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乾正厚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

乾 正厚(いぬい まさひろ、生年未詳 - 明治3年5月25日1870年6月23日))は、土佐藩士。板垣退助家の分家乾左八正春の養子。幼名楠弥太。字は市郎平(いちろべい)。変名は板垣深次郎。土佐藩藩士本山彦弥茂良の嫡男。家禄は28石8斗。妻は土佐藩士明神源八善秀の姉。本山只一郎の義弟にあたる[1]

来歴

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生い立ち

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ゆえあって、文政4年7月28日(1821年8月25日)、片坂限西へ追放処分とされた、本山茂良(彦弥)の嫡男として生まれ、初名を「本山楠弥太」と称した。実弟に本山茂邁がいる。本山家の分家の本山茂養(伊平)に養育され、本山茂任(只一郎)の義兄弟として育つ[1]

伯父の乾家を継ぐ

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文政13年11月24日(1831年1月7日)、土佐藩主・山内豊資御代、実父本山茂良の実兄乾正春が病気で無嗣子のため、楠弥太が正春の養子となることを仰せ付けられる[2]

天保2年3月28日(1831年5月10日)、養父正春の跡目五人扶持切府高十石之内の七石を下し置かれ、格式そのまま新御扈従を仰せ付けられた[1]

前歴

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天保10年6月18日(1839年7月28日)、敏衛様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる[1]。同年10月2日(太陽暦11月7日)、同役御附御免。同年10月15日(1839年11月20日)、敏衛様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。同11年1月30日(1840年3月3日)、同役を御附御免。同年7月14日(太陽暦8月11日)、兵部様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。同年8月12日(太陽暦9月7日)、同役御附御免[1]

同12年4月25日(1841年6月14日)、雅五郎様附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。同15年1月30日(1844年3月18日)、土佐藩主・山内豊熈御代、同役を差免がれ役料米を除かる。同年7月25日(太陽暦9月7日)、式部様附きを仰せ付けられる。7月27日(太陽暦9月9日)、同役御役御免[1]

弘化2年3月15日(1845年4月21日)、山内大学様(山内豊栄)附きを仰せ付けらる。3月21日(太陽暦4月27日)、同役御役御免。同年5月13日(1845年6月17日)、登五郎様(山内豊樹)附きを仰せ付けられる[1]8月27日(太陽暦9月28日)、同役御附御免[1]

同年9月16日(1845年10月16日)、内膳様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。同年11月21日(太陽暦12月19日)、同役御役御免。同3年9月28日(1846年11月16日)、再び内膳様(山内勝矩)附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。同4年12月1日(1848年1月6日)、来春、内膳様(山内豊矩)が江戸表へ御越しになられる事になったため、その御供を仰せ付けられる[1]

嘉永2年10月2日(1849年11月16日)、土佐藩主・山内豊信御代、内膳様(山内豊矩)附の御役御免仰せ付けられ、役料米を除かる。同3年12月5日(1851年1月6日)、大学様(山内豊栄)附きを仰せ付けらる。同12月17日(1851年1月18日)、御役御免。同4年1月9日(1851年2月9日)、督三郎様(山内豊積)附きを仰せ付けらる。同1月10日(太陽暦2月10日)、御操替を以って、登五郎様(山内豊樹)附きを仰せ付けらる。同月13日(太陽暦2月13日)、登五郎様(山内豊樹)附きを御役御免。同年8月18日(太陽暦9月13日)、大学様附を仰せ付けらる。同8月20日(1851年9月15日)、御役御免[1]

安政元年10月19日(1854年12月8日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同年12月21日(1855年2月7日)、鏆三郎様附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。安政2年4月14日(1855年5月29日)、人員削減のため御役御免。役料を除かる。同年5月29日(1855年7月12日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同7月17日(1855年8月29日)、御役御免[1]

同年8月19日(太陽暦9月29日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同11月4日(1855年12月12日)、御役御免。同年11月27日(1856年1月4日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同3年日4月7日(1856年5月10日)、御附御免。同3年6月28日(1856年7月29日)、鏆三郎様附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。同5年1月15日(1858年2月28日)、これまでの役料米八石の内「五石」御加増分として引き置かれ「三石」はそのまま役料として下し置かれた[1]

