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利用者:百五十年の積読/sandbox

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中勘助の略年譜

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西暦
(和暦)
年齢
(数え年)
事柄 主な著作
1885年
(明治18年)
0歳
(1歳)
5月22日、東京府神田区東松下町7番地今尾藩邸にて、今尾藩士の父・勘弥と母・鐘の五男として生まれる。 -
1889年
(明治22年)
4歳
(5歳)
7月、鐘と勘助の健康のため、小石川区小日向水道町に一家で転居する。 -
1891年
(明治24年)
6歳
(7歳)
4月、正規の学齢より1年早く市立黒田尋常小学校に入学。 -
1897年
(明治30年)
12歳
(13歳)
9月、城北中学校(現・都立戸山高等学校)に入学。 -
1902年
(明治35年)
17歳
(18歳)
9月、第一高等学校第一部に入学。 -
1905年
(明治38年)
20歳
(21歳)
9月、東京帝国大学文科英文学科に入学。 -
1907年
(明治40年)
22歳
(23歳)
9月 - 国文学科に転科。 -
10月、父・勘弥が死去。
1909年
(明治42年)
24歳
(25歳)
1月、兄・金一が脳溢血で倒れて失語症など重症を負う。 病床
〈1909年11月-1910年5月執筆〉
7月、東京帝国大学国文学科を卒業。
1910年
(明治43年)
25歳
(26歳)
12月、一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊。 -
1911年
(明治44年)
26歳
(27歳)
4月、衛戍病院に入院。2ヶ月後、除隊。 -
夏 - 野尻湖畔の安養寺に仮寓。9月からは弁天島に籠もる。
1912年
(大正元年)
27歳
(28歳)
夏から秋にかけて、野尻湖畔に滞在。「銀の匙」を執筆する。 銀の匙
〈1912年夏-秋執筆〉
1913年
(大正2年)
28歳
(29歳)
4月、夏目漱石の推薦により「銀の匙」が「東京朝日新聞」に連載される。 銀の匙
〈1913年4月8日-6月4日連載〉
小品四つ〈執筆〉
1914年
(大正3年)
29歳
(30歳)
6月、比叡山横川で「つむじまがり」(「銀の匙」後篇)を執筆する。 つむじまがり〈執筆〉
1915年
(大正4年)
30歳
(31歳)
4月、「銀の匙」後篇が「東京朝日新聞」に連載される。 銀の匙 後篇
〈1915年4月17日-6月2日連載〉
1917年
(大正6年)
32歳
(33歳)
6月、「漱石先生と私」を『三田文学』に発表。 漱石先生と私
〈発表〉
1920年
(大正9年)
35歳
(36歳)
2月、千葉県我孫子町に仮寓。 -
11月、生家の世話を見ることになり、財産整理のため小石川の実家を岩波茂雄に売却する。
1921年
(大正10年)
36歳
(37歳)
4月、『提婆達多』を新潮社より刊行。『銀の匙』を岩波書店より刊行。 『提婆達多』〈1921年4月刊行〉
『銀の匙』〈1921年4月刊行〉
1922年
(大正11年)
37歳
(38歳)
4月、「犬(未定稿)」を『思想』に発表し、発禁処分を受ける。 犬(未定稿)〈発表〉
1924年
(大正13年)
39歳
(40歳)
5月、『犬 附 島守』を岩波書店より刊行。 『犬 附 島守』〈1924年5月刊行〉
12月、平塚に家を建て、我孫子から転居して主にそこに暮らす。
1925年
(大正14年)
40歳
(41歳)
7月、『沼のほとり』を岩波書店より刊行。 『沼のほとり』〈1925年7月刊行〉
1926年
(昭和元年)
41歳
(42歳)
4月、『銀の匙』を岩波書店より再度刊行。 『銀の匙』〈1926年4月刊行〉
