利用者:桂鷺淵/寛政譜/h04
表示
『寛政重修諸家譜』巻1500~
- 『寛政重修諸家譜 第八輯』(国民図書、1923年) 巻1340~巻1520を収録
- 国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082720/2
1500-1504
[編集]巻第千五百
[編集]§1500-1
[編集]穂積氏 |
---|
木原 兵三郎 白郷 |
木原因幡吉勝が今川家から松平清康に転仕。 もとは鈴木氏を称し遠江国山名郡木原村が苗字の地。1500石。 |
旧刊本 491 |
§1500-2
[編集]木原 長左衛門 白経 |
木原弘正(1500-3)の子・木原頼母親白が采地を分与され別家。300石。
|
旧刊本 492 |
§1500-3
[編集]亀井 平三郎 清亮 |
井藤平右衛門忠雄が甲府徳川家に仕える。亀井重清の末裔と称す。 もと根来氏。忠雄が井藤氏に改め、清永の代(忠亮の子世代)から亀井氏に改める。400俵。 |
旧刊本 492 |
§1500-4
[編集]亀井 駿河守 清容 |
井藤忠雄(1500-3)の二男・井藤源五左衛門忠清が別家し甲府徳川家に仕える。 清朝より亀井氏に改める。 清容は御小納戸頭取・新番頭・御小姓組番取格を務め知行取(500石)となる。500石。亀井駿河守清容(当時御小納戸頭取)は大黒屋光太夫の尋問に列席している。 |
旧刊本 493 |
巻第千五百一
[編集]§1501-1
[編集]宮道氏 |
---|
蜷川 善九郎 親贇 |
青蓮院流の能書家であった蜷川彦左衛門親煕が右筆として出仕。 代々右筆を務める。700石。 国文学研究資料館に「武蔵国江戸蜷川家文書」収蔵[1] |
旧刊本 494 |
§1501-2
[編集]蜷川 与三郎 親央 |
蜷川親煕(1501-1)の四男・蜷川八右衛門親和が分知され別家。代々右筆を務める。250石。
|
旧刊本 494 |
§1501-3
[編集]物部氏 |
---|
平岩 右膳 親豊 |
平岩親吉の同族。平岩清左衛門親興が大番与力に召し抱えられる。100俵。
|
旧刊本 495 |
§1501-4
[編集]荻生 小三郎 義堅 |
医師の荻生方庵景明が館林徳川家に召し抱えられる。放逐後再出仕。 荻生徂徠の生家。200俵
|
旧刊本 495 |
§1501-5
[編集]稲生 友之丞 直糓 |
戦国期の北勢四十八家の一。稲生友之丞直成が甲府徳川家に仕える。300俵。
|
旧刊本 496 |
§1501-6
[編集]勝 甚三郎 元良 |
勝市郎左衛門時直が御鉄砲玉薬組に召し抱えられる。
幕末の勝海舟の家。勝元良-勝小吉-勝海舟。 |
旧刊本 496 |
§1501-7
[編集]卜部氏 |
---|
吉田 源蔵 信副 |
猿楽師の吉田喜太郎信好(家名は稲波・大蔵とも)が召し出される。150俵。
|
旧刊本 497 |
§1501-8
[編集]神氏 |
---|
大熊 甚三郎 顕朝 |
大熊新助茂興が甲府徳川家に仕える。苗字の地は信濃国大熊村。100俵。 もと清和源氏、西井安太郎英粲の家と同祖。考証あり。 |
旧刊本 497 |
巻第千五百二
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
秦氏 | ||||||
1502-1 | 東儀 | 幸次郎 兼善 | 東儀筑後兼伴は紅葉山楽人を務める。 | 498 | ||
1502-2 | 東儀 | 主税 兼房 | 東儀弥十郎兼範は紅葉山楽人を務める。 | 498 | ||
1502-3 | 野本 | 文左衛門 虎純 | 野本文左衛門虎仙(もと大蔵を称す)は散楽師から家を興し、右筆。
橋本朝生「大蔵長大夫家考」http://doi.org/10.15002/00020585 |
498 | ||
1502-4 | 川勝 | 来太郎 隆敬 | 川勝弥三郎氏睦は猿楽師(金春八郎の子)から家を興す。 | 499 | ||
1502-5 | 平野 | 亀太郎 直寿 | 平野久馬之進氏長の母は関白近衛家の政姫(近衛家熙の娘)の乳母。 政姫が家宣養女となったため甲府徳川家に仕え、のち大奥老女「清田」。 氏長の父は法皇御所に仕えた本木武右衛門氏房。 「平野」は母方の名字で、外祖父は松平紀伊守家臣・平野五郎兵衛長敏。 |
499 | ||
1502-6 | 鵜殿 | 三郎九郎 長祥 | 鵜殿長持と同族。 | 499 |
巻第千五百三
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
坂上氏 | ||||||
1503-1 | 田村 | 紀三郎 宗顕 | 一関藩藩主家。後漢霊帝に始まる坂上氏系譜を載せる。 | 500 | ||
1503-2 | 田村 | 主馬 顕詩 | 田村主殿顕寛は田村宗良(1502-1)の三男。 | 502 | ||
1503-3 | 田村 | 仙三郎 恒豊 | 田村金左衛門が御徒となる。 | 503 |
