポールやカムラン湾へ移動していった[100]。なお、バンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊であるあきつ丸以下は敵艦隊との遭遇も無く無事に上陸を成功させた[54][55]。この際、メラク島攻略部隊は、連合軍艦艦艇から脱出後に漂着していた水兵35名を捕虜とした[55]

その後、神州丸と龍野丸はサルベージされて修理された[84]。神州丸は1945年(昭和20年)1月3日、台湾の高雄沖にて米機動部隊の空襲を受けて大破放棄され、漂流中にアメリカの潜水艦アスプロの雷撃で撃沈された。龍野丸は応急タンカーに改装され[107]、海軍徴用船となって行動[108]したが、1944年(昭和19年)1月15日にマニラから門司に向かう途中、ルソン海峡でアメリカの潜水艦スレッシャーが発射した魚雷2本が命中し、轟沈した[109]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 日本水雷戦史、108-109頁
  2. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 55–57バタビア沖海戦
  3. ^ 戦史叢書102巻、110頁「昭和17年(1942年)2月28日 バタビア沖海戦(~3月1日)」
  4. ^ 戦史叢書102巻、110頁「昭和17年(1942年)3月1日 バタビア沖海戦(3-475、26-418.461、35-443、80-197)」
  5. ^ a b c d 戦史叢書26巻、526頁「西部ジャワ方面部隊、敵を一掃」
  6. ^ #蘭印のお話コマ55(原本80頁)『「大本營發表」(昭和十七年三月一日午後五時)ジャバ海方面において、三月一日早朝までに判明せる戰果、左の如し。(一)スラバヤ方面海軍作戰部隊は、二月二十七日薄暮より二十八日未明までに、敵米英蘭聯合艦隊に属する巡洋艦三隻、驅逐艦六隻を撃沈、巡洋艦四隻を大破せり。「註」本海戰をスラバヤ沖海戰を呼稱す。/(二)バタビヤ方面海軍作戰部隊は、三月一日早朝、米大巡一隻、濠巡一隻を撃沈せり。「註」本海戰をバタビヤ沖海戰と呼稱す。/この兩海戰において、我が蘭印方面所在艦隊は、西南太平洋方面敵艦隊をおほむね殲滅し、なほ殘敵掃蕩中なり。』
  7. ^ #海戦の変貌コマ89(原本140頁)『バタビヤ・スラバヤ沖兩海戰 昭和十七年三月一日結構された我が陸海軍協同作戰に成るジャワ島上陸作戰こそ、開戰以來の大規模な作戰であつた。而もこの作戰行動開始以來、上陸成功までの我が海軍の『バタビヤ沖』『スラバヤ沖』兩海戰こそ、開戰以來最初の本格的空中、海上、水中三方面よりする大海戰であつたといへる。
    即ち米英蘭豪の聯合艦隊に對して、我が巡洋艦戰隊と、これに策應する水雷戰隊の晝間砲戰、更にその夜間砲雷撃戰、これに米潜水艦の肉薄戰、航空部隊の連續的猛攻、正に近代的立體海戰を展開し、敵艦隊主力米甲巡ヒューストン、英甲巡エクゼターをはじめ敵艦艇撃沈總計廿三隻といふ大戰果をあげ、敵の聯合勢力を全滅せしめ、而も陸軍大部隊の輸送護衛の任務を完遂し、ジャワ島攻略成功の端緒を拓した功績こそ、世界海戰史上特筆大書さるべきものである。』
  8. ^ 日本水雷戦史、113-114頁「味方の魚雷が命中」
  9. ^ a b 戦史叢書35巻、441-442頁「東、西ジャワ同時上陸」
  10. ^ a b 戦史叢書80巻、196頁「ジャワ島の攻略/攻略日程の延期」
  11. ^ #ニミッツの太平洋海戦史39頁
  12. ^ 戦史叢書80巻、196-197頁「スラバヤ沖海戦」
  13. ^ a b c 戦史叢書26巻、417-418頁「作戦経過の概要」
  14. ^ a b 戦史叢書35巻、443頁
  15. ^ 高松宮日記4巻156頁『三、成果』
  16. ^ 戦史叢書80巻、197頁「バタビア沖海戦」
  17. ^ #海軍作戦史大東亜戦争第一年コマ66(原本120頁)『翌日、我が護衛部隊は更に敵の驅逐艦を發見してこれも撃沈した。』
  18. ^ 大和反転の真相 2018, pp. 72–75ジャワ上陸作戦で魚雷誤射?
