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バンカー・ヒル (空母)

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バンカーヒル (空母)から転送)
バンカー・ヒル
1944年3月27日(パラオ島近海にて)
1944年3月27日(パラオ島近海にて)
基本情報
建造所 フォアリバー造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 航空母艦 (CV) →攻撃空母 (CVA) →対潜空母 (CVS)
級名 エセックス級
愛称 ホリデー・エクスプレス (Holiday Express)
艦歴
起工 1941年9月15日
進水 1942年12月7日
就役 1943年5月25日
退役 1947年1月9日
除籍 1966年11月2日
その後 1973年、スクラップとして売却
要目
基準排水量 27,100 トン
満載排水量 36,380 トン
全長 872フィート (266 m)
水線長 820フィート (250 m)
最大幅 147フィート6インチ (44.96 m)
水線幅 93フィート (28 m)
吃水 34フィート2インチ (10.4 m)(満載)
主缶 B&W製 水管ボイラー×8基
主機 ウェスティングハウス蒸気タービン×4基
出力 150,000馬力 (110,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 33ノット (61 km/h)
航続距離 14,100海里 (26,100 km)/20ノット
乗員 士官・兵員2,600名
兵装
装甲
  • 舷側:2.5–4インチ (64–102 mm)
  • 飛行甲板:1.5インチ (38 mm)
  • 格納甲板:2.5インチ (64 mm)
  • 水密隔壁:4インチ (100 mm)
搭載機 90 - 100機
その他 艦載機用エレベーター(中央2基、舷側1基)
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バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV/CVA/CVS-17, AVT-9) は、アメリカ海軍エセックス級航空母艦の一隻で[1]、4番目に就役した。太平洋戦争ではマリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)、レイテ沖海戦(レイテ湾海戦)、沖縄戦など主要な戦いに参加し、「ホリデー・エクスプレス」の愛称で呼ばれた[注釈 1]。1945年5月11日、沖縄方面で神風特別攻撃隊零戦2機に突入されて大破、多数の死傷者を出す。アメリカ本土で修理中に日本の降伏を迎えた。

艦名はアメリカ独立戦争におけるバンカーヒルの戦いに由来する。この名を持つ艦としては1隻目である。

艦歴

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第二次世界大戦

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1941~43年

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バンカー・ヒルの進水式

「バンカー・ヒル」は、1941年9月15日マサチューセッツ州クインシーにあるベスレヘム・スチール株式会社のフォアリバー造船所にて起工した。1942年12月7日、ドナルド・ボイントン夫人の後援のもと進水1943年5月24日に初代艦長J・J・バレンタイン英語版大佐の指揮下で就役した[2]

「バンカー・ヒル」は6月末、アメリカ合衆国東海岸バージニア州ノーフォークで飛行隊を載せ、7月15日に整調航海のためトリニダードに向かった。3週間後にノーフォークに戻り、9月4日にパナマ運河カリフォルニア州サンディエゴハワイ真珠湾を経由して太平洋戦線へ向かった[3]

バンカー・ヒルには、1943年1月に新設された海軍第17戦闘飛行隊(VF-17英語版)が乗り込んでいた。VF-17は最新鋭のF4U戦闘機の性能に着目し[4]、離着陸に難のあったF4Uを空母で運用できるよう訓練を重ね、空母運用資格試験に合格した。しかし真珠湾に向け航海する途上、海軍がF4Uを空母で運用しないことを決定し[注釈 2]、VF-17は空母を降りてソロモン諸島の陸上基地に展開、代わりにF6Fを運用するVF-18が「バンカー・ヒル」で運用されることとなった[5][6]

「バンカー・ヒル」は10月19日に真珠湾を出港し、モントゴメリー少将の指揮下に入る。そこで新型正規空母「エセックス (USS Essex, CV-9) 」、軽空母「インディペンデンス (USS Independence, CV-22) 」らと第50.3任務群を編成した[7]。そして11月11日、第二次ラバウル空襲を実施する[8][注釈 3]

