バート・シャーリー
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テキサス州コーパスクリスティ |
生年月日 | 1940年1月4日(84歳) |
身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 183 lb =約83 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1961年 |
初出場 |
MLB / 1964年9月14日 NPB / 1971年4月10日 |
最終出場 |
MLB / 1968年9月29日 NPB / 1972年10月3日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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バートン・アービン・シャーリー(Barton Arvin Shirley, 1940年1月4日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州コーパスクリスティ出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
日本での登録名は「バート」。セ・リーグ初の遊撃手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している[1]。
経歴
[編集]W.B.レイ高等学校を経て、テキサス大学卒業後の1961年にロサンゼルス・ドジャースへ入団し、1964年9月14日のパイレーツ戦(ドジャー)でメジャー初出場を果たす。1967年にニューヨーク・メッツで1年だけプレーした後、1968年にドジャースへ復帰。アメリカ時代から好守は認められていたものの、打撃の非力さを指摘され、大半をマイナーリーグで過ごす。
1971年に中日ドラゴンズへ入団し、6月23日のヤクルト戦(中日)で会田照夫から初ソロ本塁打を放った[2]。1972年には第1回ダイヤモンドグラブ賞を受賞するが、遊撃で同賞を獲得した助っ人は2022年現在もバートだけである[3]。正確かつダイナミックな守備は投手陣の心を掴み、日本球界では珍しい守備特化型の助っ人になったが[3]、同年は4月9日の開幕カードの阪神戦(中日)から打棒が開花。ダブルヘッダー第1試合で古沢憲司から1号本塁打、第2試合で江夏豊からサヨナラ満塁本塁打を放った[2]。開幕1週間で17打点を稼ぐ活躍を見せて打撃開眼かと首脳陣を喜ばせたが、オールスター後は調子を落としてしまう。カールトン半田直伝のバックトス、グラブトスの名手であった高木守道の守備も、バートとのコンビで最も開花したが[4]、同年限りで現役を引退。
引退後は古巣・ドジャースのマイナーリーグ監督(1973年 - 1975年)を経て、中日で一軍守備コーチ(1976年)→技術顧問(1977年)を務めた。中日では三塁ベースコーチを務めたほか、与那嶺要監督の良き相談役としても一役買い、田野倉利男・宇野勝らを育てた[4]。1978年より故郷のコーパスクリスティに戻り、保険業を営む傍らでスーパーバイザーとして後進の育成に努めた。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1964 | LAD | 18 | 66 | 62 | 6 | 17 | 1 | 1 | 0 | 20 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | 8 | 4 | .274 | .318 | .323 | .641 |
1966 | 12 | 5 | 5 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 | |
1967 | NYM | 6 | 12 | 12 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1968 | LAD | 39 | 96 | 83 | 6 | 15 | 3 | 0 | 0 | 18 | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 10 | 1 | 0 | 13 | 5 | .181 | .269 | .217 | .486 |
1971 | 中日 | 122 | 370 | 344 | 16 | 60 | 15 | 2 | 3 | 88 | 28 | 3 | 6 | 4 | 2 | 19 | 2 | 1 | 36 | 8 | .174 | .219 | .256 | .474 |
1972 | 124 | 426 | 403 | 32 | 77 | 11 | 2 | 12 | 128 | 51 | 1 | 1 | 1 | 2 | 17 | 3 | 3 | 80 | 9 | .191 | .228 | .318 | .546 | |
MLB:2年 | 75 | 179 | 162 | 15 | 33 | 4 | 1 | 0 | 39 | 11 | 0 | 1 | 3 | 0 | 14 | 3 | 0 | 28 | 9 | .204 | .267 | .241 | .508 | |
NPB:2年 | 246 | 796 | 747 | 48 | 137 | 26 | 4 | 15 | 216 | 79 | 4 | 7 | 5 | 4 | 36 | 5 | 4 | 116 | 17 | .183 | .224 | .289 | .513 |
表彰
[編集]- NPB
- ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1972年)※遊撃手部門でのセ・リーグ史上初の受賞[1]
記録
[編集]- NPB
- 初出場・初先発出場:1971年4月10日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、2番・遊撃手で先発出場
- 初安打:1971年4月13日、対読売ジャイアンツ2回戦(中日スタヂアム)、4回裏に関本四十四から
- 初打点:1971年5月9日、対広島東洋カープ4回戦(中日スタヂアム)、2回裏に大羽進から2点適時打
- 初本塁打:1971年6月23日、対ヤクルトアトムズ10回戦(中日スタヂアム)、5回裏に会田照夫から左越ソロ
背番号
[編集]- 23 (1964年)
- 2 (1966年、1972年)
- 6 (1967年、1971年)
- 11 (1968年)
- 60 (1976年 - 1977年)
脚注
[編集]- ^ a b “三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。
- ^ a b tabatomo. “バート S.、全本塁打一覧|本塁打大全”. クラシックSTATS鑑賞. 2021年4月13日閲覧。
- ^ a b 【愛すべき助っ人列伝】名手見参! クルーズら二塁、遊撃でゴールデン・グラブ賞獲得の守備職人たち
- ^ a b “蛭間豊章記者の「Baseball inside」 : 最強「キーストーン」を”. weblog.hochi.co.jp. 2021年4月13日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 バート - NPB.jp 日本野球機構