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後金

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マンジュ国から転送)
大金
ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
明
北元
1616年 - 1636年 清
後金の位置
1626年時点の後金の領土(ライトグリーン)画像の「后」は「後」の簡体字
公用語 満洲語モンゴル語中国語
首都 興京(1616年 - 1621年)
東京(1621年 - 1625年)
盛京(1625年 - 1636年)
ハン
1616年 - 1626年 ヌルハチ
1626年 - 1636年ホンタイジ
変遷
建国 1616年2月17日
サルフの戦い1619年
丁卯胡乱1627年
国号を大清に改称1636年
現在中華人民共和国の旗 中華人民共和国東北部
モンゴルの旗 モンゴル
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後金(こうきん、1616年 - 1636年、満洲語:ᠠᡳ᠌ᠰᡳᠨ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
aisin gurun、金國)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人女真人、jušen)の国家で、の前身。 1588年までに女真の建州女直を統一し、マンジュ国ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
manju gurun、滿洲國)を建てていたアイシンギョロ氏ヌルハチᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ nurgaci、努爾哈赤)は、1593年海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ(ᠶᡝᡥᡝ yehe)部族を除く全女真を統一して、この年ハンの位につき、天命年号を立てて建国を宣言した。ヌルハチはこのとき国号アイシン国ᠠᡳ᠌ᠰᡳᠨ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
aisin gurun、金國)と定めたので、かつて12世紀完顔阿骨打の立てたと区別してこのを「後金」と呼ぶ。はじめ首都1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラᡥᡝᡨᡠ
ᠠᠯᠠ
hetu ala、興京)に置かれた。

概要

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前後してヌルハチはエルデニᡝᡵᡩᡝᠨᡳ erdeni、額爾徳尼)らに命じて満洲文字(無圏点文字)を定め、更に八旗制という軍事・社会組織を創始して国家の基礎を打ち立てた。1618年、後金は「七大恨」を掲げてに対して挙兵した。遼東の明の拠点を攻撃し、1619年にヘトゥアラに向けて派遣された明の大軍をサルフの戦いで破ると、イェヘを併合し女真の完全統一を果たした。1621年には明の遼東支配の拠点遼陽瀋陽を征服し、を遼陽東京城に移す。1625年、都を遼陽からさらに瀋陽(mukden、盛京)に移した。此の段階で、ヌルハチの勢力圏は遼河の東方全域に及んでいた。1626年、ヌルハチは大軍を率いて遼河を越え、山海関に向かったが、寧遠で西洋式の大砲を擁する袁崇煥の軍に敗れた(寧遠の戦い)。その後間もなくヌルハチは死去した。

ヌルハチの死後、後継者ホンタイジᡥᠣᠩ
ᡨᠠᡳ᠌ᠵᡳ
hong taiji、皇太極)はモンゴルチャハル部を平定し、朝鮮を服属させ、女真の民族名を満洲(ᠮᠠᠨᠵᡠ manju、滿洲)に改めた、1632年(天聡6年)にはダハイᡩᠠᡥᠠᡳ dahai、達海)に命じて満洲文字を無圏点文字から有圏点文字に改良した。1636年に国号を大清ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
daicing gurun、ダイチン国)に改めた。清は1644年に明滅亡後の中国に進出し、1911年辛亥革命に至るまで中国を支配したため、中国最後の統一王朝に数えられている。

歴代ハーン

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  1. クンドゥレン・ハーン(在位1616年 - 1626年
  2. セチェン・ハーン(在位1626年 -1636年

建国五大臣

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後金の樹立にあたって、ヌルハチは「スンジャ・アンバン (五大人)」(建国五大臣とも) を立て、共同して国政にあたらせた。[1][2]

脚註

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  1. ^ “天命元年”. 清史稿. 1. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷1#天命元年 
  2. ^ 滿洲實錄. 3. 四庫全書 

参照

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史籍

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  • 編者不詳『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳ (manju i yargiyan kooli) (滿洲実録)』四庫全書, 1781 (満文)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』清史館, 1928 (漢文) *中華書局版

研究書

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  • 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 1992 (和訳) *和訳自体は1938年に完成。

Webサイト

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関連項目

[編集]

※上記のほか、遼陽にヌルハチの一族を葬った東京陵がある