コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

宗教系旧制専門学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦前日本の教育 > 旧制教育機関 > 旧制高等教育機関 > 旧制専門学校 > (宗教系)旧制専門学校
龍谷大学大宮学舎北黌 / 1879年龍大の前身である大教校の寄宿舎として築造

宗教系旧制専門学校(しゅうきょうけいきゅうせいせんもんがっこう)では、戦前日本において、仏教系・キリスト教系など宗教者・宗教団体により設立された専門学校について概観する(ただし実業専門学校は含まない。また、戦前期において神道は「宗教」とは見なされていなかったが、この項目では神道系の学校も扱う)。

なお、宗教系専門学校のうちかなりの割合を占める女子専門学校については、当該項目も参照のこと。

概要

[編集]
  • 仏教・キリスト教などの宗教者・宗教団体により設立された学校という性格上、基本的には私立校である。神道系学校の神宮皇學館のみが例外的に内務省管轄の官立校である。
  • ほとんどの場合、設立の目的を当該宗派の布教(ミッション)に置いていた。
  • 多くの学校で教学研究ないしは布教者養成のため当該宗派にかかわる学科が設置されたが、プロテスタント系学校の多くは経営難や戦時下の宗教統制により神学部を廃止した。
  • 仏教・キリスト教・神道系学校のなかから1920年 - 40年に13校が大学令による旧制大学に昇格した(このうち仏教系3校が連合し大正大学を設立)ため、法律学校と並び旧制以来の歴史的伝統を有する有名私立大学の源流の一つを形成しているといえる。

歴史

[編集]

宗教系学校の新設

[編集]

明治維新後、プロテスタント諸派を中心に欧米から来日したキリスト教宣教師たちは、布教の一環として全国各地に私立学校を設立した。これらのキリスト教系学校は、洋学教育(英語教育)に対する一般的需要の高まりと、それに比して官公立の公教育機関の整備が進んでいなかった状況を背景に、女子教育・英語教育を中心に一般の子弟に普通教育を施すことに主眼を置くものであり、1880年代半ばまでの文明開化欧化主義の風潮に乗って発展した。しかし欧化主義への批判から国家主義・保守主義の思潮が強まるとこれらの学校は社会的圧迫を受けるようになり、加えて官公立学校が漸く増加してきたことから次第に劣勢に立たされた。一方仏教系学校をみると、1886年から1888年にかけて各仏教教団の「大学林」という形で設立があいついだ。これらの学校は1884年教導職廃止で従来の神道・仏教一体の国教化政策が頓挫したことから、仏教教団が独自に僧侶職を養成することを目的に設立したものであり、キリスト教系学校にみられるような一般子弟への教育という志向は存在しなかった。

宗教教育禁止への対応

[編集]

1899年私立学校令公布に付随して出された文部省訓令第12号は、国家が私立学校の存在を公認するとともに、公認された学校では(官公私立を問わず)宗教教育を禁止することを明記しており、キリスト教系学校には大きな打撃となった。これらの学校では文部省の公認を得るため宗教教育を廃止するとミッションからの財政的援助を失うこととなり、反面、宗教教育維持のため文部省の公認を失うなら(他の学校では保障されている)兵役停止と上級学校進学の特権を失い、入学者が激減しかねない危機に陥ることが予想されていたからである。しかし現実には、文部省は公認を受けなかった学校から上述の特権を剥奪しなかった。

一方、僧侶養成に主眼を置き一般子弟への教育という志向をもたなかった仏教系学校は、もともと私立学校令の適用対象外(多くは宗教団体を統括する内務省管轄であった)であって文部省による公認を必要とせず、したがって宗教教育禁止条項の影響をほとんど受けることはなかった。1903年3月の専門学校令施行に際し文部省は宗教教育の自粛を特に求めず、このためキリスト教系・仏教系を問わず多くの宗教系学校が専門学校令に依拠する旧制専門学校に昇格した。

キリスト教主義連合大学構想

[編集]
日本におけるキリスト教主義連合大学構想は1910年のエディンバラ宣教会議でも関心を集め、会議終了後に構想実現のための継続委員会が設けられた。

1909年(明治42年)10月に開催された日本基督宣教開始五十年記念会明治学院総理井深梶之助は「基督教教育の前途」と題する演説を行い、超教派のキリスト教主義連合大学の必要性を訴えた。この連合大学構想は翌年6月に開催されたエディンバラ宣教会議でも取り上げられ、日本国内でもプロテスタント各教派の代表者によって連合大学設立の協議が行われた[1]

