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武原未佳、白井正明、宇津川喬子、河尻清和「富士相模川泥流の堆積学的特徴とその流下機構に関する考察」『相模原市立博物館研究報告』2017年3月31日。 

間堀川
金鳥居橋から上流方を望む(富士吉田市上吉田)
水系 一級水系 相模川
種別 一級河川
延長 3.6 km
平均流量 -- m³/s
流域面積 -- km²
水源 富士吉田市
水源の標高 -- m
河口・合流先 宮川(富士吉田市)
流域 山梨県富士吉田市
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国道138号から北望(2005年1月1日撮影)

間堀川(まぼりがわ)は、山梨県富士吉田市を流れる宮川の支流である。富士山の北側斜面を侵食し、吉田の盆地を流れる。一級水系相模川水系に属する一級河川。一級河川としての長さは3.6キロメートルだが、河道は10キロメートル以上ある。

流路[編集]

富士山北面中腹の富士吉田市上吉田細尾野に端を発するとされているが[注釈 1][1][2][3]、富士山上部の表土はスコリア軽石などの火山噴出物で占められていて透水性が高く、雨後や雪解け時を除いて通常水は流れていない。竹林征三吉田大沢の上部、標高3200mまで水系系統図を遡っている[4]砂防堰堤のなかった時代に雪代が流れ下って侵食した八百八沢(はっぴゃくやさわ)と言われる複雑な地形を経て[5][6]、無名沢や泉瑞堀を合わせた侭堀[注釈 2]が間堀川となる[4]。かつては下吉田の宮川合流点まで空堀だった。カジヤ作橋付近では通常まだ空堀だが[注釈 3]河川法上は宮川との合流点より3600m上流の富士吉田市新屋字六本松の、新間堀橋間堀橋の間からが一級河川間堀川となっている[7][8]。別途富士パインズパーク[注釈 4]で地下からポンプアップされた水の流末が浅間沢に排水されて流れ下り、浅間弐之橋の下、すなわち北口本宮冨士浅間神社わきで本川に合流するが、流量はまだごく僅かである。そこから50mほど下って、福地用水[注釈 5]水路橋東詰めの水門から水が大きく分水されて、水量が一気に増える。すなわち現在、本川では桂川(相模川上流の山梨県での別称)の水が主たる水源となっている。国道138号に架かる吉田橋[注釈 6]の下をくぐると、富士吉田の市街地に入る。富士道(ふじみち)とも言われる国道139号の100mほど東をほぼ並行して流れ、下吉田の的場橋の下で宮川に合流する[注釈 7]。今日では福地用水から分水された水が市街を常時流れており、かつて下吉田においても空堀と言われた面影はない。

歴史[編集]

名称の変遷[編集]

江戸時代の谷村代官所に提出された村絵図によると、上流の上吉田と下流の下吉田、および年代によって名称には差異がある。文化3年(1806年)の『浅間神社ならびに富士山絵図』では吉田橋の下辺りに東堀とあり[注釈 8][9]、同年の『下吉田村絵図』にはガウダイボリと描かれている[注釈 9][10]。また天保15年(1844年)の『桂川通り順水普請水路絵図』では冨士浅間神社の横辺りにから堀、下吉田村で村間堀と描かれている[11]。また江戸時代後期(19世紀前半)の作とされる『上吉田村絵図』では東カラ堀の表記が見られる[12]。 さらに明治27年(1894年)の『山梨縣市郡村誌』によると、上流部の福地村誌の空堀の項目に儘堀[注釈 10](ままぼり)[2]、下流部の瑞穂村誌では空堀の項目で村合堀としている[13]。大正13年の福地村事務報告書では東空堀と見られる[注釈 11][14]


文化11年(1814年)上梓の甲斐国志には同様の記述はなく、「泉津水 富士裾野泉津ヨリ湧出北流シテ新屋ト諏訪森トノ間ヲ流新屋橋ニ至ル水源ヨリ弐里又丑寅ニ流レ下吉田ニ至リ福源寺ニテ川口湖伏流水ト会ス」としている。泉津とは冨士浅間神社の南にあるかつての湧水地泉瑞だが、関東大震災以降湧水が減少し、今日では全て枯れている。川口湖伏流水とは宮川のことであり、かつては河口湖からの伏流水が月江寺の池に湧くと考えられていた。そのため新倉掘抜は宮川周辺の住民から掘削の反対をされたことがある。

