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利用者:にょきにょき/avb

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー: Aubrey Vincent Beardsley, 1872年8月21日 - 1898年3月16日)は、イギリスイラストレーターである。また小説といった作品も残した。

ビアズリーはイングランドブライトンで生まれた。グラマースクールを卒業し、測量事務所に事務員として就職、後に保険会社の事務員となる。自分の絵を見てもらうためエドワード・バーン=ジョーンズを訪問し、そこでバーン=ジョーンズの勧めを受けて、短い間ウェストミンスター美術学校英語版に通うようになる。書店員のつてで『アーサー王の死』の挿画を描くこととなり、職を辞して本格的に画家としてのキャリアを始める。その後代表作となるオスカー・ワイルドの『サロメ』の挿画を制作し、雑誌『イエロー・ブック』の美術担当者となる。ワイルド逮捕の影響で『イエロー・ブック』の編集から外されると、1895年からは雑誌『サヴォイ』の美術編集者となる。1898年、幼いころから患ってきた肺結核が悪化し、保養先のフランスマントンにおいて25歳で死去した。

ビアズリーはラファエル前派ジャポニスム、古代ギリシャの壺絵などに影響を受けながら独自の様式を確立した。ポスターや本の装幀などの例外を除いて、そのほとんどの作品は白と黒のモノクロである。「黒と白のマッス」という言葉で表される白と黒を大胆に対比させた空間構成が作品の特徴である。ビアズリーのイラストは装飾的でグロテスク、エロティシズムに満ち溢れており、当時の新聞などからは不健全、インモラルとして大いに非難を浴びた。しかしまた、鑑賞者に大きな衝撃を与え、多数の追従者を生み出すことともなった。退廃的な世紀末芸術を代表する存在であり、またアール・ヌーヴォーの代表的な画家ともみなされている。

生涯[編集]

幼少年期

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーは、父ヴィンセント・ポール・ビアズリーと母、エレン・ピット・ビアズリーの間の2人目の子どもとして、1872年8月21日にイングランドのブライトンで生まれた[1]。姉のメイベルは、ほぼ1年前の1871年8月24日に生まれている[2]。父親は定職を持たず職を転々としており、家計を支えるのは主に母エレンの役割であった。エレンは幼い子供たちの面倒を見ながら、家庭教師兼音楽教師として働いた[3]。エレンの回想録によれば、オーブリーは体の弱い子どもであったが、音楽の才能があり、ごく小さなころから本が読めたようである[4]

1879年の秋、7歳になったビアズリーはブライトン近くの寄宿学校に入学した[5]。ビアズリーはこの頃すでに結核の兆候を見せている。父親のヴィンセントも結核にかかっており、さらに父方の祖父は結核が元で40歳で死亡していた。当時、結核の原因は明らかではなく、遺伝性のものとみなされていた[6]。最終的に結核は彼の命を奪うこととなるが、この病はビアズリーに時間のないことを悟らせ、その後の彼の創作活動に影響を及ぼした[7][8]。寄宿学校入学から2年後の1881年、ビアズリーは学校をやめることとなる。母親がオーブリーの健康を案じ、エプソムへの引っ越しを決意したのである[注釈 1]。エプソムで過ごしていた頃、エレンの知人が家計の助けになればと絵を注文した。ビアズリーはケイト・グリーナウェイの絵本を模写し、絵を描くことによる初めての収入を得た[5]。1883年には一家はロンドンに引っ越した。この頃は相当に生活が窮乏していたようで、知人の家族パーティーでオーブリーとメイベルは演奏や朗読を行って、家計の足しにしていたようである。また結婚式の招待状やメニューにオーブリーが絵を描き、生活費を稼ぐこともあった[13]。このように経済的に厳しい状況の中、エレンが病気となり入院が必要となったため、1884年の8月にオーブリーとメイベルはブライトンに住む裕福なエレンの伯母の元へ送り出された[注釈 2][10][5][15]

