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吉良修一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉良 修一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県
生年月日 (1949-04-23) 1949年4月23日(75歳)
身長
体重
180 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1967年 ドラフト2位
初出場 1969年10月15日
最終出場 1974年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

吉良 修一(きら しゅういち、1949年4月23日 - )は大分県[1]出身の元プロ野球選手

来歴・人物

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大分県立津久見高等学校では、2年生の時、1966年夏の甲子園に控え投手として出場するが、チームは1回戦で報徳学園に敗れる[2]。吉良は予選では起用されたが、甲子園本大会での登板機会はなかった。しかし同年秋の大分剛健国体では決勝に進み先発で起用される。松山商西本明和と投げ合い0-1で惜敗、準優勝にとどまる。1年上のチームメートに四番打者、三塁手岩崎忠義、エースの三浦保雄がいる。

1967年春の選抜にはエースとして出場[1]。各試合とも1、2点差の接戦であったが、吉良の好投で勝ち上がる。決勝では延長12回の熱戦の末、弘田澄男のいた高知高を2-1で降し優勝を飾った[3]。同年夏は県予選準決勝でエース河原明を擁する大分商に0-1で惜敗、甲子園出場はならなかった。1年下のチームメートに大田卓司左翼手がいる。

同年のドラフト会議阪神タイガースから2位指名を受け入団[1]。入団2年目の1969年に一軍初登板を果たし、同年のジュニアオールスターにも出場する。1972年8月5日には読売ジャイアンツを相手に初先発を果たすが、1回に打ち込まれ降板、敗戦投手となる。しかし同年10月15日の最終戦で先発、8回1失点の好投でヤクルトアトムズからプロ初勝利。1974年も1勝を挙げるが、その後は登板機会がなく1976年オフに退団した[1]

甲子園優勝投手で非常に期待されたが伸び悩み、一軍ではあまり活躍できなかった。武器はスライダーカーブだが、速球がシュート回転する弱点があった。引退後は建設会社に勤務した。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1969 阪神 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 13 3.0 3 1 2 0 0 3 0 0 2 2 6.00 1.67
1970 6 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 32 7.2 8 0 0 0 1 8 0 0 6 6 6.75 1.04
1972 11 3 0 0 0 1 1 -- -- .500 88 22.1 20 0 3 0 0 15 0 0 8 8 3.27 1.03
1973 10 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 64 13.2 18 0 5 0 0 7 0 0 6 5 3.21 1.68
1974 7 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 56 14.2 9 1 4 0 0 11 0 0 4 4 2.40 0.89
通算:5年 35 3 0 0 0 2 1 0 -- .667 253 61.1 58 2 14 0 1 44 0 0 26 25 3.69 1.17

記録

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背番号

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  • 39 (1968年 - 1969年)
  • 47 (1970年 - 1976年)

脚注

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  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、194ページ
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  4. ^ 同球場での最後の公式戦

関連項目

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外部リンク

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