第50.3任務群の艦載機は、邀撃してきたラバウル航空隊第一航空戦隊瑞鶴翔鶴瑞鳳)派遣部隊の零式艦上戦闘機と交戦しつつ[注釈 4]、ラバウル在泊の水上艦艇を攻撃した[注釈 5]。 第50.3任務群は駆逐艦「涼波」を撃沈し、軽巡洋艦「阿賀野」と駆逐艦「長波」を撃破、駆逐艦「若月」や「浦風」に小被害を与えた[11]。この作戦において、かつて運用していたVF-17がVF-18と協同し、空母の上空警戒を担当することとなった[14][15]。ラバウルから飛来した第一航空戦隊の攻撃隊を[16]、第50.3任務群は直掩機と対空砲火で迎撃する[17]。VF-17のF4Uは再び着艦フックを装着し、「バンカー・ヒル」に着艦して給油を受けながら警戒任務を遂行した[18]。「バンカー・ヒル」艦上での活躍によりF4Uは艦上戦闘機として有望であることを示し、やがて空母部隊に広く配備されることとなる。

11月13日からギルバート攻略作戦(ガルヴァニック作戦)が開始され、バンカー・ヒルはタラワ環礁攻略にあたり航空支援を行い、同作戦の支援にあたった(連合軍海上部隊の戦闘序列[19]

1944年

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1943年末期から1944年初頭にかけて、「バンカー・ヒル」は軽空母「モンテレー (USS Monterey, CVL-26) 」と共にニューアイルランド島カビエンに対する空襲を実施した[20][21]フレデリック・C・シャーマン少将は旗艦を空母「サラトガ (USS Saratoga, CV-3) 」から「バンカー・ヒル」に変更し、アメリカ海兵隊ニューブリテン島グロスター岬上陸を支援する[22]グロスター岬の戦い[23]。1943年12月25日朝のカビエン空襲では[22]、日本軍の輸送船「天竜丸」が沈没、輸送船「清澄丸」および「第21号掃海艇」と「第22号掃海艇」などが損傷した[24]

当時の日本軍はビスマルク諸島アドミラルティ諸島の防備を増強するため、第八方面軍に対する増援輸送作戦を実施しており、これを “戊号輸送” と呼称した[注釈 6][注釈 7]。シャーマン隊(バンカーヒル、モンテレー)は、ハルゼー提督から再度のカビエン空襲を命じられる[29][注釈 8]

1944年1月1日早朝、日本軍索敵機が大型空母1隻と中型空母1隻を基幹とするアメリカ軍空母機動部隊を発見する[32]。その頃、戊三号輸送第二部隊(軽巡「能代[注釈 9]大淀」、駆逐艦「山雲」「秋月」)がカビエンに到着して物資を揚陸していた[31]。「バンカー・ヒル」と「モンテレー」の攻撃隊は、カビエンと、物資揚陸を終えてカビエンから離脱中の輸送部隊(軽巡2、駆逐艦2)を襲撃する[33]。零戦数機撃墜、「能代」が至近弾5発と直撃弾1発で小破、「大淀」と「山雲」が損害軽微という戦果にとどまった[34]

1月4日早朝、日本軍の戊二号輸送部隊(重巡「妙高」「羽黒」「利根」、駆逐艦「白露」「藤波」)がカビエンに到着して物資を揚陸する[31]。シャーマン隊はカビエン湾外で対潜哨戒中の睦月型駆逐艦2隻を集中攻撃した[35]。至近弾や機銃掃射で駆逐艦「文月」と「皐月」に損害を与えたものの、撃沈できなかった[36][注釈 10]。 さらに、重巡部隊を取り逃がした[36][40]

カビエン空襲実施後の「バンカー・ヒル」は、スプルーアンス中将指揮下の第58任務部隊に加わった。1月29日から2月8日にかけて、マーシャル諸島攻略支援を行った。同任務部隊に所属してトラック島空襲[注釈 11]マリアナ諸島空襲(2月23日)、パラオ諸島空襲(3月30日~4月1日)などに参加し、カロリン諸島一帯に展開する日本軍に打撃を与えた。

マリアナ沖海戦で至近弾を受ける

1944年(昭和19年)6月19日マリアナ沖海戦に参加する(連合軍海上部隊、戦闘序列)。日本海軍第一機動艦隊から出撃した艦上機群のうちの2機による急降下爆撃を受け、至近弾の炸裂により喫水線下に損傷を受ける。海戦終了直後にウルシー泊地で修理を受け、すぐに戦線に復帰している。その後も、レイテ沖海戦を含むフィリピン攻略などで活躍した。