万延元年1月30日(1860年2月21日)、土佐藩主・山内豊範御代、鏆三郎様附きを差免がれ、役料米を除かる。文久元年4月27日(1861年6月5日)、雅楽助様附きを仰せ付けらる。同5月6日(1861年6月13日)、御役御免[1]

同2年3月30日(1862年4月28日)、御詮議振を以って「御小性組」を仰せ付けらる。同年12月11日(1863年1月30日)、臨時御用立陣を以って、来る12月20日(1863年2月8日)より、北山中国路を通り江戸表へ差立てるよう仰せ付けられる[1]

京都在留

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文久3年1月8日(1863年2月25日)、臨時御用立陣を以って江戸表へ差立てられ、京都に通過の際、御詮議振を以って京都在留を仰せつけらる[1]

同年1月26日(1863年3月15日)、江戸表の智鏡院様(山内豊熈の夫人・候姫[3])御帰国御用を以って、用意調(ととのい)次第、江戸表へ差立るよう仰せ付けらる[1]八月十八日の政変の後、同年8月23日(1863年10月5日)、貞誠院様附き御祝儀本締役と御弘式役を兼帯仰せ附けられ、役料米八石を下し置かれた。この勤務のため、同年9月7日(1863年10月19日)、京都へ差立てられ、来る9月21日(太陽暦11月2日)、乗船するよう仰せ付けらる[1]

尹宮朝彦親王御用

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元治元年5月15日(1864年6月18日)京都において小目付役(小監察)と御軍備御用を兼帯仰せ付けらる。従来の役料米もそのまま下し置かれた。同年同月同日(1864年6月18日)京都において前記の役職に加えて、尹宮様(中川宮朝彦親王)御用向を勤めるよう仰せ付けられ、この分の役料として白銀50枚を成し遣わされた[1]

元治元年5月17日(1864年6月20日)、京都において前記の役職そのままに加えて、文武調(ととのえ)役、かつ探索御用を兼帯するよう仰せ付けらる。同2年1月27日(1865年2月22日)、前記の役職を差免れ役料米を除かる[1]

禁門の変

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元治元年7月15日(1864年8月16日)、長州兵の入京を阻止せんと薩摩藩士・吉井幸輔土佐藩士・乾正厚、久留米藩士・大塚敬介の3名が正親町実徳邸を訪ね、従来の朝命を維持し「長州の嘆願を許可せぬよう」家中を通じて伝える[4]。同日、議奏・正親町三条実愛邸にも同上の3人が訪れ「長州へ処置は追討之外無き」ことを伝えた[5]

更に翌7月16日(1864年8月17日)、同上の3人は尹宮朝彦親王邸を訪れ、薩摩藩士・大島吉之助(西郷隆盛)、吉井幸輔久留米藩士・大塚敬介、田中紋次郎らが会し重ねて長州藩士の入京を阻止せん事を議す[6]。翌7月17日(1864年8月18日)、意見書をまとめて連署で朝廷に建白[7]。その決意を求めた(禁門の変)。

長門宰相父子之儀、去年八月以来、勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々へ屯集奉要、天朝候姿無紛候處、寛大之御仁恕を以て、再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言不引拂段甚如何にも奉存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々有御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝之御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候。方今夷難相迫り不容易御時際、一旦 朝權、地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付、速かに斷然と御處置被爲在候様状而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分難黙止奉存に付、三藩在京之重役共一同申談奉歎願候事。

 (元治元年)七月十七日
              松平修理大夫内
                  吉井幸輔(友實)
              松平土佐守内
                  乾市郎平(正厚)
              有馬中務大輔内
                  大塚敬介
              右 同
                  田中紋次郎[8]

蛤御門の門柱に残る弾痕(2005年10月)

