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ヘンリー・ビルソン=レッグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘンリー・ビルソン=レッグ、ウィリアム・ホーア作、1754年/1755年頃。

ヘンリー・ビルソン=レッグ英語: Henry Bilson-Legge PC FRS1708年5月29日 - 1764年8月23日)は、グレートブリテン王国の政治家。1750年代と1760年代に財務大臣を務めたことで知られる。

生涯

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初代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグとアン・フィンチ(初代エイルズフォード伯爵ヘニッジ・フィンチ英語版の娘)の四男として、1708年5月29日に生まれた[1]。1726年3月29日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学して、1733年3月1日に民法学博士英語版として卒業したとされる[1]ヘレフォード主教英語版ヘンリー・エジャートン英語版によると、レッグはイギリス海軍に入隊したが、1、2度航海しただけで辞めてしまい、その後はサー・ロバート・ウォルポールの信頼を得てその秘書になったという[1]ホレス・ウォルポールによると、レッグはダートマス伯爵が最も好んだ息子だったが、ウォルポールの娘と駆け落ちしようとして父から捨てられたという[1]。1739年10月、アイルランド総督デヴォンシャー公爵によってアイルランド担当大臣英語版に任命され、その際に父に対しウォルポールの秘書職と両立できると述べた[1]

1740年11月の補選でイースト・ロウ選挙区英語版で当選した後、1741年イギリス総選挙オーフォード選挙区英語版で当選、以降1759年12月まで同選挙区の議員を務めた[1]。1742年にウォルポール内閣が崩壊すると、ウィリアム・パルトニーによって罷免されたが、ベッドフォード公爵の介入により同年7月にSurveyor General of Woodsに任命された[1]。また、1744年5月3日には法務総裁ダドリー・ライダー英語版による、貴族院ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの息子たちと文通することを大逆罪と定める修正案を庶民院でも通過する動議に賛成した[1]。前述のSurveyor Generalの職を辞めると、1745年4月20日に海軍本部委員英語版に就任、1747年2月まで務めた[1]。1745年10月17日に国王ジョージ2世の演説に対する感謝決議を提起し、1746年6月4日に大蔵委員会委員英語版に任命された[1]。1748年1月、ニューカッスル公爵の推薦でプロイセン王フリードリヒ2世への特命公使に任命された[1]オスナブリュック司教領英語版に関する交渉への介入で国王ジョージ2世に嫌われたが、ヘンリー・ペラムが擁護したこともあってジョージ2世の怒りは一時的に和らいだ[1]

1749年4月、サー・ジョージ・リトルトン準男爵海軍財務長官の職を拒否したため、その代わりとして任命され、大蔵委員会委員の後任にはヘンリー・ヴェーン(後にダーリントン伯爵に叙される)が務めた[1]。1754年4月6日、レッグは海軍財務長官を辞任して第1次ニューカッスル公爵内閣で財務大臣に就任したが、ジョージ2世に嫌われたままであり、レッグは亡き王太子フレデリック・ルイスの党派と秘密裏に提携した[1]。1755年8月にはヘッセン=カッセル方伯領への援助金の条約を拒否、11月には大ピットとともに議会で条約に反対した[1]。その結果、20日に北部担当国務大臣ホルダーネス伯爵から罷免を告知された[1]。1756年2月、後任の財務大臣サー・ジョージ・リトルトン準男爵が提出した予算を攻撃して名声を得て、ホレス・ウォルポールヘンリー・シーモア・コンウェイへの手紙でビルソン=レッグを称えた[1]。第1次ニューカッスル公爵内閣が崩壊すると、後任のピット=デヴォンシャー公爵内閣で再び財務大臣に任命されたが(1756年11月16日)、1757年4月に大ピットとともに罷免された[1]。1757年7月2日の第2次ニューカッスル公爵内閣で三たび財務大臣に任命されたが、1758年に窓と家屋に課税して大ピットの不興を買ったため、翌年に大ピットへの追従として糖蜜税の案を一般的な品物税に変更せざるをえなかった[1]

