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宮寺勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮寺 勝利
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都目黒区
生年月日 (1940-11-04) 1940年11月4日(84歳)
身長
体重
180 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1963年
初出場 1964年
最終出場 1974年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - )は、東京都目黒区出身の元プロ野球選手捕手)・解説者

経歴

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荏原高校では1958年全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。

大学卒業後の1963年読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。

1967年高倉照幸外野手との交換トレード西鉄ライオンズへ移籍。それまで正捕手だった和田博実が高倉の後の左翼手に回ったため、レギュラーとして127試合にマスクを被る。同年にはオールスターゲームにも初出場。

1969年には故障もあり村上公康に定位置を譲るが、翌年には復活し、その後は村上や片岡新之介と激しいポジション争いが続いた。

1974年には楠城徹の入団もあって出場機会が減り、同年限りで引退。

2度目のオールスター戦出場を果たした1973年は、ライオンズとロッテオリオンズとの間に、ジム・ラフィーバーの獲得競争を巡る遺恨が尾を引いており、8月1日の試合で宮寺は、かつてのチームメイトであるオリオンズの金田正一監督に「バカ野郎!!」と罵声を浴びせられた。翌年4月27日のオリオンズ戦では、外野フライでタッチアップを試みた相手チームの三塁走者・弘田澄男を、片足を掛けるようにブロックした。この行為が原因で金田が宮寺に蹴りを入れ、三塁手ドン・ビュフォードが飛び掛かって金田を押し倒し、これが両チーム入り乱れての乱闘に発展した[1]

引退後は大宮ゴルフに入社し、サラリーマン生活と並行してテレビ西日本解説者を務めたが、稲尾和久から「運動具店を始めるので手伝わないか」と誘われ、「稲尾スポーツ」に転籍[2]

「稲尾スポーツ」では後に取締役営業部長も務め[2]、稲尾と共に少年野球リーグと福岡中央リトルシニア発足にも尽力し、現在は全日本リトルシニア野球九州連盟常任理事と福岡中央リトルシニア会長兼総監督[3]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1964 巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1965 15 17 16 0 2 0 0 0 2 0 0 0 1 0 0 0 0 3 0 .125 .125 .125 .250
1966 16 24 22 2 4 1 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 6 0 .182 .250 .227 .477
1967 西鉄
太平洋
127 399 374 27 77 11 3 10 124 38 6 7 1 0 22 3 2 97 10 .206 .254 .332 .585
1968 111 247 230 22 53 5 2 8 86 25 2 1 2 1 14 2 0 67 2 .230 .273 .374 .647
1969 36 52 51 1 7 1 0 0 8 1 1 2 0 0 1 0 0 13 0 .137 .154 .157 .311
1970 120 363 326 26 73 10 2 7 108 24 2 4 8 1 27 7 1 82 7 .224 .285 .331 .616
1971 77 169 155 8 36 9 0 4 57 16 6 2 1 1 12 3 0 36 1 .232 .286 .368 .653
1972 78 130 114 13 24 4 0 7 49 14 5 1 2 2 12 0 0 25 3 .211 .281 .430 .711
1973 104 266 253 21 56 5 1 6 81 23 5 3 1 3 8 1 1 64 7 .221 .245 .320 .565
1974 52 108 98 4 21 3 1 0 26 4 0 2 1 0 8 0 1 21 3 .214 .280 .265 .546
通算:11年 737 1775 1639 124 353 49 9 42 546 145 27 22 17 8 106 16 5 414 33 .215 .264 .333 .597
  • 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に球団名を変更

年度別守備成績

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年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1969 33 12 5 .294
1970 119 177 62 .259
1971 72 51 24 .320
1972 72 38 4 .197
1973 104 69 19 .216
1974 43 41 20 .328
通算 443 388 145 .272

記録

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背番号

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  • 13 (1963年)
  • 10 (1964年)
  • 40 (1965年 - 1966年)
  • 28 (1967年 - 1974年)

脚注

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  1. ^ 【ダンカンが訪ねる昭和の侍】弘田澄男さん「いまだに不思議」ホームイン寸前に捕手が足を出し「7、8メートル飛んだ」 (1/3ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)” (2019年12月12日). 2019年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月16日閲覧。
  2. ^ a b 森山真二「わが青春の平和台」海鳥社1998年8月1日ISBN 978-4-87-415246-1、p201。
  3. ^ チーム紹介 - 福岡中央リトルリーグ

関連項目

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