大田原友清
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保5年(1720年) |
死没 | 安永5年7月7日(1776年8月20日) |
改名 | 勘蔵(幼名)、友清 |
戒名 | 見性院殿廓道本然大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の泉岳寺 |
官位 | 従五位下、出雲守、左兵衛佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 下野国大田原藩主 |
氏族 | 大田原氏 |
父母 |
父:大田原扶清、母:不詳 養母:伊田氏 |
兄弟 | 建清、友清 |
妻 |
正室:田村村顕の娘と婚約 継室:大村純庸の娘 |
子 | 寿清、庸清、渡辺明、多田清定、芦野資豫 |
大田原 友清(おおたわら ともきよ)は、下野大田原藩の第8代藩主。
略歴
[編集]享保5年(1720年)、第7代藩主・大田原扶清の6男として大田原で生まれる(生年は享保11年(1726年)7月21日ともいわれる)。兄・建清が早世したため、享保16年(1731年)4月11日に世子に指名される。元文5年(1740年)12月21日に従五位下・出雲守に叙任される。延享2年(1745年)、父の死去により家督を継いだ。
宝暦4年(1754年)9月から宝暦5年(1755年)9月まで駿府城加番を務めた。宝暦6年(1756年)に長男・寿清が早世したため、次男・庸清を世子とする。明和元年(1764年)8月、落度があって謹慎を命じられ、11月になって許された。
安永4年(1775年)2月8日、庸清に家督を譲って隠居する。安永5年(1776年)7月7日、江戸藩邸で死去した。享年57。
系譜
[編集]父母
- 大田原扶清(父)
- 伊田氏 ー 継室(養母)
正室、継室
子女