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利用者:Quark Logo/sandbox鳥居強右衛門

 
鳥居強右衛門
時代 戦国時代
生誕 天文9年(1540年
死没 天正3年(1575年5月16日または17日[注釈 1]
改名 兵蔵(幼名)、勝商(諱)
別名 強右衛門(通称
戒名 智海常通居士
墓所 新昌寺および甘泉寺(共に愛知県新城市
主君 奥平定能 (貞能)信昌 (貞昌)
氏族 鳥居氏(大森氏より改める)
父母 父:兵助、母:佐與
兄弟 ニ弟ニ妹あり
ゆき(筒井善右衛門貞兼の娘)
信商、元安
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鳥居 強右衛門(とりい すねえもん[2])は、戦国時代から安土桃山時代にかけて足軽奥平家の譜代家臣。勝商(かつあき)[3][2]で、強右衛門は通称である。

生涯[編集]

強右衛門の素性[編集]

天文9年(1540年)、三河国宝飯郡八幡村市田の郷(現在の愛知県豊川市市田町)に、鳥居兵助の子として生まれた。母は佐與(佐与)で、幼名を兵蔵といい、下にニ弟ニ妹あり、長子であった[4][5]

現在まで続く子孫の家系図(鳥居本家)によれば、強右衛門の鳥居氏(伊予鳥居氏)の本姓藤原姓だが、先祖は鎌足後胤の藤原重治なる人物より出た系譜が後に大森氏を名乗って足利尊氏に仕え、そのさらに6代後の伊予国住人の大森仁左衛門なる人物が伊予松山の日招八幡大神社の鳥居を指物の柄にしたことを由来として尾張国に流れてきて織田信長に仕えて名字を鳥居に改めたとしている[6]。他方で鳥居忠吉元忠らの鳥居氏(紀伊鳥居氏)は、『寛政重修諸家譜』に先祖は穂積氏[注釈 2]紀伊国熊野権現の臣・農見大臣重高の末裔の鈴木某が末葉の鳥居法眼(重氏)を家祖として後に平姓を賜ったと書いてある[7]。系図の先祖や説明はいずれも仮冒であろうが、主張自体が大きく異なっており、同じ鳥居氏だが全く関係はない。少なくとも系図上では親戚ではない。もう一つ清和源氏流を称する三河鳥居氏もあり、これは勝商を吉守の子とするが、平安時代末期の人物である源為義の5代後を吉守とするなど系図に5百年ほど明らかな無理があり、これも関係はない[8]

妻ゆきは、槍の師匠だった筒井善右衛門貞兼の娘といい、(信昌の祖父)奥平貞勝が養女として娶せたとある[9]が、これは信ぴょう性には乏しいようで、養女にしたというのは家格が合わないので後世史家の捏造であろうという[10][11]。ゆきという妻の名前もかなり怪しいが、『鳥居強右衛門』では一応ゆきとして扱うと書いてある[12]。一説に作手村清岳の紅谷氏が妻の実家だとも言う[13]。系図によれば、彼女は慶長17年9月13日に参州杉山で亡くなり、寿姿妙全信女が法名(戒名)であるという[13]後述するが2児を生んだ。

前歴は不明で素性も不確かなことが多いが、水泳や武芸に長じ、強右衛門(すねえもん)は自ら称したという[4]。(信昌の父)奥平定能(貞能)に仕えていたといい[9]元亀元年(1570年)に名を強右衛門勝商と改めて作手亀山城主の奥平貞昌(後の奥平信昌)に仕えた[14]、というがこれは確かではない。しかしいずれにせよ、強右衛門は父と共に奥平氏の譜代の家臣であったようだ。奥平家の三河以来譜代家士の六十四士の一人として列記に書かれており、身分は足軽であるが、後述するように軍議の末席に出れるような立場ということで全くの兵卒ではなく、5人扶持ほどの足軽だったという史家もいる[15]

天正3年(1575年)2月、貞昌が長篠城主になった時に強右衛門も長篠に移ったという[16]

長篠合戦[編集]

奥平氏はもともとは上野国、今の群馬県多野郡吉井町下奥平の発祥で、天授年間に八郎左衛門貞俊が三河国作手(南設楽郡)に移ったことに始まる。貞勝―貞能(定能)―貞昌(信昌)の三代は作手亀山城に住む山家三方衆(奥三河の有力国衆)の1つで、今川氏織田氏松平氏(徳川氏)と所属を転々としていたが、元亀年間中に遠江・三河が甲斐武田氏の侵攻を受け、元亀2年(1571年)に奥平氏は武田氏の傘下に従属して、この時に貞昌の次弟・仙千代[注釈 3]と、奥平久兵衛の娘[18]おあわ(於ふう)、奥平勝次の子・虎之助の3人を人質に送った[19]

