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吉良義周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉良義周
時代 江戸時代前期
生誕 貞享3年2月22日1686年3月16日貞享2年(1685年)説もあり。[要出典]
死没 宝永3年1月20日1706年3月4日
改名 春千代(幼名)→義周
別名 通称:左兵衛
墓所 長野県諏訪市中洲の鷲峰山法華寺
幕府 江戸幕府高家旗本
主君 徳川綱吉
氏族 上杉氏吉良氏
父母 父:上杉綱憲、母:側室・お要の方(茨木氏)
養父:吉良義央、養母:梅嶺院
兄弟 上杉吉憲義周、上杉憲孝[1]上杉勝周上杉勝延豊姫黒田長貞正室)、他
養兄弟:三郎鶴姫島津綱貴継室)、振姫阿久利姫津軽政兕室)、
菊姫酒井忠平室→大炊御門経音室)
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吉良 義周(きら よしちか/よしまさ)は、江戸時代前期の高家旗本米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれ、祖父である吉良義央の養子となり高家吉良家を継ぐが、元禄15年12月14日1703年1月30日)の赤穂事件で、赤穂浪士らに義央を討たれて自身も負傷する。その後、江戸幕府から事件当日の対応が「仕方不届」であることを理由に改易されて配流先の諏訪高島藩で21歳にて病死、高家吉良家は断絶した。

生涯

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幼少期

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貞享3年(1686年)2月22日に出羽国米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男春千代として誕生[2]。綱憲は吉良義央の嫡男であったが、母・富子上杉綱勝の妹であった関係から綱勝急逝後に上杉家を継いでいた[3]。その後、吉良家では義央の次男・三郎が嫡男となったが、貞享2年(1685年)に夭折した[2]。代わりに上杉春千代を養子とする願いを提出し、元禄2年12月9日1690年1月19日)に許可され、春千代は吉良左兵衛義周と名を改めると、元禄3年4月16日(1690年5月24日)、米沢城から江戸鍛冶橋の吉良邸に入った[4]。時に5歳。

吉良家の相続

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元禄9年11月21日1696年12月5日)、5代将軍徳川綱吉に初御目見する[4][5]

元禄14年3月14日1701年4月21日)、義父(祖父)義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日1702年1月9日)、義央は事件の影響で隠居した。

これに伴い、義周が吉良家を相続して表高家に列した[5]

赤穂事件と改易

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赤穂浪士らによる本所吉良邸への討ち入り(赤穂事件)があった元禄15年12月14日(1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら薙刀をとって応戦し、武林隆重(「左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由」『米沢塩井家覚書』より)に面と背中を斬られてそのまま気絶した。不破正種に薙刀を奪われた[6]重傷の義周はその場に放置され、殺害されることはなかった。

事件後吉良家は、すぐに家臣の糟谷平馬を使者とし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中稲葉正通邸に届け出ている(『検使宛吉良左兵衛口上書』)。

年が明けて元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府評定所に呼び出された義周は、荒川定昭[7]先手組猪子一興[8]に付き添われながら、麻布邸を出て評定所に出頭した。大目付仙石久尚より、当日の対応に際する「仕方不届」を理由に吉良家は改易の上、義周は信濃国諏訪高島藩藩主諏訪忠虎の国元での預け処分が申し渡された。諏訪家は予め預人を渡される際の指図を受けていた。諏訪高島藩は前もって評定所前に家臣を用意しており、義周の身柄は徒目付により引き立てられ、諏訪家家臣に引き渡された[9]。義周は網の掛けられた乗り物(罪人用の籠)に乗せられて、本所にあった諏訪高島藩邸へ移送された[9]

配流生活と死去

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長野県諏訪市諏訪湖

元禄16年2月11日(1703年3月27日)、諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発し、預かり先の信濃国諏訪藩へ向かった。随行の家臣は左右田孫兵衛重次山吉盛侍の2名のみ、また荷物も長持3棹と葛籠1個だけであった[10]

高島城本丸、二ノ丸、三の丸図解。右下の「4」の部分が松平忠輝預り屋敷のために増設された「南の丸」部分。以降、数々の配流者をここで預かった。

2月16日夕方に諏訪高島城下に到着した。諏訪家では高島城南丸の屋敷を改装して預かり屋敷にしたが、義周は一時的に城内の志賀満矩宅に入れられた。この南丸と屋敷は、天和3年(1683年)夏まで松平忠輝を預かっていた屋敷であり、諏訪家は何度か幕府に伺いを立てて南丸の預かり屋敷を完成させ、義周が南丸に移されたのは4月16日のことだった[10]