上吉田村の移転[編集]

かつての上吉田村は城山の西から南および下小佐野[注釈 12]にあったが、元亀3年(1572年)正月に一村をあげて間堀川と神田堀川との間に移転したとされる。雪代を避けるためと言われている[15]



間堀川は、雪解けと台風で洪水を引き起こし、土砂を運んで田畑を埋めることがあった。20世紀後半に改修され、三面コンクリートの護岸となった。

環境[編集]

有機物による汚濁の指標である生物化学的酸素要求量 (BOD)は、1987年(昭和62年)に10.35 mg/L に達したことがあるが[16]、2008年(平成20年)には2.2 mg/L であった[17]

橋梁[編集]

本項の市道は全て富士吉田市道である。号と名称は『富士吉田市史 行政編 上巻』付録道路地図による。

  • 儘堀橋 - 山梨県営林道滝沢線(滝沢林道
  • カジヤ作橋 - 東富士五湖道路側道
  • 新間堀橋 - この橋と間堀橋の間から一級河川となる。
  • 間堀橋 -
  • 浅間弐之橋 - 山梨県道701号富士上吉田線。この橋の下に浅間沢が合流する。その下に福地用水からの分水が合流する。
  • 吉田橋 - 国道138号、富士パノラマライン
  • 宮前橋 - 市道322号吉田原線
  • 吉祥寺橋 - 市道302号吉祥寺線
  • 山の神橋 - 市道7号上吉田忍野線
  • 中学校橋 - 市道315号下宿責草線
  • 金鳥居橋 - 市道4号赤坂線(赤富士通り
  • 頓堀橋 - 山梨県道717号山中湖忍野富士吉田線。脇に水路橋があり、中沢川の末流が東から西へ横断している。
  • 吉田新橋 - 市道101号弁天通り線(吉高通り
  • 上中橋 - 市道173号山口線
  • 中央橋 - 市道2号月江寺大明見線(中央通り
  • 天神橋 - 市道140号天神道大明見線。脇に水路橋があり、中沢川の末流が東から西へ横断している。
  • 組合橋 - 市道136号新屋道線
  • 郷台橋 - 市道164号御姫坂仲町線
  • 村間橋 - 山梨県道704号新田下吉田線
  • 下山東橋 -市道170号月江寺下川線。脇に水路橋があり、中沢川の末流が東から西へ横断している。
  • 的場橋 - 市道130号宮川愛染線。この橋の約100m下流で宮川に合流する。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ かつては細小野と表記された。山梨県営林道細尾野線や、林道滝沢線の終点および富士山遙拝所女人天上(細尾野5616番地)などがある。
  2. ^ ままぼり。侭の旧字は儘。林道滝沢線の横断点には儘堀橋が架かっている。
  3. ^ カジヤ作橋の少し下のミネラルウォーター会社や食品製造会社が使用した地下水の余水が排水されているが、すぐに川底に染み込みまた空堀となる。
  4. ^ 正式名称は富士吉田市立諏訪の森自然公園。ポンプアップされた水が東西二手に分かれて、一方は東の小川を流れた後に浅間沢に直接落ちる。他方は池を満たした後に西へ流れて県道701号わきの側溝に排水された後に浅間沢に落ちる。 公園をご案内”. 諏訪の森自然公園. 富士吉田市. 2022年8月17日閲覧。
  5. ^ 鐘山の滝の約200m下で桂川から分水されて新屋地区と上吉田を流れ、水路橋で間堀川を渡り浅間神社内では御手洗川と名を変える。流末は4流に分岐し、御師の家の禊の川(ヤーナ川)にもなっている。
  6. ^ 浅間神社東交差点の西側
  7. ^ 途中の天神橋下山東橋わきにも水路橋があり、中沢川の流末がそれぞれ間堀川の上を東から西へ横断して下吉田を灌漑し、防火用水となっている。間堀川は雪代を排水するための昭和35年以降の河川改修で川底が深く改修されており、灌漑に使われることは殆どない。的場橋わきに取水堰があるが、すぐに暗渠となる。
  8. ^ 神田堀川を西堀としている。
  9. ^ 今日では下吉田に郷台橋がある。
  10. ^ 常用漢字では侭堀。滝沢林道侭堀橋がある。
  11. ^ 正確には「三月四日 東西空堀ニ橋梁架設四ヶ所ノ工事ヲ始メ四月十一日全部竣工ス」
  12. ^ おざの。概ね現在の上吉田東地区にあたる。

