利用者:Cyclops/特別書庫-13
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都をさだめる(奠める、定める)こと[1][2]、都を建設すること[1]は、初であるか以前がどうであったかとは別義に、奠都(てんと)と言う[1][2]。都を定めることは定都(ていと)とも言う[3](用例:北京定都[4])が、鴨長明が『方丈記』のなかで「嵯峨の御時 都定まりける(解釈:〈平安京に遷都した桓武天皇より2代後の〉嵯峨天皇治世下にあったこの時〈すなわち、平城還都派最後の抵抗を制圧した薬子の変の事後〉になって都は定まった。cf. #平城還都の詔)」と述べているように、法的に都が決められたり遷されたりした後も都づくりは続けられ、都として政治的安定を見たときにようやく「都が定まる」という概念でもってこの語が用いられることもある[3]。都を建設する、そのこと自体は建都(けんと)と言う[1][4]が、「時と人が都を育んでゆく」などといった抽象的な意味を含めて「都を形づくってゆくこと」を指す場合もあり、[3]例えば「平安建都1200年」は、平安京が造営されて1200年経過したこと以上に、1200年かけて今に至っている歴史や文化の厚みにこそ意味を持たせたフレーズとなっている[3]。
- ※首都は必ずしも途切れなく存在するものではなく、一時的に滅亡状態に陥った国家や首都を失った国家が数カ月後・数年後に復興するなど、首都の存在が中断している場合もある。実例を挙げれば、5年間滅亡状態にあった漢王朝、年が変わるまで1年前後の間を滅亡状態にあった晋王朝、翌年の6月まで滅亡状態にあった宋王朝、首都陥落後の数ケ月間を転戦していたルーム・セルジューク朝などはこれに当たる。つまり、「A市(1000-1100年)→B市(1101-1200年)」などというケースもあるので、遷都された時期に途切れがなくても「A市(1000-1100年)→B市( -1200年)」などと省略はせず、「A市(1000-1100年)→B市(1100-1200年)」と表記している。
- 古代ローマ :王政ローマ首都ローマ(伝・紀元前753年4月21日- 紀元前509年)→共和政ローマ首都ローマ(紀元前509年-紀元前27年)→ローマ帝国首都ローマ(紀元前27年。※その後、293年にテトラルキア〈4分統治。cf. ローマ帝国の複都制〉が始まると、ニコメディア〈en、現・イズミット〉、シルミウム〈現・スレムスカ・ミトロヴィツァ〉、メディオラヌム〈en、現・ミラノ〉、アウグスタ・トレウェロルム〈en、現・トリーア〉の4都市が都となり、ローマは首都機能を失ったが、名目上は依然として首都であり続けた。コンスタンティヌス1世がテトラルキアを廃して帝国を再統一する324年になってローマは実を伴った首都に返り咲くが、330年、コンスタンティヌス1世は新都を築いて遷都する)→コンスタンティノポリス(現・イスタンブル。330年。※その後、帝国は395年に東西分裂)
- アケメネス朝ペルシア :パサルガダエ(紀元前546年- 紀元前530年前後〈キュロス2世の死去に伴って廃都されてゆく〉)→エクバタナ(紀元前529年頃〈カンビュセス2世統治時代〉- 紀元前522年頃〈ダレイオス1世統治時代初頭〉)→スーサ(紀元前522年頃〈ダレイオス1世統治時代初頭。※以後、滅亡期まで政治的首都は一貫してスーサであった〉- ダレイオス1世統治時代初期)→スーサ・ペルセポリス両都(ダレイオス1世統治時代初期- 紀元前331年〈アレクサンドロス3世が両都を占領。※帝国の滅亡は紀元前330年〉)
- ノーサンブリア王国 :Bebbanburg (en、後世のバンボロー。653年- エドウィン統治時代)→エボラクム(866年以降のヨルヴィーク、後世のヨーク。エドウィン統治時代 -954年)
- 第一次ブルガリア帝国 :プリスカ(681-893年)→プレスラフ(893年– 968年か972年)→スコピエ(968年か972年– 992年)→オフリド(992–1018年)
- カネム・ボルヌ帝国 :カネム帝国首都ンジミ(700年頃-1376年)→ボルヌ帝国首都ボルヌ(1376年- 1465年以降〈アリ・ガジ統治時代〉)→ビルニ・ガザルガム(現・ンガザルガム。1465年以降〈アリ・ガジ統治時代〉- ?)→ボルヌ(? -1808年)→首都は不明(1808-1846年)
- ズィール朝 :アーシール(現・アーシ。973-983年)→カイラワーン(ケルアン。983-1057年)→マフディーヤ(マーディア。1057-1148年)
- ハンマード朝 :【ズィール朝の新都市カルア・バニー=ハンマード(ベニ・ハンマード。1007-1015年)】→ カルア・バニー=ハンマード(1015-1090年)→ビジャーヤ(ベジャイア。1090-1152年)
- セルジューク朝 :ニーシャプール(1037–1043年)→レイ(1043–1051年)→エスファハーン(1051年。※その後、1048年にケルマーン・セルジューク朝が、1077年にルーム・セルジューク朝が、1085年にシリア・セルジューク朝が、1118年にイラク・セルジューク朝が分裂)
- 大セルジューク朝(分裂以前からあるセルジューク朝統括権威の政権) :エスファハーン(1051–1118年)→ハマダーン・メルブ両都(1118–1153年)→ハマダーン(1153年– 1157年5月〈アフマド・サンジャルの死去〉)
- ケルマーン・セルジューク朝 :首都は不明(1048-1187年)
- ルーム・セルジューク朝 :ニカイア(現在のイズニク。1077年- 1097年6月19日〈ニカイア攻囲戦で陥落〉)→イコニウム(現在のコンヤ。1097年中- 1308年。※1243年以降はモンゴル帝国支配下での名目的存続)
- シリア・セルジューク朝 :ダマスカス(1085年。※その後、1095年にアレッポ政権が分裂)
- イラク・セルジューク朝 :≪未確認≫(1118年- 1194年3月)
- ズールー王国 :ブラワヨ(1816年〈シャカ・ズールー即位時〉- 1828年9月22日〈国王死亡時〉)→ウムグングンドロヴ(1828年9月23日〈ディンガネ・カセンザンガコナ即位時〉- 1840年〈国王死亡時〉)→オンディニ(Ondini。1840年〈ムパンデ・カセンザンガコナ即位時〉- 1873年〈国王死亡時〉)→ウルンディ(1873年9月1日〈セテワヨ・カムパンデ即位時- 1879年7月4日〈首都の陥落〉)
- ビアフラ共和国 :首都エヌグ(1967年5月30日- ?)→臨時首都アバ(? -1968年6月28日)→臨時首都ウムアヒア(1968年6月28日 -1969年)→臨時首都オウェリ(1969年- 1970年1月15日)
- 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、日本全国に対する支配力を得たが、自身の領国があった関東に政権の中心地を置く選択をした。家康は帰依した浄土宗の教えから「厭離穢土 欣求浄土」を旗印としており、西方浄土に対する現世といった意味の言葉「穢土」になぞらえて「江戸」と呼び、そこに巨大な城(江戸城)および有力武士の居宅および城下町を構築し、江戸城に政治機能(江戸幕府)の場を遷した。その体制はおよそ260年間続くことになった。ただし、ここでもやはり名目上の都が平安京(京都)から動かされることは無かった。
- 慶応4年10月13日(1868年11月26日) :明治維新を行った人々は、天皇居住地を京都御所から東京城(直前の名は江戸城、直後の名は皇居)へ、時の政府を京都から東京へ遷した。これを東京奠都と言う。