巻第千五百四
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
大蔵氏 | ||||||
1504-1 | 原田 | 留吉 正路 | 原田小右衛門正信(原田種久)は三河国加茂郡の人。 同族の原田種友とともに徳川家康に従属。 |
503 | ||
1504-2 | 原田 | (彦次郎 俊賀) | 原田清大夫茂久が細工所同心となる。 | 504 | ||
丹波氏 | ||||||
1504-3 | 兼康 | 栄順 公楨 | 歯科医師の兼康栄庵弘順が召し出される。 代々医師を務め、兼康栄庵などを称する。
|
504 | ||
1504-4 | 小森 | 西倫 頼長 | 医師小森西倫頼英が召し出される。 代々医師を務め、小森西庵・小森西倫などを称する。
|
505 |
1505-1509
[編集]巻第千五百五
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
多々良氏 | ||||||
1505-1 | 井上 | 玄徹 玄方 | 今大路道三玄朔(曲直瀬玄朔)門下の井上玄徹某1(交泰院)が奥医師となる。 代々医師を務め、井上玄徹などを称する。井上家は大内氏庶流と称する。 井上玄徹1(号は霊叟)は師の玄朔と同じ広尾祥雲寺に葬られた[3][4]。 |
505 | ||
1505-2 | 井上 | 泰庵 玄省 | 井上交泰院某(1505-1)の子井上齢庵玄億が甲府徳川家の医師となる。 代々医師を務め、井上齢庵・井上三庵などを称する。 |
506 | ||
三善氏 | ||||||
1505-3 | 久保寺 | 喜久蔵 交美 | 久保寺十大夫正信が御徒となる。信濃国久保寺が父祖の地という。 | 506 | ||
三宅氏 | ||||||
1505-4 | 三宅 | 助右衛門 徳福 | 三宅貞右衛門正貞が甲府徳川家に仕える。児島高徳の裔と称す。 | 507 | ||
1505-5 | 三宅 | 五兵衛 伊共 | 三宅十太夫伊綱は三河で徳川家康に仕える。 三宅次郎兵衛伊正は本多正信配下「上総の七十騎」の一人、本多正純改易により浪人。 三宅五兵衛伊次が御徒となる。 |
507 | ||
1505-6 | 三宅 | 勘四郎 幸堅 | 三宅勘次郎伊秋は三河で徳川家康に仕え賀茂郡高橋に住す。「上総の七十騎」の一人。 三宅四郎左衛門広重が御徒となる。 |
508 | ||
1505-6 | 三宅 | 五郎三郎 保教 | 三宅茂兵衛義保が御徒となる。 | 508 |
巻第千五百六
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
狛氏 | ||||||
1506-1 | 野田 | 富之助 師古 | 野田甚之助近方は禁裏楽人から紅葉山楽人となる。 平安期の楽人狛光高の子・野田則高の末裔と伝え、遠祖は「高麗国主夫連王」。 |
508 | ||
1506-2 | 辻 | 銕三郎 高当 | 辻左兵衛高政(辻春逵)は紅葉山楽人から儒者に転じる。 | 509 | ||
劉氏 | ||||||
1506-3 | 古賀 | 弥助 朴 | 儒者古賀精里の家。古賀弥助(精里)が佐賀藩から将軍家に転仕。漢の高祖の末裔と称す。
|
509 | ||
高氏 | ||||||
1506-4 | 深見 | 新八 有能 | 深見久兵衛但有は長崎大通事。学者・文人深見玄岱・深見有隣の家。 北斉の祖・渤海王高歓の末裔と称す。 |
510 | ||
張氏 | ||||||
1506-5 | 山本 | 宗英 惟直 | 医師。歴代は山本宗洪・宗安・宗英などと称する。祖先は宋の張季明と伝える。
|
510 | ||
長氏 | ||||||
1506-6 | 長谷部 | 惣吉 長茂 | 長谷部藤右衛門長明が甲府徳川家に仕える。長氏と伝える。 | 511 |
巻第千五百七
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1507-1 | 吉田 | 自仙 建儔 | 外科医師の吉田自庵昌全が召し出される。 代々医師を務め、吉田自庵・吉田自碩などを称す。 |
511 | ||
1507-2 | 玉置 | 保次郎 直養 | 玉置半助喬直は甲府徳川家に仕える。代々右筆を務める。
玉置喬直は書道の玉置流の祖[5]。 |
512 | ||
1507-3 | 林 | 勝助 義隆 | 林九兵衛勝重は御広敷伊賀者。 | 512 | ||
1507-4 | 松村 | 十右衛門 良尚 | 松村十右衛門良賢が御侍並として瑞春院に付属。 | 512 | ||
1507-5 | 染木 | 甚太郎 正明 | 染木八右衛門正信は秀吉の朝鮮出兵時に捕らえられ来日した朝鮮人(もと李氏)。 同時に捕らえられた姉とともに大坂にいた千姫に仕える。 |
513 | ||