なお、1945年初頭までの間に、艦橋の改装(前方の40mm機銃座の撤去および艦橋容積の拡張)および対空砲の増設等の工事を受けている[44]

1945年

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1945年2月15日には空母機動部隊による日本本土空襲に参加し、「バンカー・ヒル」艦載機は、東京都西部にあった軍用機工場の中島飛行機武蔵製作所を攻撃した[45]

硫黄島上陸作戦より、「バンカー・ヒル」はマーク・ミッチャー中将率いる第58任務部隊Task Force 58)の旗艦となる。沖縄戦では、沖縄水上特攻作戦に出撃した戦艦「大和」と第二水雷戦隊に対し、僚艦と共同して艦上機群による攻撃を行い、大和などを撃沈した(坊ノ岬沖海戦、4月7日)。また「バンカー・ヒル」と「ホーネット (USS Hornet, CV-12) 」の爆撃隊は、機械故障により単艦行動中の駆逐艦「朝霜」を発見し、爆撃により撃沈した[注釈 12]

しかし沖縄侵攻の支援中の「バンカー・ヒル」は、5月11日、日本海軍第五航空艦隊実用機の全力を特攻攻撃に投入する菊水6号作戦[注釈 13][47]の攻撃を受け、以下のように、2機の突入を受け大破した。

特攻機の突入で炎上する「バンカー・ヒル」

11日朝は、バンカー・ヒル艦上のミッチャー中将は艦載機の発艦の様子を幕僚と共に見守っていたが、レーダーは接近する機影を捉えておらず、油断もあった。飛行甲板上は発艦準備中の34機の艦載機が並んでいた。

そこへ海面近くを巧みな低空飛行で接近してきた零戦(安則盛三中尉操縦)が、直前で急上昇すると、飛行甲板上に250㎏爆弾を投下し、そのまま、機銃を掃射しながら、艦載機が並んでいる中に突っ込んだ。機体突入により発生した火災により、燃料を満載した艦載機は飛行甲板上で次々と誘爆を始めた[48]。投下爆弾は飛行甲板と舷側を貫通した後、海面上で爆発した。

その約30秒後、小川清少尉の操縦する零戦[注釈 14]が、殆ど垂直に近い大角度降下で艦尾から接近し、250kg爆弾を投下後に、艦橋と飛行甲板の境に激突した[注釈 15]。小川機が突入した箇所は、ミッチャー中将、参謀長アーレイ・バーク代将と他の幕僚らがいた場所の至近で6mしか離れておらず、ミッチャーとバークは無事だったが、第58任務部隊の幕僚や当番兵13人が戦死した[49]。投下爆弾は艦内の後部エレベーター付近へ達して爆発し、ガソリンに引火し誘爆を引き起こし大火災となった。

消火後の飛行甲板の状況

甲板上および艦内の火災は深刻だったが、ジョージ・A・サイツ英語版艦長の的確なダメージコントロールもあって沈没は免れ、修理のためアメリカ本国へ帰還することになった。

戦死者・行方不明者は402名[注釈 16]、負傷者は264名にのぼり、これは特攻攻撃により単艦で生じた最多の人的損害である[50]。火災で発生した有毒な煙が換気装置を通じて艦内に大量に流入し、艦後部の控室で待機していた戦闘機パイロットの多くが煙による一酸化炭素中毒で死亡している[51]。また、破壊された艦載機から流れ出した航空燃料が炎と大量の煙を伴いつつ、消火のため注入された海水の表層を伝って第4甲板下まで流れ込み、機関室の装甲ハッチの上に滞留した。その結果、黒煙が機関室に充満し、作業中の機関員多数が一酸化炭素中毒で死亡した。この日、第1ボイラー室にいた機関員は全員死亡、第2ボイラー室の機関員も半数が死亡し、艦全体で一番犠牲が多い部署は機関科となった[52]。焼死、一酸化炭素中毒死のほか、消火のため注入された海水によって艦内に閉じ込められたまま溺死した水兵も多数にのぼる。