これらを受け朝廷は、元治元年7月17日(1864年8月18日)夜、大会議を開く事となり、関白・二條斉敬、右大臣・徳大寺公純、中務卿宮、尹宮、有栖川帥宮、山階宮、内大臣・近衛忠房らが参内し徹宵会議を行い、ついに長州藩を追討する旨を決定した。これにより、翌7月18日(太陽暦8月19日)、大納言・正親町三條実愛、六條有容、柳原光愛野宮定功らは長州藩の京都留守居役・乃美織江を六條家に呼び出し、「天龍寺以下、伏見屯集の浪士を今日中に引拂可申様、若又於相距者、追討被仰出候事」と厳令を伝えた。また、公卿一同には、「方今之形勢、可及戰爭計難候得共、被動玉座候儀、無之旨被仰出候事」と発令した。乃美織江は、右の旨を山崎と天龍寺の屯営に急報。男山に布陣していた益田右衛門介の本陣では、長州藩の諸将が軍議を開き、入江九一久坂玄瑞らは一旦、退却して再起を図る戦略を述べるも、進軍を主張する来島又兵衛真木保臣らの意見から遂に「諸隊同時に三道から進軍し、君家の冤を雪(そそ)ぐ可し」と決した。よって久坂らはここに水盃をして討死を覚悟した。追討総督の一橋慶喜は、先手となる伏見方面へは、大垣藩をして守らせ、彦根藩を二番手に布陣。桃山の要害は会津、桑名の両藩に守らせ、丸岡藩小倉藩は山崎方面、鯖江藩、仁正寺、園部藩は豊後橋の警固につかせた。

元治元年8月30日(1864年9月30日)、朝彦親王へ『関東風聞書』を奉呈し幕府側の情勢を伝える[9]

元治元年9月2日(1864年10月2日)、朝彦親王より将軍徳川家茂の上坂周旋を相談される[10]。正厚は「上の者と相談する」旨を告げて帰った[10]

元治元年9月4日(1864年10月4日)、朝彦親王へ「土佐藩としては将軍徳川家茂の上坂周旋は難しい。この件は朝彦親王より会津藩へご相談されますように」と返答[11]朝彦親王は、会津藩士手代木直右衛門を呼びこの旨を相談し承諾を得た[11]

慶応元年4月19日(1865年5月13日)、朝彦親王紀貫之の真蹟の刷物を献上[12]

ゆえあって、同年8月23日(1865年10月12日)から9月7日(1865年10月26日)まで謹慎[13]

長防探索御用

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慶応2年4月26日(1866年6月9日)、整之助様附きを仰せ付けらる。同4月27日(1866年6月10日)、御役御免。同年6月6日(1866年7月17日)、長防探索御用のため、予州北合等表辺へ差立られ、用意調(ととのい)次第早々出足を仰せ付けらる。出達の日や詳細は別書面にて伝えらる[14]。変名は板垣深次郎。

同3年2月27日(1867年4月1日)、秀馬様附きを仰せ付けらる。同2月30日(1867年4月4日)、御役御免。

薩土討幕密約の締結以降

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同年5月21日(1867年6月23日)、土佐藩士・乾退助谷干城らが、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩家老小松帯刀京都滞在先の寓居において、同藩士・西郷隆盛吉井幸輔らと薩土討幕の密約を結ぶ[15]

同年6月28日(1867年7月29日)、少將様(山内豊範)御納戸役を仰せ付けられ、役料米を下し置かれる[1]

7月17日(太陽暦8月16日)、中岡慎太郎の意見を参考にした乾退助によって土佐藩銃隊設置の令が発せられる。

7月22日(太陽暦8月21日)、乾退助は古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止し、新たに銃隊編成を行い、士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊が設置。近代式銃隊を主軸とする兵制改革を行った。さらにこの日、中岡慎太郎が、土佐藩・大目付(大監察)本山只一郎に幕府の動静を伝える密書を送る。中岡は本山宛の書簡に「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き綴っている。

8月6日(太陽暦9月3日)、乾退助が、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。

明治元年2月10日(1868年3月3日)、御役御免。役料米を除かる[1]

同年3月13日(1868年4月5日)、小目付役(小監察)格式御馬廻を仰せ付けられ、役料二人扶持十二石を下し置かる。御軍備御用と文武調(ととのえ)役を兼帯し、取抜勤め致道館掛を仰せ付けらる[1]。同年4月15日(1868年5月7日)、同役を以って吏代とし、浦戸より乗船にて京都へ差立らる。同年閏4月3日(1868年5月24日)、従来の役職はそのままを以って、関東へ差立られ、役職は大御目付役(大監察)を仰せ付けられた[1]