  19. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, p. 57今村司令官の漂流秘話
  20. ^ 戦史叢書102巻、109頁「昭和17年(1942年)2月27日 スラバヤ沖海戦(米英蘭連合艦隊と上陸掩護艦隊との交戦)」
  21. ^ a b 戦史叢書3巻、472-474頁「スラバヤ沖海戦、東部ジャワも一日延期」
  22. ^ a b c #太平洋の試練(下)44-45頁
  23. ^ ヒューストンはジャワ沖海戦などにより損傷状態であり、第3砲塔は既に使用不能だった。
  24. ^ #連合国艦隊壊滅すp.246
  25. ^ a b c #太平洋の試練(下)46頁
  26. ^ a b c 日本水雷戦史、114-115頁「エベルトセン撃沈」
  27. ^ #連合国艦隊壊滅すp.252
  28. ^ a b c d 戦史叢書3巻、455-457頁「進航開始、上陸日を二日延期」
  29. ^ 戦史叢書102巻、108頁「昭和17年(1942年)2月18日、第16軍主力乗船の船団、カムラン湾を出発」
  30. ^ a b 日本軽巡戦史、135-136頁「西部ジャワ上陸作戦の由良」
  31. ^ 戦史叢書3巻、458頁
  32. ^ a b c 戦史叢書3巻、467頁
  33. ^ 戦史叢書3巻、418頁「挿図第39、バリー島攻略戦時の状況」
  34. ^ a b 戦史叢書3巻、416-419頁
  35. ^ a b 戦史叢書3巻、462頁「挿図第45、二月二十日~二十三日の状況」
  36. ^ 戦史叢書80巻、192-193頁「バリ島攻略とバリ島沖海戦」
  37. ^ a b c 戦史叢書3巻、459頁
  38. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 91(昭和17年2月19日項)1650サンジャック入泊
  39. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 95(昭和17年2月25日)0800サンジャック発 昭南港に向かう
  40. ^ a b c 戦史叢書3巻、488-489頁「上陸、軍司令部の乗船被雷/海戦、被雷」
  41. ^ a b c d 戦史叢書3巻、471-472頁「連合軍艦隊出現、西部ジャワさらに一日延期」
  42. ^ a b #太平洋戦争の提督たち85-88頁『バダビヤ沖の栗田提督』
  43. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, pp. 96–97(昭和17年2月27日項)シンガポール入港式 鳥海、川内、20駆、その他
  44. ^ #完本太平洋戦争下444頁
  45. ^ 戦史叢書3巻、481-484頁「東海林支隊の作戦計画」
  46. ^ a b 戦史叢書3巻、527-529頁「東海林支隊の作戦」
  47. ^ 日本空母戦史、160-161頁「竜驤」
  48. ^ 戦史叢書3巻、470頁
  49. ^ 戦史叢書3巻、477頁「挿図第46、二月二十六日~二八日」
  50. ^ a b c d e 戦史叢書3巻、474-475頁「西部ジャワ方面」
  51. ^ a b 日本水雷戦史、110-111頁「バタビア沖海戦」
  52. ^ 海軍兵科将校106-107頁
  53. ^ 日本空母戦史、157頁
  54. ^ a b 戦史叢書3巻、495-497頁「一日における那須支隊」
  55. ^ a b c 戦史叢書3巻、498-499頁「一日における福島支隊」
  56. ^ a b 戦史叢書26巻、482頁「四.バダビア沖の海戦(二月二十八日〜三月一日)」
  57. ^ 海軍兵科将校110頁
  58. ^ 第5駆逐隊所属の駆逐艦松風は、第四航空戦隊の龍驤護衛のため不参加。第五水雷戦隊戦闘詳報『二月二十八日〇一二〇松風分離「カリマタ」海峡ニ引返シ4sfノ護衛ニ從事』
