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亀戸事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
亀戸事件
東京朝日新聞』1923年10月12日付の記事
場所 日本の旗 日本東京府南葛飾郡亀戸町
座標
北緯35度41分55秒 東経139度49分33秒 / 北緯35.69861度 東経139.82583度 / 35.69861; 139.82583座標: 北緯35度41分55秒 東経139度49分33秒 / 北緯35.69861度 東経139.82583度 / 35.69861; 139.82583
日付 1923年9月4日 - 5日[1]
死亡者 少なくとも10人
犯人 習志野騎兵第十三聯隊兵士[1]
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亀戸事件(かめいどじけん)は、1923年9月3日関東大震災直後の混乱の中、亀戸署内あるいはその近辺で警察及び軍の手により発生した虐殺事件。

概要

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犠牲者10人のうち9人の顔写真。
上段:左から北島吉蔵、鈴木直一、川合義虎平澤計七
下段:左から佐藤欣治、吉村光治、加藤高寿、近藤広造、山岸実司。
1924年2月17日、葬儀の出発前に、遺族と南葛労働協会の同志らが犠牲者9人の遺影を抱いて集まった。中列左から3人目は渡辺政之輔

東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、関東大震災による治安悪化を理由に、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署[2]に捕らえられた社会主義者の川合義虎平澤計七、加藤高寿、北島吉蔵、近藤広蔵、佐藤欣治、鈴木直一、山岸実司、吉村光治、中筋宇八ら10名が、9月3日から4日(あるいは9月4日から5日)に習志野騎兵第13連隊に引き渡されて、亀戸署内あるいは荒川放水路で刺殺された事件[3]。また、同月4日に警察に不良自警団員として逮捕されていた4名がとくに警察に反抗的であるとしてやはり軍に引き渡されて殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、社会主義者ら10名が殺害された事件を「第二次亀戸事件」とし、両者を合わせて「亀戸事件」とすることもある[4]

当時の署長である古森繁高は、当初から朝鮮人暴動の流言を疑うこともなく、検束に熱心で対策の陣頭指揮に積極的に当たったという。署員数2百3十余人でありながら4日夜には検束者数が千三百余人に達し、不穏な状況に達していたとみられる[4]

本事件出態の事実は発生から1か月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められ、翌日の新聞各紙に大きく報じられた[1][5]。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団の弁護士布施辰治山崎今朝弥南葛労働協会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付された。『種蒔く人』の刊行元・種蒔き社は、自由法曹団作成の資料に基づき、本事件の殉難記『種蒔き雑記』を刊行した[3]

このほか、9月3日から5日にかけて数十人の朝鮮人が亀戸署内でやはり騎兵第13連隊により殺害された旨の複数の記述が残されており[6]、また上述以外に何人かの日本人中国人が殺されているともいわれる[1][3]

1970年9月4日、現場近くの浄心寺に「亀戸事件犠牲者之碑」が建立され、実行委員会による追悼会が営まれている[7]

なお、亀戸署管内は中国人労務者の多かった地域で、自由法曹団の調査に応じた八島京一は、付近の大島町で中国人・朝鮮人200~300人の虐殺された死体をみたことも証言している。(詳細は、関東大震災中国人虐殺事件を参照のこと。)

題材とした作品

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映画

脚注

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  1. ^ a b c d 二村一夫 (1968-03-). “亀戸事件小論”. 法政大学大原社会問題研究所『資料室報』138号. 2017年9月1日閲覧。
  2. ^ 後継組織としては現在の警視庁城東警察署であるが当時の亀戸警察署の所在地とは異なる。
  3. ^ a b c 亀戸事件」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6 
  4. ^ a b 田原 洋『関東大震災と中国人―王希天事件を追跡する』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2014年8月20日。 
  5. ^ 関東大震災から99年、公的救護の“空白”から学ぶ教訓…いまの私たちの心構えは大丈夫?読売新聞2023年8月29日、丸山淳一編集委員
  6. ^ 中国人虐殺事件関連現地フィールドワーク”. JCA-NET. 2024年11月26日閲覧。
  7. ^ 亀戸事件追悼会-真実を知りいま語ろう”. 日本国民救援会. 2017年9月1日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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