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青山幸秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青山 幸秀
時代 江戸時代中期
生誕 元禄9年(1696年
死没 延享元年9月8日1744年10月13日
改名 藤次郎(幼名)、幸侶(初名)、幸秀
戒名 覺樹院殿了雄忠山大居士
墓所 東京都港区南青山梅窓院浄土宗
官位 従五位下大膳亮
幕府 江戸幕府
主君 徳川家宣家継吉宗
摂津尼崎藩主→信濃飯山藩主→丹後宮津藩
氏族 青山氏
父母 父:青山幸督、母:不詳
兄弟 幸秀忠朝幸能
正室:本多康慶の娘
側室:寂林院
金次郎、藤七、幸道幸篤幸充幸弼忠高相馬恕胤正室
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青山 幸秀(あおやま よしひで)は、江戸時代中期の大名摂津国尼崎藩の第4代藩主、信濃国飯山藩主、丹後国宮津藩の初代藩主。官位従五位下大膳亮。幸成系青山家4代。

生涯

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元禄9年(1696年)、摂津尼崎藩3代藩主・青山幸督の長男として誕生した。宝永7年(1710年)、父の死去により家督を継ぎ、12月18日に従五位下・大膳亮に叙任される。宝永8年(1711年)2月11日、信濃飯山藩に移封となった。

享保2年(1717年)2月11日、丹後宮津藩に移封された。

享保9年(1724年)、弟の幸能(叔父の幸澄の養子。交代寄合旗本で駿府城代)が自殺するなどの問題から、幕命により出仕を停止させられた。藩政においては、享保の飢饉における飢餓や過酷な藩政によって領民は苦しみ農業が衰退し、代わって丹後の民衆は丹後縮緬を作って現金収入を得ることで飢えを凌いだと伝わる。皮肉にも幸秀の藩政のお蔭で、今日も名高い特産品の丹後縮緬は急速に広まることになった。

延享元年(1744年)9月8日、死去。享年49。跡を三男の幸道が継いだ。

系譜

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父母

正室

側室

  • 寂林院、浜村氏

子女