  59. ^ 第19駆逐隊の浦波磯波は第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)護衛のため不在、第19駆逐隊の綾波は重巡鳥海直衛のため不在。
  60. ^ 戦史叢書3巻、490頁「挿図、敵艦現出直後の態勢と敵艦の行動」
  61. ^ a b c d e f g 戦史叢書26巻、付図第七(その一)「バタビア沖海戦合戦図(昭和十七年三月一日)第一次合戦0009〜0100/第二次合戦0100〜0116」
  62. ^ a b c #連合国艦隊壊滅すp.248
  63. ^ a b c 戦史叢書26巻、483頁「第一次合戦(自〇〇〇九至〇一〇〇)」
  64. ^ a b c d e f g h 戦史叢書26巻、484-485頁
  65. ^ a b c #佐藤 艦長(文庫)275-278頁『バタビア沖海戦に参加』
  66. ^ a b c d e f g 戦史叢書26巻、485頁「第二次合戦(自〇一〇〇至〇一一六)」
  67. ^ a b 戦史叢書26巻、488-489頁「三隈艦長崎山釈夫大佐の報告」
  68. ^ a b c d e f g h i j k 戦史叢書26巻、486-487頁「第三次合戦(自〇一一六至〇一三二)」
  69. ^ a b c d e 戦史叢書26巻、付図第七(その二)「バタビア沖海戦合戦図(昭和十七年三月一日)第三次合戦0116〜0132/第四次合戦0132〜0206」
  70. ^ a b #佐藤 艦長(文庫)279-280頁『魚雷命中記録はウソ』
  71. ^ 海軍兵科将校、112頁「バタビア沖海戦合戦図」
  72. ^ a b 高松宮日記4巻145頁『(ジャバ)○「三隈」(略)「敷波」至近弾ニヨリ推進器故障。三戦速以上?《ジャバ沖》俘虜ノ言ニ依レバ他ノ一隻ハ「パース」ナリ』
  73. ^ a b c d 戦史叢書26巻、487頁「第四次合戦(自〇一三八至〇二〇六)」
  74. ^ a b c 日本水雷戦史、112-113頁
  75. ^ a b #連合国艦隊壊滅すp.249
  76. ^ a b c d #太平洋の試練(下)47頁
  77. ^ a b c #連合国艦隊壊滅すp.250
  78. ^ #連合軍艦艇撃沈す114頁
  79. ^ a b 高松宮日記4巻148頁『○第三護衛隊(五二=一-〇八〇〇)』
  80. ^ #海軍駆逐隊、平成27、173-174頁「敵砲火を吸収したオトリ役」
  81. ^ a b c d e 戦史叢書26巻、489頁「陸軍輸送船及び第二号掃海艇の被害」
  82. ^ 高松宮日記4巻、149頁「第一掃海隊(六三=一-一〇〇〇)三月一日〇一三五「バンタム」湾戦闘中、第二掃海艇「タクハン」島115°爆沈ニヨル戦死認定、准士官一、下士官兵三四(?)。重傷、兵一」
  83. ^ a b c 戦史叢書3巻、490-491頁
  84. ^ a b c 日本空母戦史、158-159頁
  85. ^ 高松宮日記4巻、154頁「第十六軍ノ司令官乗船沈没ノトキニハ軍司令官モ重油ノ海中ニ廿分位オヨガサレタ由、車輌兵器ノ沈メシモノ多ク、二次輸送ヲ繰リ上ゲ度トノ報告アリ。」
  86. ^ 高松宮日記4巻、152頁「○第十六軍(三月一日)」
  87. ^ a b 戦史叢書3巻、492-493頁「一日における第十六軍の作戦指導」
  88. ^ a b #目撃者昭和史7巻、115-116頁「軍司令官海を泳ぐ」
  89. ^ #海軍作戦史大東亜戦争第一年コマ66(原本120頁)『そしてヒユーストンにもまた火焔、爆發、沈没の最後がきた。パースの撃沈よりは一時間程遅れてゐた。敵も此の一戰は死物狂ひで戰つた。パース、ヒユーストンの外にも魚雷艇を繰り出して、我が輸送船團の中には少し傷つくものがあつた。』
  90. ^ 日本水雷戦史の114頁で「日本空母戦史158頁の記述は訂正する」と記載。
  91. ^ #連合軍艦艇撃沈す110-112頁『「吹雪」の魚雷、味方に命中』
  92. ^ 大和反転の真相 2018, p. 76.