11月になるとビアズリーはグラマースクールに入学し、大伯母の家から通学した。翌年の1月には通学生から寄宿生となった[16]。入学当初のビアズリーは、その物腰やピアノの才能といったものが男の子らしくない印象を与えたようである[17]。ビアズリーは体も弱く、また算数も苦手だったようである。クラスメートや教師の似顔絵をたびたびスケッチしていたようだが、それは描かれた本人たちが不愉快になるような「意地の悪い」代物であった[18]。また、この時期に描かれたスケッチには、いわゆるビアズリー・スタイルにつながるものはほとんど見出せない[19]。寮長であった理科の教師、アーサー・ウィリアム・キングはそんなビアズリーに愛情をもって接した。読書欲が旺盛だったビアズリーはキングの大人向けの蔵書を読み漁り、また演劇愛好家だったキングが企画したと思われる校内の演劇活動にも積極的に参加した[20]。ビアズリーはこの頃から演劇に深く傾倒するようになり、学校を抜け出して観劇することさえあった[21]。グラマースクール時代の友人に、後に多くの劇場を持ち興行師として有名になるチャールズ・コクラン英語版もおり、コクランは二人で上演したプログラムをずっと持っていると語っていた[22]。ビアズリーとキングの交友関係は卒業後も続き、ビアズリーはたびたびキング宛てに手紙を書いている。また、卒業から3年して出した手紙には「もし自分が名を残すなら、それはあなたのおかげです」とつづっている[20]。グラマースクール時代には、他の学校に通っていたある女生徒へのラブレターも残されている。しかしながら、漫画風のスケッチも描かれたこのラブレターは、悪戯や冗談のたぐいのものであろうと解釈されている。ビアズリーは当時、悪戯好きで有名で数々の逸話が残されており、これもその延長線上のものに過ぎないと見られている[23][24]

ビアズリーは1888年11月に学校を卒業した[25]。ピット家のコネクションを使って保険会社への就職が予定されていたが、それまでの間、測量事務所で事務員として働き始めた。測量事務所では1889年の1月から働き始め、9月ごろには保険会社での試用期間が始まっている[注釈 3][28]。この頃に一家はロンドンのピムリコに移り住んだ[20]。卒業してからもグラマースクールとの関係を保っており、1888年12月に催された『ハーメルンの笛吹き』ではプログラムをデザインし挿絵を描いている。また、衣装デザインも彼が手掛け、役者として出演もしている[29]。当時のビアズリーはまだまだ絵画よりも演劇・文学に傾倒しており、後にプロの女優となる姉と二人でたびたび素人演劇を上演した。この演劇ではビアズリーの挿絵が入ったプログラムまで用意していた[30]。仕事はビアズリーにとって退屈であったようで、キングに宛てた手紙では「仕事は嫌いというわけではないが、熱心にはなれない」とこぼしている[31]。昼休みには書店で本を読み、夜には観劇やコンサートへ通った。午後に時間が空いた時はナショナル・ギャラリーに行くこともあった[32][33]。創作活動に取り組みたい欲求を持ちながら、退屈な勤め人としての生活をしていたビアズリーであったが、残されていた時間はそう多くはなかった。結核が進行していたのである。この時は激しい喀血をし1年ほど仕事を休まざるを得なかった[20][34]。ビアズリーの手紙によれば、この時医師からは結核と診断されていない。診断した医師は結核治療の権威であり、この診断はおかしなものに感じられるが、病状の進行を見て取ってあえて「死の宣告」をしなかったのかもしれないし、ビアズリーが医師の話を誤解したのかもしれない[35][36]。ビアズリーがキングに宛てた書簡では「幸いにも」結核ではなかったと記されている。この言葉から察するにビアズリーが結核を恐れていたのは間違いないだろうし、もしかすると本当のところは感づいていながら虚勢を張ったのかもしれない[37]