この議論を主導したのは明治学院と東京学院聖学院であり、とりわけ明治学院高等学部と東京学院は1913年(大正2年)4月から合併前提の合同授業を行うに至った[2]青山学院は在来の高等科を廃止するという合同条件に難色を示したが、青山学院の後援者たるジョン・F・ガウチャーは合同推進論者だったため微妙な立場に置かれることとなる[3]

それでも1915年(大正4年)には井深梶之助や高木壬太郎ライシャワー新渡戸稲造佐藤昌介らが中心となって大学創立準備の常任委員会が設置され、7月1日の委員会(ガウチャー列席)で1917年(大正6年)までに「東亜大学」を設置すべきことを決議している[4]

しかし、同志社立教学院はすでに専門学校令による大学を設置しており、関西学院もまた別個に計画を進めようとしていた。各校間の意見の隔たりは大きく、立教学院理事長ジョン・マキムは連合大学に協力してもいいが自治独立の権利を保留したいとの見解を示し[5]、合同推進派の明治学院も連合大学のキャンパスが青山学院構内に置かれることには反対していた[6]。結局、明治学院高等学部と東京学院の合同授業は1917年に終了し[7]、青山学院も1918年(大正7年)12月の大学令公布を機に独自の大学設置計画を進めることとなった[8]

旧制大学への昇格

[編集]
勝田ホール(青山学院高等学部)跡(青山学院が旧制大学への昇格を果たせなかったのは関東大震災の痛手が大きかったからである)

宗教系専門学校のなかには専門学校令準拠の前後から「大学」と改称するものが出てきたが、もちろんこの時点で大学帝国大学以外には存在しないので、これらはもちろん自称にすぎず制度上の実体はあくまで専門学校であった。これらの学校が名実ともに大学(旧制)になるのは1919年4月に大学令が施行(公布は前年12月)されて以降のことである。

宗教系学校のなかで最初に大学昇格を果たしたのは1920年、キリスト教系の同志社大学および神道系の國學院大學であり、ついで翌々年1922年には仏教系の龍谷と大谷、キリスト教系の立教が大学に昇格し、戦前の大学令のもと合計で仏教系は6校[9]、キリスト教系は4校、神道系は2校に及んだ。仏教系学校の場合、大学令準拠以前の「大学」自称時代には、例えば龍谷が「仏教大学」(現在の佛教大学とは別)、大谷が「真宗大谷大学」を称するなど特定宗派名を校名に冠することもあったが、大学昇格にともないこれらの大学はより宗派色の薄いニュートラルな名称に改めることをよぎなくされた。また、神学部仏教学部など、独立学部を置いて教義研究をおこなうことは認められず(同志社は神学部の設置を計画していたが文部省との折衝のなかで断念し、文学部内に神学科を設置した)[10]、多くの場合文学部のなかに設置された宗教学科・仏教学科がそれらの活動を担った[11]

仏教系・キリスト教系学校での宗教教育への規制に対し、対照的だったのは神道系大学(國學院・神宮皇學館)である。これらの大学では神道は国体の祭式であって「非宗教」である以上、その教育は「宗教教育」に相当しないという政府の公式見解から宗教教育への自粛を求められることはなかったのである。戦時体制下、神宮皇學館は皇紀2600年を記念し大学に昇格した。

プロテスタント系神学校の大合同

[編集]
同志社大学の神学科は軍部や右翼勢力による執拗な攻撃に晒されながらも廃止を免れ、戦後の1947年に旧制神学部として認可された[12]

1940年10月17日に開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会で日本における全プロテスタント教会の合同が宣言され、翌年6月24日に富士見町教会日本基督教団が設立された。これを受けて日本各地のプロテスタント系神学校は1943年日本東部神学校日本西部神学校日本女子神学校の3校に統合された。さらに1944年には男子校2校の再統合により日本基督教神学専門学校が設立された(同時に日本女子神学校も日本基督教女子神学専門学校と改称)[13]

このような大合同の動きに最後まで抵抗したのは同志社大学で、大学令準拠の文学部神学科専門学校令準拠の神学校に吸収されることは受け入れ難いとして日本基督教団の強請をはねつけ[14]学徒出陣によって授業継続が困難となった状況下でも同大法文学部神学科[15]は廃止されることなく終戦を迎えた。

新制大学への移行

[編集]

