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利用者‐会話:Aboshi/三国志関連人物の生没年記録について

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調査結果[編集]

年数は特に書かないときは建安です。

後漢書[編集]

  • 蔡ヨウ(132-192)蔡ヨウ伝に董卓が死んだ年に死去、六十一と記載。(新)
  • 伏完(?-209)皇后紀・下、伏皇后紀に「十四年卒し、子の典嗣ぐ」と記載。

魏書[編集]

  • 明帝叡(曹叡)(204-239)『明帝紀』景初三年に死去、三十六と記載
  • 斉王芳(曹芳)(232-274)『斉王芳紀』(伝?)に廃位された年に二十三、注に泰始十年に死去、四十三と記載。
  • 高貴郷公髦(曹髦)(241-260)『高貴郷公髦紀』に甘露五年五月己丑に死去、二十と記載。
  • 陳留王奐(曹奐)(245、246-302)『陳留王奐紀』に廃位された年に二十、注に太安元年に死去、五十八と記載
  • 曹安民(?-197)「魏書」武帝紀に二年春正月に死去と記載。(生年は確認できず)
  • 曹幹(?-261)「魏書」陳留王奐紀に景元二年八月戊寅に死去と記載。
  • 曹鑒(?-225)「魏書」東武陽懐王鑒伝に黄初六年に死去と記載。
  • 曹徽(?-242)「魏書」東平霊王徽伝に正始三年に死去と記載。
  • 曹羲(?-249)「魏書」曹真伝に曹爽と共に殺されたと記載。
  • 曹休(?-228)「魏書」明帝叡紀に太和二年九月庚子に死去と記載。
  • 曹均(?-219)「魏書」樊安公均伝に二十四年に死去と記載。
  • 曹訓(?-249)「魏書」曹真伝に曹爽と共に殺されたと記載。
  • 曹冏(?-226)「魏書」明帝紀、明帝の嫡子で清河王に封ぜられるが同年中<の十月>に薨去した方。
  • 曹儼(?-223)「魏書」広平哀王儼伝に黄初四年に死去と記載。
  • 曹抗(?-237)「魏書」樊安公均伝に景初元年に死去と記載。
  • 曹昂(?-197)「魏書」武帝紀に二年正月に死去と記載。
  • 曹洪(?-232)「魏書」曹洪伝に太和六年に死去と記載。
  • 曹貢(?-223)「魏書」清河哀王貢伝に黄初四年に死去と記載。
  • 曹袞(?-235)「魏書」中山恭王袞伝に青龍三年に死去と記載。
  • 曹志(?-288)「魏書」陳思王植伝の注に太康九年に死去と記載。
  • 曹淑(?-232)「魏書」文昭甄皇后伝に太和六年に死去と記載。
  • 曹純(?-210)「魏書」曹仁伝に十五年に死去と記載。
  • 曹詢(231-244)「魏書」斉王芳紀に正始五年八月に死去と記載。(生年は確認できず)
  • 曹彰(?-223)「魏書」文帝紀に黄初四年六月甲戌に死去と記載。
  • 曹植(192-232)「魏書」陳思王植伝に太和六年正月に死去、四十一と記載。
  • 曹仁(168-223)「魏書」曹仁伝に黄初四年に死去と記載。注に死去のときに五十六と記載。
  • 曹真(?-231)「魏書」明帝紀に太和五年三月に死去と記載。
  • 曹尋(?-248)「魏書」賛哀王協伝に正始九年に死去と記載。
