外松孫太郎
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(外松亀太郎から転送)
外松 孫太郎(とまつ まごたろう、1847年9月10日(弘化4年8月1日) - 1926年7月13日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍主計総監(のちの主計中将)。貴族院議員、男爵。
経歴
[編集]紀州藩士・大堀太右衛門の二男として生れ、同藩士・外松孫左衛門の養子となり、明治5年(1872年)に家督を相続する[1]。
明治維新後は和歌山県11等出仕を経て、1877年3月に陸軍省11等出仕となる。以後、会計軍吏副、会計軍吏、一等軍吏、監督補、三等監督、二等監督と昇進。1897年9月、経理局第1課長に就任。同局主計課長、経理局長兼会計監督長などを歴任し、1903年12月、主計監に昇進。日露戦争には大本営野戦経理長官として出征した。
1905年8月、主計総監となり、1909年8月1日には後備役編入となった[2]。1914年(大正3年)4月1日に退役した[3]。
1907年9月、日露戦の功により男爵位に叙され、1909年12月21日[4]から死去するまで貴族院議員に在任した。墓所は紀州藩菩提寺の池上本門寺。
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)3月11日 - 従六位[5]
- 1896年(明治29年)3月24日 - 正六位[6]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 従五位[7]
- 1901年(明治34年)8月31日 - 正五位[8]
- 1905年(明治38年)9月12日 - 従四位[9]
- 1909年(明治42年)9月20日 - 正四位[10]
- 1926年(大正15年)7月13日 - 正三位[11]
- 勲章等
- 1891年(明治24年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[12]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[15]
- 1901年(明治34年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[16]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・功二級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[17]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [18]
親族
[編集]- 実父・大堀太右衛門 - 紀州藩士[19]
- 養父・外松孫左衛門 - 紀州藩士[19]
- 妻・まさ - 紀州藩士・波切彦四郎の長女[20]
- 長男 外松亀太郎(陸軍大尉)。前妻は大山たま子(混血の声楽家)、後妻の琴子は子爵三好重臣の孫(重臣の長男とアメリカ女性との子)。
- 三男・省吾 - 母方の波切家を継ぐ[19]
- 四男・道之助 - 紀州藩士・西村家を継ぐ[19]
- 親戚に大堀孝。
脚注
[編集]- ^ 外松孫太郎『人事興信録. 2版(明41.6刊)』 (人事興信所, 1911)
- ^ 『官報』第7831号、明治42年8月2日。
- ^ 『官報』第507号、大正3年4月10日。
- ^ 『官報』第7950号、明治42年12月22日。
- ^ 『官報』第2607号「叙任及辞令」1892年3月12日。
- ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
- ^ 『官報』第4603号「叙任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第5451号「叙任及辞令」1901年9月2日。
- ^ 『官報』第6665号「叙任及辞令」1905年9月15日。
- ^ 『官報』第7874号「叙任及辞令」1909年9月21日
- ^ 『官報』第4169号「叙任及辞令」1926年7月16日。
- ^ 『官報』第2376号「叙任及辞令」1891年6月3日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ a b c d 外山孫太郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月](外山は外松の誤字)
- ^ a b 男爵外松亀太郎『現代華族譜要』日本史籍協会, 1929
参考文献
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 外松(孫太郎)家初代 1907年 - 1926年 |
次代 外松亀太郎 |