バーン=ジョーンズとの出会い

ビアズリーの住んでいたピムリコからテムズ川沿いに西に行くとチェルシーがある。当時のチェルシーは画家たちのアトリエが多く集まっていた。特にロセッティやバーン=ジョーンズ、モリスなどが住んでおり、ラファエル前派の活動拠点となっていた[38]。ビアズリーは1891年の7月12日、メイベルとともにバーン=ジョーンズのアトリエを訪れた。ラファエル前派のバーン=ジョーンズ[注釈 4]は存命中の画家のうち、極めて評価の高い人物であった。バーン=ジョーンズは日曜にアトリエを開放しており、ビアズリーは自分の描いた作品を見てもらおうと考えたのである。ところが、バーン=ジョーンズは煩わしさからアトリエの開放を数年前にやめていた[40]。ビアズリーたちが仕方なく引き返そうとしたところ、バーン=ジョーンズが追いかけてきてビアズリーたちをアトリエの中へ迎い入れてくれた[20]。ビアズリーはキングにこの時の詳細を書き送っている[注釈 5]。ビアズリーが持参した作品を眺めたバーン=ジョーンズは、「君の才能は疑う余地がない。いつか大変素晴らしい作品を作るだろう」と褒めたたえ、「人に芸術家になるよう勧めることはほとんど、あるいは全くしないが、君には芸術家になることを勧めるほかない」と語った。また現在の仕事を辞め、芸術に専念することを勧めたが、生活費の話をすると代案として美術学校へ通うことを勧めてきた[42]。オスカー・ワイルド夫妻もこの場におり、帰りはワイルドの馬車で送ってもらっている[38]。ビアズリーはワイルド夫妻のことを手紙で「とても魅力的なひとたちです」と記している[43]

ビアズリーはバーン=ジョーンズのことを手紙で「ヨーロッパ最高の画家」と呼び、才能を認められたことをこの上なく喜んだ。1891年8月にはバーン=ジョーンズの勧めに従い、昼間は働きながらウェストミンスター美術学校英語版の夜間クラスに通い始めた[44]。印象派の画家、フレデリック・ブラウンの元での勉強は1年ほどで終わるが、ビアズリーにとって独学でない本格的な絵の勉強は、後にも先にもこれだけである[44]。この当時友人に送った手紙では「僕は今、これまでになく絵に熱中している」と心境を語っている[42]

この時期にはホイッスラーがフレデリック・レイランド英語版の邸宅に作った『孔雀の間英語版』を見学にも行っている。孔雀の間はホイッスラーがジャポニスムに影響を受けて制作した作品である。ビアズリーはこの作品に大いに感銘を受けて、友人にその時の感動を手紙にしたためた。手紙にはその日見たもののスケッチが多数書き添えられていた[45]。孔雀の間はビアズリーが浮世絵をはじめとした日本美術に関心を持つきっかけとなり、その後のビアズリーの作品様式に影響を及ぼした[46]。ただしこの時点ではバーン=ジョーンズの影響が顕著であった[44]。1891年後半に描かれた『父の亡霊に従うハムレット』は「素晴らしい作品」とビアズリーが自慢するほどのものであったが、この作品がバーン=ジョーンズのスタイルで描かれていることは明らかである[44]。一時期体調を悪くし制作活動から離れた後は、ホイッスラーの影響も見て取れるようになる[44]。ビアズリーは新しい手法を確立させていき、そのスタイルは「日本的であるが、真に日本的ではなく」、彼の生み出した独特な世界観は「気違いじみていて少々猥褻、奇妙な生き物がうごめいている」ものだった[44][47]

ビアズリーはウィリアム・モリスとも出会っている。すでに高い名声を得ていたモリスにビアズリーを紹介したのは古美術研究家のエイマー・ヴァランスであった[注釈 6]。知人のつてでビアズリーと知り合ったヴァランスはその作品を称賛し、ビアズリーとモリスを引き合わせた。ヴァランスはモリスがこの若い天才に良い影響を与えてくれるだろうと考えていたが、モリスの態度はそっけないものでビアズリーの作品に大した関心も示さなかった。これについてはビアズリーの作品をバーン=ジョーンズの模倣とみなし、さらにその才能を見て取ったモリスが親友であるバーン=ジョーンズの気持ちを考え、このような態度をとったのだとも言われる[49]。ヴァランスはさらにロバート・ロス英語版という若い美術評論家にビアズリーを紹介し、ロスは1点のイラストを購入した[注釈 7][50]

1892年にはブライトンの大伯母が死に、ビアズリーには500ポンドの遺産が残された。ビアズリーは会社の年次休暇を利用して6月に初めてパリへ旅行した。当時の近代美術の中心地であるパリで自分の描いた作品を評価または購入してもらおうと考えていたと思われる[51][52]。この旅行について詳しくは分からないが、ビアズリーの手紙によれば彼の作品は高評価を得たようである[53]。パリから戻ると、また勤め人としての生活が始まった。いつものように昼休みにはジョーンズ・アンド・エヴァンス書店に通っていたが、ここで思いがけず大きな転機を迎えることとなった。ビアズリーが20歳の時である。