出典[編集]

  1. ^ 旧村地誌 1990, p. 46.
  2. ^ a b 山梨縣市郡村誌 南都留郡』、72頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765354/37。"儘堀"。  - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 富士吉田市史通史編第一巻 2000, p. 600.
  4. ^ a b 竹林征三 2003, p. 35.
  5. ^ 富士山の歴史を刻む「八百八沢」” (pdf). ふじあざみ. 国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所. p. 1. 2022年8月18日閲覧。
  6. ^ 竹林征三 2003, p. 1.
  7. ^ 昭和44年3月20日建設省告示第31号施工昭和44年4月1日。河川法第四条第一項の水系及び一級河川を指定する政令の一部を改正する政令・御署名原本・昭和四十四年・第五巻・政令第三一号』国立公文書館、40頁https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000116490&ID=&TYPE= 
  8. ^ 間堀川”. 国土数値情報河川データセット. 国立情報学研究所. 2022年8月18日閲覧。
  9. ^ 都留郡村絵図 1988, pp. 336–339.
  10. ^ 都留郡村絵図 1988, pp. 336–341.
  11. ^ 都留郡村絵図 1988, pp. 128–131.
  12. ^ 「上吉田村絵図」の恵贈_ふじさんミュージアムでの展示公開” (pdf). 富士吉田市. 2022年8月15日閲覧。
  13. ^ 島崎博則『山梨縣市郡村誌』山梨県市郡村誌出版所、1894年、84頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765354/43  - 国立国会図書館デジタルコレクション
  14. ^ 富士吉田市史編さん室 編『旧三ヵ村事務報告書 福地村編』富士吉田市教育委員会、1988年3月、54頁。 
  15. ^ 中世の吉田宿-古吉田-”. 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス. 山梨県. 2022年8月18日閲覧。
  16. ^ 『富士吉田の環境』46頁。
  17. ^ 『ふじよしだの環境』(平成20年度)64頁。

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 富士吉田市史編さん室 編『旧村地誌』富士吉田市教育委員会、1990年3月、4,46頁。"村間堀、侭堀"。 
  • 島崎博則『山梨縣市郡村誌 南都留郡』山梨市郡村誌出版所、1894年。 
  • 富士吉田市史編さん委員会 編『富士吉田市史 通史編第一巻 原始・古代・中世』富士吉田市、2000年10月。 
  • 都留市史編纂委員会 編『都留市史資料編 都留郡 村絵図 村明細帳集』都留市、1988年3月。 
  • 富士吉田市史編さん室 編『旧三ヵ村事務報告書 福地村編』富士吉田市教育委員会、1988年3月。 
  • 富士吉田市社会部環境保全課・編集発行『富士吉田の環境』(平成7年度版)。
  • 富士吉田市史編さん委員会『富士吉田市史』通史編第3巻(近・現代)、富士吉田市、1999年。

論文[編集]

外部リンク[編集]


福地用水(ふくちようすい)は、山梨県富士吉田市を流れる用水路である。桂川から分水されて上吉田を流れるが、流末は富士吉田を広く灌漑する。

流路[編集]

富士五湖の一つである山中湖に源を発し、忍野八海湧水を集めて水量を増しながら西流した桂川一級水系相模川の山梨県での呼称)が鐘山の滝で向きを北東に変える。滝から約200m下に忍野発電所の吐水口があり、忍野村の取水堰で取水されて専用の水路で発電所へ引かれた水が再び桂川に戻る[1]。そのすぐ下の鐘山下取水場から水が分水され、ここが福地用水の起点となる。分水された水は鐘山通り下を蝙蝠穴の暗渠でくぐってすぐに開渠となり、小佐野分水所中沢用水が分水される。福地用水はそのまま直進して富士吉田市新屋の責草[2](せめぐさ)地区を抜けた後国道138号を暗渠でくぐり、西流して小倉山の切り通し、丸山分水所を抜け、新屋山神社前を暗渠で横断し、再び開渠となって水路橋で間堀川を越え、北口本宮冨士浅間神社に入って御手洗川と名を変える。浅間神社を抜けた後は幾筋にも分岐し、富士吉田市上吉田を灌漑する。流末の二筋は富士講御師の家の禊の川となり、富士吉田市松山を灌漑した後宮川 (山梨県)の水源ともなる。