1507-6 | 羽倉 | 権九郎 秘救 | 羽倉弥平兵衛重範が御書院与力となる。
秘救の子・秘道(永吉)と記載されているのはのちの儒者・代官羽倉簡堂。 |
513 |
巻第千五百八
[編集]「当巻より下は官庫の日記によりて作れるところなり」。絶家・継嗣不詳。
家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1508-1 | 大久保 | ― | 大久保八郎兵衛は金銭問題(代官であった父の作った借財)で追放。
|
514 | 337 5 |
|
1508-2 | 鈴木 | ― | 鈴木伝左衛門は御台所組頭を務める。
|
514 | ||
1508-3 | 鈴木 | ― |
|
514 | ||
1508-4 | 鈴木 | ― | 鈴木新三郎は不行跡(博奕)・失態(刀を奪われる)等により死罪。
|
514 | ||
1508-5 | 鈴木 | ― | 鈴木運八郎は親族染原平右衛門の養子届出不正に関わり改易。
|
514 515 |
||
1508-6 | 北見 | ― | 北見孫右衛門(子・御蔵奉行)は御蔵衆私曲の廉で召預。
|
515 | ||
1508-7 | 曲淵 | ― | 曲淵助兵衛は小十人。
|
515 | ||
1508-8 | 曲淵 | ― | 曲淵作左衛門は小十人。
|
515 | ||
1508-9 | 渡辺 | ― | 渡辺五郎八・半左衛門父子は御手鷹匠
|
515 | ||
1508-10 | 渡辺 | ― | 渡辺織部は北条旧臣。船手を掌り、伊豆新島領(加茂郡宮内村所属)の支配にあたる。 子孫は御船手、勘定方、小十人などとなったが、新島の所務は引き継がれた。 渡辺吉三郎が金銭問題(支配所農民からの借金、年貢銀の流用等)で糾明中に死去、改易。
伊豆松崎(宮内村を含む地域)の海賊衆。宇喜多秀家の八丈島への護送にあたった。 |
515 | ||
1508-11 | 渡辺 | ― | 渡辺茂左衛門が御徒となる。
|
516 | ||
1508-12 | 依田 | ― | 平尾伊織が徳川忠長に仕え、浪人後幕府に出仕。源蔵が平尾より依田に改氏。 依田源蔵は酒井忠重の娘との婚約を破約されたことを憤り、酒井に狼藉し改易。
本件では酒井も改易された。 |
516 | ||
1508-13 | 依田 | ― | 依田玄春(陽徳院)が奥医師となる。
|
516 |
巻第千五百九
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1509-1 | 米倉 | ― | 米倉六左衛門(御蔵奉行)は御蔵の米を盗み、従者を殺害して罪を負わせる。 養父半左衛門も関与。子の頼母13歳は連座。
『断家譜』巻廿五 |
516 | ||
1509-2 | 能勢 | ― | 能勢権兵衛(代官)は収税業務遅滞により遠流、子の宇兵衛が連座。 二男能勢頼胤は同族能勢頼実の養子。
|
516 | ||
1509-3 | 中根 | ― | 中根八郎左衛門(御小納戸)は宿直中に「酒に狂」し遠流。嗣子は親族預け。
|
516 517 |
||
1509-4 | 大井 | ― | 大井喜兵衛盛貞が小十人から御納戸番を務める。 大井盛信が外祖父大平俊宗の家を継ぎ、食禄が収められる。 |
517 | ||
1509-5 | 斎藤 | ― |
|
517 | ||
1509-6 | 斎藤 | ― | 斎藤権之丞は母が大奥に仕えた縁で綱吉に召し抱えられる。
|
517 | ||
1509-7 | 高木 | ― | 高木孫兵衛は下城中に同僚に斬られ、後刻死去。 高木六兵衛・左太郎父子は他家の養子届出不正に関与し遠流(子や孫も連座、のち赦免)。
|
517 | ||
1509-8 | 溝口 | ― |
|
517 | ||
1509-9 | 石川 | ― | 石川石見某は女五宮(賀子内親王)に附属。石川伊左衛門は家綱に附属。 石川杢之助は上司に「筋なき訴え」を行い、「狂気の所為」として家禄収公。
|
518 | ||
1509-10 | 石川 | ― | 外科医石川良順某が召される。
|
518 | ||
1509-11 | 石川 | ― |
|
518 | ||
1509-12 | 金元 | ― | 歯科医師金元休庵が召し出される。子の休庵は拝領屋敷を質に入れ追放。のち赦免。
|
518 | ||
1509-13 | 箕浦 | ― | 小児科医師箕浦寿玄1が召し出される。子も医師。 箕浦寿玄3は小普請、病気療養中自宅失火により焼死。寿庵は子の務めを果たさなかったとされ追放。
|
518 | ||
1509-14 | 駒井 | ― | 駒井半七郎成治が秀忠に仕え、一時改易されるも赦免・再仕。
|
518 | ||
1509-15 | 永田 | ― | 永田七郎左衛門は大番から御蔵奉行、延宝5年代官に転じる
延宝5年に日田代官になった永田七郎左衛門貞清がいる[6][7] |
519 | ||