  93. ^ 『「バタビヤ沖」海戦戦闘詳報』p.59
  94. ^ 昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 pp.13-14」 アジア歴史資料センター Ref.C12070429400 『○感状 蘭印部隊 第三護衛隊 第七戰隊第二小隊及敷波 昭和十七年二月爪哇攻略作戰ニ際シ第十六軍主力ノ乗船セル船團ヲ上陸點爪哇島西部地區ニ護衛スルニ當リ各部隊ハ周到ナル計畫ト緊密適切ナル協同ノ下ニ屡來襲スル敵潜水艦飛行機ヲ撃攘シ特ニ三月一日未明船團泊地進入直後之ヲ奇襲セントシテ侵入シ來レル米豪巡洋艦二隻及驅逐艦二隻ヲ發見スルヤ各隊協力善戰奮闘シ遂ニ敵ヲ殲滅シテ克ク護衛ノ任ヲ全ウセルハ其ノ功績顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十二月八日 聯合艦隊司令長官 山本五十六』
  95. ^ #重巡最上出撃せよ273-274頁
  96. ^ 海軍兵科将校113-117頁『砲術長の腕前』
  97. ^ 海軍兵科将校119頁『エバートセン砲弾命中個所』
  98. ^ 海軍兵科将校116頁(12駆は前年末に東雲を喪失したが、沈没原因を機雷と判断していた)
  99. ^ a b c 海軍兵科将校117-122頁『臨検隊の報告』
  100. ^ a b 戦史叢書26巻、528頁
  101. ^ a b 戦史叢書35巻、444-445頁「ジャワ全島の攻略」
  102. ^ 戦史叢書80巻、197頁「ジャワ島南方海面機動作戦」
  103. ^ #朝日、展望二コマ37(原本62-63頁)『右兩海戰の綜合戰果が同月三日大本營から次のごとく發表された。蘭印方面所在帝國海軍作戰部隊は二月二十七日ヨリ三月一日にいたるスラバヤ沖、バタビヤ沖兩海戰において同方面敵艦隊を撃滅せり、その戰果左の通り (一)撃沈せる敵艦隊主力ヒユーストン米甲巡(九,〇五〇トン) エクゼター英甲巡(八,三九〇トン) パース型乙巡(六八九〇トン) ホバート濠乙巡(六,九八〇トン轟沈) デ・ロイテル蘭乙巡(六,四五〇トン) ジャバ蘭乙巡(六,六七〇トン)/(二)その他撃沈せるもの―潜水艦七隻、驅逐艦八隻(うち二隻大損傷擱座)砲艦一隻、掃海艇一隻 本海戰においてわが方掃海艇一隻沈没、驅逐艦一隻小破せり』
  104. ^ 戦史叢書102巻、111頁「昭和17年(1942年)3月9日 第16軍、バンドン占領/蘭イ印軍全面降伏」
  105. ^ 戦史叢書80巻、197頁「ジャワ島占領」
  106. ^ #朝日、展望二コマ17(原本22-23頁)『三方面からジャバを攻略』
  107. ^ #松井 pp.110-111
  108. ^ #郵船戦時上 p.462
  109. ^ #郵船100年史 p.167

参考文献

[編集]
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  • 猪瀬直樹監修目撃者が語る昭和史 ミッドウェー海戦から玉砕戦へ 第7巻 太平洋戦争Ⅱ』新人物往来社、1989年9月。ISBN 4-404-01657-3 
    • 今村均『バンドン城下の誓い ―ジャワ上陸作戦―』
  • 宇垣纏成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。 
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6 
  • 奥本剛『日本陸軍の航空母艦 舟艇母船から護衛空母まで』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4499230520 
  • 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
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  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 
  • 古村啓蔵ほか『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7 
    • 戦史研究家伊達久『重巡戦隊の編成変遷とその航跡の全貌』
    • 当時「最上」側的士兼照射指揮官・元海軍大尉香取頴男『バタビア沖「最上」砲煙たえることなし 遠洋航海もなく直ちに実戦に投じられた少尉候補生の海戦初体験
  • 木俣滋郎「第8節 オーストラリア軽巡洋艦「パース」」『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』光人社NF文庫、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
