利用者:桂鷺淵/寛政譜/h01
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『寛政重修諸家譜』巻1340~
- 『寛政重修諸家譜 第八輯』(国民図書、1923年) 巻1340~巻1520を収録
- 国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082720/2
1340-1344
[編集]巻第千三百四十
[編集]§1340-1
[編集]平氏(清盛流) |
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関 又三郎 豊昌 |
関安芸守俊盛の末裔と称する。関利兵衛豊房が御徒に加えられる。 関五郎左衛門豊好が班を進められて御勘定・川船奉行などを務める。
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旧刊本 12 |
§1340-2
[編集]関 庄八郎 忠国 |
関瀬兵衛勝森は甲府徳川家に仕える。関瀬兵衛忠勝が御家人となり御勘定などを務める。
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旧刊本 13 |
§1340-3
[編集]十太夫 但信 |
伊勢平氏関氏の裔を称す。神戸十太夫盛信(はじめ関氏)が慶長年中に駿府で御徒となる。 神戸藤七郎雅珍が班を進められ御勘定。
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旧刊本 13 |
§1340-4
[編集]神戸 政之丞 繁昌 |
上の神戸氏(1340-3)と同族。神戸十左衛門繁廷は館林徳川家に仕え、徳松に従い御家人となる。 神戸治大夫繁度が班を進められ御勘定。
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旧刊本 13 |
§1340-5
[編集]銕蔵 保章 |
神部五左衛門保久は甲府徳川家に仕える。上の神戸氏(1340-3)と同族。 神部内匠保平は甲府徳川家用人。甲府徳川家近侍であった男子2名の不行跡に連座し、父の保平は蟄居。 叔父の神部市大夫保貞も食禄を没収(月俸支給)されたが、家宣の西の丸入りに従い御家人になる。
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旧刊本 14 |
§1340-6
[編集]北 太左衛門 保室 |
平知忠の裔を称し伊賀国北方に住す。北太左衛門保孝が伊賀越えを助け御家人となり、4代連綿して北清五郎正光にいたる。 正光の婿養子・北蕃五郎保義は浄円院御広敷伊賀者から明屋敷伊賀者組頭を経て田安家に附属。
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旧刊本 14 |
巻第千三百四十一
[編集]§1341-1
[編集]山路 才介 徳風 |
和算家山路主住の家。家伝に平重盛の末裔という。山路惣右衛門久長が御徒となる。山路弥左衛門主住ははじめ支配勘定を務めるが「勤務よからず」として罷免、のち天文方の助勤から天文方になる。山路之徽は暦作の助勤から評定所儒者に就任。
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旧刊本 15 |
§1340-2
[編集]平氏(経盛流) |
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生島 文右衛門 啻栄 |
生島文右衛門秀福(はじめ山田氏)が綱吉に召し出され、のちに御近習番。家伝によれば、平経正の二男・源勝法印の末裔を称し、源勝が摂津生島荘を宛行われたことから生島を名字としたという。
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旧刊本 15 |
§1340-3
[編集]平氏(忠度流) |
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喜左衛門 盛房 |
久間喜兵衛盛重は徳川家綱のときに御進物取次番を務める。平忠度の末裔と称し古くは隈氏と伝える。久間左兵衛盛美のときに班が進められる
