土門正夫
どもん まさお 土門 正夫 | |
---|---|
プロフィール | |
出身地 | 日本神奈川県横浜市 |
生年月日 | 1930年3月24日 |
没年月日 | 2017年5月2日(87歳没) |
職歴 | 日本放送協会→フリー |
活動期間 | 1951年 - 2000年 |
ジャンル | スポーツ中継 |
担当番組・活動 | |
土門 正夫(どもん まさお、1930年3月24日 - 2017年5月2日[注 1])は、日本のアナウンサー。日本放送協会(NHK)の在職を経て、フリーアナウンサーやスポーツコメンテーターとして活動していた[注 2]。
来歴
[編集]神奈川県横浜市生まれ[注 3]。神奈川県立工業学校に進学し、2年目に海軍航空隊の予科練の試験を受け入学。1945年11月に復員して神奈川工業に復学、1947年に卒業[11]。
1951年日本大学専門部機械科[注 4]を卒業しNHKに入局[注 5]。広島局、大阪局を経てから東京アナウンス室で勤務[注 6]。
主にスポーツ中継の実況を担当[注 7]。1960年ローマオリンピック(日本へ向けた初のテレビ中継[注 8])から、1984年ロサンゼルスオリンピックまで、合計7回の夏季オリンピック放送を担当した[注 9]。
オリンピック中継では特にバレーボールの中継担当者として知られ、1964年東京オリンピックでは女子バレーボール決勝の日本×ソビエト連邦戦のラジオ実況中継アナウンス、1972年ミュンヘンオリンピックでは男子バレーボールの準決勝の日本×ブルガリア、決勝戦の日本×東ドイツの2試合のテレビ実況中継アナウンスを担当した。
また、1964年の東京オリンピック閉会式では、各国の選手が混じり合ってスタジアムに入ってくる予定外の状況にとまどい、カメラに映し出される情景を随時伝えていった。予定されていたプログラムと大きく離れたことから、他の中継スタッフともども大変な放送をしてしまったという思いを抱いていたが、渋谷の放送センターに戻ると他の職員から賞賛の拍手を受けた。この経験から、スポーツのテレビ中継はその場面に応じた内容を伝えるものだということに気づいたと後年語っている[13]。
なお、土門本人は自らのオリンピック中継で印象に残る場面としては「ロサンゼルスオリンピック(1984年)の女子マラソンのラジオ中継を担当した際に、フラフラになりながら競技場に入ってきたガブリエラ・アンデルセン(スイス)のゴールシーンだった」ことを語っている[14]。
1960年代に入ってからは『NHK紅白歌合戦』にも何度か登場し、1963年の第14回から1965年の第16回まではテレビ実況を、1974年の第25回では中江陽三アナウンサーとともに進行役をそれぞれ務めた。
スポーツ実況をメインとしていたが、芸能から教養まで多彩な番組に登場し、オールラウンド・アナウンサーとして明るく軽妙な語り口で知られた[1]。
1987年に定年を迎えた後も同局のアナウンス室専門委員として番組を受け持った[1]。
1988年、NHKを離れ、フリーのアナウンサー・スポーツコメンテーターに転身[注 10]。関西方面を中心に活動し、サンテレビと東海ラジオでプロ野球中継の実況・解説を担当[注 11]。元NHKアナウンサーにも関わらず、かなり阪神タイガース贔屓の実況にスタンスを変えた。これは土門自身が「私は小学生の時からの阪神タイガースファンであった」ためでもあったという[14]。
1991年6月13日、1987年から最下位と5位に低迷し、さらにこの年も前日まで9連敗を記録して最下位にいた阪神の、神宮球場における5位ヤクルト11回戦を実況。温和ながらも阪神側のスタンスから実況していたところ、試合が中盤までかなりの阪神劣勢で進んでいたところへさらにヤクルト打線が爆発。阪神投手陣は打者一巡の猛攻を誰も止められず、球場のヤクルトファンから大歓声が上がる。このとき、「(ライトと1塁側の)スタンドではヤクルトファンによるウェーブが起こっています。ホームベースと3塁側まで回って(阪神ファンのいる)外野まで届こうとしています」「ああっ!レフト側の阪神ファンまでもが一緒になってウェーブをやっています!」「何ということでしょう。涙が出てきました。テレビの前の皆さん、お願いします。チャンネルを変えないで下さい。スイッチを切らないで下さい。そしてこの光景を目に焼き付けてください。これが、1991年の阪神タイガースの、まぎれもない現実の姿です!」と実況を行った[注 12]。
現役のスポーツアナウンサー時代には、試合開始の何時間も前から球場入りしてチーム関係者に自ら取材するなど現場の空気を視聴者に伝える努力を怠っていなかった。
NHK退職後はスポーツを中心とした講演活動に対して積極的に取り組む一方で、日本大学藝術学部放送学科で教鞭を執っていた[14]。2000年に全ての活動を引退しており、晩年は隠棲生活を送っていた[14][注 13]。ただし、イベントの司会を務めることがあったほか[注 14]、2013年には日本ラグビーフットボール選手権大会のうち、映像が保存されていなかった新日本製鐵釜石7連覇時の1984・85年の決勝の中継ビデオをNHKに提供している[17]。