  • 曹ズイ(?-233)「魏書」北海悼王ズイ伝に青龍元年に死去と記載。。文帝の子、北海悼王
  • 曹整(?-218)「魏書」曹操の子。郿戴公子整伝に建安二十三年に死去と記載。
  • 曹節(?-260)献帝の夫人
  • 曹爽(?-249)曹真伝に正始十年に死去と記載。
  • 曹則(?-249)曹真伝に曹爽と共に殺されたと記載。
  • 曹沖(196-208)曹操の子。鄧哀王沖伝に十三年に死去と記載。
  • 曹範(?-235)曹操の孫で曹據の子。郿戴公子整伝に黄初三年に死去と記載。
  • 曹彪(?-251)曹操の子。斉王芳紀に嘉平三年六月に死去と記載。
    • 方技伝第二十九『朱建平伝』に、五十七で兵禍に遭うと言われ、その年齢で自殺しているとの記載あり。ここから逆算して、195年生まれと思われる。
  • 曹炳(?-238)曹熊の子。蕭懷王熊伝に黄初六年に死去と記載。
  • 曹穆(?-229)明帝の子。繁陽王。明帝紀に太和三年六月癸卯に死去と記載。
  • 曹ヨウ(?-229)文帝の子、邯鄲懷王邕伝に太和三年に死去と記載。
  • 曹林(?-256)曹操の子
  • 曹霖(?-250)文帝の子。斉王芳紀に嘉平二年十二月甲辰に死去と記載。
  • 郭嘉(170-207)『郭嘉伝』に曹操の烏丸征伐(建安十二年)の後に病死、三十八と記載。
  • 荀彧(163-212)『荀彧伝』に十七年に死去、五十と記載。
  • 夏侯惇(?-220)『文帝紀』に黄初元年四月庚午に死去と記載。
  • 賈ク(147-223)『賈ク伝』に江陵の役(黄初三年)の後に死去、七十七と記載。
  • 劉表(?-208)『劉表伝』に十三年に死去と記載、『後漢書』では八月と記載。(生年の記載は発見できず)(代:142-208)
    • 劉キ(?-209)『劉表伝』に赤壁の翌年に死去と記載。(生年の記載は発見できず)
    • 劉ソウ(生没年不明)(劉表が荊州入りした後の子であり、劉表が荊州に在ること20年とある。といってもこれは正確な数字というわけではないでしょうが。)
  • 孫壱(?-260)魏・高貴郷公紀、孫奐の子。沙羨侯→魏に投降し車騎将軍。妻の刑氏と共に部下に殺害される。(新)
  • 孫該(?-261)魏・孫該伝、魏の著作郎。魏書を書く。著作郎在職中に死去。(新)
  • 孫資(?-251)魏・劉放伝、右光禄大夫・楽陽亭貞侯。(新)
  • 劉岱(?-192)魏・武帝紀、黄巾軍との戦いで討死。。(新)
  • 劉ヨク(180-221)魏・劉ヨク伝、関内伝。(新)
  • 劉偉(?-219)魏・劉ヨク伝、劉ヨクの弟。魏諷の謀反に連座して誅される。(新)
  • 劉虞(?-193)魏・公孫サン伝、公孫サンの捕虜となり殺される。(新)
  • 劉賢(?-254)魏・夏侯玄伝、司馬師を暗殺しようとした事が露見し三族皆殺し。(新)
  • 劉馥(?-208)魏・劉馥伝(新)
  • 劉靖(?-254)魏・劉馥伝、劉馥の子。鎮北将軍・建成郷景侯。(新)
  • 劉楨(?-217)魏・劉楨伝、建安七子。(新)
  • 劉放(?-250)魏・劉放伝、(巻十四)。方城敬侯。『嘉平二年放薨諡曰敬侯』(新)