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旧刊本 15 |
§1340-4
[編集]平氏(忠正流) |
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服部 又三郎 義英 |
服部治左衛門良一が慶安3年に徒士に召し加えられる。義高はその子。服部又三郎義英が班を進められる。家伝によれば、平長盛の子・長光の庶流で、伊賀に住したと称する。
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旧刊本 16 |
§1340-5
[編集]平氏(季衡流) |
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関根 孫十郎 良近 |
関根庄兵衛義郷が館林徳川家に仕える。関根孫左衛門義昌が御家人に列し御右筆。 伊勢守平俊継(伊勢俊継)の裔と称し、伊勢鈴鹿関の根方に住したことから関根と称したという。
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旧刊本 16 |
§1340-6
[編集]関根 八五郎 良貴 |
関根義郷(1341-5)の二男・関根左大夫良春が召し出され御右筆。
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旧刊本 17 |
巻第千三百四十二
[編集]鎌倉北条氏の子孫と称する家
§1342-1
[編集]平氏(維将流) |
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増島 藤之助 信道 |
増島平大夫重辰は館林徳川家に仕える。「北条早雲の落胤」勘解由重胤を祖と称する。 信有(僧正)は長谷寺住職。 (参考)練馬区史歴史篇に言及 |
旧刊本 17 |
§1342-2
[編集]江馬 平左衛門 季寛 |
江馬平左衛門成次が館林徳川家に仕えのち御家人。江馬義時の子朝時の裔を称す。 家祖の江馬加賀守時成はもと遠江曳馬城主飯尾氏家臣で家康に従う。 江馬与右衛門一成は遠江で1200石余を知行。江馬与右衛門秀次は徳川頼宣に附属。 秀次の長男・次男は紀州藩に仕え、三男が成次。 |
旧刊本 18 |
§1342-3
[編集]監物 長頼 |
三賀権左衛門は甲府徳川家に仕え鷹匠、のち御家人。北条仲時の裔を称し伊勢国に住したという。 | 旧刊本 19 |
§1342-4
[編集]金沢 瀬兵衛 千秋 |
北条貞将(金沢流北条氏)の末裔を称する。金沢安左衛門正法が火消与力となる。4代続き、金沢瀬兵衛安貞は火消与力から勘定方に転じ、勘定組頭・評定所留役などを歴任、のち一橋家用人。 | 旧刊本 19 |
巻第千三百四十三
[編集]§1343-1
[編集]平野 安左衛門 幸隆 |
平野弥一郎幸利(はじめ馬場氏)は猿楽師。加賀藩の扶持から綱吉に召し出される。 | 旧刊本 20 302 4 |
§1343-2
[編集]辨庵 直英 |
医師の熊谷玄与直輝が召し出される。歴代は熊谷玄与・熊谷弁庵等を称す。熊谷直実の裔という。 | 旧刊本 20 7 |
§1343-3
[編集]熊谷 大助 直義 |
熊谷助左衛門直久が徒士となる。栄久・直義は鷹匠を務める。 | 旧刊本 21 |
§1343-4
[編集]熊谷 虎八郎 当乗 |
熊谷杢左衛門直清は甲府徳川家家臣。 | 旧刊本 21 |
§1343-5
[編集]室 孫次郎 直矩 |
儒学者室鳩巣の家。室新助直清(鳩巣)が加賀藩から召し出される。熊谷直実の後裔を称す。 | 旧刊本 21 |
§1343-6
[編集]島崎 二郎三郎 忠儔 |
島崎源左衛門忠為は北条旧臣で、北条氏滅亡後家康に仕える。「伊豆大介時方」の裔を称す。島崎又兵衛忠祐は家康に仕え300石を知行、のち頼宣に附属、以後紀州藩士。島崎一郎右衛門忠政のとき吉宗とともに(家重に従い)江戸に入る。 | 旧刊本 22 |
巻第千三百四十四
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(繁盛流) | ||||||