同年閏4月13日(1868年6月3日)、外吏を仰せ付けられ、費用の筋もこれあるべきにつき、格分月金15両を下し置かる旨、大坂表にて仰せ付けらる。同年7月6日(1868年8月23日)、京都へ在勤中、急御用を以って土佐へ帰着。同年12月17日(1869年1月29日)、小目付役(小監察)と兼帯の諸役を差免がれ、役料を除かる。格式御小性組を仰せ付けらる[1]。明治2年1月(1869年2月)、京都において板垣退助後藤象二郎らと写真を撮影[16][17]

明治3年5月25日(1870年6月23日)死去。正厚は無嗣子ゆえ板垣退助の次男・板垣正士を後嗣として家を継がしめた[18]

家族

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系譜

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土佐乾氏(乾市郎兵衛家)系図

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乾正行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾正祐乾正直乾友正
 
 
 
 
 
 
乾正方乾正房
 
 
 
 
 
 
乾正清乾吉勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾直建乾正英乾正愛
 
 
 
 
 
 
乾正聰乾正壽
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾信武乾正春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾正成乾正勝本山茂良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣退助乾正厚本山茂邁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣鉾太郎乾正士
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣守正板垣正貫乾一郎川瀬美世子中村朝子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣正明板垣退太郎髙岡眞理子川瀬勝世杉崎光世中村純子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
髙岡功太郎井深美香中村直敬中村和敬