1759年12月、オーフォード選挙区の議席を放棄して代わりにハンプシャー選挙区英語版の代表として登院すると、ハンプシャー選挙区でシメオン・ステュアート候補を支持していたビュート伯爵に嫌われ、和解案として以降ビュート伯爵が指名した候補を支持する声明を出すことが提案されるもビルソン=レッグは支持者たるホイッグ党を裏切れないとして拒否した[1]。ビュート伯爵はさらにビルソン=レッグに総選挙でサウサンプトンを諦めるよう要求したが、ビルソン=レッグは拒否して王太子ジョージが指名した2人の候補を支持した[1]。1761年3月、ビルソン=レッグはヘッセン=カッセル方伯領に多額の援助金を与える議案の提出を拒否して、財務大臣を罷免された[1]。続く4月の1761年イギリス総選挙で再びハンプシャー選挙区で当選した後、1762年12月に暫定講和条約に反対、1763年3月には借款案に反対した[1]

1764年8月23日、タンブリッジ・ウェールズ英語版で病死、ヒントン・アンプナー英語版で埋葬された[1]

家族

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1750年8月29日、メアリー・ストール(第4代ストール男爵英語版エドワード・ストールの娘、1780年7月29日没)と結婚した[1]。メアリーは1760年5月30日付の特許状でサマートンのストール女男爵に叙された[1]。2人は1男をもうけた[1]

1764年にビルソン=レッグが死去すると、メアリーは1768年10月11日に初代ヒルズバラ伯爵ウィルズ・ヒルと再婚した[1]

また、1754年に父のいとこの財産を継承するとともにその姓ビルソンを名乗った[1]

評価

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ロバート・ウォルポールはレッグの「頭の中にごみが少ない」(有能で鋭いという意味)と賞賛した[1]ホレス・ウォルポールは『ジョージ2世の治世の回想録』で「より利益の見込める前途のために友を捨てることをしぶることがない」と評した一方、庶民院の長になれるただ1人であるとも評価した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af Barker, George Fisher Russell (1892). "Legge, Henry Bilson-" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 32. London: Smith, Elder & Co. pp. 411–413.
グレートブリテン議会英語版
先代
チャールズ・ロングヴィル英語版
サミュエル・ホルデン英語版
庶民院議員(イースト・ロウ選挙区英語版選出)
1740年 - 1741年
同職:チャールズ・ロングヴィル英語版
次代
ジェームズ・ブラー英語版
フランシス・ガッシュリー
先代
リチャード・ポウィーズ
ジョン・コープ英語版
庶民院議員(オーフォード選挙区英語版選出)
1741年 - 1759年
同職:グレノーキー卿英語版 1741年 - 1746年
ベートマン子爵英語版 1746年 - 1747年
ジョン・ウォルドグレイヴ 1747年 - 1754年
ジョン・オフリー 1754年 - 1759年
次代
ジョン・オフリー
チャールズ・フィッツロイ英語版
先代
アレクサンダー・シスルスウェート
ウィンチェスター侯爵
庶民院議員(ハンプシャー選挙区英語版選出)
1759年 - 1761年
同職:アレクサンダー・シスルスウェート 1759年 - 1761年
シメオン・ステュアート 1761年 - 1764年
次代
シメオン・ステュアート
サー・リチャード・ミル準男爵
外交職
先代
トマス・ヴィリアーズ
プロイセン王国駐在イギリス公使英語版
1747年 - 1749年
次代
チャールズ・ハンベリー・ウィリアムズ英語版
公職
先代
トマス・タウンゼンド
アイルランド担当大臣英語版
1739年 - 1741年
次代
ダンキャノン子爵英語版
先代
フランシス・ホイットワース英語版
Surveyor General of Woods
1742年 - 1745年
次代
ジョン・フィリップソン英語版
先代
ジョージ・ドディントン
海軍財務長官
1749年 - 1754年
次代
ジョージ・グレンヴィル
先代
ウィリアム・リー
財務大臣
1754年 - 1755年
次代
サー・ジョージ・リトルトン準男爵
先代
サー・ジョージ・リトルトン準男爵
財務大臣
1756年 - 1757年
次代
マンスフィールド男爵英語版
先代
マンスフィールド男爵英語版
財務大臣
1757年 - 1761年
次代
バリントン子爵