蜀書[編集]

  • 関羽(?-219)『関羽伝』に建安二十四年に死去と記載。
    • 現在の記事には『山西省の研究家の間では、関羽の生年を160年とする説が有力である(多くの文献では162年が生年)。』とありますが、どういう研究なのでしょう、私は知らないのですが。
  • 馬超(176-222)『馬超伝』に章武二年に死去、四十七と記載。
  • 黄忠(?-220)『黄忠伝』に建安二十四年の翌年に死去と記載。
  • 趙雲(?-229)『趙雲伝』に建興七年に死去と記載。
  • 劉備(161-223)蜀・先主伝。(新)
  • 劉禅(207-271)蜀・後主伝。(新)
  • 劉冑(?-233)蜀・後主伝、反乱を起こし馬忠に斬られた。(新)
  • 劉セン(224-264)蜀・劉セン伝、劉禅の長男。蜀滅亡の翌年死去。(新)
  • 劉理(?-244)蜀・劉理伝、安平悼王。(新)
  • 劉胤(?-256)蜀・劉理伝、劉理の子。安平哀王。(新)
  • 劉承(?-257)蜀・劉理伝、劉胤の子。安平殤王。王を継いだ翌年薨去。(新)
  • 劉焉(?-194)蜀・劉焉伝、益州牧。
  • 劉璋(?-219)蜀・劉璋伝、益州牧。
  • 劉エン(?-234)蜀・劉エン伝。車騎将軍。妻虐待の罪で処刑される。
  • 劉巴(?-222)蜀・劉巴伝、蜀の尚書令。


呉書[編集]

  • 孫堅(156-192)『孫堅伝』に熹平元年に十七、初平三年に死去と記載。
  • 孫策(175-200)『孫策伝』に建安五年に死去、二十六と記載。
  • 孫亮(243-260)『孫亮伝』に廃された太平三年に十六、『孫休伝』に永安三年に死去と記載。
  • 孫休(235-264)呉・『孫休伝』、景帝。『孫休伝』に永安七年癸未に死去。三十と記載。(新)
  • 孫皓(242-284)呉・『孫皓伝』。『孫皓伝』に太康五年に死去と記載。注の『呉録』には四年十二月に死去、四十二と記載。(新)
  • 張昭(156-236)『張昭伝』に嘉禾五年に死去、八十一と記載。
    • 張承(178-244)赤烏七年に死去、六十七と記載。
  • 顧雍(168-243)『顧雍伝』に赤烏六年に死去、七十六と記載。 【修正】
  • 諸葛瑾(174-241)諸葛瑾伝に赤烏四年に死去、六十八と記載。
  • 歩隲(?-247)『歩隲伝』に赤烏十年に死去と記載。
  • 張紘(生没年不詳)死の時に六十歳とだけ記載。
  • 周瑜(175-210)『周瑜伝』に孫策と同年の生まれ、死去したときに三十六と記載。(劉備が荊州牧になった後に死去と書いてあり、『孫権伝』ではこれは建安十四年の出来事になっている。ただ単に翌年と言う言葉を書かなかっただけかもしれないが)
  • 呂蒙(178-219)『呂蒙伝』に関羽が死んだ年に死去、四十二と記載。
  • 孫英(?-254)呉・孫登伝、孫峻を殺そうとしたが露見したので自決。(新)
  • 孫奇(?-250)呉・孫覇伝、孫覇に連座して殺された。(新)
  • 孫儀(?-255)呉・孫皎伝、孫皎の子。孫峻を殺そうとしたが露見したので自決。(新)
  • 孫権(182-252)呉・呉主伝。大帝。(新)
  • 孫峻(219-256)呉・孫峻伝、孫恭の子。丞相・大将軍就任の三年後病没。(新)
  • 孫ショ(?-263)呉・孫休伝、呉の交趾太守。郡の役人呂興に殺された。(新)
  • 孫松(?-231)呉・孫松伝、孫翊の子。射声校尉・都郷侯。(新)
  • 孫邵(163-225)呉・呉主伝、丞相・威遠将軍・陽羨侯。(新)
  • 孫韶(?-241)呉・孫韶伝、孫河の甥。孫河が死んだ時17歳。鎮北将軍・幽州牧・建徳侯。(新)
    • なお、『呉主伝』によれば、建安九年に孫権の弟・孫ヨクが殺害(享年21歳)。『孫韶伝』に、その後孫河が孫ヨクの側近を責め、彼らに殺されているとの記載。但し、この加害者の側近達が討たれた直後に、孫河の兵を孫韶が纏めたかどうかは、前後関係から見てはっきりしない。生年が188年以降になる事は確実。
  • 孫泰(?-234)呉・孫匡伝、孫匡の子。長水校尉。魏の合肥新城包囲戦で戦死。(新)
  • 孫チン(231-258)呉・孫チン伝、孫綽の子。孫休に殺された。(新)
  • 孫登(209?-241)呉・孫登伝、父に先立って33歳で病死。宣太子。(新)
  • 孫奮(?-270)呉・孫奮伝、孫皓に誅殺された。(新)
  • 孫賁(?-219)呉・孫賁伝、征虜大将軍・都亭侯。(新)
  • 孫瑜(177-215)呉・孫瑜伝、奮威将軍。(新)
  • 孫慮(213-232)呉・孫慮伝、仮節・建昌侯。早死にした。(新)
  • 孫楞(?-255)呉・孫亮伝、留賛らと共に殺された。(新)
  • 孫鄰(?-249)呉・孫鄰伝、予章太守になった時9歳。威遠将軍。(新)
  • 孫魯育(?-255)呉・孫権歩夫人伝、孫権の次女。孫儀が孫峻を殺そうとした時巻き添えになって殺された。(新)
  • 劉俊(?-267)呉・孫皓伝、呉交州刺史。晋軍に殺された。(新)
  • 劉丞(?-258)呉・孫亮伝、孫チン勢力に殺された。(新)
  • 劉承(?-258)呉・孫亮伝、孫チン勢力に殺された。劉丞と同一人物との説がある。(新)
  • 劉略(?-279)呉・孫晧伝、南海太守。郭馬に殺された。(新)