当時「バンカー・ヒル」の航空群長だったロジャー・ヘドリック中佐は、この日の出来事を次のように述懐している[53]

朝10時に警戒態勢が一段格下げになり、雷撃飛行隊の午後のスケジュールについて説明していた時、特攻機の命中の衝撃を感じた。次の攻撃グループの発艦準備が整ったところに突っ込んだため、飛行甲板上の航空機が全滅した。

それから3分とたたないうちに次の特攻機が命中した。今度は艦橋の根元のところで、爆弾が機体を離れ艦に食い込んでから爆発したため、待機室にいたパイロットがほぼ全員即死した。

私は皆と一緒に通路を逃げ、途中で積んであった食料品の中にオレンジがあったのを1個失敬してポケットにねじ込んだ。オブザーバーとして乗り組んでいたイギリス海軍のパイロットが消火作業をしているのを見かけたので、ホースを取ってきて協力した。

18時にようやく火災が下火になり、機関室に閉じ込められていた乗組員を救出した。彼らは熱と煙にもめげず火災の間じゅう艦のスピードを10ノット以上に維持する離れ業をやってのけたのだった。茫然とした顔で幽霊のように歩いてくる機関長に出会い、彼こそはこの艦を動かし続けた功労者だと思うと胸がいっぱいになったが、さっき盗んだオレンジを彼の手にそっと握らせるのがやっとで、それ以上何もできなかった。

火災は翌朝ようやくおさまった。前もって知らされているのを忘れて格納甲板に足を踏み入れたら、そこは死体置き場で、隊の死者全員の姿がそこにあった。その光景を、私は生涯忘れないだろう。翌日葬儀が行われ、我々一同で慎んで水葬に付した。

機関長のジョセフ・カーマイケル・ジュニア少佐はちょうど執務室で事務処理を行っている最中だったが、艦が危機に瀕したとみるや直ちにデッキを駆け下り、機関室へと急行した。そして500名以上の機関員とともに煙の充満した機関室とボイラー室に20時間近く留まり、艦の速力と消火ポンプの維持に努めた。また、艦を放棄する旨の艦長命令が出たというデマを部下から聞いたので、艦内放送で「こちら機関長、艦は沈まないから安心せよ」と呼びかけて乗員の士気を鼓舞した。彼はこの功績により海軍十字章を授与されている[54]

懸命の消火・救助活動の裏で、バンカー・ヒル艦内では混乱に乗じ犯罪が多発した。遺体の焼けた手から腕時計が奪われ、指輪も抜き取られた。艦内には郵便局があったが、郵便局周辺は激しい損傷を被っていたため貸金庫も破損しており、他の兵員が消火活動をしている最中に、ガスバーナーで破損した貸金庫をこじ開けて中身を強奪する者もいた。あまりの無秩序ぶりに業を煮やした将校は、死刑をも含む厳しい対処を行うこととし、遺体には窃盗を抑止するため武装した不寝番を立てた。また、全兵員を集めてボディチェックとロッカー内の捜索が実施され、盗品を持っていないか調べられた。盗品所持が見つかると、まずは懲罰房に拘禁し、食事はパンと水のみに制限した。そして、連日のように、衣服を引き剥がして、消火ホースで海水を浴びせるという体罰も行なった。艦が前線基地であるウルシー環礁に到着すると、窃盗犯らはどこかに連行されていったが、連行された窃盗犯たちのその後を知る者はおらず、航海日誌にも懲罰の記録は記述されていない[55]

ミッチャー中将は旗艦を空母「エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 」に変更したが、その3日後の5月14日に「エンタープライズ」も特攻攻撃により深刻な損傷を受け、空母「ランドルフ (USS Randolph, CV-15) 」への旗艦変更を余儀なくされている。

「バンカー・ヒル」はウルシー環礁まで後退して真珠湾へ向かい、5月25~28日の間フォード島に係留、その後修理のため本国に帰還する。ウルシー環礁に向かう途中で行われた300名以上の水葬は、現在までにアメリカ海軍が一回で行った最大規模のものである。

ワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所で大修理が行われ、6月4日から7月22日までの間乾ドックでの工事が続いた[56]。その後は桟橋に移り、9月中の完了を目指して修理が続けられたが、そこで大戦終結を迎えた[57]

