中川申也
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県平鹿郡山内村(現:横手市) |
生年月日 | 1973年6月30日(51歳) |
身長 体重 |
180 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1991年 ドラフト5位 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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中川 申也(なかがわ しんや、1973年6月30日 - )は、秋田県平鹿郡山内村(現:横手市)出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]山内小学校の4年時から軟式野球を始める[1]と、山内中学校の3年時に、軟式野球部のエースとして第54回秋田県全県少年野球大会で決勝に進出。チームは延長戦の末に0対1というスコアで敗れたものの、相手チームのエースだった斎藤幸治(後年に東芝へ入社)と共に秋田経法大学附属高校(現在のノースアジア大学明桜高校)へ進学した。
高校1年時(1989年)の夏に、秋田代表として第71回全国高校野球選手権本大会へ出場。背番号11の控え投手ながら、出雲商との初戦で先発を任されると、完封勝利を収めた。チームはこの勝利を皮切りに、準決勝へ進出。中川は投手としては小柄ながら、童顔にして負けん気が強かったことから、「東北のバンビ」[1][2]と呼ばれるほどアイドル級の人気を集めるようになった[3]。2年時(1990年)には背番号1のエースとして、春の選抜・夏の選手権に出場。選抜大会では、開幕試合で内之倉隆志などを擁する鹿児島実に9回逆転負けを喫した。選手権大会では、育英高(兵庫)との初戦で延長13回にまでもつれ込みながら戎信行との投げ合いを制したものの、横浜商との3回戦で延長戦の末に敗れた。
2年秋は県大会優勝で東北大会へ進むが、準々決勝で川越英隆が投げた学法石川高に敗れ、夏の県大会は準優勝となり高校3年時の1991年には春夏ともに甲子園球場の全国大会へ出場できなかった[3]が、秋のNPBドラフト会議で、この球場を本拠地に使用している阪神タイガースから5位で指名されたことを受けて入団した。背番号は53。
阪神では、入団2年目の1993年に、MLB・ルーキーリーグのブリストル・タイガースへの野球留学を1シーズンにわたって経験した。しかし、前述したような高校生時代の投球過多が災いして、NPBでは一軍公式戦への登板までに至らなかった[1]。在籍中に和歌山県出身の女性と結婚したが、1995年のシーズン終了後に球団からの戦力外通告を受けて現役を引退。
現役を引退してからは、妻の実家が和歌山県内で営む建設会社に勤めるかたわら、野球教室を通じて地元の小中学生を指導している[3]。ちなみに、引退後に授かった次男は、中川が高校生時代に甲子園球場の全国大会で活躍する姿をDVDの映像で見たことをきっかけに、野球へのめり込むようになったという。和歌山県立和歌山東高校への進学後は、硬式野球部の4番打者(外野手)として、2022年の第94回選抜高校野球大会でチームを初めて甲子園球場へ導いている[4]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]- 一軍公式戦出場なし
背番号
[編集]- 53 (1992年 - 1995年)
関連書籍
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 元阪神・中川申也氏 秋田にも「ユニホームで勝てるチーム」が出てきてほしい(2)(『東京スポーツ』2018年12月22日付記事)
- ^ 東邦高1年時の1977年に第59回全国高校野球選手権本大会でチームを決勝にまで導いた右投手の坂本佳一が、大会の終了後から「バンビ」と呼ばれるようになったことにちなんだ愛称。
- ^ a b c あの敗戦が教えてくれた、勝ちっぱなしの人生なんてない。元高校球児たちが語る甲子園は私の先生でした(2)(『週刊現代』2014年9月7日付記事)
- ^ 元阪神中川申也氏の息子、和歌山東の4番で存在感「甲子園ベスト8が目標」(『日刊スポーツ』2022年3月12日付記事)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)