リー・ミラー
表示
リー・ミラー | |
---|---|
1943年 | |
本名 | Elizabeth Miller |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニューヨーク州ポキプシー |
生年月日 | 1907年4月23日 |
没年月日 | 1977年7月21日(70歳没) |
リー・ミラー(Lee Miller、Elizabeth Miller、1907年4月23日 - 1977年7月21日)は、アメリカ合衆国の写真家。ポートレイト、ファッション写真、報道写真(とりわけ第二次世界大戦のヨーロッパ戦線(特にイギリスやドイツ)における戦争写真)の分野で主として活躍。「マーガレット・バーク=ホワイト、ドロシア・ラングと並んで20世紀を代表する女流写真家のひとり」とされることもある[1]。
略歴など
[編集]- ニューヨーク州ポキプシー生まれ。
- 18歳でパリにわたり照明、衣装、舞台美術を学んだのち1926年に帰国。
- エドワード・スタイケン、ニコラス・マレイ、アーノルド・ゲンスらのモデルとして活躍。
- 1929年に再度ヨーロッパへわたり、フィレンツェ・ローマを経てパリに落ち着く。リー・ミラーが押しかけ、マン・レイの弟子かつ愛人となる。
- 1930年、モンパルナスにスタジオを開設し、シャネルなどのファッションデザイナーの仕事を行った。また、ジョージ・ホイニンゲン=ヒューンの助手もした。
- 1932年、マン・レイと別れ、ニューヨークに戻り、スタジオ設立(なお、マン・レイの次の恋人は、ダンサーのアディ・フィドラン)。
- 1934年、エジプト人実業アジズ・エルイ・ベイと結婚、カイロへ。
- 1937年、画家、美術品蒐集家、美術評論家のローランド・ペンローズ(Roland Penrose、ロジャー・ペンローズの叔父)と出会う。
- 1939年、エルイ・ベイと実質的に離別し、イギリスへ(ローランド・ペンローズとの交際)。
- 1940年、イギリス版『ヴォーグ』にて活躍。主としてポートレートとファッション写真。
- 1941年、写真集『灰色の栄光 戦火のイギリス写真集』に22点の作品が掲載。
- 1942年、従軍記者となりイギリスやドイツの戦争の写真・収容所の写真を撮影する。『ライフ』のカメラマン、デヴィッド・E・シャーマン(David E. Sherman)と多くの取材を行う。
- 1945年、写真集『海軍婦人部隊』刊行。
- 1947年、エルイ・ベイと正式に離婚し、すでに交際していたローランド・ペンローズと結婚、9月に出産(名前はアントニー)。
- 1950年代にはヴォーグから離れた。
- 1953年、展覧会「頭部の驚異と戦慄」(Wonder and Horror of the Human Head)をローランド・ペンローズと企画(ロンドン・現代美術研究所)。
- 1977年、イギリスのチディングリ(Chiddingly)で、ガンにより死す
その写真作品の中には美術家の写真も多く、リー・ミラーの交友の幅広さを物語る。
存命中には、大きな展覧会の開催も、作品をまとめた写真集の出版もなかった。
美貌の女性であり、(男女関係も含めて)活発・奔放な生活を送った。
マン・レイの「天文台の時ー恋人たち」(1934年など、巨大な唇が空に浮かぶ作品)の唇はリー・ミラーの唇をモデルにしている(下記文献「リー・ミラー 自分を愛したヴィーナス」参照)。
日本における展覧会
[編集]- 「リー・ミラーの写真」展 20世紀に何を見たか(横浜美術館、1991年1月26日(土)~2月25日(月)、96点出品)
- 三つ折のパンフレットあり(写真図版12点、出品リスト(全96点))
脚注
[編集]- ^ 「リー・ミラー写真集 いのちのポートレイト」そで部分の紹介文。
参考文献
[編集]- 「リー・ミラー 自分を愛したヴィーナス」(アントニー・ペンローズ、Antony Penrose、松本淳・訳、パルコ出版局、1989年)
- リー・ミラー写真集 いのちのポートレイト(リチャード・カルヴォコレッシ(Richard Carvocoressi)、高田ゆみ子・訳、岩波書店、2003年、原著はThames & Hudson刊(2002年))
- 目次
- ひるみなき視線
- ポートレイト(シュルレアリスト時代、英国での戦争体験、ヨーロッパ大陸での戦争、戦後:芸術家と作家たち、ピカソとその他友人たち)
- 人名索引・参考文献
- 目次
- Photographers A-Z, Hans-Michael Koetzle, Taschen, 2011, 978-3-865-1109-4(271ページ):なお、この文献では、没日が「7月27日」となっている。