戦後

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1968年、サンディエゴのノースアイランド海軍基地に係留されているバンカー・ヒル

9月27日にブレマートンを出港して復員兵輸送(マジック・カーペット作戦)に参加する。しかし大戦後の海軍の縮小に伴い、「バンカー・ヒル」も他の同型艦の多くと同様に予備役に編入される。

「バンカー・ヒル」は1947年1月9日よりピュージェット・サウンド海軍造船所モスボール処理のうえ保管されるが、その後は現役復帰や改装が一切なされなかった。これは同型艦の「フランクリン (USS Franklin, CV-13) 」も同様である[58]。両艦とも大戦中に大破して復帰が間に合わなかったという共通点はあるが、損傷は首尾よく修復され良好な状態にあり、核攻撃任務を視野に入れた徹底的な大改装 ("Ultimate" Reconstruction) の候補として温存されていた。しかしながら改装の実施は見送られ、結局は立ち消えとなってしまった[59]。 この計画がしばらく残っていたため、SCB-27等の改装対象から外され、現役に復帰することもなかった。

「バンカー・ヒル」は保管状態のままで1952年10月1日に攻撃航空母艦(CVA-17)、1953年8月8日に対潜水艦戦支援空母(CVS-17)、1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-9)へと艦種変更されたが形式的なもので、艦首の船体番号は《17》のままだった[60]

1966年11月1日に退役・除籍となり[61]、それから数年間はサンディエゴのノースアイランド海軍航空基地で海軍の電子実験船として使用された。記念艦として保存する運動もあったが成功せず[57]1973年スクラップとして売却される。

解体のためタコマ曳航される途中でギリシャ船籍のタンカーと衝突事故を起こし、船首が損傷した[60]

解体後、スクラップの大半は皮肉なことにかつての対戦国である日本に引き取られた。分厚いスチールの一部はフェルミ国立加速器研究所加速器の素材となった[62]号鐘は博物館で一時期展示されたのち、1986年9月に就役したタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の「バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CG-52) 」へ艦名とともに受け継がれた[63][64]。またユニークな例として、「バンカー・ヒル」のモスボール処理で機銃等のカバーとして用いられたドームを流用して作られた家がオレゴン州に存在する[65]

受章

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バンカー・ヒルは殊勲部隊章を与えられる9隻の空母のうちの一隻であり[注釈 17]、第二次世界大戦における以下の戦功で11の従軍星章を受章した[67]

  1. 1943年11月のラバウル攻撃
  2. 11月からのギルバート攻略作戦およびそれに引き続くタラワ攻略
  3. 12月からのカビエン攻略(戊号作戦部隊攻撃)
  4. 1944年2月のマーシャル諸島等の攻略
  5. 2月からのトラック島、マリアナ諸島、パラオ諸島空襲
  6. 4月のホーランディア攻略
  7. 6月からのマリアナ、サイパン等への攻撃
  8. 9月からのカロリン諸島、パラオ諸島、フィリピン等への攻撃
  9. 10月からのレイテ作戦、ルソン島および台湾への攻撃
  10. 1945年2月からの硫黄島攻略
  11. 3月からの沖縄攻略

