修徳寺
修徳寺 | |
---|---|
1308年に建立された大雄殿(国宝49号) | |
所在地 | 忠清南道礼山郡徳山面斜川里 |
山号 | 徳崇山 |
宗派 | 曹渓宗(禅宗⇒曹渓宗) |
寺格 |
曹渓宗の五大叢林(徳崇叢林) 曹渓宗の第7教区本寺 |
本尊 | 釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来 |
創建年 | 384年(百済枕流王元年)? |
開基 | 摩羅難陀? |
中興年 | 1308年(創建?) |
正式名 | 修德寺 |
文化財 | 大雄殿(国宝49号) |
修徳寺 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 수덕사 |
漢字: | 修德寺 |
発音: | スドクサ |
日本語読み: | しゅうとくじ |
修徳寺(しゅうとくじ、スドクサ、수덕사)は、大韓民国忠清南道礼山郡にある仏教寺院である。曹渓宗の五大叢林の一つで徳崇叢林と呼ばれている。また曹渓宗の第7教区本寺である。
徳崇山の斜面に位置している。大雄殿(大韓民国指定国宝第49号)は 1308年(高麗忠烈王34年)に建立されたもので、韓国最古の木造建物の一つと考えられている。また、寺の境内から百済の瓦が出土したことから、もとは百済の寺とされている。
歴史
[編集]曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)は寺の創建を384年(百済枕流王元年)としている[1]。正史『三国史記』によると、百済に初めて仏教が伝来したのが384年9月である。『三国史記』[2]や『三国遺事』[3]に修徳寺に関する記述は一切なく、384年創建の根拠は不明である。また百済の智明という僧が599年(恵王元年・法王元年)に創建したという説もある。
現在の伽藍配置は1308年以降に形作られたものである。日本統治時代の1937年から1940年にかけて大雄殿の解体補修が行われたが、その際に発見された墨書に1308年(忠烈王34年)の建立と書かれていた。
李氏朝鮮の時代、太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に修徳寺という名前はないため、廃寺になったようである。世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際も、存続を許された36寺院の中に名前はなく、引き続き廃寺だったようである(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。
1865年に宋満空禅師が復興を行い、これにより禅宗の修行場となった。
1970年代になり、一柱門(いっちゅうもん)、鐘楼、金剛門などが建立された[4][5][6]。
伽藍
[編集]伽藍は徳崇山一帯を占有するもので、その山中に幾つかの子院や庵を有し、その門前には門前町を形成している。柱に如意珠を咥える竜頭を刻む『徳崇山修徳寺』と書かれた『一柱門』を入ると、高麗時代の造営という石段にぶつかり、『祖印精舎(そいんしょうじゃ)』、太鼓楼、1973年落慶の鐘楼、高麗時代の建造という三層石塔などを配置する境内に到る。その奥に『大雄殿』を配する庭があり、僧の修行の場たる『青蓮堂(しょうれんどう)』に加え、七層石塔、『白蓮堂(びゃくれんどう)』などの事物を内に置いている。[4][7]
文化財
[編集]- 大雄殿
- 1308年に建造された木造の建物で、浮石寺の『無量寿殿(むりょうじゅでん)』や鳳停寺の『極楽殿(ごくらくでん)』とともに韓国最古の木造建物の一つとして国宝(第49号)に指定されている。安置仏は、中央に釈迦如来、その両脇に阿弥陀如来と薬師如来。2.4mの高さの石壇の上に『大雄殿』との額を掛けたこの建物は、高麗建築の優美な特色を色濃く示すものと評されている。[4][6][7]
- 槿域聖宝館
- 大韓民国全土に散っていた仏教文化遺産を集積した建物で、日本の飛鳥寺の支援を得て会館したものという。名にある『槿』とは、大韓民国の国花たる『ムクゲ』のことである。[7]
脚注
[編集]- ^ 大韓仏教曹渓宗の25教区本寺の紹介 修徳寺
- ^ 近仇首王之元子 母曰阿爾夫人 継父即位 秋七月 遣使入晋朝貢 九月 胡僧摩羅難陁自晋至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此 二年 春二月 創佛寺於漢山 度僧十人 冬十一月 王薨
- ^ 卞韓 百濟(亦云 南扶餘。即泗沘城也)
- ^ a b c 『韓国古寺巡礼〈百済編〉』 〔ISBN 4140087781〕 P.47,48 - 鎌田茂雄、NHK取材班、大村次郷
- ^ 『国際教育振興院>忠清南道』 - 国際教育振興院
- ^ a b 『修徳寺』 - 大韓民国独立記念館
- ^ a b c 『韓国古寺紀行―日本仏教の源流を訪ねて』 〔ISBN 4882026988〕 P.39-47 - 桑野淳一