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大田原一清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大田原 一清
時代 江戸時代末期(幕末) - 昭和時代
生誕 文久元年10月8日1861年11月10日
死没 昭和5年(1930年10月28日
改名 牲丸(幼名)、一清
別名 勝清(別名)
戒名 秋天院殿美山勝清大居士
墓所 栃木県大田原市光真寺
官位 従五位下、飛騨守、正五位、子爵
幕府 江戸幕府
下野国大田原藩
氏族 大田原氏
父母 父:大田原富清
母:大田原清徳大田原庸清四男)の長女
兄弟 一清忠良
森俊滋の娘伊代子
蒔田広孝の娘茂登子
鋭清(長男)、(次男、陸軍少尉軽犯罪を起こす)、幸子、錫子、鉄男(三男)、淑子、鰹子
※娘はそれぞれ香川某室、金光家邦室、大森貫一室となった
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大田原 一清(おおたわら かずきよ)は、下野大田原藩の第14代(最後)の藩主。

人物

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文久元年(1861年)10月8日、第13代藩主・大田原富清の長男として生まれる。文久2年(1862年)に父が死去したため、家督を継いだ。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では藩は新政府に恭順し、明治元年(1868年)10月21日に一清は従五位下・飛騨守に叙位・任官する。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により大田原藩知事に任じられ、同時に戊辰戦争の功績により5000両を与えられた。版籍奉還ののち住居を移転した。明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免官される。慶應義塾を経て明治17年(1884年)の華族令で同年7月8日に子爵を叙爵した[1]。明治20年(1887年)12月に正五位に昇叙する。明治32年(1899年)7月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[2]、大正7年(1918年)7月9日まで在任[3]

樋口一葉の『日用百科全書 通俗書簡文』(1896年5月刊)の巻頭には大田原一清の筆による書が掲載されている。

1923年(大正12年)5月5日に隠居した[4]。昭和5年(1930年)10月28日に死去した。享年70。

家族

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父母

子女

  • 大田原鋭清(長男)
  • 大田原秀(次男)1921年に(当時35歳)停留所荒らしの常習犯として上野駅で逮捕されている
  • 大田原幸子 ー 香川翠巌夫人
  • 大田原錫子 ー 金光家邦夫人
  • 大田原鉄男(三男)
  • 大田原淑子 ー 大森貫一夫人
  • 大田原鰹子

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』39-40頁。
  4. ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、315頁。

参考文献

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
大田原大田原家初代
1884年 - 1923年
次代
大田原鋭清