『アーサー王の死』

ビアズリーは自分の描いたイラストを書店の店主フレデリック・エヴァンス英語版[注釈 8]に渡し、それを書籍の購入代金の代わりとしていた[54]。ある時エヴァンスは友人で出版社を経営していたJ・M・デント英語版[注釈 9]にビアズリーの作品を見てもらうことを考えた。デントはトマス・マロリーの『アーサー王の死』を新装版で出版する計画を練っていたのである。デントが念頭に置いていたのは、ケルムスコット・プレスから出版されていたチョーサー著作集、「ケルムスコット・チョーサー」であった。ケルムスコット・チョーサーはバーン=ジョーンズが挿絵を描き、ウィリアム・モリスが装幀を手掛けた豪華な美しい本で、ハンドクラフトにこだわって作られた発行部数の少ないものだった[注釈 10]。デントは当時最新の印刷技術を使って、ケルムスコット・チョーサーの廉価版のようなものを販売することを考えていた[53]。デントは『アーサー王の死』の挿絵を描く画家として、金のかからないバーン=ジョーンズ、つまりまだ無名の才能を探していた。デントとビアズリーはエヴァンスの書店で出会い、ひとまず挿絵のサンプルを描くこととなった。ビアズリーはバーン=ジョーンズはともかく、モリスについて多くは知らなかったが、挿絵を描くにあたってモリスの中世風版画を研究し、それを作品に取り入れた『聖杯発見』を制作した。その出来栄えに感銘を受けたデントはすぐさまビアズリーと契約を結んだ。報酬は250ポンドであった[58]

ビアズリーは各章の見出し、頭字、欄外の装飾、挿画などを任された。依頼を受けたビアズリーはこの仕事で400点ほど描くことになるだろうと予測し、制作期間も1年以上はかかるだろうと見込んだ。最終的にビアズリーは500点以上装飾やイラストを描くことになり、制作には2年の歳月を要した[注釈 11][61][59]。制作期間が長期にわたることは予想されていたので、デントは息抜きとして『名言集』のイラストを依頼した[64]。『名言集』は過去の有名な言葉を集めた3巻で構成される本であり、オーブリー・ビアズリーによる「グロテスク」と記されている。グロテスクであって図解といった言葉でない理由はビアズリーが自由に絵を描けるようにするためであった[65]。実際、ビアズリーが手掛けたグロテスクは内容とは無関係で、彼が思いつくままに描いたカリカチュア風のイラストが並んでいる[66][67][64]。『アーサー王の死』に関してはまだ現金を得ていなかったが、『名言集』などの細かな仕事で収入が得られたことにより、ビアズリーはついに保険会社を退職し画業に専念することにした[68]。退職にあたっては姉のメイベルには事前に相談していたが、両親には最後の出勤まで秘密にしておいた[69]。またこの頃には億劫となっていた美術学校を、フレデリック・ブラウンが別の学校へ移ったのを機に通学するのをやめた[70]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この頃のことはあまり詳細に分かっていないらしく、資料による食い違いがいくつか見られる。ワイントラウブのビアズリー伝では家族と離れてエプソムで過ごしたとある[9]。またブローフィによればエプソムの小学校に転校したとある[10]。ここではウィルソン[5]や河村[11]、Sturgis[12]の記述に従っている。
  2. ^ ここにも差異がある。ビアズリーの大伯母の名はサラ・ピットであったり[5]、ラムであったりする[14]。またウィルソンは母親も大伯母の元で生活したとしている[5]
  3. ^ ワイントラウブおよびブローフィによれば1888年の7月から測量事務所で働き始めている[26][10]。またウィルソンおよび河村によれば、1889年の1月には保険会社で働き始めたとなっている(ワイントラウブでは1889年の夏としている[27]。)[20][11]
  4. ^ ロセッティ・ハント・ミレイが中心となって結成したラファエル前派は5年ほどで活動を終えており、バーン=ジョーンズがラファエル前派を知り、画家を目指し始めたころにはすでに活動を終えていた。しかし、バーン=ジョーンズやウィリアム・モリスらはその理念を受け継ぎ実践したことから、広義のラファエル前派またはラファエル前派第2世代とされる。また、バーン=ジョーンズは「最後のラファエル前派」とも言われる[39]
  5. ^ オーブリーの手紙には記されていないが、メイベルによればバーン=ジョーンズは暑い中来訪された「ご婦人」を追い返すわけにはいかないと言ったとされており、母エレンは大画家の心変わりはメイベルの赤い髪によるものだろうとしている[40][41]
  6. ^ ヴァランスはビアズリーの最初の作品集『50点の作品集 (A Book of Fifty Drawings) 』において、作品リストを執筆している[48]
  7. ^ ロバート・ロス(ロビー・ロス)は後にビアズリーの伝記を執筆する。なお、作品リストはヴァランスによるものである[50]
  8. ^ 後に写真家として名を残し、ビアズリーの肖像写真(画像)も彼の手によるものである[53]
  9. ^ 欧米の古典や名作を収めた叢書、エブリマンズ・ライブラリー英語版を出版したことで著名。エブリマンズ・ライブラリーは大衆に文学を普及することに大きな役割を果たした[55][56]
  10. ^ バーン=ジョーンズは装飾の素晴らしさからこの本を、「ポケットサイズの大聖堂 (A pocket cathedral) 」と例えている[57]
  11. ^ ワイントラウブによれば1年半とあるが[59]、ここではクラーク[60]や河合[61]、小林[62]の説を採用した。ブローフィ[63]、海野[46]のように2年以上とするものもある。