2017年5月2日午後9時42分、肺気腫により横浜市内の病院で死去。87歳没[6][7][8]。
実況を担当したオリンピック
[編集]夏季
[編集]- 1960年ローマオリンピック
- 1964年東京オリンピック[18]
- 1968年メキシコシティーオリンピック[19]
- 1972年ミュンヘンオリンピック[20]
- 1976年モントリオールオリンピック
- 1984年ロサンゼルスオリンピック
冬季
[編集]- 1964年インスブルックオリンピック
- 1968年グルノーブルオリンピック
- 1972年札幌オリンピック
- 1976年インスブルックオリンピック
- 1980年レークプラシッドオリンピック
- 1984年サラエボオリンピック
担当番組
[編集]NHK在籍時
[編集]フリー転向後
[編集]- プロ野球中継(各局)
- 東海ラジオ ガッツナイター(東海ラジオ)[注 17]
- サンテレビボックス席(サンテレビ) ※1988年から2000年まで担当[注 18]
著書
[編集]- 『燃える甲子園・球児たちの汗と涙』(1977年、廣済堂出版)
- 『あらゆるスポーツ面白ブック』(1983年、日本実業出版社)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 参考:
- ^ 参考:
- NHKに在職していたことが明記…[9]
- ^ 参考(出身地):
- ^ カシオ計算機を創業した樫尾四兄弟の四男・樫尾幸雄が同級で親交があった[12]。
- ^ 参考:
- ^ 参考(NHKでの在職歴について):
- ^ 参考:
- 1985年現在の担当番組として明記…[10]
- ^ 参考:
- ^ a b 参考(オリンピック担当歴について):
- 次の資料より、1960年のローマ大会から1984年のロサンゼルス大会まで、計7回のオリンピックを担当という旨の記載あり(夏季大会という言及なし)[1]。
- ^ 参考:
- 1988年にNHKを離れフリーのスポーツコメンテーターへ転身の旨記載…[1]
- ^ 参考:
- サンテレビや東海ラジオで野球実況・解説担当の旨記載…[1]
- ^ この日の最終スコアは5-19で、当時の既存12球団で歴史上唯一、2ケタ連敗のなかった阪神がこの日の敗戦で10連敗目を喫した記録的な日でもあった。
- ^ 参考:
- NHKに在職ののち、2000年までフリーアナウンサーとして活動の旨記載…[15]
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- NHKのラジオ・テレビにて、春夏の甲子園大会で中継担当の旨記載あり…[22]
- ^ 参考:
- ^ 参考:
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 2012年7月当時、システムブレーン(講師派遣会社)のサイトで配信されたプロフィール(インターネットアーカイブ同13日付保存キャッシュ)
- ^ a b c d 『'97プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1997年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P208に掲載されたサンテレビプロ野球担当アナウンサー名簿 ※「UHF局」というグループ内に記載(局名は「サンTV」と表記)。土門は名前の末尾にフリー契約アナを表す“(F)”の印が明記。同ページに印についての説明あり。
- ^ a b c d 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P208に掲載されたサンテレビプロ野球担当アナウンサー名簿 ※「UHF局」というグループ(P207-208)内に記載(局名は「サンテレビ」と表記)。土門は名前の末尾にフリー契約アナを表す“(F)”の印が明記。同ページに印についての説明あり。
- ^ a b c d 『'99プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1999年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P208に掲載されたサンテレビプロ野球担当アナウンサー名簿 ※「UHF局」というグループ(P207-208)内に記載(局名は「サンテレビ」と表記)。土門は名前の末尾にフリー契約アナを表す“(F)”の印が明記。同ページに印についての説明あり。
