松平資承
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松平資承 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 寛延2年10月29日(1749年12月8日) |
死没 | 寛政12年8月18日(1800年10月6日) |
改名 | 富次郎(幼名)、資承 |
戒名 | 最勝院殿顕誉義性本然大居士 |
墓所 |
東京都台東区浅草の安養寺 京都府宮津市金屋谷の大頂寺 |
官位 | 従五位下豊後守、伊予守、因幡守、伯耆守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 丹後宮津藩主 |
氏族 | 大河内松平家、本庄松平家 |
父母 |
松平正温、長山氏 松平資尹 |
兄弟 |
正升、本庄道信、資承、信譲、正恒、 近藤用和正室、松平乗森継室、 水野範明正室、松平尚庸室ら9男8女 |
妻 | 浅野宗恒娘、結城氏 |
子 |
資統、宗允、宗発、資恭、安藤直馨、 資克、資譲、富田知良正室、 堀田一知正室、歌子、朽木綱方正室、 水野忠啓正室 |
松平 資承(まつだいら すけつぐ)は、丹後国宮津藩3代藩主。本庄松平家6代。
生涯
[編集]寛延2年(1749年)10月29日、上総国大多喜藩3代藩主松平正温の三男として江戸で生まれる。宝暦13年(1763年)3月15日、将軍徳川家治に御目見した。明和2年(1765年)9月16日、宮津藩の第2代藩主松平資尹が死去したため、末期養子として家督を継いだ。10月1日、将軍徳川家治に御目見した。12月18日、従五位下・豊後守に叙任した。
安永5年(1776年)1月29日、奏者番に就任した。天明4年(1784年)4月26日、寺社奉行との兼任となった。7月2日、松平宗資の長男村上常勝の子孫である村上常福に新田350石を分知する。天明5年(1785年)、伏見義民の直訴を受ける。天明6年(1786年)閏10月2日、寺社奉行を辞職する。この時期、藩政においては、天明の大飢饉で大被害を受けて米価が異常高騰し、餓死者が多数出て、古記録には「言語に尽し難き困窮の年柄」とある。
寛政8年(1796年)2月28日、奏者番を辞職する。11月17日、隠居し、次男宗允に家督を譲る。寛政12年(1800年)8月18日に江戸で死去した。享年52。