1344-1 | 早川 | 善左衛門 利重 | 早川清左衛門重政が紀州徳川頼宣に仕える。岩城氏の支族と称する。 早川善左衛門忠辰のとき吉宗とともに(小次郎=宗武に従い)江戸に入り御家人。 |
22 | ||
1344-2 | 弥七郎 安高 | 幕内伊左衛門正隆が御徒となる。岩城氏の支族と称する。 | 23 | |||
1344-3 | 彦左衛門 隆徳 | 白戸六右衛門隆宗が御家人となり鳥見役。岩城氏の族臣白土隆茂の後裔と称する。 | 23 | |||
1344-4 | 五郎蔵 惟清 | 伏木六郎左衛門惟直は甲府徳川家に仕える。平維茂の後裔と称する。 | 23 | |||
1344-5 | 芹沢 | 八十郎 政常 | 芹沢理右衛門保長は伊賀越えを助け御家人となる。大掾氏末裔を称する。 | 24 | ||
1344-6 | 本康 | 碩庵 徳義 | 歯科医師の本康宗碩徳長が綱吉に仕える。大掾氏末裔(もと小栗氏)という。 歴代は本康宗碩・本康碩庵を称す。 (参考)本康宗円はこの家の6代目 |
24 | ||
1344-7 | 本康 | 寿仙 徳能 | 本康徳長(1344-6)の養子・本康寿仙徳亮が歯科医師として召し出される。代々本康寿仙を称す。 | 24 |
1345-1349
[編集]巻第千三百四十五
[編集]- 三浦氏の系譜は巻521からにある。
家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(良兼流) | ||||||
1345-1 | 三右衛門 元著 | 長田三右衛門信庸は甲府徳川家に仕える。長田親致(長田忠致の兄)の末裔と称する。 長田越中守元隣が家宣に従い幕臣となり、のち京都町奉行。 長田山城守(越中守)元鋪は御先鉄砲頭、普請奉行、小普請支配などを歴任。 |
25 | |||
平氏(良文流) | ||||||
1345-2 | 杉本 | 仲温 良 | 外科医師の杉本元政(杉本忠恵)が御家人となる。杉本義宗の末裔と称する。 歴代も杉本忠恵などを称した。 |
25 | ||
1345-3 | 岡村 | 丹後守 直賢 | 岡村喜左衛門直成が紀州藩に仕える。和田義盛の末裔と伝える。岡村は直成の「外戚」の名字。 岡村丹後守直純が吉宗に従い幕臣、御小納戸。 |
26 | ||
1345-4 | 岡村 | 弥平 直義 | 岡村直行(1345-3)の二男・岡村弥平直時が別家を立てる。 | 26 | ||
1345-5 | 伊大夫 正久 | 河原伊大夫正吉が御徒となる。三浦一族杉浦氏の裔と称する。 祖とされる「杉浦政吉」について考証。
|
26 |
巻第千三百四十六
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(良文流) | ||||||
1346-1 | 矢部 | 主膳 正方 | 矢部主膳正栄が御台所人となる(のち禁裏板頭)。三浦義澄の末裔と称する。 | 27 | ||
1346-2 | 正木 | 十右衛門 時峯 | 正木十郎右衛門時久は甲府徳川家に仕える。三浦為春の同族(安房正木氏)と伝える。 | 28 | ||
1346-3 | 三浦 | 和泉守 義和 | 三浦五郎左衛門義周が吉宗に召されて寄合に列する。三浦義同の庶流という。
(参考)三浦浄心の項目に関連の記載がある |
28 | ||
1346-4 | 佐原 | 三右衛門 義行 | 佐原三郎兵衛延影が御持組与力に加えられる。 佐原義連の末裔、三浦重成の弟・延次の子孫と称する。 三浦義成家(三浦監物家・下総三浦藩)についての長文の考証あり。 |
29 |
巻第千三百四十七
[編集]佐久間家(1347-1)から保田家(1348-2)まで、三浦氏の支族を称するが系譜不詳。
家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(良文流) | ||||||
1347-1 | 佐久間 | 三郎兵衛 信輝 | 佐久間次郎左衛門長嗣が御徒となる。 長嗣は佐久間信盛の子孫(佐久間正勝の二男・長興の子)と称す。 |
30 | ||
1347-2 | 佐久間 | 忠左衛門 清寿 | 佐久間長嗣(1347-1)の二男・佐久間孫左衛門長清が御徒となる。 | 30 | ||