晋書[編集]

  • 司馬イ (271-291)魏・衛覬伝。司馬炎の第5王子。衛将軍・楚王。
  • 司馬懿(179-251)魏・武帝紀
  • 司馬炎(236-290)魏・高貴郷公紀
  • 司馬カイ(?-274)魏・斉王紀。司馬孚の子。魏の散騎常侍で晋の太原王。
  • 司馬幹(232-311)魏・満寵伝。司馬懿の子。
  • 司馬ギョウ(?-306)魏・牽招伝。司馬孚の孫で司馬カイの子。河間王。
  • 司馬洪(?-276)魏・司馬朗伝。司馬望の子。
  • 司馬師(208-255)魏・斉王紀。
  • 司馬昭(211-265)魏・高貴郷公紀。
  • 司馬チュウ(227-283)魏・高貴郷公紀。司馬懿の子。魏のエン州刺史、晋の鎮東大将軍。
  • 司馬衷(259-306)魏・夏侯玄伝。晋の恵帝。
  • 司馬防(149-219)魏・司馬朗伝。
  • 司馬望(205-271)魏・司馬朗伝。
  • 司馬攸(248-283)魏・陳思王植伝。
  • 司馬倫(?-301)魏・崔林伝。
  • 司馬朗(171-217)魏・司馬朗伝。
  • 司馬駿(233-?)蜀・諸葛亮伝。晋の征西大将軍・扶風王。


会話部分[編集]

Aboshiさん、あけましておめでとうございます。らりたです。
Aboshiさんのこの作業にわずかですが助力いたします。とりあえず有名どころだけなのであまり役に立たないかもしれませんが、また追加したいと思います。
調べてみて解りましたけど、この作業は大変めんどくさいですね・・・。一方想像で書き込むのは一瞬だから。

