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フリードリヒ5世 (シュヴァーベン大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリードリヒ5世
Friedrich V.
シュヴァーベン大公
在位 1167年 - 1170年ごろ

出生 1164年7月16日
パヴィーア
死去 1170年ごろ
配偶者 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ロルヒ修道院
家名 ホーエンシュタウフェン家
父親 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世
母親 ブルゴーニュ女伯ベアトリス1世
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フリードリヒ5世ドイツ語:Friedrich V., 1164年7月16日 - 1170年ごろ)は、シュヴァーベン大公(在位:1167年 - 1170年)[1]神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世ブルゴーニュ女伯ベアトリス1世の長男。

生涯

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1165年4月、フリードリヒはイングランド王ヘンリー2世アリエノール・ダキテーヌの娘エリナーと婚約した。しかしフリードリヒが早世したため、この結婚は実現しなかった[2]

1167年8月、シュヴァーベン大公フリードリヒ4世がイタリア遠征中に死去した。フリードリヒ4世はローマ王コンラート3世の唯一の息子であり、妃ゲルトルート・フォン・バイエルンとの短い結婚で子供がいなかったため、フリードリヒ4世の死によりコンラート3世の家系は断絶し、領地は皇帝フリードリヒ1世の手に渡った。フリードリヒ1世は3歳の息子フリードリヒをシュヴァーベン大公に任じ、フリードリヒはシュヴァーベン大公フリードリヒ5世となった。

1169年6月、バンベルクでの宮廷会議において、フリードリヒ5世の弟ハインリヒローマ王に選出され、同年8月15日にアーヘン大聖堂において戴冠した。フリードリヒ5世は生まれつき体が弱く、幼年期を生き延びると思われていなかったため、王位継承から外されたと考えられる[3]

中世の2つの文献により、フリードリヒ5世は弟ハインリヒがローマ王に選出された時にまだ生存していたことがわかる[4]。婚約者のエリナーが1170年にカスティーリャ王アルフォンソ8世と結婚したことから、フリードリヒ5世は1169年半ばもしくは1170年始めに死去したと考えられる[5]

フリードリヒ5世はロルヒ修道院に埋葬された。ロルヒ修道院はホーエンシュタウフェン家の墓所であり、曾祖父シュヴァーベン大公フリードリヒ1世が寄進を行っていた[1]。1475年、修道院長ニコラウス・シェンク・フォン・アーベルクはロルヒ修道院に埋葬されていた全てのホーエンシュタウフェン家成員の遺骸を後期ゴシックの石棺に移した。石棺は現在、ロルヒ修道院の中央身廊に安置されている[6]

フリードリヒ5世の死後、フリードリヒの名は皇帝フリードリヒ1世の三男コンラートに与えられ、コンラートはシュヴァーベン大公位を継承しフリードリヒ6世となった。このように、シュタウフェン家で重要なフリードリヒの名は受け継がれていくこととなる[4][7]。フリードリヒ6世(コンラート)の次の息子オットーはおそらく1170年6月から7月までの間に生まれ[8]、フリードリヒ5世はそれ以前に死去していたと考えられる。皇帝フリードリヒ1世は単に次の息子を(オットーでなく)フリードリヒと呼びたかっただけに違いなく、オットーがフリードリヒ5世の死後に生まれていたなら、コンラートがフリードリヒと改名する必要がなかったからである。

脚注

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  1. ^ a b Decker-Hauff 1977, p. 355.
  2. ^ Weller 2004, pp. 101–102, 107.
  3. ^ Baaken 1968, p. 65.
  4. ^ a b Weller 2004, p. 100.
  5. ^ Weller 2004, p. 107.
  6. ^ Burial of the Staufer in the Lorch Abbey in: schloesser-und-gaerten.de (German site). Retrieved 18 January 2020.
  7. ^ Baaken 1968, p. 75.
  8. ^ Assmann 1977, p. 459.

参考文献

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先代
フリードリヒ4世
シュヴァーベン大公
1167年 - 1170年
次代
フリードリヒ6世