1347-3 | 佐久間 | 久五郎 孟雅 | 佐久間郷右衛門言宴が御徒として召し抱えられる。 | 31 | ||
1347-4 | 佐久間 | 平兵衛 弘典 | 佐久間平兵衛宣言は紀州藩に仕え、その後御家人となる。 | 31 | ||
1347-5 | 平塚 | 甚三郎 教親 | 平塚甚十郎教巴は甲府徳川家に仕える。のち幕府の漆奉行を務める。 | 32 | ||
1347-6 | 平塚 | 伊賀守 為善 | 平塚一郎右衛門近秀が紀州藩士から幕臣となる。平塚為広は同族と伝える。 家伝によれば、為広の子・平塚久賀の子孫。 |
32 | 138 |
巻第千三百四十八
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(良文流) | ||||||
1348-1 | 井坂 | 又兵衛 信尋 | 井坂又兵衛幸利が御家人となり、甲府徳川家に付属。もと三浦氏。 井坂又兵衛義単・又十郎信友父子はそれぞれ甲府家から本城に移る。 |
33 | ||
1348-2 | 保田 | 定市 至元 | 保田久兵衛通春が紀州藩に仕える。三浦氏庶流という。 保田久兵衛元珍が紀州藩から御普請役。保田定市至元が勘定方に移る。 太左衛門義方、久左衛門武詮(父を継いで、とある)の家は御家人として続く。 |
33 | ||
1348-3 | 長屋 | 虎五郎 景郷 | 長屋新五郎景恵は徳川家宣の乳兄弟。鎌倉氏(鎌倉景政あるいは景成)の子孫と伝える。 景恵の父・長屋文右衛門正吉は松平丹波守(明石藩松平光重か)家臣。 |
33 | ||
1348-4 | 団 | 吉太郎 景邦 | 団勘右衛門安成が館林徳川家に仕え右筆、御家人に列す。梶原景長(鎌倉景通の子孫)の裔と称する。 団権十郎景雄も右筆。団平左衛門景脩が甲府勤番となり移住。 |
34 | ||
1348-5 | 団 | 安左衛門 景定 | 団安成(1348-4)の異母弟・団平八郎景貞が館林徳川家に仕え右筆、御家人に列す。 | 34 | ||
1348-6 | 金三郎 政富 | 上坂安左衛門政形は町奉行所与力から代官、田安家郡奉行を務める。梶原景時の裔と称す。 | 34 | |||
1348-7 | 荻野 | 伴右衛門 直政 | 荻野藤八郎直次が普請役に召し抱えられる。鎌倉景通の末裔と伝える。 荻野伴右衛門直政が支配勘定・勘定となる。 |
35 | ||
1348-8 | 大場 | 幸之丞 景亨 | 大場景宗(大庭氏の大庭景宗?)の子孫と称す。 大場藤内景友は甲府徳川家に仕え、御広敷伊賀者に加えられる。 大場定八郎盈章は蓮浄院広敷伊賀者から侍に転じ用人となる。大場六郎左衛門景武が家重に拝謁。 |
35 | ||
1348-9 | 大場 | 佐五右衛門 景福 | 大場佐五右衛門正賢が御徒に加えられる。 大場源大夫景豊が拝謁を許され、御畳奉行を務める。 |
35 |
巻第千三百四十九
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(良文流) | ||||||
1349-1 | 牛袋 | 左兵衛 胤房 | 千葉常胤の子・武石盛胤(胤盛)の末裔と伝える。 牛袋利兵衛忠胤が家康の代に御徒に加えられる。 |
36 | ||
1349-2 | 遠藤 | ― | 千葉一族東氏の寿昌院素山の末裔という。 遠藤新左衛門信吉が家光の代に御徒に加えられる。遠藤新兵衛信澄は御代官。 遠藤弥市郎は素行不良により遠流。 |
36 | ||
1349-3 | 遠藤 | 伊兵衛 準政 | 遠藤信吉(1349-2)の養子・遠藤伊兵衛安本が御徒に加えられる。 | 37 | ||
1349-4 | 遠藤 | 伝之助 一忠 | 遠藤久兵衛道広は甲府徳川家に仕える。遠藤次郎右衛門道辰が御家人となる。 | 37 | ||
1349-5 | 遠藤 | 勝五郎 道公 | 遠藤道広(1349-4)の二男・遠藤道貞が甲府徳川家に仕える。遠藤長八郎道明が御家人となる。 | 37 | ||
1349-6 | 遠藤 | 又三郎 美昆 | 遠藤又三郎将勝が御徒に加えられ、のち代官。 | 37 |
(略)
[編集]1355-1359
[編集]巻第千三百五十七
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(高棟流) | ||||||