らりたさん、あけましておめでとうございます。
さて、本当にありがとうございます。早速反映させていただきました。正直一人で少しずつやっても、どれだけかかるんかなあと気が遠くなっていたので、らりたさんの書き込みを見たあと、声を上げてしまうやら、ほっとするやらで、とてもうれしく思いました。
今年もよろしくお願いします。本件のみならず誤りなどありましたらどんどん指摘とご叱正をお願いいたします。らりたさんにAufさんにSafkanさんに、中国史周りは本当にいい方ばかりで、こんな私が今こうしてウィキの末席にありつづけられるのも、みなさんあってのことと心より思っております。Aboshi 2006年1月1日 (日) 16:44 (UTC)[返信]
どうも、Aboshiさん。らりたです。
関羽の「多くの文献では162年が生年」とあるので、多くの文献って何のことなんかなと考えていたのですが、どうも演義が元らしいので、削っておきました。
それでですが、Aboshiさんは(生年不詳 - ○○年)と言うスタイルですが、私は(? - ○○年)と言う書き方をしています。しかし両方とも不明の時は(生没年不詳)と書いています。どちらかに統一したほうが良いと思うのですが、どちらが良いでしょうか。
スタイルマニュアルを見た所、これに関する文章はありませんでした。ただ不詳の場合は大体の年代を書けと書いてるんですが、これにはどうも違和感がありますね。
あと、細かいことで申し訳ないのですが、生年没年の間の-の前後に半角スペースを空けるとなっています。
それと新たに人物を付け足す場合に、上につけるのと下につけるのとどちらが見やすいでしょうか。上だとコピペがやりにくくなるし、下だと際限なく長くなるのでどっちともつきません。
それではこれで失礼します。らりた 2006年1月5日 (木) 09:17 (UTC)[返信]

少しだけ追加--代言人 2006年1月5日 (木) 09:40 (UTC) 書く場所間違ってたりして--代言人 2006年1月5日 (木) 10:09 (UTC)[返信]

  • 代言人調べで記載されていたものと異なる物には(代:999-999)と記しました。
  • 代言人調べの根拠は主に三国志全人名事典です。生没年表示ある物のみの抜粋

勝手ながら調査部分と会話部分を切り離しました。あと、劉表とその子の調査結果だけを。後ろにくっつけてある括弧部分は私の独り言みたいなものなので、利用者:Aboshi/三国志関連人物の生没年記録についての方には記載しないでください。らりた 2006年1月13日 (金) 09:18 (UTC)[返信]

代言人さんが調べた曹一族に追記しました(途中までですけど)。多分見落としがあると思われますので、また後で調べなおすかもしれません。それと上のほうにスタイルに付いてのちょっとしたことがありますので、Aboshiさん一読お願いします。らりた 2006年1月13日 (金) 13:29 (UTC)[返信]
やりかけの曹一族を追加しました。らりた 2006年1月14日 (土) 15:32 (UTC)[返信]

らりたさんへ。ありがとうございます。

さて・・・どうしましょうかね。まず、人物の追加については上につけることにしましょう。追加の際には(新)とか何かマークをつけるとわかりやすくて助かります。次に、生没年スタイルですが、がさつな私の性格が災いしてあまりみてないところでした。今後は(? - 231年)という形で統一します。で、スタイルマニュアルいわく、わからなければ大体の年数、ですよねえ。うーん・・・不適切ですよねえ。ちょっと考えて、場合によっては提起しましょうかね。Aboshi 2006年1月15日 (日) 14:44 (UTC)[返信]

劉さんの一部追加。今日光武帝を見ていて気づいたのですが、光武帝の兄劉エンのリンクをクリックすると三国時代の魏の劉エンになるのですね。曖昧さ回避が必要かも。でも光武帝の兄の記事は作られないかもしれないし、劉焉や劉延も含むのでしょうか。探せばもっとあるかな?--代言人 2006年1月17日 (火) 15:09 (UTC) 劉氏追加。--代言人 2006年1月22日 (日) 15:14 (UTC)[返信]