吉良義周や左右田、山吉の居場所について緘口令が敷かれ[11]、吉良義央や上杉家の批評も禁じた。一方で高い身分であった義周は「左兵衛」と敬称されていた[12]。たばこや衣類、蚊帳は許されたが、通信はすべて検閲された[12]。自殺を防ぐ目的から、義周の前へ出る者は扇や小刀も番所へ預けさせられた[12]

「左兵衛様さかやき髭段々長く成り候」と左右田や山吉が諏訪藩に申し出たが、小さなで摘むことがやっと許され、かみそりは許可されなかった[12]。ただし、高島藩の記録に「一、左兵衛様が、爪を切る時、鋏を使う時は、利兵衛、猶右衛門、八左衛門、八郎兵衛(いずれも藩士の名前)の一人以上が付き添うこと。」とあるので定期的に髪や爪を切っていた模様である。同記録には他に「左兵衛様の部屋に炬燵を置けるように申し付けた」「菓子を江戸から届けてもらいたい」「疝気が起こり延川雲山に診てもらったところ軽い容体であったが、油断なきように」など細かな配慮が記されている[13]

義周は配所で絵や書を良くしたが、元来病弱であり、しばしば病気になった。宝永3年1月19日1706年3月3日)に危篤に陥った[14]20日4日)に死去。享年21[14]

遺体は塩漬けにされ、防腐処理が施されたが腐臭が強かったため、よくあることではあるが香を大量に焚くなどして防臭に努めた[15]。同年2月4日(3月18日)、幕府の石谷清職の検死を受けた後、諏訪の法華寺に土葬された[15]。遺臣の孫兵衛・盛侍の両名は義周の遺言により、義周の石塔を自然石で立てて欲しいとして、代金3両を法華寺に納めている[15]。現在、同寺に自然石の墓と供養塔が残る。また、諏訪大社にも墓があり、義周の手になる書碑も建っている(画像集を参照)。

義周の死により、三河西条吉良家は断絶した[5]

人物

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華道は池坊流立花(りっか)と抛入(なげいれ)、能は金剛流を嗜んだ。「華道の芯とは葉にて花を包む心持にて活かし、花が中心に立ちて左右長短の枝が相応する」と津軽侯継嗣の華会で述べている[16]

後史

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蒔田家の吉良への復姓

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赤穂事件以来、三河吉良家は断絶したが、武蔵吉良家(奥州管領家)の蒔田義俊(1420石の高家)が吉良への復姓を願い出て宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された[2]

吉良家の「再興」

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また三河吉良家の分家の旗本(500石)だった東条家当主東条義孚享保8年(1723年)に吉良への復姓を幕府に願い出て認められた。

両家とも明治維新まで続き、維新後は士族となった。後者(旧東条家の吉良家)は大正元年(1912年)に吉良義道が死去した後はどうなったか不明である[17]

左右田と山吉

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両名は若くして病死の義周の分まで長生きしたが、その生きざまは対照的でもあった。

  • 西尾市華蔵寺の義周の墓
    山吉盛侍は義周が死去すると米沢へ戻り、三十人頭に就任し200石を領した。内政や外交に優れた能吏であった[注釈 1]宝暦3年(1753年)7月28日、死去。享年83。明治維新では仍孫山吉盛典が治水に長けた開明派の福島県令[注釈 2]として著名。
  • 左右田重次は、還暦を過ぎてなお数多の仕官の口があったが断り、三河の吉良家菩提寺・華蔵寺にも義周の墓を建立した。同地にて静かに余生を過ごした後、享保8年(1723年)2月29日に88歳にて、生涯を閉じる。

現況

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2018年(平成30年)6月、「吉良義周公慰霊会」により「吉良義周公木造坐像」が制作され[18]、開眼供養の上で諏訪法華寺の本堂奥の間に安置され、毎歳忌が営まれている。右手にを持った黒色の束帯姿で、大きく吉良家の家紋「五三の桐」が表わされている。

居城

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江戸屋敷

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菩提寺・神社

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  • 萬昌院功運寺 - 江戸における吉良家の菩提寺。内藤忠勝に斬殺された永井尚長赤穂藩主・永井直敬ら歴代永井家の墓もある。東京都中野区
  • 華蔵寺 - 吉良家の菩提寺。愛知県西尾市吉良町。
  • 花岳寺 - 東条吉良家の菩提寺。同じく西尾市吉良町。
  • 法華寺 - 本堂奥に「吉良義周公の墓」説明板および義周の墓・供養碑と、隣に吉良家臣寄進の自然石による石塔。説明板は吉良家の旧領があった吉良町(現・西尾市吉良町)によるもので、文面には「義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る…世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い…悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった」と、義周への深い同情が綴られている[24]長野県諏訪市。
  • 諏訪大社 - 参道入口に鳥居と「吉良義周公墓所」案内板、上社本宮に義周の墓。同じく諏訪市