乗艦していた著名人

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ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 作戦行動がしばしばクリスマスや新年といった祝祭日と重なったことに由来するShip Nicknames”. 2019年5月19日閲覧。VF-17 Squadron History and Base Locations”. 2019年5月19日閲覧。
  2. ^ 空母部隊の艦上戦闘機F6Fに統一する。
  3. ^ 1943年11月5日、シャーマン少将が率いる第38任務部隊のアメリカ空母2隻(サラトガプリンストン)がラバウル空襲を実施、同地に集結していた第二艦隊司令長官栗田健男中将の遊撃部隊(重巡洋艦部隊)に大打撃を与えた[9]。遊撃部隊はトラック泊地に逃げ帰った[10]
  4. ^ 基地航空部隊の零戦68機、母艦部隊の零戦39機が邀撃、地上砲火を含め米軍機約60を撃墜を主張し、零戦11機(基地機8、艦載機3)を喪失した[11]
  5. ^ ラバウルには、潜水母艦「長鯨」や[12]、大破して修理中の重巡「摩耶」もいた[13]
  6. ^ 戊一号輸送部隊は戦艦「大和」と駆逐艦2隻(横須賀→トラック泊地)で[25]、トラック泊地近海で潜水艦「スケート (USS Skate, SS-305) 」に雷撃され「大和」が小破した[26]
  7. ^ 上空援護のため、第二航空戦隊から抽出された零戦36機(指揮官:龍鳳飛行隊長進藤三郎少佐)がトラック泊地からカビエンに進出する[27]。一連の作戦で二航戦派遣部隊は零戦8機を喪失した[28]
  8. ^ 戊三号輸送第一部隊(重巡「鈴谷」「熊野」、駆逐艦「満潮」「谷風」)は12月31日早朝にカビエン着[30]、揚陸に成功して帰投した[31]
  9. ^ 第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(第二部隊指揮官)の旗艦。
  10. ^ 1月4日の対空戦闘で第22駆逐隊は撃墜15機(不確実6)を報じたが[37]、至近弾や機銃掃射により死傷者多数を出した[38]。「皐月」艦長の飯野忠男少佐も戦死した[39]
  11. ^ 先のラバウル空襲で大破した軽巡「阿賀野」は米軍機動部隊支援任務中のアメリカ潜水艦「スケート (USS Skate, SS-305) 」に撃沈された。カビエン空襲を切り抜けた駆逐艦「文月」もトラック泊地で修理中[41]、2月17日と18日にアメリカ軍機動部隊の空襲を受けて沈没した[42][43]。カビエン空襲で撃沈できなかった特設巡洋艦「清澄丸」も、このトラック空襲で沈没した。
  12. ^ 空母「サン・ジャシントUSS San Jacinto, CV-30)」部隊が朝霜を撃沈した、との見解もあるが、同部隊が撃沈したのは駆逐艦「浜風」だったとも[46]
  13. ^ 10隊65機の特攻機が出撃した。
  14. ^ アメリカ軍公式記録では彗星
  15. ^ 重要箇所の艦橋基部を狙うのは「特攻の教科書通り」であった。
  16. ^ 戦死者346名、行方不明者43名とする資料もあるNavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive”. 2019年5月19日閲覧。
  17. ^ 他には「エンタープライズ」「エセックス」「ヨークタウン」「ホーネット 」「レキシントン」「ベロー・ウッド」「カボット」「サン・ジャシント」が受章[66]

出典

[編集]
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  8. ^ Udoff 1994, pp. 26–27.
  9. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 399a-400米空母機による第一次被空襲と被害 ― 十一月五日
  10. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 400–401重巡部隊のトラック帰投
  11. ^ a b 戦史叢書96 1976, pp. 414–415邀撃空戦と艦艇の被害
  12. ^ 歴群64、睦月型 2008, p. 181.
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  15. ^ Blackburn 1997, pp. 130–147.
  16. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 415–417昼間航空攻撃の決行
  17. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 417–419無敵となった米空母群
  18. ^ スタイリング 2003, p. 67.
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  21. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 461a-467二 戊号輸送と敵機動部隊カビエン空襲
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  25. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 461b-462戊号輸送計画
  26. ^ #S18.12.16~31経過概要 p.25(昭和18年12月)
  27. ^ 戦史叢書96 1976, p. 464a〔二航戦戦闘機隊のカビエン派遣〕
  28. ^ 戦史叢書96 1976, p. 467二航戦機のトラック復帰
  29. ^ 戦史叢書96 1976, p. 463b米機動部隊の動向
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  31. ^ a b c 戦史叢書96 1976, p. 463a戊二号・戊三号輸送部隊のトラック出撃
  32. ^ #S19.1.1~15経過概要 p.1(昭和19年1月)
  33. ^ #S19.1.1~15経過概要 p.2(昭和19年1月)
  34. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 464c-465第二次カビエン空襲(一月一日)
  35. ^ 戦史叢書96 1976, p. 464b〔第二十二駆逐隊の派遣〕
  36. ^ a b #S19.1.1~15経過概要 pp.10-11
  37. ^ 戦史叢書96 1976, p. 466.
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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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