1509-16 | 三浦 | ― |
|
519 | ||
1509-17 | 三浦 | ― | 三浦十右衛門が甲府徳川家に仕える。
|
519 | ||
1509-18 | ― | 斎田久太郎が召し出されて右筆。
『断家譜』巻廿五:宇多源氏・本国近江。久太郎は喜兵衛元真の二男、母は織田主水信輝の娘。 |
519 |
1510-1514
[編集]巻第千五百十
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1510-1 | 辻 | ― |
|
519 | ||
1510-2 | 太田 | ― | 太田七郎左衛門、父六左衛門の罪(漆奉行時の負債)により遠流。
|
519 | ||
1510-3 | 太田 | ― | 医師太田道寿(太田謙光院)が奥医師に召し出される。 代々医師を務め、太田道寿を称する。道寿盛郷は金銭問題で遠流、のち赦免。
|
519 | ||
1510-4 | 田中 | ― | 田中一郎右衛門・兵左衛門は高槻の御蔵奉行。田中多次郎は糺問を受け遠流。
|
519 | ||
1510-5 | 田中 | ― | 田中吉左衛門は福井藩(松平吉邦)に仕える猿楽師から御家人となる。 田中一学は「不法」により遠流
|
520 | ||
1510-6 | 平賀 | ― | 医師の平賀玄純が召し出され奥医師となる。 代々医師を務め、平賀玄純を称する。
|
520 | ||
1510-7 | 岡部 | ― |
|
520 | ||
1510-8 | 松木 | ― |
|
520 | ||
1510-9 | 島村 | ― | 医師島村一庵1が召し抱えられる(駿府で勤務か)。子は小普請入り、無嗣断絶。
|
520 | ||
1510-10 | 戸田 | ― | 戸田茂兵衛直祐は大番から御金奉行。
|
521 | ||
1510-11 | 森 | ― | 森半十郎が館林徳川家に仕え小姓。 森一学正武が京都二条城守衛からの帰途、同僚原田種増を殺害し自殺。
|
521 | ||
1510-12 | 小島 | ― | 小島武左衛門は館林徳川家に出仕。綱吉の剣術相手で昵近。勘気等で小普請入2回、職務怠慢で召預。
|
521 | ||
1510-13 | 小島 | ― | 小島理左衛門は館林徳川家に出仕。小島彦五郎は博奕を咎められ遠流。
|
521 | ||
1510-14 | 窪田 | ― | 窪田十兵衛は館林徳川家に出仕。
|
521 | ||
1510-15 | 窪田 | ― | 窪田善九郎は八王子千人同心の頭(千人頭)
|
521 | ||
1510-16 | 星野 | ― | 星野小左衛門は館林徳川家に出仕。星野次郎八郎は市人を殺害の上糺問時に酒狂のため遠流。
|
521 | ||
1510-17 | 星野 | ― | 星野加右衛門1が御徒となる。星野源七郎は父・弟と共謀し養子不正届出に関わり遠流。
|
522 |
巻第千五百十一
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1511-1 | ― | 眼科医馬島安清が館林徳川家に出仕。馬島友甫は妻(勝本了佐湛能の娘)と姑を殺害し賜死。
|
522 | |||
1511-2 | 笠原 | ― | 笠原七郎兵衛が館林徳川家に仕え、のち御家人に列し代官となる。 | 522 | ||
1511-3 | 富士巻 | ― | 富士巻角之丞が館林徳川家に仕える。富士巻半四郎助包は甲府勤番中に同僚と賭博し追放。
|
522 | ||
1511-4 | 西 | ― | 西与一左衛門1は館林徳川家に仕え、のち御家人に列し代官となる。 西与一左衛門2は舟遊中に大奥老女絵島と面会したことが咎められ改易(江島生島事件関連)。
西与一左衛門1は近江国高島郡の甲府藩領で仁政を布いた名代官とされ、海津西浜に顕彰碑がある[8]。 元徳島藩士で旗本西家の養子という[8]。 |
523 | ||
1511-5 | 志村 | ― | 志村忠兵衛1は館林徳川家に仕える。
|
523 | ||
1511-6 | 山下 | ― | 山下十兵衛は志村忠兵衛の二男(1511-5には十兵衛の表示なし)で館林徳川家に仕える。 山下勘解由は不行跡で遠流。
|
523 | ||
1511-7 | 志村 | ― | 志村金大夫は綱吉に仕える。
|
523 | ||
1511-8 | 比企 | ― | 比企長左衛門は館林徳川家に仕え、のち御家人となり、代官を務める。 比企善十郎は親族外村大吉(1517-5)の後見不行届や博奕を咎められ遠流。
|
523 | ||
1511-9 | 深津 | ― | 深津猪左衛門は館林徳川家に仕え、のち御家人。深津武左衛門は「ゆえありて」食禄を収められる。
|
524 | ||
1511-10 | 鏑木 | ― | 鏑木平内は館林徳川家に仕え、のち御家人。
千葉一族[9] |
524 | ||