  • 関羽の生年について小学館『新版 新選漢和辞典 卓上版』(昭和50年発行)では(160-219)と断定してます。同書は張飛の生年も(166-221)と断定してます。まぁ根拠が何かわかりませんので採用できませんが。例の人名事典ではどちらも不明としています。--代言人 2006年1月22日 (日) 20:11 (UTC)[返信]
劉エン・・・そういえばそうですね。劉さんは腐るほどいるので曖昧回避が難しくなりますね・・・。とりあえず漢字が機種依存でない人はそのまんまで良いとして、劉エン (後漢)などで対応していくしかないですかね。光武帝のお兄さんの記事は少なくとも三国時代の泡沫武将に比べれば作る価値はあるような気がしますね。
関羽の生年に付いて。同時代人の陳寿が確定できなかったものをどうやって後世の研究者が確定するのか、はなはだ疑問ですね。正直いって信用ならないです。
それでですが、『三国志』の原文がこちらの方にありますので、代言人さんも参照してみてください。それでは今回はこれで。らりた 2006年1月25日 (水) 12:27 (UTC)[返信]
陳寿の年齢比定ですが、顧雍については、信用できないと思われます。師とされる蔡邕董卓暗殺の混乱下で殺害されたわけですが、正史の記述に従えば顧雍15歳の時です。しかもその前には長安遷都などで中央情勢が不穏で、蔡邕のもとで落ち着いて学問が出来る状態であったとは考えられないからです。また、孫の顧譚は孫登の太子四友であったことから、孫登の手本となるべき同世代かやや年長者であったと見るのが妥当であり、またその父親(顧雍の息子)顧邵龐統と親しかったという記事をみるにつけても龐統に近い世代の人物と考えられます。となると、没年記事から享年を差し引いて西暦178年生まれという数字を出すのはやや危険な気がします。--水野白楓 2006年2月2日 (木) 14:17 (UTC)[返信]
どうやら10歳程間違っているようです。『年七十六、赤烏六年卒』と原文にありました。--代言人 2006年2月2日 (木) 14:51 (UTC)[返信]
水野さん。お待ちしておりました(ってのも変だな)。
ご指摘ありがとうございます。代言人さんが直されましたが、単純ミスだったですね。でも、こうしていろいろな方に指摘を賜れるととてもうれしく、やりがいもあるものです。またよろしくお願いします。Aboshi 2006年2月2日 (木) 15:04 (UTC)[返信]
水野白楓さん、ありがとうございます。私のミスだったようです。
ただ言い訳をさせて頂きますと、私が参照したちくま版三国志には六十六と書いていたのです。
と言い訳してもしょうがないのですが・・・すいません。らりた 2006年2月3日 (金) 11:56 (UTC)[返信]
わたしもちくま版を持っているので前からおかしいとは思っていました。ただそれが原文の誤りなのか訳本の誤りなのか判断できなかったのです。
ただ、それでも顧雍が40前後でおじいちゃん(顧邵の活躍年代からして推測)になった事になってしまうので、正史の年齢が本当に正しいのかと言う疑念を完全には拭い去れないのですが…。--水野白楓 2006年2月5日 (日) 07:31 (UTC)[返信]


丁度劉放伝を呼んでたので--代言人 2006年2月4日 (土) 08:06 (UTC)[返信]

汲古書院版の全訳「後漢書」購入(現在刊行済みの1-4巻及び11・14巻の全て入手)したので伏完を追加。岩○書店には悪いがこちらの方が原文&現代口語訳付き、司馬彪の「志」は付いているわでこっちを手に入れたらもう、○波版は読む気がしません。--水野白楓 2006年2月16日 (木) 14:29 (UTC)[返信]

中華書局版の訳本『全譯 後漢書』霊帝紀の訳者註で、「建寧元年(168)の即位時に「年十二」では、崩御した189年に「年三十四」にならない。”三十三”の誤りではないか」と書かれていました…。云われるまで気づかなかったですよ --219.101.98.201 2008年9月24日 (水) 14:07 (UTC)[返信]