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三宅哲一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年明治21年〉9月11日[1] - 1979年昭和54年〉1月23日[2])は、日本外交官。駐チリ公使

経歴

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和歌山県出身。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を経て、1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1914年大正3年)、外交官及領事官試験に合格。領事官補・関東都督府事務官領事、公使館三等書記官、外務事務官・参事官、外務書記官・条約局第三課長、公使館二等書記官、同一等書記官などを歴任し、その間、スウェーデンオランダに勤務した。バタヴィア総領事時代には、横浜正金銀行に学校設立を働きかけたり、シムラ会商に政府代表として参加し、イギリスインドと通商問題の交渉を行うなどした[3][4]1936年(昭和11年)に駐チリ公使に就任。1937年(昭和12年)にはチリ政府からイースター島及びサラ・イ・ゴメス島の売却を検討中との打診を受け検討を行った[5]。退官後は1940年(昭和15年)に日智協会(日本チリ協会)を設立し、郷里紀伊徳川家徳川頼貞を会長に奉じ、自身は副会長に就いた[6]

1979年(昭和54年)1月、老衰により死去した[2]

親族

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栄典

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脚注

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  1. ^ a b 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十二年版』日本官界情報社、1937年。
  2. ^ a b 『月刊インドネシア 4月号』22頁。
  3. ^ 「凌霜目次:戦後 110(1946・昭和21)-301(1988・昭和63.11)」神戸大学
  4. ^ 日英経済戦の関ヶ原! 英印の反日工作を斥け我貿易の生命線を守れ シムラ会商 大阪毎日新聞 1933.9.21 (昭和8)
  5. ^ 外交史料 Q&A 昭和戦前期”. 2013年3月5日閲覧。
  6. ^ 「日本チリー協会の沿革とその活動」日本チリ協会
  7. ^ 松井半重郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  8. ^ 小澤宗達氏について知りたいレファレンス協同データペース
  9. ^ 小沢修造『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  10. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。 
  • 日本インドネシア協会 編『月刊インドネシア 4月号』日本インドネシア協会、1979年。