1511-11 | 宍倉 | ― | 宍倉与兵衛(代官・御蔵奉行など歴任)は糺問中に死去。死後、跡目相続は許さずと裁決。
宍倉与兵衛は備後福山の幕領期(水野氏改易後)に派遣された3人の代官の一人[10] |
524 | ||
1511-12 | ― | 伏谷八左衛門胤昵が秀忠の時に御徒に召し加えられる。
|
524 | |||
1511-13 | 奥山 | ― | 医師(井上交泰院某(1505-1)の弟子)奥山玄建が綱吉に召し抱えられる。 奥山玄長(奥山交竹院、実父は井上玄億(1505-2))は江島生島事件で遠流。 |
525 |
巻第千五百十二
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1512-1 | 小宮山 | ― | 小宮山杢右衛門は甲府徳川家に仕え、小宮山友右衛門正言が御家人になる。 小宮山太郎兵衛が不品行で遠流。 |
525 | ||
1512-2 | 小宮山 | ― | 小宮山平右衛門は甲府徳川家に仕える。
|
526 | ||
1512-3 | 小宮山 | ― | 小宮山新右衛門が小宮山源次郎家(1512-4)の養子不正届出に関わり切腹。
|
526 | ||
1512-4 | 小宮山 | ― |
|
526 | ||
1512-5 | 窪寺 | ― | 窪寺小左衛門正房、他家で斬りかかり返り討ち。狂気として収禄。 | 526 | ||
1512-6 | ― | 外科医師の瀬尾昌宅淳範が召し出される。瀬尾淳丈が「失心」により収禄 | 526 | |||
1512-7 | ― | 岡上伝兵衛が桂昌院に仕える。
|
526 527 |
|||
1512-8 | 金井 | ― | 金井六右衛門1が御台所人。金井六右衛門2が絵島事件関連で処分。
|
527 | ||
1512-9 | 海上 | ― | 海上助五郎は酒狂の上で市中で抜刀し、往来の者を脅かしたとして遠流。
|
527 | ||
1512-10 | 今村 | ― | 今村金兵衛、金銭問題で改易。
|
527 | ||
1512-11 | 増井 | ― | 増井一郎左衛門正利は家光に仕え植木奉行。増井弥左衛門1は賄頭となり400石を知行。 増井弥左衛門2(御蔵奉行)は業務上の不正により遠流。 増井弥五左衛門(代官)は、部下が弥五左衛門の借財返済のため不正を働き遠流。
|
527 528 |
||
1512-12 | 内山 | ― | 内山庄左衛門1は御台所人。内山庄左衛門2は酒狂により改易。
|
528 | ||
1512-13 | 樫井 | ― | 樫井七郎右衛門は酒狂により改易。
|
528 | ||
1512-14 | 和田 | ― | 和田伝蔵長章(林信篤の弟子)が儒学により召し出され、のち評定所勤役儒者。
大正刊本は和田長重の誤? |
528 |
巻第千五百十三
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1513-1 | 佐脇 | ― | 佐脇次郎左衛門は弟とともに詐欺を働きともに斬罪。
|
528 | ||
1513-2 | 林 | ― | 林次郎左衛門が酒狂により改易。
|
529 | ||
1513-3 | 林 | ― | 医師の林牛斎が西の丸奥医師となり、以後奥医師を継ぐ。 林徴伯は、親族浅井休徴・長谷川玄通(1513-7)との不行跡(博奕等)が「医官の身にあるまじき始末」と咎められ遠流。
|
529 | ||
1513-4 | 山本 | ― | 山本善三郎が酒狂により改易(のち赦免)
|
529 | ||
1513-5 | 山本 | ― | 山本伝九郎(御勘定・評定所留役)、農民間の訴訟で双方より賄賂を取るなどの不正を働き賜死。
|
529 | ||
1513-6 | 喜多村 | ― | 医師の喜多村慶安が召し抱えられる。 喜多村智庵は、別件で糺問を受けた竹山新十郎と博奕をしてことが露見し遠流。
|
529 | ||
1513-7 | 長谷川 | ― | 医師長谷川玄通(今大路道産の弟子)が奥医師となる。以後歴代医師。 長谷川玄通4は浅井休徴・林徴伯(1513-3)とともに処罰。 |
529 | ||
1513-8 | 岸井 | ― | 岸井芳庵1が奥医師となり、代々医家。岸井芳庵3が養子不正届出により遠流
|
530 | ||
1513-9 | 小川 | ― | 小川長八郎が綱吉に仕え御次番。
|
530 | ||
1513-10 | 小川 | ― | 小川杢之丞(小川一夢)は松平美濃守(柳沢吉保)家臣から綱吉に仕え御次番。
|
530 | ||
1513-11 | 田辺 | ― | 田辺加右衛門は綱吉の御近習番・御次番。綱吉死後甲府勤番となり移住。
|
530 | ||
1513-12 | 松本 | ― | 歯科医師の松本善甫が召し出される。代々松本善甫を称する。 松本善甫興世は使用人とともに町人に暴行、逆襲を受けて負傷。顛末を隠蔽に及んだため改易。 |
