コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

嶋崎譲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嶋崎 譲
しまさき ゆずる
生年月日 (1925-01-21) 1925年1月21日
出生地 石川県小松市
没年月日 (2011-10-26) 2011年10月26日(86歳没)
死没地 静岡県伊東市
出身校 九州大学
前職 九州大学教授
所属政党日本社会党→)
市民リーグ→)
民主党
称号 政治学修士
親族 兄・嶋崎均

選挙区 旧石川1区
当選回数 8回
在任期間 1972年12月10日 - 1996年9月27日
テンプレートを表示

嶋崎 譲(しまさき ゆずる、1925年(大正14年)1月21日2011年(平成23年)10月26日)は、日本政治学者政治家衆議院議員(8期)。

生涯

[編集]

石川県小松市粟津町に生まれる。兄の自由民主党所属の参議院議員法務大臣を歴任し、兄弟で党籍が与野党に別れていた。また、弟の石川県立美術館館長。

旧制第四高等学校を経て九州大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了。

大学院修士課程修了後、九州大学助教授、教授となる。向坂逸郎らと共に社会主義協会系の学者として活躍するが、1967年(昭和42年)社会主義協会分裂の際は太田派の中心人物の一人となった。

1969年(昭和44年)、社会党執行部から求められて九州大学教授を辞職し、旧石川1区から第32回総選挙に立候補するが落選。1972年(昭和47年)、第33回総選挙で初当選する。その後太田派社会主義協会を離れ、右派グループで活動。

1995年(平成7年)、社会党を離党(翌年、党名改称した社会民主党から除籍処分)し、市民リーグを経て旧民主党結成に参画。

引退後、静岡県伊東市で隠遁生活を送る。

2011年(平成23年)10月26日、急性心不全のため静岡県伊東市内の自宅で死去。86歳没[1]

エピソード

[編集]

石川県出身の寺越武志北朝鮮で生存していたことから、1987年(昭和62年)、みずから団長をつとめた日本社会党訪朝団に武志の母親の寺越友枝を同行させた[2][3]。嶋崎は、帰国後『再会』という小冊子をまとめている[2]

経歴

[編集]

選挙歴

[編集]
当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 石川県第1区 日本社会党 33,799 6/10 - -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 石川県第1区 日本社会党 75,120 2/7 - -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 石川県第1区 日本社会党 80,545 3/5 - -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 石川県第1区 日本社会党 64,893 3/4 - -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 石川県第1区 日本社会党 79,128 3/5 - -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 石川県第1区 日本社会党 67,349 3/5 - -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 石川県第1区 日本社会党 78,846 3/5 - -
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 石川県第1区 日本社会党 117,566 3/4 - -
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 石川県第1区 日本社会党 70,453 3/4 - -
当選回数8回(衆議院議員8)

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会 著「第7章 人間、口と腹は違うんや:寺越昭二・寺越外雄/寺越武志」、米澤仁次・近江裕嗣 編『家族』光文社、2003年7月。ISBN 4-334-90110-7 

関連項目

[編集]
議会
先代
渡辺省一
日本の旗 衆議院文教委員長
1993年 - 1994年
次代
伊吹文明
党職
先代
武藤山治
日本社会党政策審議会長
第11代 : 1981年 - 1986年
次代
伊藤茂