寺田臨川
寺田 臨川(てらだ りんせん、延宝6年7月8日(1678年8月24日) - 延享元年11月24日(1744年12月27日))は江戸時代中期の儒学者。本姓は源氏、通称は立革、半蔵、諱は高通、字は鳳翼、士豹。
安芸国広島藩主浅野吉長に侍講し、また藩校講学所(現修道中学校・修道高等学校)で教授を務めた。著作に『諸士系譜』『臨川全集』等。
生涯
[編集]延宝6年(1678年)7月8日、安芸国広島城下に医師寺田正茂の子として生まれた[1]。貞享2年(1685年)読書を始め、元禄2年(1689年)味木立軒に入門した[1]。元禄5年(1692年)江戸に遊学した[1]。
宝永元年(1704年)1月、広島藩主浅野綱長に「記室」として仕えた[1]。宝永2年(1705年)、江戸の林鳳岡に入門した[1]。宝永5年(1708年)6月江戸に行き、浅野吉長の侍講を務めた[1]。正徳5年(1711年)9月、吉長に従い帰国の途中、大坂で朝鮮通信使李東郭等と交流し、名声を広めた[1]。
享保10年(1725年)、藩校講学所(現修道中学校・修道高等学校)が設立され、その教授に任命された[1]。享保19年(1734年)12月、講学所が講学館に改称の時、「講学館学規三則」を定めた[1]。元文4年(1739年)11月15日、厳島神社鳥居再建に当たり、藩主に代わって「厳島神廟蔵華表記文」を撰し、奉納した[1]。
寛保3年(1743年)10月講学館が廃止されると、12月老齢のため致仕し、延享元年(1744年)11月24日死去した[1]。墓所は竜華樹院國前寺[1]。昭和53年(1977年)生誕三百年を機に改葬された[1]。
経歴
[編集]- 宝永元年(1704年)1月21日または22日 - 「記室」、30石3人扶持[1]
- 正徳3年(1713年)9月21日 - 150石[1]
- 享保8年(1723年)5月19日 - 月次講釈拝命[1]
- 享保10年(1725年)11月4日 - 講学所教授[1]
- 享保20年(1735年)6月18日 - 200石[1]
- 寛保3年(1743年)12月26日 - 致仕[1]
著作
[編集]- 『広陵問槎録』
- 朝鮮通信使との交流の記録。正徳2年(1712年)10月以降刊[1]。
- 『諸士系譜』
- 正徳4年(1714年)春、藩主吉長の命で編纂、享保8年(1723年)完成し、厳島神社に奉納された。享保12年(1727年)には『三次諸士系譜』の編纂を命じられ、享保16年(1731年)9月26日奉納された[1]。
- 『芸備古城志』
- 『臨川全集』
- 寛保2年(1742年)4月12日厳島神社に奉納、寛保3年(1743年)5月藩主吉長に師立軒の『覆載遺稿』と共に献上した[1]。
- 『寺田伝家訓』
- 寛保3年(1743年)1月成立。子文次郎のために守るべき家訓と家宝とを記す。寺田家に代々伝えられ、戦後、赴任先の満洲から引き揚げの際には、文書持出が禁じられる中、茶器の包装紙にして持ち帰ったという[2]。
寺田家
[編集]遠祖は近江源氏佐々木氏で、曾祖寺田五郎右衛門権祐は近江国寺田に住し、蒔田氏に仕えたという[3]。
- 寺田勘平吉次 - 和歌山藩主浅野長晟に仕え、広島藩への転封に従い広島に移る[3]。
- 寺田正茂見次 - 吉次の三男。号は林庵。始め武道を志したが、腹病のため断念し、堀杏庵に医術を学んだ[4]。
- 寺田半蔵高通
- 寺田文次郎高年 - 大小姓、奥詰[3]。
- 寺田源蔵高忠 - 代官、京都役人、町奉行[3]。
- 寺田他人助高徳 - 後に稲蔵。病弱の父内蔵高章に代わり、文政2年5月祖父より家督を継ぐ。大目付、広島藩少参事[3]。
- 寺田清十郎 - 郡政権大属、藩庁少属(農務)。明治22年死去[3]。
- 寺田竜見 - 清十郎の子。早逝[3]。
- 寺田新 - 清十郎の外孫。弱冠で死去[3]。
- 寺田正 - 新の弟[3]。戦前満州に赴任[2]。
- 寺田保[1]。
家族
[編集]- 父:寺田正茂(寛永7年(1630年)3月6日 - 元禄14年(1701年)8月21日)[1]
- 母(? - 天和元年(1681年))[1]
- 先妻:益(元禄9年(1696年) - 享保3年(1718年)閏10月20日) - 永原氏。正徳4年(1714年)6月婚[1]。
- 男子:万三郎(享保元年(1716年)8月26日 - 享保3年(1718年)4月7日)[1]
- 後妻(? - 寛延元年(1748年)8月15日) - 古高氏。享保5年(1720年)2月婚[1]。
- 養子:寺田高年(正徳元年(1711年) -明和5年(1768年)6月10日) - 植木三郎右衛門一久の子。号は桂巌、通称は文次郎、字は士渙。元文3年(1738年)2月5日、永原氏の文(後、幾)と成婚。臨川の致仕後、家督を継ぎ、200石で諸士隊[1]。堀南湖に学ぶ[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 久保田啓一「広島藩の文芸と藩儒寺田臨川(上)」『語文研究』112号、九州大学国語国文学会、2011年12月
- ^ a b c 久保田啓一「広島藩の文芸と藩儒寺田臨川(下)」『語文研究』113号、九州大学国語国文学会、2012年6月
- ^ a b c d e f g h i 『芸藩輯要』 p.54-55
- ^ a b 東条琴台『先哲叢談』続編巻7