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沿革
[編集]分国前
[編集]古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄していたことが知られる。そのため、独自の王国が存在したとする説もある(「丹後王国論」を参照)。京丹後市久美浜の函石浜遺跡からは新朝の王莽の貨幣が出土していることから、古くから大陸との関係が深かったと推測されている[1]。丹後地方が丹波の中心地であったことは、古墳時代前期の大前方後円墳が存在したことで知られている[2]。また『日本書紀』に、四道将軍が派遣された北陸、東海、西道、丹波の四方のうち丹波のみが具体的な地域名で記されていることから、ヤマト王権(大和朝廷)からの主要交通路の行き先にあたる重要な地域であったと推定される[2]。
分国後
[編集]和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。『続日本紀』には「丹波国の五郡を割きて始めて丹後国を置く」と記され[2]、『和名類聚抄』には35郷が記されている[1]。大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている[2]。
分国以前から、丹波国では丹波直(たんばのあたい)一族が国造や郡司など支配的地位を有していた。『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、丹波直は天火明命を祖としている。分国後の丹後国では延暦2年(783年)に丹波直真養が丹波郡国造に、貞観8年(866年)に丹波直副茂が近衛府の下級将官に任じられた[2]。
室町時代は山名氏のちに一色氏が守護となるが、戦国時代の天正7年(1579年)に織田信長軍の明智光秀や細川幽斎(長岡藤孝)とその子忠興らの丹後平定で一色氏は降伏した[3]。水本邦彦は、江戸時代後期に宮津藩士の小林玄章とその子・孫によって編纂された丹後地誌『丹哥府志(たんかふし)』に一色氏に関する城跡の記事が多いことから、江戸時代の人々にとって中世丹後国のイメージは一色領国であったと分析している[3]。
豊臣秀吉の時代は長岡氏を経て細川父子が支配し、江戸時代の慶長5年(1600年)に細川氏が九州移封となってからは12万3千石を与えられた京極高知が治める。元和8年(1622年)に高知が没し、宮津藩・田辺藩・峰山藩は二男高広、三男高三、養子の高通がそれぞれ相続した[1][3]。
宮津藩は寛文6年(1666年)に京極高国が改易で陸奥国に流され[1]一時的に幕府直轄領となった後、寛文9年に山城国淀藩の永井尚征が入封。延宝8年(1680年)にその子永井尚長が志摩国鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺され、嫡子がいないため改易となり翌9年に武蔵国岩槻藩の阿部正邦が入封した[3]。元禄10年(1697年)に下野国宇都宮藩から2才の奥平昌成、享保2年(1717年)に信濃国飯山藩の青山幸秀、宝暦8年(1758年)に遠江国浜松藩から本庄資昌が入封して以降は、明治維新を経て明治4年(1871年)7月の廃藩置県で3藩が県となるまで本庄氏が藩主を務めた[3]。
田辺藩は京極高盛が寛文8年(1668年)に但馬国豊岡藩に移封し、京都所司代等を務めた牧野親成が入封。峰山藩は京極氏が廃藩置県まで治めた[3]。明治4年11月に3県は豊岡県に併合され、明治9年(1876年)8月京都府に編入された[1]。
江戸時代には宮津、田辺(舞鶴)、峰山に藩庁が置かれた。また、久美浜に久美浜代官所が設置され北近畿天領を統括した。
江戸時代享保年間に峰山の絹屋佐平次や加悦の手米屋小右衛門らが西陣からちりめんの技法を持ち帰る。丹後ちりめんは藩に保護され、販売不振に陥っていた安政4年(1857年)には不況対策と保護育成のため宮津・峰山両藩と久美浜代官所が合同で丹後国産会所を設立している[3]。