敗戦後の1945年12月、占領軍による改革のなかで前記の文部省訓令12号は廃止され、宗教系学校における宗教教育が公認され、学校内での祈りや説教が許容されることになった。また1949年学制改革により多数の新制私立大学の設立が認められることになった。このような動きのなかで、既存の宗教系大学は戦前は認められなかった神学部[16]・仏教学部を次々に設置し、旧制大学に昇格できていなかった宗教系専門学校のほとんども新制大学への昇格を果たした。

旧制大学に昇格した宗教系学校

[編集]

以下、大学令による旧制大学に昇格したものを示す。校名は設立時の名称でカッコ( )内は設立した宗派設立年月後身の新制大学を示す。

仏教系

[編集]
龍谷大学
大谷大学
立正大学
大正大学
東洋大学

浄土真宗系

[編集]

浄土宗系

[編集]
  • 本部宗学校浄土宗1876年3月・大正大学
    • 1887年7月:浄土宗宗学本校と改称。
    • 1907年3月:宗教大学と改称。
    • 1926年4月:天台宗大学・豊山大学と合流し大学令による大正大学(旧制)設立

日蓮宗系

[編集]

禅宗系

[編集]
  • 曹洞宗専門学校曹洞宗1875年6月・駒澤大学
    • 1882年10月:曹洞宗大学林と改称。
    • 1904年1月:曹洞宗大学と改称。
    • 1904年3月:専門学校令に準拠。
    • 1925年4月:大学令による駒澤大学(旧制)に昇格

天台宗・真言宗系

[編集]

その他

[編集]
  • 哲学館1887年東洋大学
    • 井上円了により湯島の麟祥院で開校(仏教系ではないが仏教教育と関わりの深い学校である)。
    • 1903年10月:哲学館大学と改称(専門学校令)。
    • 1906年6月:東洋大学と改称。
    • 1928年4月:大学令による東洋大学(旧制)に昇格。
    • 1929年4月:文学部に仏教学科を設置[19]

キリスト教系

[編集]
同志社大学
立教大学
関西学院大学
上智大学

プロテスタント系

[編集]
  • 南メソジスト監督教会神学校メソジスト教会1889年9月・関西学院大学
    • 1908年9月:関西学院神学校と改称。専門学校令に準拠。
    • 1912年3月:高等学部設置。
    • 1932年3月:大学令による関西学院大学(旧制)に昇格
    • 1934年4月:法文学部と商経学部を設ける(文学科内に宗教学専攻を設置)[26]

カトリック系

[編集]

神道系

[編集]
國學院大學
神宮皇學館大学

先述の通り神道系学校は制度上「宗教学校」とはみなされてはおらず、その点でここまで述べてきたようなキリスト教系・仏教系とは性格が異なる。

主要な宗教系専門学校

[編集]

校名は原則として新制に移行する直前の名称であり、カッコ( )内は設立した宗派専門学校令準拠の年月および後身の新制大学短大各種学校を示す。

仏教系

[編集]
佛教専門学校

浄土真宗系

[編集]

浄土宗系

[編集]

禅宗系

[編集]
  • 臨済学院専門学校臨済宗1908年2月・花園大学
    • 1894年4月:普通学林として設立。
    • 1903年11月:花園学林と改称。
    • 1907年4月:花園学院と改称。
    • 1908年2月:専門学校令による高等部設置。
    • 1911年9月:臨済宗大学と改称(専門学校令)。
    • 1934年4月:臨済学院専門学校と改称。

天台宗・真言宗系

[編集]

キリスト教・プロテスタント系

[編集]
青山学院
西南学院
神戸女学院
同志社女子専門学校
聖心女子学院
東京女子大学
梅花女子専門学校

改革派教会・長老派教会系

[編集]

メソジスト派系

[編集]
  • 青山学院高等科・神学部メソジスト教会1904年2月・青山学院大学
    • 源流は1878年4月創立のメソジスト派耕教学舎
    • 1883年9月:東京英和学校として設立。
    • 1894年7月:青山学院と改称。
    • 1904年2月:専門学校令による高等科設置。
    • 1904年3月:同上による神学部設置。
    • 1927年4月:青山女学院(専門学校令による)を併合。
    • 1929年4月:高等学部と神学部をあわせて専門部と称する。
    • 1933年1月:専門学校令による女子専門部設置。
    • 1935年3月:高等学部を文学部と高等商業学部に改組(高等学部の名称廃止)。
    • 1943年3月:青山学院神学部閉鎖、日本東部神学校に合流。
    • 1944年4月:青山学院専門部閉鎖、青山学院工業専門学校に改組。
  • 青山女学院(メソジスト教会・1904年3月・青山学院大学
  • 活水女子専門学校(メソジスト教会・1919年3月・活水女子大学

