大島義晴
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大島 義晴(おおしま よしはる、1894年(明治27年)12月25日[1] - 1953年(昭和28年)4月21日[2])は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。
経歴
[編集]18歳頃から棒頭(人足頭)として足尾線工事、利根川改修工事に従事[3]。徴兵検査後に上京し三河島造船尻ケ崎鉄工所で働き、労働運動に加わり日本友愛会向島支部長に就任した[2][3]。1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に労働代表顧問として出席[2][3]。マーガレット・サンガーに賛同して産児調節運動に取り組むが、出版法違反で投獄された[3]。
満洲に移り、その後、盧溝橋近くで大島鉱業所を経営した[3]。一時帰国中に翼賛選挙の取締りに遭い前橋刑務所に投獄された[3]。
戦後に農業を営み[3]、須永好の感化を受け農民運動に加わり[3]、尾島町農業会長、群馬県農業会副会長、新田農民組合長、日本農民組合群馬県連合会長などを務めた[2][3]。
1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に群馬県第2区から日本社会党公認で出馬して当選し[2][3]、衆議院議員に1期在任した[2]。この間、社会党中央執行委員、芦田内閣農林政務次官などを務めた[2][3]。その後、第24回、第26回総選挙に立候補したがいずれも次点で落選した[4]。
また、奥利根自動車副社長、東武自動車(現東武バス)取締役、東群馬貨物自動車社長なども務めた[2][3]。
1953年(昭和28年)4月21日死去、68歳。死没日をもって正五位に叙される[5]。
著作
[編集]- 『食糧確保臨時措置法解説』農林省総務局弘報課、1948年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『第三回国会 衆議院議員名簿』衆議院公報附録、1948年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。