1357-1 | 柘植 | 甚左衛門 正英 | 柘植市助宗能の子・柘植平九郎広正が家康に仕えたと伝える。 広正は振姫とともに蒲生家に従うが、蒲生家断絶により浪人。 柘植九左衛門正重は本多伊勢守に仕える。柘植甚五左衛門正通が御徒に加えられる。 柘植善九郎正休が班を進め御勘定。 |
57 | ||
1357-2 | 柘植 | 万吉 竹苞 | 柘植伊右衛門が御徒に加えられる。柘植伊右衛門竹東が班を進め御勘定。 | 58 | ||
1357-3 | 木下 | 春次郎 一資 | 儒者木下順庵(貞幹)の家。先祖は北村を称していたという。 前田綱紀に仕えていた木下平之丞貞幹が召されて儒者となる。 |
58 | ||
1357-4 | 藤本 | 主計 稠昌 | 藤本筑後守稠賀(重賀)はもと猿楽師で、観世流観世重賢の二男。綱吉に召され、母方の藤本を称す。 御小納戸を務め知行600石。 |
59 | ||
1357-5 | 高田 | 作之丞 宗之 | 高田九兵衛宗敏が秀忠のとき御徒に加えられる。 宗敏から宗忠まで千代姫(保寿院)の侍となり、千代姫死去により召し返される。 高田作之丞宗之が班を進め勘定吟味方改役。
|
59 |
巻第千三百五十八
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平氏(支流) | ||||||
1358-1 | 関本 | 伯典 長茂 | 藤堂高次に仕えていた外科医師の関本伯典重長が家光に召し出される。 代々医師として仕え「関本伯典」を称する。 |
60 | ||
1358-2 | 関本 | 春台 寿秀 | 関本長宣(1358-1)の二男で外科医師の関本伯元寿宣が分家。 | 60 | ||
1358-3 | 服部 | 了元 泰路 | 外科医師の服部了伯順定が召されて家光に近侍。 代々医師として仕え「服部了伯」「服部了仙」「服部了元」などを称する。 |
60 | ||
1358-4 | 服部 | 金左衛門 保貞 | 服部金之丞保知は「神君伊賀越え」を助けて御家人となり、その子・服部金右衛門保常は御広敷に務める。 服部善右衛門保好(甫斎)ははじめ表坊主・奥坊主、束髪して桐間番となり班を進める。 服部金左衛門保正は御書物奉行となる。 |
61 | ||
1358-5 | 大膳亮 | 好庵 道洽 | 医師の大膳亮好庵道峻が召し出され、宝樹院に附属。もとは安芸氏で、道峻が「大膳亮」に家号を改めた。 代々医師として仕え「大膳亮好庵」などを称する。 (参考)大膳亮弘玄院 |
62 | ||
1358-6 | 大膳亮 | 玄碩 道清 | 大膳亮好庵道知(1358-5)の二男・大膳亮玄理道孝が分家。 | 62 | ||
1358-7 | 南条 | 隼人 俊当 | 伯耆南条氏。南条元清の二男・南条作十郎宜政は豊臣家・加藤家(熊本藩)・森家(津山藩)に仕える。 宜政の三男・南条源八宗俊は、母が千姫に仕えた縁で召し出され、甲府徳川家に仕える。 南条伊右衛門宗益が家宣に従って幕臣となり、西の丸御小納戸・知行600石。 |
62 | ||
1358-8 | 南条 | 助七郎 元長 | 南条宜政(1358-7)の長男で津山藩に仕えた南条次郎右衛門宗晴の子孫。 南条助左衛門宗清が綱吉のとき御徒に加えられる。 南条助八郎宗久が班を進められて御畳奉行。 |
62 | ||
1358-9 | 林 | 市太郎 久業 | 林久蔵久勝は家康に仕え200石。林右馬之助久次は大番に列して400石に加増されたが、 駿府城守衛時に隊士が交替を愁訴したため改易(死後赦免)。 |
63 | ||
1358-10 | 豊前 | 八右衛門 忠吉 | 豊前八右衛門正吉が御徒に加えられる。 豊前喜右衛門忠寛が班を進め御勘定、評定所留役、御蔵奉行などを務める。 豊前喜左衛門祭忠は甲府勤番となり移住。 |
64 |
(略)
[編集]1365-1369
[編集]巻第千三百六十六
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
橘氏 | ||||||