  • 佐藤和正著 『太平洋海戦1 進攻篇』(講談社 1988年) ISBN 4062037416
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年5月。ISBN 4-7698-2009-7 
    • 同士打ち <駆逐艦「春風」艦長・古要桂次中佐の証言>(バタビア沖海戦時、駆逐艦春風艦長)
    • 価値ある敵 <駆逐艦神風艦長・春日均中佐の証言>(バタビア沖海戦時の駆逐艦白雪水雷長。戦争終盤の駆逐艦神風艦長)
  • 五月会『波濤と流雲と青春と 第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集』朝雲新聞社、1980年4月。 
    • 堀内茂彦『バタビア・スラバヤの日々』(当時海軍主計中尉。昭和16年7月〜昭和17年3月まで第12駆逐隊庶務主任として叢雲に乗艦)
  • 塩山策一ほか『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年7月。ISBN 978-4-7698-1647-8 
    • (258-269頁)当時海軍艦政本部員・海軍技術大佐塩山策一『マル秘強襲揚陸艦「神洲丸」始末記 舟艇三十七隻と飛行機十二機搭載の特殊船建造にあたった開発技術者の回想
  • 駆逐艦「天霧」先任将校志賀博「第四章 翻る軍艦旗」『海軍兵科将校』光人社、1985年3月。ISBN 4-7698-0264-1 
    志賀(旧姓保坂)は駆逐艦叢雲乗組としてバタビア沖海戦に参加。砲雷撃戦後、座礁したエヴェルツェンを臨検する。
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日』中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X 
  • 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0 
    • 当時「白雪」航海長・海軍中尉中村享三『十一駆逐隊「白雪」バタビア沖の砲雷撃戦 敵巡洋艦と対峙して雷撃やり直し。被弾負傷した航海長の手記
  • D・A・トーマス著、関野英夫訳『スラバヤ沖海戦 連合国艦隊壊滅す』明光社、1968年7月。 
  • イアン・トール(著)、村上和久(訳)「第七章 ABDA司令部の崩壊」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6 
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会『日本郵船戦時船史』 上、日本郵船、1971年。 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。 
  • 平間源之助著 著、平間洋一 編『軍艦「鳥海」航海記 平間兵曹長の日記 昭和16~17年』イカロス出版、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0634-1 
  • 深井俊之助、(バタビア沖海戦時の初雪砲術長)「第2章 航空時代の到来と駆逐艦「初雪」の激闘」『戦艦「大和」反転の真相 海軍士官一〇四歳が語る戦争』〈宝島社新書〉2018年7月。ISBN 978-4-8002-8494-5 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印攻略作戦』 第3巻、朝雲新聞社、1967年1月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<3> 昭和十七年四月まで』 第35巻、朝雲新聞社、1970年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 
  • 文藝春秋編「だれが真の名提督か <司会>野村實松田千秋小島秀雄黛治夫野元為輝横山一郎」『完本・太平洋戦争(下)』文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345930-8 
  • 「丸」編集部編「曾爾章 重巡「最上」出撃せよ ミッドウエーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
  • 歴史群像編集部編『勇躍インド洋作戦 南方資源地帯確保へさらなる進攻と南雲機動部隊の西進作戦を徹底分析』 第3巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年6月。 

関連項目

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