北守政直
北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日(1858年8月29日)[1] - 1940年(昭和15年)[2])は、明治から大正時代の日本の政治家、実業家。函館区長。通称は縫人、清次郎[2]。
経歴・人物
[編集]盛岡藩士・北守政智の長男として生まれ、1870年(明治3年)家督を相続し、盛岡藩権大属となる[1][2]。当時、北守家は御新丸番頭家格で家禄は250石[2]。同年免官し、1876年(明治9年)岩手県に出仕[2]。地租改正係となる[2]。その後、県税係を経て、1878年(明治11年)開拓使函館支庁に出向し、会計課配属となる[2]。翌年の1879年(明治12年)民事課に転じ、1880年(明治13年)岩手県からの出向停止となり、開拓使に採用され准判任官に任官[2]。函館支庁民事課勧業係となる[2]。同年、会計課統計係兼記録課編纂係に転じ、1882年(明治15年)開拓使廃止により残務整理に従事する[2]。さらに同年、函館県に出仕[2]。九等属となり兵事課配属となる[2]。
1886年(明治19年)北海道庁が設置されると判任官八等に叙され、1887年(明治20年)北海道函館区書記、1894年(明治27年)函館築港審査委員を経て、函館港検疫官となり、1896年(明治29年)依願免官する[2]。台北県属に転じ、内務課兼財務課会計科勤務を経て、1898年(明治31年)内務部所務課長心得兼知事官房係長心得、養済院長心得となり、内務部庶務課・官房秘書課兼文書課を兼務する[2]。1899年(明治32年)知事官房秘書課長兼文書課長、ついで土語通訳兼掌者試験委員、巡査看守懲罰審査委員を歴任し、同年依願免官[2]。
翌年の1900年(明治33年)再び北海道へ戻り函館区助役を経て、1910年(明治43年)函館区長となった[1][2]。1916年(大正5年)満期退職[2]。墓所は多磨霊園。