青木正久
青木 正久 あおき まさひさ | |
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生年月日 | 1923年1月22日 |
出生地 | 埼玉県 |
没年月日 | 2001年8月6日(78歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
前職 | 東京新聞記者 |
所属政党 | 自由民主党(中曽根康弘→渡辺美智雄派) |
称号 | 勲一等瑞宝章 |
親族 | 父・青木正(自治庁長官) |
第20代 環境庁長官 | |
内閣 | 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
選挙区 | 旧埼玉4区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1967年1月29日 - 1972年11月13日 1976年12月5日 - 1979年9月7日 1980年6月22日 - 1993年6月18日 |
青木 正久(あおき まさひさ、1923年1月22日 - 2001年8月6日)は、日本の政治家。環境庁長官(第20代)、衆議院議員(7期、自由民主党)。
経歴
[編集]埼玉県出身。東京大学法学部卒業後の1947年、東京新聞社に入社。ロンドン支局長、ニューヨーク支局長、政治部長、編集局長などを歴任した後、1966年退社し[1]、翌1967年の衆院選に父・正の地盤を継ぎ旧埼玉4区から出馬し初当選。自民党内では中曽根康弘→渡辺美智雄派に属す。1988年12月、竹下改造内閣の環境庁長官として初入閣。翌年6月まで務めた。それ以降は地球環境問題をライフワークとするようになり、1992年、環境と開発に関する国際連合会議に参加。また同年発足した地球環境行動会議(初代会長は竹下登)の事務総局長を務めたが、1993年の衆院選で落選した。当選通算7回。
小選挙区比例代表並立制が導入された1996年の衆院選時、青木は当初埼玉13区の自民党支部長となり、自民党の公認も得て立候補の準備を進めていたが、選挙直前に埼玉県知事土屋義彦の次女土屋品子が埼玉13区から無所属で出馬することを表明。土屋父子に配慮した新進党と民主党は候補者擁立を見送った。青木はなおも出馬の意向であったが、土屋父子の地元春日部市での品子の大量得票が予想され、自民党は青木の当選は困難と判断。青木は小選挙区出馬を断念し、比例北関東ブロックからの立候補を検討したが、当選可能な名簿順位を得られない見通しとなり、選挙不出馬となった。同年秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章[1]。
その後も国政復帰の意思を示し、後援会も存続。1999年の第14回統一地方選挙埼玉県議会議員選挙に自身の秘書を20年以上にわたって務めた鈴木聖二が東1区(行田市)から立候補。青木と青木後援会はその応援に回った。鈴木は初当選を果たし、青木は後援会を鈴木に託して政界を引退した。国会を離れてからも地球環境問題に関する著作を発表するなど、精力的に地球環境問題に取り組んだ。2001年8月6日、心不全のため死去、78歳没[2]。
受賞(章)歴
[編集]- 第3回日本文芸賞特別賞(1983年)[1]
- オーストリア グランド・デコレーション・オナー(1986年)[1]
- 文芸春秋ベストエッセイスト賞(1986年)[1]
- 勲一等瑞宝章(1996年)
所属団体・議員連盟
[編集]- 音楽議員連盟 (現文化芸術振興議員連盟)副会長[3]
- 日本吹奏楽指導者協会名誉会長 (1991年)[3]
著書
[編集]- 『薔薇 : バラの文化史』作品社、1956年。
- 『これからのバラ作り』誠文堂新光社、1959年。
- 『海外特派員』角川書店、1959年。
- 『世界バラの旅』社会思想社〈現代教養文庫〉、1962年。
- 『薔薇物語』光和堂、1965年。
- 『世界のバラ』海南書房、1971年。
- 『魔女のガウン 地球環境物語』ぎょうせい、1994年。 ISBN 4-324-04256-X
- 『国会議員のふつうの生活』文藝春秋、1994年。 ISBN 4-16-349330-1
脚注
[編集]議会 | ||
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先代 阿部文男 三ツ林弥太郎 |
衆議院文教委員長 1986年 1981年 - 1982年 |
次代 愛知和男 葉梨信行 |
公職 | ||
先代 堀内俊夫 |
環境庁長官 第20代:1988年 - 1989年 |
次代 山崎竜男 |