バプテスト派系

[編集]

英国国教会系

[編集]

組合教会派系

[編集]

合同教会派系

[編集]
日本神学校

ルター派系

[編集]

超教派

[編集]

キリスト教・カトリック系

[編集]

その他の宗派(教派神道系)

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 明治学院 『明治学院百年史』 1977年、272頁
  2. ^ 『明治学院百年史』 294頁
  3. ^ 青山学院 『青山学院九十年史』 1965年、367-372頁
  4. ^ 『青山学院九十年史』 382-383頁
  5. ^ 青山学院150年史編纂本部・編纂委員会、青山学院資料センター150年史編纂室 『青山学院一五〇年史』 資料編Ⅰ、学校法人青山学院、2019年、273頁
  6. ^ 『青山学院九十年史』 369頁
  7. ^ 『明治学院百年史』 296頁
  8. ^ 『青山学院九十年史』 386頁
  9. ^ 仏教学科を設置した東洋大学を含めれば7校である。
  10. ^ a b 『同志社九十年小史』 109頁
  11. ^ 神学科を設置したのは同志社大学だけである(中村敏 『日本プロテスタント神学校史』 いのちのことば社、2013年、86-88頁)。
  12. ^ a b 官報』 1947年6月24日
  13. ^ 日本基督教神学専門学校と日本基督教女子神学専門学校は戦後の学制改革により東京神学大学となった。
  14. ^ a b 『同志社九十年小史』 327-328頁
  15. ^ 同志社大学は1944年10月、法学部と文学部を統合して単科大学となった(『同志社九十年小史』 329頁)。
  16. ^ 1947年同志社大学が旧制神学部を設置したのが最初である(『同志社九十年小史』 331-332頁)。
  17. ^ 龍谷大学HP「龍谷大学の歴史」
  18. ^ 大谷大学の沿革
  19. ^ 東洋大学 『東洋大学創立五十年史』 1937年、185頁
  20. ^ 開校当初は主教らの公的書簡では「Day school for boy」または「Boys school」などと記されていた(『立教学院百年史』 151頁)
  21. ^ 立教学院史資料センター
  22. ^ 『立教学院百年史』 375-377頁
  23. ^ 『立教学院百年史』 648頁
  24. ^ 大学の沿革 同志社大学
  25. ^ 『同志社九十年小史』 331-332頁
  26. ^ 昭和十年三月 関西学院一覧』 78頁
  27. ^ 『日本プロテスタント神学校史』 130-133頁
  28. ^ 『立教学院百年史』 636頁
  29. ^ 官報』 1905年6月28日
  30. ^ 『立教学院百年史』 637頁
  31. ^ 『日本プロテスタント神学校史』 242頁
  32. ^ 文学部神学科は存続(『同志社九十年小史』 327-328頁)。
  33. ^ 『日本プロテスタント神学校史』 44-49頁
  34. ^ 『[[1]]』 1911年7月10日
  35. ^ a b c 官報』 1943年4月28日
  36. ^ 1942年に渡瀬常吉の興亜神学院・弓山喜代馬の聖霊神学院・大東塾・日本聖書学校・聖書学寮の合併により誕生した神学校(『日本プロテスタント神学校史』 212-213頁)
  37. ^ 1934年に平出慶一東京府北多摩郡砧村に設立した神学校(『日本プロテスタント神学校史』 166-167頁)。
  38. ^ 同志社大学文学部神学科も合流を求められたが、大学令準拠の神学教育機関を手放すことはできぬとしてこれを拒んだ(『同志社九十年小史』 327-328頁)。
  39. ^ 東京聖経女学院は1904年に女性宣教師バンファインドが小石川区指ヶ谷町に設立した伝道女学校を前身とする女子神学校(『日本キリスト教歴史大辞典』 925頁)。
  40. ^ 桑田秀延 『東京神学大学二十年史』 東京神学大学、1964年、62頁

参考文献

[編集]

単行書

論文

  • 江島尚俊 「なぜ大学で宗教が学べるのか : 明治期の教育政策と宗教系専門学校誕生の過程から」 日本宗教学会 『宗教研究』(2014年12月)
  • 林淳 「宗教系大学と宗教学」 日本思想史懇話会 『季刊 日本思想史72:近代日本と宗教学』(2008年1月)

事典

関連項目

[編集]