小川元
小川 元 おがわ はじめ | |
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生年月日 | 1939年1月1日 |
出生地 | 日本 長野県諏訪郡富士見町 |
没年月日 | 2024年10月15日(85歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 | 学習院大学政経学部 |
前職 | 宮澤喜一衆議院議員秘書 |
所属政党 | 自由民主党(加藤派) |
称号 |
従四位 旭日重光章 |
選挙区 |
(旧長野3区→) 長野4区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1986年7月6日 - 1990年1月24日 1993年7月18日 - 2000年6月2日 |
小川 元(おがわ はじめ、1939年(昭和14年)1月1日 - 2024年〈令和6年〉10月15日)は、日本の政治家、外交官。元衆議院議員(3期)。元駐チリ特命全権大使。長野県諏訪郡富士見町出身。司法大臣、鉄道大臣などを歴任した小川平吉の孫。
経歴
[編集]1939年(昭和14年)1月1日、小川一平・俊子夫妻の長男として生まれる。父・一平は弁護士・政治家小川平吉の長男、母・俊子は実業家・杉本甫の姉[1]。
1961年(昭和36年)、学習院大学政経学部卒業。同年、三菱商事入社。
1970年(昭和45年)、ブラジル三菱商事株式会社取締役としてリオデジャネイロに5年間駐在し、帰国後は非鉄金属本部長代理などを歴任[2]。
1982年(昭和57年)、三菱商事株式会社を退社し、 縁戚の衆議院議員宮澤喜一の秘書となる
1986年(昭和61年)、宮澤の秘書を辞め、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧長野3区から立候補し当選。
1990年(平成2年)、第39回衆議院議員総選挙では落選するも1993年(平成5年)、第40回衆議院議員総選挙では再当選。
1996年(平成8年)、第41回衆議院議員総選挙において、小選挙区制導入に伴い長野4区から立候補し当選。
2000年(平成12年)、第42回衆議院議員総選挙で落選。政界から引退した。
自民党では宏池会に所属、外務政務次官を務めたほか、文教族、商工族として自由民主党商工局長、文教部会長、衆議院文教委員会、商工委員会の理事をそれぞれ歴任した。
2002年(平成14年)、駐チリ特命全権大使。民間人からの大使任命は小川が2例目となる。
2005年(平成17年)、ペルーを出国しチリに入国したアルベルト・フジモリについて、邦人保護の観点から日本国籍を保持している元ペルー大統領であるフジモリが公正な扱いを受けられるようチリの外相イグナシオ・ウォーケルに要請。
2007年(平成19年)、駐チリ大使退任。総務省参与に就任。
2008年(平成20年)、総務省参与として再びチリを訪問した。
2014年(平成26年)、公益財団法人日本国際フォーラム政策委員も務めた[4]。
2024年(令和6年)10月15日、肺炎のため、東京都内の病院で死去した[5]。85歳没。死没日付をもって従四位に叙された[6]。
系譜
[編集]小川家
[編集]脚注・出典
[編集]- ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京篇』、杉本甫(524頁) 日本図書センター 1987年 底本は谷元二編『大衆人事録 第14版』(帝国秘密探偵社、1942年)
- ^ 学習院桜友会 月例会報告 小川元(おがわはじめ)氏〜民間大使の5年間
- ^ 『官報』号外第93号12頁 平成21年4月30日号
- ^ “委員”. 日本国際フォーラム. 2014年2月25日閲覧。
- ^ “小川元さん死去 元衆院議員、チリ大使 富士見町出身|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト”. 信濃毎日新聞デジタル (2024年10月20日). 2024年10月20日閲覧。
- ^ 『官報』第1351号6頁 令和6年11月21日
参考文献
[編集]- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』、鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート(153-157頁) 角川書店 1983年
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』、政・官・財を横断する超エリート大閨閥の源流(442-457頁) 立風書房 2001年
- 『昭和人名辞典 第1巻 東京篇』、杉本甫(524頁) 日本図書センター 1987年
議会 | ||
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先代 高橋一郎 |
衆議院文教委員長 1998年 - 1999年 |
次代 鈴木恒夫 |