- ^ a b c d 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(『ホームラン』2000年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P221に掲載されたサンテレビプロ野球担当アナウンサー名簿 ※「UHF局」というグループ内に記載(局名は「サテレビン」と誤植)。土門は名前の末尾にフリー契約アナを表す“(F)”の印が明記。なお、前年まで記されていた“(F)”印についての説明はなし。
- ^ a b c d “土門正夫さんが死去 元NHKアナウンサー”. 沖縄タイムス. (2017年5月4日18時54分). オリジナルの2017年5月28日時点におけるアーカイブ。 2017年5月4日閲覧。
- ^ a b c d “東洋の魔女実況の元NHKアナ土門正夫さん死去87歳”. スポーツ報知. (2017年5月5日 7時0分). オリジナルの2017年5月6日時点におけるアーカイブ。 2017年5月5日閲覧。
- ^ a b c d e 元NHKアナ土門正夫さん死去 64年東京五輪「東洋の魔女」「閉会式」実況/芸能/デイリースポーツ online 2017年5月5日配信
- ^ a b 『'96プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1996年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P208に掲載された、フリーのプロ野球アナウンサーリストより、「氏名」欄に「土門 正夫」、「現役所属局」欄に「NHK」、「主な今年の活躍局」欄に「サンTV」の記載あり。
- ^ a b c d e 『週刊読売』1985年10月20日号P125の掲載されたアナウンサー・キャスター名鑑
- ^ a b “NHK入社は“冷やかし” 東京オリンピック名アナウンサーが語る”. ライブドアニュース. (週刊朝日2015年11月20日号より). オリジナルの2016年9月24日時点におけるアーカイブ。 2016年9月24日閲覧。
- ^ “時代の証言者”. 読売新聞. (2016年9月21日). オリジナルの2017年9月21日時点におけるアーカイブ。 2016年9月24日閲覧。
- ^ NHK BS2『お宝TV』2008年10月13日放送分におけるコメント[信頼性要検証]
- ^ a b c d 『あの人は今こうしている』日刊ゲンダイ 2013年9月2日発行17頁
- ^ a b 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』(『ホームラン』2002年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P241-244掲載「2002プロ野球アナウンサー紹介」。P242-243にて、過去のNHKプロ野球担当アナの一人として、1977年の『プロ野球百科名鑑』シリーズ創刊号にて紹介されなかったこと、一昨年までフリーアナで活動の旨を含め記載あり。
- ^ けんぽれん大阪連合会 健康づくり悠々トークin大阪2003 ※2003年10月18日、NHK大阪ホール開催のイベント告知記事。同イベント内座談会進行役として「元NHKアナウンサー」の肩書入りで記載。
- ^ No.230 ラグビー伝説の新日鉄釜石 7連覇の軌跡を発掘!、NHK番組発掘プロジェクト、2019年4月19日、同年4月22日閲覧
- ^ 日本放送協会 編『NHK年鑑'65』日本放送出版協会、1965年、74頁。
- ^ 日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修室『NHK年鑑'69』日本放送出版協会、1969年、202頁。
- ^ 日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修室『NHK年鑑'73』日本放送出版協会、1973年、183頁。
- ^ 『'97プロ野球12球団全選手カラー百科名鑑』(『ホームラン』1997年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P205-208掲載「'97プロ野球アナ紹介」。P207にて、過去のNHKプロ野球担当アナの一人として記載あり。
- ^ 【86】高校野球の語り部 称賛と思いやりのアナウンサー土門正夫さん/田名部和裕「僕と高校野球の50年」/野球/デイリースポーツ online 2017年6月21日配信
- ^ a b 東海ラジオ 1332kHz / 92.9MHz | 『懐かしいノベルティ』 | 日々 | 直球勝負!大澤広樹 | アナウンサー 2019年5月28日配信(文:大澤広樹=東海ラジオアナウンサー) ※1991年・1993年当時の『ガッツナイター』番宣広告入り下敷きの画像を参照。実況アナウンサーの一人として、土門の名が見られる。
- ^ サンテレビジョン社史編纂委員会 編修『株式会社サンテレビジョン45年史』(2014年、サンテレビジョン発行)P76