出典[編集]

  1. ^ ワイントラウブ 1989, p. 19.
  2. ^ Sturgis 1999, p. 10.
  3. ^ ブローフィ 1969, pp. 85–86.
  4. ^ ワイントラウブ 1989, p. 20.
  5. ^ a b c d e f ウィルソン 1985, p. 14.
  6. ^ Sturgis 1999, pp. 15–16.
  7. ^ シモンズ 1978, p. 146.
  8. ^ ビアボウム 1978, p. 156.
  9. ^ ワイントラウブ 1989, p. 25.
  10. ^ a b c ブローフィ 1969, p. 86.
  11. ^ a b 河村 1980, p. 294.
  12. ^ Sturgis 1999, p. 19.
  13. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 25–26.
  14. ^ ワイントラウブ 1989, p. 27.
  15. ^ Sturgis 1999, p. 22.
  16. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 28–29.
  17. ^ Sturgis 1999, pp. 30–31.
  18. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 30–32.
  19. ^ Sturgis 1999, p. 38.
  20. ^ a b c d e f ウィルソン 1985, p. 15.
  21. ^ ワイントラウブ 1989, p. 37.
  22. ^ クラーク 1992, p. 12.
  23. ^ 河村 1980, pp. 60–63.
  24. ^ ワイントラウブ 1989, p. 36.
  25. ^ Sturgis 1999, p. 53.
  26. ^ ワイントラウブ 1989, p. 41.
  27. ^ ワイントラウブ 1989, p. 47.
  28. ^ Sturgis 1999, pp. 54, 57, 61.
  29. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 39–40.
  30. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 45–46.
  31. ^ ワイントラウブ 1989, p. 46.
  32. ^ ワイントラウブ 1989, p. 44.
  33. ^ リード 1978, p. 229.
  34. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 45–47.
  35. ^ 河村 1980, pp. 17–18.
  36. ^ Sturgis 1999, pp. 57–58.
  37. ^ 河村 1980, p. 18.
  38. ^ a b 海野 2013, p. 19.
  39. ^ 川端康雄・加藤明子『もっと知りたい バーン=ジョーンズ 生涯と作品』東京美術、2012年、3、9、14頁頁。ISBN 978-4-8087-0951-8 
  40. ^ a b クラーク 1992, p. 15.
  41. ^ 河村 1980, p. 20.
  42. ^ a b ワイントラウブ 1989, p. 54.
  43. ^ ワイントラウブ 1989, p. 53.
  44. ^ a b c d e f ウィルソン 1985, p. 16.
  45. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 56–57.
  46. ^ a b 海野 2013, p. 20.
  47. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 72–73.
  48. ^ ウィルソン 1985, 図版33 『ヴォルポーネ』表紙/『50枚の挿画集』表紙.
  49. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 70–71.
  50. ^ a b ブローフィ 1969, p. 87.
  51. ^ 河村 1980, p. 295.
  52. ^ ウィルソン 1985, p. 18.
  53. ^ a b c ウィルソン 1985, p. 19.
  54. ^ 荒俣ほか 1987, p. 34.
  55. ^ 小林 1978, pp. 166–167.
  56. ^ 世界大百科事典 第2版『エブリマンズ・ライブラリー』 - コトバンク
  57. ^ Kelmscott Chaucer”. The British Library. 2016年9月24日閲覧。
  58. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 75–78.
  59. ^ a b ワイントラウブ 1989, p. 78.
  60. ^ クラーク 1992, p. 16.
  61. ^ a b 河村 1980, p. 26.
  62. ^ 小林 1978, p. 167.
  63. ^ ブローフィ 1969, p. 88.
  64. ^ a b ワイントラウブ 1989, p. 95.
  65. ^ 下田 2008, pp. 1–2.
  66. ^ リード 1978, p. 230.
  67. ^ 河村 1980, pp. 90–91.
  68. ^ ウィルソン 1985, p. 20.
  69. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 78–80.
  70. ^ ワイントラウブ 1989, pp. 80–81.