著作

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  • 『吉良家日記』 - 義冬・義央・義周にわたる吉良家の日記。朝廷や殿中での作法なども記載。
  • 『吉良懐中抄』 - 義央までの部分が、山鹿素行により書写され松浦家・津軽家などに伝わる。
  • 『禁中式目』 - 上杉家に伝わる[25]
  • 『吉良躾之書』 - 義央の隠居後、義周が一部加筆。

遺品

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  • 後柏原天皇宸翰御消息」 - 国・重要文化財(書跡)。花岳寺所蔵。写しが吉良図書館「吉良家文書」[26]
  • 『吉良流伝書』 - 宮参、躾、衣冠束帯、宮仕、刀脇差、小袖、献立、陰陽之理、日用礼など詳細に述べたもの。全百四十五巻。三河吉良氏絶家[注釈 4]ののち高家吉良家(蒔田流)に伝わる。
  • 『吉良流二百五十箇条目録』 - 当時の武家の上流社会における心得・教養・礼儀作法を箇条書きに記したもの。全四巻。同・蒔田流に伝わる。
  • 書芸『三十六歌仙』 - うち「柿本人麻呂」が義周書碑として諏訪大社に建造されている。
  • 銀飾紋入長刀「播磨守初代藤原忠国」[27] - 不破正種により泉岳寺に運ばれたが、不破の遺品と共に住職が売却してしまい所在不明。

画像集

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吉良義周を演じた人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ 吉良時代も盛侍は、元禄8年(1695年)6月23日には足利氏(喜連川氏)の御家騒動を調停している。
  2. ^ 安積疏水の開削を国家事業とした、暗殺当日の大久保利通と面会していたこと等が知られている。
  3. ^ 現在の氷川神社は一本松坂を南下したアルゼンチン共和国領事館向かいに位置する。
  4. ^ ただし、三河吉良氏は義叔(義央の弟)の子孫で続くが高家でなく一般旗本。

出典

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  1. ^ 早世
  2. ^ a b c 斎藤茂 1975, p. 53.
  3. ^ 斎藤茂 1975, p. 51.
  4. ^ a b 斎藤茂 1975, p. 54.
  5. ^ a b c 寛政重修諸家譜』巻第九十二
  6. ^ 「数右衛門透間もなく切り懸り…長刀を見れば、銀の金物に梧桐のとふの紋所あり、(欠字)は左兵衛に紛れなしとて、其長刀を取りて帰る」『久松家赤穂御預人始末記』など
  7. ^ 吉良家の分家。旗本1千石
  8. ^ 旗本1千5百石
  9. ^ a b 斎藤茂 1975, p. 509.
  10. ^ a b 斎藤茂 1975, p. 510.
  11. ^ 南丸以外にあり得ないのだが。
  12. ^ a b c d 斎藤茂 1975, p. 511.
  13. ^ 諏訪家文書『諏訪家御用狀留帳』
  14. ^ a b 斎藤茂 1975, p. 512.
  15. ^ a b c 斎藤茂 1975, p. 513.
  16. ^ 『吉良家日記』(元禄十五年十月廿八日、弘前藩上屋敷にて)津軽信重華会記録
  17. ^ 斎藤茂 1975, p. 55.
  18. ^ 広報にしお 平成30年12月1日号 (PDF) 、2023年7月30日閲覧。
  19. ^ 西尾市公式web「西尾市の文化財」西尾市の文化財一覧(2011年11月25日)
  20. ^ 「本所松坂町公園」現地説明
  21. ^ 上杉家「須田右近書状」ほか
  22. ^ 中央義士会「忠臣蔵史蹟事典 東京都版」(五月書房、2008年)
  23. ^ 『御府内場末往還其外沿革圖書』元禄七年(皇紀二千六百年記念「麻布区史」)
  24. ^ あの会社の騒動も?義挙か謀反か、忠臣蔵の真実『読売新聞』2018年12月12日、2023年7月30日閲覧。
  25. ^ 「国宝 上杉家文書」(国会図書館・上杉博物館など)
  26. ^ 「国指定文化財データベース」(文化庁)
  27. ^ 『刀剣要覧』改訂二十二版(平成13年)では、一千万円の価格が付けられている。

参考文献

[編集]
  • 斎藤茂『赤穂義士実纂』赤穂義士実纂頒布会、1975年(昭和50年)。 

関連項目

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先代
吉良義央
高家吉良家当主
第4代:1701年 - 1702年
次代
断絶