ヤーナ川[編集]

冨士浅間神社を抜けた後の流末のうち二筋は上吉田の富士みちの東と西に分かれ、上吉田をを

参考文献[編集]

  • 『逢坂走井由縁記』橋本関一、1932年7月。 NCID BA5151568X全国書誌番号:46076144 

間堀川[編集]

参考文献[編集]

  • 富士吉田市社会部環境保全課編集発行 編『富士吉田の環境』 平成7年度版(創刊号)、1995年3月。 

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 松平定能 編『甲斐国志』1814年。 巻之三十七
  • 島崎博則編集発行 編『山梨縣市郡村誌』1894年10月25日。 
  • 農商務省農務局編集発行 編『農業水利慣行調査』1917年2月17日。 P.164 - 165
  • 都留市史編纂委員会 編『都留市史 資料編 都留郡村絵図村明細帳集』都留市、1988年3月31日。 
  • 富士吉田市史編さん室 編『旧村地誌』富士吉田市教育委員会、1990年3月30日。 
  • 富士吉田市史編さん室 編『旧三ヵ村事務報告書 福地村編』富士吉田市教育委員会、1988年3月25日。 
  • 富士吉田市史編さん委員会 編『富士吉田市史 行政編上巻 市政三十年の歩み』富士吉田市役所、1979年2月25日。 
  • 富士吉田市史編さん委員会 編『富士吉田市史 行政編下巻 市政三十年の歩み』富士吉田市役所、1979年2月25日。 
  • 富士吉田市史編さん委員会 編『富士吉田市史 通史編第一巻 原始・古代・中世』富士吉田市、2000年10月31日。 
  • 富士吉田市史編さん委員会 編『富士吉田市史 通史編第二巻 近世』富士吉田市、2001年3月30日。 
  • 富士吉田市史編さん委員会 編『富士吉田市史 通史編第三巻 近・現代』富士吉田市、1999年7月30日。 
  • 富士吉田史編さん委員会 編『富士吉田市史 資料編第五巻 近世Ⅲ』富士吉田市、1997年3月31日。 
  • 富士吉田市史編さん室 編『新屋の民俗』富士吉田市、1985年3月31日。 
  • 富士吉田市史編さん室 編『下吉田の民俗』富士吉田市教育委員会、1990年3月25日。 
  • 富士吉田市役所編集発行 編『富士吉田市史資料(二)近代水利編』1965年12月25日。 
  • 富士吉田市役所編集発行 編『富士吉田市史資料(三)続近代水利編』1967年4月10日。 
  • 相模川流域誌編纂委員会 編『相模川流域誌』国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所、2010年3月。 
  • 岩佐忠雄 編『北富士すそのものがたり 第一巻』富士五湖史友会、1967年6月20日。 
  • 堀内友次編集発行 編『ふるさと物語』富士吉田市立図書館蔵、1981年3月31日。 
  • 堀内友次編集発行 編『続・ふるさと物語(水利古文書の解説)』富士吉田市立図書館蔵、1982年12月15日。 
  • 舟久保兵部右ェ門著、富士吉田市文化財審議会編集 編『富士吉田の文化財 その25 吉田の風土記』富士吉田市教育委員会発行、1987年3月1日。 
  • 富士吉田市歴史民俗博物館 編『富士吉田市歴史民俗博物館 展示解説』富士吉田市教育委員会、1995-03-。 
  • 富士吉田市歴史民俗博物館 編『国絵図・郡絵図・村絵図-富士図との交流 企画展図録-』富士吉田市教育委員会、2004年6月。 
  • 富士吉田市東町老人クラブ編集発行 編『東町の昔を訪ねる』富士吉田市立図書館蔵、2012年11月30日。 
  • 西桂町教育委員会編集発行 編『西桂町歴史散歩(改訂版)』1998年3月31日。 
  • NHKブラタモリ制作班監修 編『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』KADOKAWA、2017年9月17日。ISBN 978-4041058107 
  • 大高康正 編『古地図で楽しむ富士山』風媒社、2020年7月10日。ISBN 978-4-8331-0190-5 