ところが、武田家の当主の武田信玄が元亀4年(1573年)4月に死亡したらしいとの情報が奥平氏に伝わった[注釈 4]。貞能と貞昌は信玄が死去したものと判断すると、密かに徳川家康と通じて、家康もまた奥平氏を味方につけようとして娘の亀姫を貞昌に嫁がせて3千貫の知行を与えるなど好条件を提示して説得した[19]

天正元年(1573年)7月20日、家康は自ら出陣し武田方の菅沼正貞の籠もる長篠城を包囲し[20]、久間山砦・中山砦を築いて付城とし、これを酒井忠次松平康忠菅沼定盈らに守らせて浜松城へ帰還した。8月中旬、信玄の跡を継いだ武田勝頼が救援のために出陣してきて、軍勢を二手にわけ、

三河黒瀬の塩平城に陣を布いて山家三方衆の監視をしていた武田信豊は、奥平親子の動向を怪しみ、貞能をに呼びつけて尋問した。貞能は言い逃れをして作手に戻ると、その夜のうちに作手亀山城を放棄して立ち退いた。作手古宮城にいた甘利晴吉初鹿野昌久は奥平親子を追撃したが、


奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。

奥平家の当主であった奥平定能の長男・貞昌は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年(1575年)5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。

この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。この時、上記の様に信長の援軍3万が岡崎城に到着しており、織田・徳川連合軍3万8,000は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した[注釈 5]。16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。

作者・楊洲周延、以下タイトル、鳥居スネエモン、敵に捕らわれ、味方のジョウチュウへ忠言す、タイトル終わり。1893年(明治26年)刊行。縦大判錦絵三枚続の武者絵。連行されてきたスネエモンを中央に配し、中央から左にかけてのチュウケイに城とジョウヘイ、右画面に武田の騎馬武者と家来たちを描いている。武田ガタに捕まった鳥居スネエモンは、籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と知らせるよう強いられたが、面従フクハイしてまんまと城に近付き、間もなく援軍が来るとの事実を知らせて味方を鼓舞した。周りの敵兵は叫ぶスネエモンを慌てて押さえ込もうとしているが、トキすでに遅し。
楊洲周延『鳥居強右衛門敵捕味方城中忠言とりいすねえもん てきにとらわれ みかたのじょうちゅうへちゅうげんす
明治26年(1893年)刊。縦大判錦絵三枚続の武者絵。武田方に捕まった鳥居強右衛門(中央)は、籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と報せるよう強いられたが、面従腹背してまんまと城に近付き、「間もなく援軍が来る」との事実を報せて味方を鼓舞した。周りの敵兵は叫ぶ強右衛門を慌てて押さえ込もうとしているが、時すでに遅し。

強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべきと虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した。こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた。しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を殺した。しかし、この強右衛門の決死の報告のおかげで「援軍近し」の情報を得ることができた貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した。援軍の総大将であった信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。

子孫[編集]

強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ。強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属した。家治が早世すると貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増された。その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けている。また、13代目の鳥居商次家老になるなど、子孫は家中で厚遇された。強右衛門の家系は現在も存続している。

逸話[編集]