530 531 |
||
1513-13 | 河村 | ― | 医師の河村玄東が召し出される。代々河村玄東を称する。
|
531 |
巻第千五百十四
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1514-1 | 岸 | ― |
|
531 | ||
1514-2 | ― | はじめ田中氏。内蔵丞(田中半蔵?)は初め右筆として綱吉に仕え、 大奥侍女右衛門佐の養子(養女の夫)となって桃井氏に改める。
|
531 | |||
1514-3 | 三島 | ― | 針医師三島検校安一(杉山検校の弟子)が召し抱えられ、法印・惣検校、知行500石。 三島新五郎は廩米取りとなり小普請入り。 三島助右衛門は息子長五郎の非行(強盗殺人)や長五郎が仲間に殺害された件等につき、隠蔽により改易。
|
532 | ||
1514-4 | 清水 | ― | 清水友右衛門は酒狂により改易(息子1歳は連座)、父についてはその後赦免され御家人に復帰が記されている。
|
532 | ||
1514-5 | 多喜 | ― | 多喜茂左衛門は金銭問題・町人への暴行・職務怠慢で遠流。 ただし拘留中の獄舎の火災による解き放ちで帰り、追放に減刑。
|
532 | ||
1514-6 | 町野 | ― | 町野惣右衛門・町野惣右衛門寛満・町野左兵衛は代官。
|
532 | ||
1514-7 | 木村 | ― | 医師の木村春潮が召し抱えられ奥医師(御匙)・法印・1000石。 | 533 | ||
1514-8 | 平岡 | ― |
|
533 | ||
1514-9 | 山田 | ― | 山田清兵衛(山田勘左衛門)はもと猿楽者。
|
533 | ||
1514-10 | 山田 | ― |
|
533 | ||
1514-11 | 橋本 | ― | 橋本善大夫1はもと猿楽者(橋本半兵衛)。
|
533 | ||
1514-12 | 坪内 | ― | 坪内清助はもと猿楽者。坪内清之助は博奕・傷害により遠流。
|
533 | ||
1514-13 | 秋岡 | ― | 秋岡喜助はもと猿楽者。
|
533 | ||
1514-14 | 宮村 | ― | 宮村孫右衛門高豊(代官)は職務上の年貢・金銭トラブルで遠流。
|
534 | ||
1514-15 | ― | 河原七兵衛(大坂御金奉行)が御蔵の金紛失につき糺問中死去、子2人が召預け。
|
534 | |||
1514-16 | 布施 | ― |
|
534 |
1515-1520
[編集]巻第千五百十五
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1515-1 | 朝倉 | ― | 朝倉半九郎(代官)は租税の不正に加え職務怠慢で勘気を蒙りで食禄を収められる。 養子朝倉久四郎は半九郎処分以前に別家? 朝倉新五兵衛2は不行跡(家内取締不行届・遊興・居宅売却)に加え民家に侵入窃盗を行い斬罪。
|
534 | ||
1515-2 | 美濃部 | ― | 美濃部左伝次、叔父横地定成(横地定継の養子)を殺害し賜死。 | 535 | ||
1515-3 | 西村 | ― | 西村庄左衛門(もと中西氏)は猿楽師。
|
535 | ||
1515-4 | 畑 | ― | 畑伝八郎(もと梅若を称す)は猿楽師。畑八之助は不品行で追放。
|
535 | ||
1515-5 | 岩田 | ― | 岩田又左衛門1は御小納戸坊主から還俗。 岩田又左衛門2(右筆)は江戸城内で窃盗を繰り返し斬罪。
|
535 | ||
1515-6 | 岩田 | ― |
|
535 | ||
1515-7 | ― | 成海佐左衛門は「罪ありて」改易、家督を継いでいた孫の左吉も食禄を収められる。
|
535 | |||
1515-8 | ― | 宿谷武兵衛は鳥見役。宿谷源左衛門尹行は中野犬小屋普請にあたったのち、 養仙院御方(八重姫)用人となり知行取(700石)になる。「よからざる所行」により召し預け、子2人も改易。
|
536 | |||
1515-9 | 宇垣 | ― | 宇垣孫右衛門が甲府徳川家に仕える。 宇垣貞右衛門3が養子偽装、発覚後逐電により死罪
|
536 | ||
1515-10 | 平田 | ― | 平田伊右衛門は甲府徳川家に仕える。御留守居番を務めたが江島生島事件関連で遠流
|
536 | ||
1515-11 | 関 | ― | 「関秀和」とあるのは和算家の関孝和。 関新助秀和は甲府徳川家に出仕。関新七郎は甲府勤番中の博奕により追放。
|
536 | ||
1515-12 | 板倉 | ― | 板倉与兵衛治真は寺沢堅高に仕えのち浪人、上総に住む。板倉理兵衛正信が甲府徳川家に仕える。 板倉敬徳は致仕後に養子不正届出に関わり遠流 |
537 | ||
1515-13 | 小笠原 | ― | 小笠原治右衛門は甲府徳川家に仕える。 小笠原兵蔵が義弟(義兄?)一家を傷害、小笠原半三郎は糾明を怠ったとして食禄没収。