論文[編集]

  • 田嶋悟「明治期の明見村と水利訴訟」『富士吉田市史研究』第2号、富士吉田市史編さん室、富士吉田市教育委員会、1987年3月25日、46 - 60頁。 
  • 田嶋悟「明治期における桂川水系の水利訴訟」『富士吉田市史研究』第3号、富士吉田市史編さん室、富士吉田市教育委員会、1988年3月20日、93 - 106頁。 
  • 増田昭子「水かけ麦の民俗」『富士吉田市史研究』第2号、富士吉田市史編さん室、富士吉田市教育委員会、1987年3月25日、76 - 101頁。 
  • 篠原武: “「富士山の災害~雪代(土石流)~」” (PDF). 山梨県 (2013年2月14日). 2021年4月25日閲覧。
  • 中野 俊 ほか: “富士火山,北東麓の新期溶岩流及び旧期火砕丘の噴火年代” (PDF). 産業技術総合研究所 (2007年). 2021年4月30日閲覧。


古地図[編集]

上吉田村絵図[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 忍野発電所からは最短の流路で吐水せず、わざわざ上流側へ大きく迂回して鐘山の崖下を暗渠で抜いて鐘山下取水場の上流に吐水している。後述の水利権のためである。
  2. ^ かつて水路の水漏れを草で埋めた名残りの地名


髭茶屋追分。直進すると三条大橋方面、左折すると伏見方面

Lua エラー モジュール:Mapframe 内、361 行目: bad argument #1 to 'isValidEntityId' (string expected, got nil) 髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)は、山科盆地内にある東海道三条街道)と大津街道(伏見街道または奈良街道[1])の分岐点(追分)である。山科追分(やましなおいわけ)、大津追分とも呼ばれる。

逢坂関より西に位置するものの古くより近江国山城国の国境であり、現在でも滋賀県大津市追分町)と京都府京都市山科区髭茶屋屋敷町)の府県境である。

東海道五十七次という場合、大津宿からは三条大橋には向かわず、ここで南西に折れ、伏見宿に向かう。

分岐点には「みきハ京みち ひたりハふしミみち[2] 昭和二十九年再建 柳緑花紅 法名 未徹」と彫られた石柱道標が建っている[3]。その隣には「蓮如上人御塚 是より十町 明和三丙戌」と彫られた石標があるが[1]、伏見方面へ進んだ先の本願寺山科別院の北西(京都市立山階小学校の北)にある蓮如上人御廟所を示している。

追分・大谷[編集]

伊勢参宮名所図会、大津追分。

現在は追分の北を通る国道1号の往来が激しく歩く人は少ないが、鉄道が開通する明治初期以前は大変賑わっていたことが寛政9年上梓の伊勢参宮名所図会「大津 追分」にも描かれている。かつて追分から逢坂関西の大谷にかけては、走井の湧水で作った餅を売る茶店のほかに名物の縫針[4]大津算盤追分絵とも呼ばれた大津絵[5]などの工房や土産店が街道の両側に途切れることなく連なっていたため、追分・大谷(または大谷・追分)と続けて表記されることがある。

最寄り駅[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b (七)奈良街道” (PDF). 京都市山科区. 2022年8月3日閲覧。
  2. ^ 右は京みち、左は伏見みち
  3. ^ 昭和29年の複製で、江戸時代のものは現在滋賀県立安土城考古博物館にある 追分の道標”. 滋賀県立安土城考古博物館. 2022年8月5日閲覧。
  4. ^ 池川縫針”. コトバンク. 2022年8月5日閲覧。
  5. ^ 松尾芭蕉は「大津絵の筆のはじめは何仏」と詠んでいる。 大津絵”. コトバンク. 2022年8月5日閲覧。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]




ジラゴンノ露頭と雁ノ穴火口

  • 一般社団法人全国地質調査業協会連合会: “地質と調査” (PDF). 株式会社ジェイ・スパーク/株式会社ワコー (2013年2月14日). 2021年4月16日閲覧。


概要[編集]

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  1. ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「甲斐国志」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  2. ^ 『富士吉田市史 行政編上巻』 P.736-737 河川図
  3. ^ 『山梨縣市郡村誌』巻〇〇
  4. ^ 『農業水利慣行調査』農商務省編