大林末雄
表示
大林 末雄(おおばやし すえお、1895年(明治28年)3月8日 - 1983年(昭和58年)4月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。愛知県宝飯郡佐脇村(のち御津村→御津町、現在の豊川市)上佐脇出身。
略歴
[編集]旧制愛知県第一中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第94位、卒業時成績順位は96名中第22位。
人物像
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
年譜
[編集]- 1895年(明治28年)3月8日- 愛知県宝飯郡佐脇村上佐脇(現在の豊川市)生
- 1908年(明治41年)4月1日- 愛知県第四中学校(現在の愛知県立時習館高等学校)入学
- 1912年(大正元年)8月31日- 愛知県立第四中学校中途退学
- 9月9日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位100名中第94位
- 1915年(大正4年)12月16日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位96名中第22位・任 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「吾妻」乗組・練習艦隊近海航海出発 佐世保~仁川~旅順~大連~鎮海~舞鶴~鳥羽方面巡航
- 1916年(大正5年)4月3日- 帰着
- 1917年(大正6年)12月1日- 戦艦「伊勢」乗組
- 1918年(大正7年)10月1日- 装甲巡洋艦「吾妻」乗組 海軍少尉候補生指導官附
- 1919年(大正8年)2月7日- 帰着
- 1920年(大正9年)5月31日- 海軍砲術学校普通科学生
- 12月1日- 戦艦「鹿島」分隊長心得
- 1921年(大正10年)12月1日- 任 海軍大尉・海軍砲術学校高等科第21期学生
- 1922年(大正11年)11月30日- 海軍砲術学校高等科修了
- 1923年(大正12年)12月1日- 軽巡洋艦「大井」分隊長
- 1924年(大正13年)12月1日- 戦艦「日向」分隊長
- 1925年(大正14年)12月1日- 海軍砲術学校教官兼分隊長
- 1927年(昭和3年)5月25日- 戦艦「陸奥」副砲長兼分隊長
- 1929年(昭和4年)11月30日- 軽巡洋艦「長良」砲術長
- 1930年(昭和5年)11月15日- 第3戦隊砲術参謀
- 1931年(昭和6年)12月1日- 重巡洋艦「妙高」砲術長
- 1932年(昭和7年)12月1日- 任 海軍中佐・戦艦「日向」砲術長
- 1933年(昭和8年)11月15日- 海軍砲術学校教官
- 1935年(昭和10年)10月10日- 海防艦「八雲」副長
- 1936年(昭和11年)3月19日- 練習艦隊近海航海出発
- 1937年(昭和12年)12月1日- 任 海軍大佐
- 1938年(昭和13年)12月15日- 鹿屋海軍航空隊司令
- 1939年(昭和14年)9月6日- 兼 支那方面艦隊司令部附
- 1940年(昭和15年)10月15日- 館山海軍航空隊司令
- 1941年(昭和16年)1月25日- 博多海軍航空隊司令
- 1942年(昭和17年)12月5日- 連合艦隊司令部附
- 12月10日- 戦艦「日向」艦長
- 1943年(昭和18年)5月1日- 任 海軍少将
- 1944年(昭和19年)2月1日- 第3航空戦隊司令官
- 1945年(昭和20年)2月10日- 海軍軍令部出仕
- 1947年(昭和22年)11月28日- 公職追放仮指定[1]
- 1983年(昭和58年)4月13日- 死去 享年88
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 戦史叢書・第43巻 ミッドウェー海戦 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第29巻 北東方面海軍作戦 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第12巻 マリアナ沖海戦 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第41巻 捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第56巻 海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第95巻 海軍航空慨史 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 高木惣吉日記と情報(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 私観太平洋戦争(高木惣吉著・光人社NF文庫) ISBN 4-7698-2220-0 C0195
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野崎誠編・海軍兵学校名簿作成委員会)
- 会員名簿 時習館同窓会(時習館同窓会名簿編集委員会・時習館同窓会会長 河合圭吉)