|
537 |
巻第千五百十六
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1516-1 | 多賀 | ― | 多賀次郎兵衛は甲府徳川家に仕える。
|
537 | ||
1516-2 | ― | 長田理右衛門は甲府徳川家に仕える。 長田勘解由は蔵王信仰のあまり甲府勤番中に無断で金峰山に参籠し改易。
|
537 | |||
1516-3 | 目良 | ― | 目良新三郎は町人を殺害し改易。
|
538 | ||
1516-4 | 武井 | ― | 武井善八郎常信は甲府徳川家に仕え御家人に列し代官。 息子の武井善八郎は博奕・脱刀等により死刑
|
538 | ||
1516-5 | 首藤 | ― | 首藤又右衛門俊章は甲府徳川家に仕え右筆。又四郎も右筆。
|
538 | ||
1516-6 | 柴田 | ― | 柴田八郎左衛門は甲府徳川家に仕え右筆。 柴田勘左衛門は井戸良雄・坪内清之助(1514-12)とともに博奕を行い遠流とされるが獄死。 柴田勘左衛門の子・某は親族召し預け。
|
538 | ||
1516-7 | 本庄 | ― | 本庄五右衛門は甲府徳川家に仕える。本庄巳之助は博奕・喧嘩等により遠流。
|
538 | ||
1516-8 | ― | 安間庄助は甲府徳川家に仕える。
|
539 | |||
1516-9 | 高橋 | ― | 高橋吉左衛門は甲府徳川家に仕え馬役。
|
539 | ||
1516-10 | 高橋 | ― | 高橋快続・小源次は御鷹匠。
|
539 | ||
1516-11 | 刈部 | ― | 刈部徳兵衛は甲府徳川家に仕える。刈部文助は公文書偽造・金員詐取により死刑。
|
539 | ||
1516-12 | 須磨 | ― | 鍼医師須磨良川が召し出され、法眼・600石。
|
539 |
巻第千五百十七
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1517-1 | 宇治 | ― | 宇治五郎兵衛は元猿楽師、松平陸奥守に仕え幸を称する。 宇治郷蔵陳定(御勘定)が逐電。 |
540 | ||
1517-2 | ― | 木谷又三郎は元猿楽師、松平淡路守の扶助を受ける。
|
540 | |||
1517-3 | 坂本 | ― | 坂本彦八、養子縁組の不正のため遠流
|
540 | ||
1517-4 | 野口 | ― |
|
540 | ||
1517-5 | 外村 | ― | 外村大吉は家内取締不行届・博奕・窃盗等により斬罪。
|
540 | ||
1517-6 | 服部 | ― | 服部権之進勝種(寺社奉行支配)、糺問中に獄死。 | 541 | ||
1517-7 | 服部 | ― | 服部市郎右衛門より歴代が浜御殿奉行を務める。服部主膳盛亨は糺問中に獄死。
|
541 | ||
1517-8 | 池田 | ― | 池田五郎三郎が致仕後、無断で武蔵国久喜に赴き、犯罪に関与。五郎三郎死後、その罪により処分。
|
541 | ||
1517-9 | 大森 | ― | 大森市郎右衛門は土圭間番。大森茂十郎寛茂は表御右筆となる。 大森市郎右衛門寛義は博奕により遠流。 |
541 | ||
1517-10 | 小林 | ― |
|
542 | ||
1517-11 | 佐々木 | ― | 佐々木数馬より甲府勤番として移住。 佐々木市五郎綱定は、同僚野田猛成・河野通則と酔って町人と喧嘩に及び逃亡。 武士にあるまじき振る舞いとして遠流とされるが、収容中の獄舎の火災で解き放ちから帰り、中追放に減刑。
|
542 | ||
1517-12 | 佐々木 | ― |
|
542 |
巻第千五百十八
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1518-1 | 増田 | ― | 増田太市郎の博奕が露見、太市郎は死亡していたため子の増田荒五郎が追放される。
|
542 | ||
1518-2 | 遠山 | ― |
|
543 | ||
1518-3 | 島田 | ― | 鍼医師島田幸庵が召し出される。 | 543 | ||
1518-4 | 今井 | ― | 医師の今井元昌が奥医師となる。
|
543 | ||
1518-5 | ― | 竹内勘左衛門(田安家郡奉行)は騒動(田安領宝暦箱訴事件)を惹起し食禄没収
|
543 | |||
1518-6 | 芥川 | ― | 医師の芥川元泰時亨が召し出される。
|
543 | ||
1518-7 | 大江 | ― | 医師の大江松卓が召し出される。
|
544 | ||
1518-8 | 青木 | ― | 青木六右衛門は紀州藩で吉宗に仕える。
|
544 | ||