補註

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書)
  2. ^ 実父の本山茂良は、本名を乾右馬之助と言い、本山茂直(安之進)の養子となって本山家を継いだが、正厚の代でまた乾家に戻ってきたことになる。
  3. ^ 島津斉彬の実妹
  4. ^ 『中山忠能日記(2)』193-195頁
  5. ^ 『嵯峨実愛日記』(1)6頁。
  6. ^ 「一、大島吉之助(西郷隆盛)入來之事。一、薩藩両人(西郷隆盛吉井友実)、有馬藩(久留米藩)両人(大塚敬介、田中紋次郎)、土藩一人(乾正厚)入來。右は長人入京之 御朝議之由、如何之御事と存候旨、速(すみやか)に御勇断被爲有度旨左様無之而者、朝議之被爲立候儀無之、此後朝議被爲立間敷依而右様申上候由候事。返答(は)尚明日伺公之上、關白殿(を)始(め)両役え可申聞旨申答候事」(『朝彦親王日記』元治元年7月16日條)
  7. ^ 『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会編、弘文社、昭和2年(1927年)4月1日、219-220頁
  8. ^ 『維新土佐勤王史』瑞山會編、602頁
  9. ^ 「(八月)晦日戊戌小雨。一、今日者、予(朝彦親王)不參相願候事、尤常陸宮内府伺公也。一、藝州中老品川直太郎令面會御祝遣候、且去年來毎々到來物挨拶も申候事。但、入來に付(き)肴代金千疋到來由也。一、二條法印招(まねき)に遣(し)新建に而(て)酒を遣候事。一、乾市郎平より關東風聞書到來之事。一、瀧口官人並河左衞門大尉(の)弟、諸陵寮之官人に被召加候様願度旨、予(朝彦親王)へ頼依而 谷森大和介へ可頼旨、先づは返答に及置候也。一、紀伊中納言より以使爲伺 天氣候に付、予(朝彦親王)方も同様見舞申來候由也。一、加賀中納言より以使筑前守、不ラチ恐入候旨以手控申來候由之事」(『朝彦親王日記』元治元年8月30日條)
  10. ^ a b 「一、(乾)市郎平へ「大樹上坂周旋之儀、申聞候所、猶重役共へ申聞、否可申上」と申歸候也」(『朝彦親王日記』元治元年9月2日條)
  11. ^ a b 「一、土藩乾市郎平令面會候處、過日申入置候「大樹上坂周旋、斷(ことわり)之旨申上置候而「大樹上坂之周旋者(は)、余程(よほど)六ツヶ敷(むずかしく)存(じ)候に付、相斷(あいことわり)之旨也。尤(もっとも)之儀也。但、此儀「予(朝彦親王)より會藩え申入クレ候様」申候。依而(よって)(手代木)直右衞門(を)招(き)委細申聞、承知に相成候事」(『朝彦親王日記』元治元年9月4日條)
  12. ^ 「(慶應元年)4月19日癸未晴。一、野崎糺、當番に付き、令對面。土藩盡力之猶々入念候樣分而申置、土方楠左衞(門)、或屋敷に潜伏。此両三(日)中に者、出京。是非共、取押いたし度旨うわさ之事。一、嶋津十大夫來。右は越前宰相越前守より之使也。箇條は當四月參府。年番併御所より被 仰出も候故、何ヶ可致と書面に而(て)伺候所、常例之通、參府可致旨、附紙返答。然所、當秋迄斷申立置候。此邊 朝廷へ不伺、恐入候。右邊(を)含(め)頼來仍而(よって)承知之旨返答す。一、薩藩小松帶刀、近々歸國に付、暇乞に來。口祝、包物等遣於表祝酒遣畢。一、紀藩横井次太夫、歸京に付來。對面斷政之進令、面會會所左に大樹彌進發之書取中納言へ達之寫一通、右書面に差添る口上書一通、都合二通也。從同人爲土産、江戸團扇十五握、御文筒五包到來之事。一、岩下佐治衞門より煮取一陶到來之事。一、寺尾元長診察申附畢。酒遣畢。一、二條宰相仍而(よって)招申、半比來、森田之儀申聞置畢。酒遣畢。一、土藩乾市郎平より紀貫之之眞蹟之摺物「月」字、到來。尤(もっとも)乾より傳候事」(『朝彦親王日記』慶応元年4月19日條)
  13. ^ 慶応元年9月7日(1865年10月26日)、今7月8日(1865年8月28日)之晩二之御丸宿番之所 翌7月9日(太陽暦8月29日)御着城之趣承リ朝五ツ時、代合不相待相仕舞之所、當日、御着城不被(あそばさ)遊(れず)重キ御番所明候段達ニ恐入申詞然ニ安易被承違ヲ以、件之次第不心得之至、御不快ニ被 思召依之先月23日(1865年10月12日)愼被仰付置候處、前躰被差免候。(『御侍中先祖書系圖牒』)
  14. ^ 『明治維新人名辞典』の執筆者は『御侍中先祖書系圖牒』を参照してい無いと思われ「慶応2年(1866年)6月以降は消息不明」と記載しているが、『御侍中先祖書系圖牒』には明治元年12月17日(1869年1月29日)まで記載があり消息不明ではない。
  15. ^ 『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
  16. ^ 板垣退助の壮年期の古写真 初公開。後藤象二郎、乾正厚と共に撮影
  17. ^ 高知市出身の政治家自由民権運動の指導者・板垣退助(1837年-1919年)の30歳代半ば頃の姿を撮影した写真が見つかり、高知市立自由民権記念館が、平成24年(2012年)7月13日、その画像を報道陣に公開した。大阪府池田市に居住する板垣退助の曾孫が保管していたもので公開は初めて。高知近代史研究会の公文豪会長(63歳)によると、写真は明治2年(1869年)1月頃に撮影されたとみられ、板垣退助の壮年期の古写真としては「大変貴重」という。写真では中央に板垣退助、向かって右側に後藤象二郎、左側に退助の次男・正士を養子に迎えた乾正厚が写っている。退助以外はいずれも髷を結っている姿。(画像)30歳代半ば頃の板垣退助(中央)の写真を手に記者会見する高知近代史研究会・公文豪会長=平成24年(2012年)7月13日午後、高知市立自由民権記念館にて。平成24年(2012年)8月1日から、同館で開催する「新出史料展」で一般公開する」(『千葉日報』平成24年(2012年)7月13日号)
  18. ^ 『御侍中先祖書系圖牒』 分家・初代乾市郎兵衛正直(1688年死去)より第七養子市郎平正厚(1870年死去)までの系図を収録。

参考文献

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