  • 強右衛門の死については「斬られて死んだ[21]」「にされた[22]」の2種類が伝わっているが、一般には「磔にされた」とする逸話が有名であり、磔にされている強右衛門の姿を描いた旗指物の絵が現在に伝わっている()。強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』で、『三河物語』がこれに次ぐが、それ以前の『信長公記』などには件についての記述は全く見られない。また、上記の死以外にも、『甫庵信長記』と『三河物語』では内容に異なる部分がある。
  • 強右衛門が長篠城を脱出する際、鈴木金七郎重政という名の足軽が同行、または第二の使者として続いたとする説もある。『総見記』『常山紀談』『長篠日記』には、金七郎が強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎城への使者となった旨が記されている。新城市所在の禅源寺の古文書にも同様の記述があり、川路村(現・新城市川路)にも同様の伝承がある。『四戦紀聞』『武徳大成記』には強右衛門の後を追う形で金七郎が派遣されたことが記されている。しかし、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の奥平家系図の記載や『三河物語』には金七郎についての記述は見られない[23]。また、強右衛門と共に金七郎が使者になったとする上記の各資料においても、援軍要請の役目を果たした後に長篠城へ向かって引き返したのは強右衛門だけで、金七郎はそのまま岡崎城に残り、強右衛門のように英雄として名を残すことはなかったとされている。
  • 強右衛門は死を覚悟で長篠城を脱出する際、「我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士(もののふ)の道」という辞世の句を残したと伝えられる。主君を助けるためには自分の命を犠牲にすることもいとわない武士道の理想を象徴する和歌とされているが、この和歌の原文が記されている『甫庵信長記』は、強右衛門の死から50年近くも後の江戸時代初期に書かれたものであり、この和歌が実際に強右衛門本人の作であるという保証はない。
  • 旧説では、強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという「武田家」の家臣・落合左平次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという。これを描き直した物が現存している[24]。しかし、近年の研究によって落合はその時点では「徳川家」の家臣で、家康の本隊に所属していたため、強右衛門の最後を見届けることは不可能であり、この旧説は創作である可能性が高い。
  • 強右衛門の主家である奥平家では、家運を高めたこの戦を後に「開運戦」と呼び、家康の縁者となった貞昌は岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ待遇を獲得した。
  • 強右衛門の命を賭して主君への忠義を尽くした行為は高く評価され、明治から太平洋戦争時までの国定教科書でも紹介されていた。
  • JR東海飯田線鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名である。また、強右衛門の妻の故郷である作手村(新城市作手)の甘泉寺には、織田信長が強右衛門を弔うために建立させたと伝えられる墓が今でも残っている。

落合左平次道次背旗[編集]

  1. 落合左平次道次背旗」
    収蔵する東京大学史料編纂所の管理名称は上記のとおりであるが、箱書きにある「逆磔之図」を基に「落合左平次道次背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図」とも呼ばれている。「勝高」はである「勝商」の誤記か。
    16世紀の作。甲斐武田家の家臣・落合左平次道久が軍場で用いたと伝えられる背旗(せばた)。逆磔(さかさはりつけ)に処されている強右衛門を正面から捉え、磔柱(はりつけばしら)とともに幾何学的に図案化したである。強右衛門は全身が赤土のような色で描かれており、眼光鋭くこちらを見据えている。
    小島道裕は、この旗の箱書きに「逆磔之図」とあることなどを根拠に、上下逆の逆磔の図だと論じた[25]。しかし、黒田日出男[26]藤本正行[27]などは、原本が徳川家に献上された時の由緒書や、旗指物一般の構造からこれに反論している。また、明治5年1872年)に撮られた現在の軸装以前の写真[注釈 6]では、名称こそ「鳥居強右衛逆磔図指物」となっているが、向かって左と上部に袋乳と思しき生地が見られ、逆磔ではありえないと確認できる。
  2. 鳥居強右衛門磔死の碑 / 愛知県新城市有海に所在
    下層は自然石を積み重ねたような形。上層は背の高い化粧石。
  3. 新昌寺にある鳥居強右衛門の墓 / 愛知県新城市有海に所在
    当初、強右衛門の墓は新昌寺に建立されたが、慶長8年(1603年)に甘泉寺へ移設された。写真の新昌寺の墓碑(中央奥)は、宝暦13年(1763年)に新しく建立されたもので、1919年(大正8年)に墓所の大規模な拡張工事が行われている。狛犬が護る石造りの墓所。
  4. 甘泉寺にある鳥居強右衛門の墓 / 愛知県新城市鴨ケ谷門前に所在
    山腹にあるこぢんまりとした墓所。織田信長が建立させたと伝えられる古い五輪塔や現代の案内板が見える。

鳥居強右衛門を題材とした作品[編集]

尋常小学校六年生用の国語国定教科書。武勇伝が同書に掲載されたことをきっかけに、鳥居強右衛門は広く知られる人物となった[2]。ただし、第二次世界大戦終戦後の日本では一転して歴史好き以外の一般人にはほとんど知られていない人物となった。
なお、記事そのものは、広島大学図書館に保管されている1937年(昭和12年)4月21日発行版の時点で掲載されていない[29]
1940年代前半。『読売新聞』誌上にて「太閤記」名義で1939年(昭和14年)1月1日から1945年(昭和20年)8月23日にかけて連載された[30]本作のなかで、鳥居強右衛門は大きく取り上げられている。1941年(昭和16年)に新潮社から『新書太閤記』名義で書籍化される[30]際は、全9巻中の第5巻に収録された。現在の同巻は新装版が市販されているが、出版社の作品紹介は鳥居強右衛門のくだりを重点としている。
1942年(昭和17年)10月1日公開。原作:吉川英治『新書太閤記』。監督:内田吐夢。鳥居強右衛門役(主演):小杉勇、妻・まつ役:水戸光子、高須大彌太役:志村喬武田勝頼役:月形龍之介、奥平九八郎貞昌役:東野英治郎。配給:松竹[31]
  • 小説『炎の武士』
池波正太郎1979年(昭和54年)9月25日に著した同作品は、鳥居強右衛門の男気、土方歳三の色恋、間宮林蔵の生きざま、勘違いから一転した原田左之助の人生という、4つの物語で構成される短編集である。出版社:角川書店(現・KADOKAWA)、文庫:角川文庫ISBN 4-04-132314-2ISBN 9784041323144OCLC 166923670