1518-9 | 浅野 | ― | 浅野理左衛門は表火番となり、累進して賄番となるが、配下の不正により閉門処分、 その後さらに食膳への異物混入などを起こして免職(小普請入り)。 浅野熊之助は外出中に何者かが居宅を襲撃し継母や客人を殺害。 事前に継母が不審な物音に気づき告げたにもかかわらず用心を怠ったとして重追放。
|
544 | ||
1518-10 | 小出 | ― | 小出半大夫は紀州徳川家に仕え、御家人に列して御広敷用人・300石。 小出相模守広命(御小姓)は職務怠慢で召預。 その養子・小出広雅も連座改易、のち赦され実兄小笠原義章のもとに寓居 |
544 | ||
1518-11 | ― | 小把源大夫は博奕や不行跡のため遠流。
|
544 |
巻第千五百十九
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1519-1 | 千種 | ― | 千種清右衛門直豊から3代にわたり美濃郡代。銕十郎が不正により遠流。 | 545 | ||
1519-2 | 田沢 | ― |
|
545 | ||
1519-3 | 水野 | ― | 養子の虚偽申請をめぐり、七郎右衛門・半右衛門父子が切腹
|
545 | ||
1519-4 | 久米 | ― |
|
545 | ||
1519-5 | 宮田 | ― |
|
546 | ||
1519-6 | 小木 | ― |
|
546 | ||
1519-7 | 柴山 | ― |
|
546 | ||
1519-8 | 小野 | ― |
|
546 | ||
1519-9 | 勘野 | ― | 勘野喜六郎が、粕谷金太夫の養子虚偽申請に関与し切腹
|
546 | ||
1519-10 | 村上 | ― | 村上茂助(大坂御蔵奉行)、不正により遠流
|
546 |
巻第千五百二十
[編集]家名 | 当主 | 解説 | 大正 | NDL | 内閣 | |
---|---|---|---|---|---|---|
未勘 | ||||||
1520-1 | 西脇 | ― | 西脇十郎右衛門2が水泳の練習中に溺死、無嗣断絶
|
547 | ||
1520-2 | 大場 | ― | 大場幸次郎景雄は、素行不良(遊蕩)・犯罪(路上強盗)・糺問中の誣告により斬罪 | 547 | ||
1520-3 | 塩 | ― | 塩藤右衛門3、不品行(賭博など)・職務怠慢により遠流
|
547 | ||
1520-4 | 塩 | ― | 上の塩家(1520-3)の分家。塩助八郎は加兵衛2の子。 塩亀太郎は友人2名の暴行事件を内済しようとするも失敗、糾明で虚偽を申し立て改易。
|
547 | ||
1520-5 | 浅井 | ― | 浅井作右衛門2(代官)は職務上の不適切(収税、部下統制)が多く、浅井扇吉道武の家督継承を認めず。
|
548 | ||
1520-6 | 前田 | ― | 前田伴次郎(大坂御金奉行)、村上茂助(1519-10)とともに不正を働き遠流。
|
548 | ||
1520-7 | 前田 | ― |
|
548 | ||
1520-8 | 西川 | ― | 西川忠次郎は天文学によって召し出される。要人・豊松も天文方に勤務。
西川如見の二男・西川正休(忠次郎)の家。 |
548 | ||
1520-9 | 粕谷 | ― | 粕谷金大夫は養子の虚偽届出により切腹
|
548 | ||
1520-10 | 菰田 | ― |
|
549 | ||
1520-11 | ― |
|
549 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “武蔵国江戸蜷川家文書”. 収蔵歴史アーカイブズデータベース. 2021年1月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『日本医家伝記事典 :宇津木昆台『日本医譜』』
- ^ “井上玄徹”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年1月2日閲覧。
- ^ 小曽戸洋「失われた井上玄徹の墓」
- ^ “玉置流”. 精選版 日本国語大辞典. 2021年1月1日閲覧。
- ^ 西江錦史郎「塩谷郡代による豊前・豊後の新田開発」
- ^ 高倉芳夫「幕藩体制下の日田(一)」
- ^ a b “江戸時代の一時期に甲斐国(現山梨県)甲府藩の飛び地が、現在の高島市今津町・マキノ町に存在した。飛び地の代官を勤めた西与一左衛門の在任期間や就任の経緯・任地での事績を知りたい。”. レファレンス共同データベース. 2020年1月3日閲覧。
- ^ “江戸時代の千葉氏【一】”. 「千葉一族」. 2020年1月3日閲覧。
- ^ “悪代官伝承(福山藩天領時代の三代官について)”. 備陽史探訪の会. 2020年1月3日閲覧。
- ^ 新藤恵久「江島・生島事件と御蔵島」『日本医史学雑誌』37巻3号、1991年
関連文献
[編集]- 浪江健雄「江戸幕府法における改易について」