1931年
(昭和6年)
46歳
(47歳)
4月、『菩提樹の蔭』を岩波書店より刊行。 『菩提樹の蔭』〈1931年4月刊行〉
1932年
(昭和7年)
47歳
(48歳)
6月、『しづかな流』を岩波書店より刊行。 『しづかな流』〈1932年6月刊行〉
1933年
(昭和8年)
48歳
(49歳)
4月、『提婆達多』を岩波書店より刊行。 『提婆達多』〈1933年4月刊行〉
1934年
(昭和9年)
49歳
(50歳)
10月、母・鐘が死去。
1935年
(昭和10年)
50歳
(51歳)
3月、詩集『琅玕』を岩波書店より刊行。 『琅玕』〈1935年3月刊行〉
1936年
(昭和11年)
51歳
(52歳)
5月 - 詩集『機の音』を岩波書店より刊行。 『機の音』〈1936年5月刊行〉
『海にうかばん』〈1936年12月刊行〉
12月、詩集『海にうかばん』を岩波書店より刊行。
1937年
(昭和12年)
52歳
(53歳)
6月、『街路樹』を岩波書店より刊行。 『街路樹』〈1937年6月刊行〉
『吾往かん』〈1937年10月刊行〉
10月、詩集『吾往かん』を岩波書店より刊行。
1938年
(昭和13年)
53歳
(54歳)
12月、詩集『大戦の詩』を岩波書店より刊行。 『大戦の詩』〈1938年12月刊行〉
1939年
(昭和14年)
54歳
(55歳)
9月、詩集『百城を落す』を岩波書店より刊行。 『百城を落す』〈1939年9月刊行〉
1940年
(昭和15年)
55歳
(56歳)
5月、『逍遥』を岩波書店より刊行。嫂・末子が蜘蛛膜下出血で倒れる。 『逍遥』〈1940年5月刊行〉
1941年
(昭和16年)
56歳
(57歳)
10月、『鳩の話』を岩波書店より刊行。 『鳩の話』〈1941年10月刊行〉
1942年
(昭和17年)
57歳
(58歳)
3月 - 詩集『飛鳥』で筑摩書房より刊行。 『飛鳥』〈1942年3月刊行〉
4月、嫂・末子が死去。
7月、猪谷妙子が死去。
10月12日、嶋田和子と結婚。同日、兄・金一が自殺。
1943年
(昭和16年)
58歳
(59歳)
5月、『蜜蜂』を筑摩書房より刊行。 『蜜蜂』〈1943年5月刊行〉
10月、静岡県安倍郡服織村に疎開。
1945年
(昭和20年)
60歳
(61歳)
3月、服織村羽鳥に移る。 -
1947年
(昭和22年)
62歳
(63歳)
7月、『余生』を八雲書店より刊行。 『余生』〈1947年7月刊行〉
1948年
(昭和23年)
63歳
(64歳)
2月、『鶴の話』を山根書店より刊行。 『鶴の話』〈1948年2月刊行〉
4月、東京都中野区新井町にある和子の実家に移る。
1949年
(昭和24年)
64歳
(65歳)
5月、『鳥の物語』を山根書店より刊行。 『鳥の物語』〈1949年5月刊行〉
1951年
(昭和26年)
66歳
(67歳)
1月、『白鳥の話』を角川書店より刊行。 『白鳥の話』〈1951年1月刊行〉
『藁科』〈1951年6月刊行〉
6月、詩集『藁科』を山根書店より刊行。
1953年
(昭和28年)
68歳
(69歳)
11月、『中勘助自選随筆集』上巻が創元文庫に入る(下巻は翌1月)。 『中勘助自選随筆集』
〈1953年11月刊行〉
1956年
(昭和31年)
71歳
(72歳)
胆嚢ほかの病気のため日本医科大学附属第一病院に入院。入退院を繰り返す。 -
1958年
(昭和33年)
73歳
(74歳)
2月、感冒より肺炎を併発し、一時危篤となる。 -
1960年
(昭和35年)
75歳
(76歳)
12月、『中勘助全集』を角川書店から刊行開始。 『中勘助全集』
〈1960年12月-1965年1月刊行〉
1965年
(昭和40年)
80歳
(81歳)
1月 - 『中勘助全集』完結。朝日文化賞を受賞。 -
5月3日 - 日本医科大学附属第一病院にて死去。享年79歳。