参考文献[編集]

  • 荒俣宏 ほか 『ビアズリーとロンドン』 学習研究社〈アール・ヌーヴォーの世界〉4、1987年。ISBN 4-05-151321-1
  • 井村君江 『「サロメ」の変容』 新書館、1990年。ISBN 4-403-21047-3
  • サイモン・ウィルソン 『ビアズリー 生涯と作品』 中川伸子訳、岩崎美術社、1985年。ISBN 4-7534-1226-1
  • 海野弘 解説・監修 『世紀末の光と闇の魔術師 オーブリー・ビアズリー』 パイ インターナショナル、2013年。ISBN 978-4-7562-4417-8
  • 河村錠一郎 『ビアズリーと世紀末』 青土社、1980年。
  • ケネス・クラーク 『ベスト・オブ・ビアズリー』 河村錠一郎訳、白水社、1992年。ISBN 4-560-03949-6
  • 下田智子「オーブリー・ビアズリー『名言集』挿絵研究―線の様式発展への考察」、『ヴィクトリア朝文化研究』第6巻、日本ヴィクトリア朝文化研究学会、2008年11月、 NAID 40016346584
  • Sturgis, Matthew (1999). Aubrey Beardsley: A Biography. Flamingo. ISBN 978-0-00-655056-3 
  • 『近代美術 印象派と世紀末の美術』 高階秀爾 責任編集、学習研究社〈大系世界の美術〉19、1973年。
  • ブリジッド・ブローフィ英語版 『黒と白』 須山静夫訳、求龍堂、1969年。
  • 真壁佳織「ミュシャ/ビアズリー」『週刊美術館』第5巻、小学館、2000年3月。
  • Robert L., Peters (1960). “The Salome of Arthur Symons and Aubrey Beardsley”. Criticism (Wayne State University Press) 2 (2): 150-163. ISSN 00111589. JSTOR 23090918. 
  • S・ワイントラウブ英語版 『ビアズリー伝』 高儀進訳、中央公論社中公文庫〉、1989年。ISBN 4-12-201624-X
  • 『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月。
    • 河村錠一郎「ビアズリー私論」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 94-115頁。
    • フランツ・ブライ 「オーブリー・ビアズリー」 池内紀; 福地和子訳、『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 116-125頁。
    • 海野弘「余白の悪魔」、『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 126-143頁。
    • アーサー・シモンズ 「オーブリー・ビアズレー」 諏訪部仁訳、『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 144-155頁。
    • マックス・ビアボウム英語版 「オーブリ・ビアズリー」 金谷展雄訳、『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 156-163頁。
    • 小林司「ビアズリのエロティシズムとその時代」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 164-171頁。
    • 中山公男「ビヤズリーと色彩」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 172-177頁。
    • 池内紀「ピエロの帰還」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 178-183頁。
    • 前川祐一「ビアズリーの時代」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 184-195頁。
    • 大澤正佳「遠くの音楽」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 196-201頁。
    • 岡田隆彦「「悪戯者のピエロ」ビアズリー」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 202-207頁。
    • 野島秀勝「「表面」とデカダンス」『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 208-223頁。
    • ブライアン・リード 「オーブリー・ビアズリー」 中矢一義訳、『カイエ ―新しい文学の手帖』第1巻第4号、冬樹社、1978年10月、 224-241頁。