山内四郎
山内 四郎(やまのうち しろう、1872年4月12日〈明治5年3月5日〉 - 1923年〈大正12年〉11月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]福岡県出身。1894年(明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「八重山」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年(明治28年)12月に海軍少尉任官。水雷術練習所で学んだ。
1898年(明治31年)9月、「常磐」回航委員としてイギリスに出張。1899年(明治32年)9月、「常磐」分隊長となり、「夕霧」乗組、佐世保水雷団第1水雷艇隊艇長、同団第2水雷艇隊艇長、海兵水雷術教官兼監事、兼「筑波」分隊長などを歴任。1903年(明治36年)11月、「松島」水雷長に就任し日露戦争に出征。「曙」艦長として日本海海戦に参加。1905年(明治38年)8月、海軍少佐に昇進。
1906年(明治39年)1月、南清艦隊参謀に就任し、馬公要港部副官兼参謀、海兵副官、「須磨」副長を経て、1910年(明治43年)3月、海軍中佐に進級し第1艦隊副官となる。1911年(明治44年)1月、海軍教育本部員に異動し、兼横須賀鎮守府付を歴任。「若宮丸」乗組となり、青島の戦いに参加した。山内は「若宮丸」に搭載された水上機部隊の責任者であり、金子養三、和田秀穂らを従え日本で最初の航空作戦を指揮したのである。1914年(大正3年)12月、海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付となる。
1915年(大正4年)6月、「若宮」(「若宮丸」から改名)艦長となり、横須賀鎮守府付・欧米各国出張、横須賀海軍航空隊司令、軍令部出仕、海軍技術本部第6部長兼航空機試験所長などを歴任し、1919年(大正8年)12月、海軍少将に進級し二度目の横須賀航空隊司令に就任。1920年(大正9年)11月、艦政本部第6部長に発令され、同第2部長、馬公要港部司令官を歴任し、1923年(大正12年)11月6日、待命となる。同月10日に死去し、海軍中将に進んだ。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章[3]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲三等瑞宝章[4]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[5]
- 1923年(大正12年)11月10日 - 旭日重光章[6]