関係図書[編集]

史料
書籍

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 甘泉寺の位牌や『重修譜』では命日を「五月十六日」としているが、『参州長篠日記』『中津藩史』等の資料は「五月十七日払暁」としている。丸山彰(愛知県鳳来町立長篠城址史跡保存館館長)は16日に処刑されたと見ている[1]
  2. ^ 他の系図では藤原姓とするものもあるが、寛政譜は公式な系図である。
  3. ^ 仙丸とも。天正元年(1573年)9月21日に奥平氏が武田に背いた罪で、武田勝頼の命令で三河国鳳来寺の麓金剛堂で磔にされた。享年14[17]
  4. ^ 武田信玄は、息子の勝頼が次期当主として十分に成長するまで、自分の死を少なくとも3年間は秘匿するよう遺言していたにも関わらず、信玄死亡の情報は本人の死後わずか1ヵ月足らずで織田氏や徳川氏などの諸大名にも伝わっていた。
  5. ^ 信長と家康はこの時、武田軍が包囲している長篠城へ一人で戻るのは危険だから援軍と共に明日出発するよう勧め、強右衛門に休息を与えようとしたが、強右衛門はこれを断り、ほとんど休みもせずに長篠へ戻って行ったという。なお、当時の長篠城から岡崎城までの行程は片道約65kmであり、強右衛門は往復で約130kmの山道をわずか1日余で走り通したことになる。
  6. ^ 磔の指物[28]

出典[編集]

  1. ^ 丸山彰 1973, pp. 49–50.
  2. ^ a b c d 桑名市.
  3. ^ 丸山 1973, p. 39.
  4. ^ a b 井口 1943, p. 124.
  5. ^ 丸山彰 1973, pp. 38–39.
  6. ^ 井口 1943, p. 133.
  7. ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、1044頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/531 国立国会図書館デジタルコレクション 
  8. ^ 井口 1943, p. 132.
  9. ^ a b 井口 1943, p. 125.
  10. ^ 井口 1943, pp. 137–139.
  11. ^ 丸山彰 1973, p. 40.
  12. ^ 井口 1943, pp. 139–140.
  13. ^ a b 丸山彰 1973, pp. 40–41.
  14. ^ 丸山彰 1973, pp. 39–40.
  15. ^ 井口 1943, p. 136.
  16. ^ 丸山彰 1973, p. 38.
  17. ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、970頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/494 国立国会図書館デジタルコレクション 
  18. ^ 堀田 1923, p. 962.
  19. ^ a b 丸山彰 1973, p. 9.
  20. ^ 丸山彰 1973, p. 8.
  21. ^ 甫庵信長記
  22. ^ 三河物語など
  23. ^ 夏目利美「強右衛門と金七郎、二人脱出の説検証」『郷土』、新城地区郷土研究会。 
  24. ^ 東京大学史料編纂所蔵『落合左平次道次背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図』
  25. ^ 小島 2000, p. [要ページ番号].
  26. ^ 黒田 2004, p. [要ページ番号].
  27. ^ 藤本 2002, p. [要ページ番号].
  28. ^ 東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録1 図版編』国書刊行会、1999年、p.154、ISBN 978-4-336-04154-8
  29. ^ a b 尋常小学国語読本 巻十二”. 教科書コレクション画像データベース. 広島大学図書館. 2020年11月26日閲覧。
  30. ^ a b c 『新書太閤記 05 第五分冊』:新字新仮名 - 青空文庫
  31. ^ a b 鳥居強右衛門 - 文化庁日本映画情報システム
  32. ^ 「どうする家康」鳥居強右衛門の壮絶最期にネット号泣…岡崎体育が語る磔刑シーン裏側「満身創痍(笑)」”. スポニチアネックス (2023年6月4日). 2023年6月6日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]