1366-1 | 甲斐庄 | 武助 正方 | 家祖の甲斐庄三平は甲斐庄正房(588-1)の弟という。 甲斐庄三平は家康に仕え、関ヶ原・大坂にも従軍したが、故あって致仕したという。 甲斐庄清大夫正長が御徒に加えられる。 甲斐庄武助正方が班を進められ、評定所留役などを務める。 |
85 | ||
1366-2 | 山脇 | 道作 之豹 | 医師山脇東洋(尚徳)の家。 医師山脇玄心(曲直瀬玄朔の弟子)が召し出される。 |
86 | ||
1366-3 | 岩室 | 万右衛門 正易 | 岩室作左衛門正明が御徒に加えられ、岩室伊右衛門正次が班を進められて御代官。 正次とその子・岩室新五左衛門正方はともに三河赤坂代官在任中に死去。 |
86 | ||
1366-4 | 楠 | 重五郎 正盈 | 楠伝四郎正敦が御徒に加えられ、班を進めて御勘定・清水郡奉行・長柄奉行・用人などを務める。 | 87 | ||
1366-5 | 松村 | 徳三郎 正道 | 松村武兵衛正武は、御徒から班を進められ勘定方改役。 | 87 | ||
1366-6 | 市郎兵衛 逵考 | かつて木南を姓とし、のちに小南に改めたという。 小南市郎兵衛逵寛は浪人で槍術を教えていたが、享保年間に御先手与力に加えられ、 その後御勘定組頭・御裏門切手番頭を務める。 |
87 | |||
1366-7 | 花田 | 仁兵衛 秀精 | 先祖は和田と称したという。享保年間に花田武兵衛正員が御普請役に加えられる。 花田仁兵衛秀精が御勘定を務める。 |
88 |
巻第千三百六十七
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
橘氏 | ||||||
1367-1 | 和田 | 孫次郎 持堅 | 和田七郎正氏(楠木正成の弟・楠木正季)の末裔(河内和田氏)で大石を称し、持義が和田に復したという。 和田安兵衛持義はもと戸沢正誠家臣で、綱吉に召し出される。 |
88 | ||
1367-2 | 和田 | 春長 正定 | 鍼医和田益一(島浦検校・総検校)が召し出されて綱吉に仕える。 | 89 | ||
1367-3 | 田中 | ― | 筑後藩主田中吉政の家。考証あり。 | 89 | ||
1367-4 | 田中 | 永之助 元勝 | 田中吉政(1367-3)の子・田中吉次の子孫。 | 90 | ||
1367-5 | 田中 | 久兵衛 政諧 | 田中吉政(1367-3)の子・田中久兵衛吉興の家系。吉興は2万石の大名。 田中主殿頭吉官は勘気を蒙り領地を没収、のち赦免され、御書院番頭・大番頭などを務める。知行5000石。 田中大隅守定格は大番頭・二条城代、知行7000石。田中内匠定安が発狂により采地収公・扶持米支給。 田中主殿定堅が名跡を継ぎ廩米500俵。 |
91 |
(略)
[編集]1386
[編集]巻第千三百八十六
[編集]§1386-1
[編集]清和源氏 |
---|
船橋 宗迪 玄鼎 |
|
旧刊本 142 |
§1386-2
[編集]舟橋 清次郎 光賢 |
|
旧刊本 142 |
§1386-3
[編集]高階氏 |
---|
高階 伝次郎 経章 |
はじめ鳥居小路を家名とし、のち安宅と改め、経和のとき高階を名字とする。高階経和(はじめ経雅)は甲府徳川家時代に家宣に右筆として仕える。
|
旧刊本 143 |
§1386-4
[編集]和気氏 |
---|
半井 卜泉 瑞之 |
半井明親(679-1)の娘が、牡丹花肖柏の子・海心宗珠に嫁ぎ慶友を生む。慶友は外祖父明親に養われて半井古仙を称し、堺で医業を開く。その子が卜養奇雲(牧羊斎)、その子が卜養慶友。本文系図は卜養慶友から。狂歌師・俳人と知られる半井卜養は、肖柏の孫(卜養奇雲?)とする説、幕府に出仕し延宝6年に没した人物(卜養慶友)とする説がある。
卜養慶友は徳川家光の診断にあたり、家綱の時に番医に列する。
|
旧刊本 143 |
§1386-5
[編集]庵原氏 |
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庵原 八兵衛 林学 |
庵原丹波正盛は今川氏真、のち北条氏直に仕える。庵原八兵衛正成が御徒に加えられ、のち中根正盛に属して国廻・御徒目付組頭。庵原八兵衛正親の代で班が進められ御勘定・染奉行。
|
旧刊本 144 |
§1386-6
[編集]庵原 六郎兵衛 忠恕 |
|
旧刊本 144 |